後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

白州の名水

2008年10月20日 | 写真

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関東地方のテレビのコマーシャルでは、白州の名水がよく出てきます。ペットボトルのお茶や、名酒やウイスキーに使われているという広告です。背景には甲斐駒ケ岳の白い花崗岩の峰が青く光っています。

名水の出所は幾つもありますが、尾白川はその主なものです。数枚の写真でご紹介致します。(終わり)

撮影場所:山梨県北杜市横手の奥の尾白川にて、撮影日時:10月17日午後2時頃


10年後の日本(4)趣味と贅沢の考え方が変化する

2008年10月20日 | うんちく・小ネタ

このブログでは中古のヨットや山林の中の小屋の話を中心にして、いろいろな趣味の話を書いています。粗末な小屋でも中古のヨットでもお金がかかる趣味です。もっと広く趣味一般を考えてもお金がかかるものが多いものです。

ですから趣味を持つことは贅沢だと言うことも正しいでしょう。趣味なんか、お金持ちの老人が盆栽いじりをするようなもので、真面目な勤労者がするものではありません。まあ、そのような考え方が社会の主流でした。しかし、1960年のオハイオへの留学以来、欧米人と付き合うと趣味の無い自分に疑問を持つようになりました。大げさに言えば劣等感のようなものを感じてきました。その理由は長い間、ヨットや山林の中の小屋の趣味を続けてきたお陰でやっと明解に分かりました。欧米人は個人の人格完成の手段の一つとして趣味を考えているのです。ですから軽薄な欧米人へ、「趣味はありません」と言うと、ーー人格に無関心な悪い人間ーーと単純に誤解されることがあります。

これは間違った考えですね。でもそれが欧米の文化の一部でもあるのです。

さて贅沢とは何でしょう?お金や物を無意味に浪費することですね。

従って趣味がその人にとって重要なものなら、それにお金を使うことは浪費ではありません。贅沢でもありません。実生活に使うお金と趣味に使うお金の比率は各個人が決めることで他人が意見を言わないほうが良いものです。

例えば筆者は45年前に住宅金融公庫からお金を貸してもらい家を作りました。その陋屋を建て替えないで貯金をしながら小屋やヨットの趣味へ使ってきました。

大げさに言えば、住宅金融公庫のお陰で現在の趣味が出来たわけです。ですから趣味に余分な、そして浪費的なお金の使い方をしないようにしています。別荘ではなく粗末な小屋にこだわります。新品のクルーザーでなく格安の中古クルーザーです。筆者の収入からみれば別荘は贅沢のきわみです。新品のクルーザーの金額は遠い世界のおとぎ話のようです。でも、そう感じない人々も居るものです。それはそれで良いことです。人それぞれ趣味を楽しめば良いのです。

もう一つ例を上げます。先日、何十万円もする鋳鉄製の薪ストーブをブログの記事でご紹介しました。それ以来随分悩んだ末に、下の写真のような鉄板製の薪ストーブを新潟県の会社へ注文しました。金額は14700円です。年金生活者にとっては分相応の買い物と思います。

下らない細かな話は止めます。この項では10年後の日本はどのように変わるか?という問題を取り上げています。いきなり話が飛びますが、エンゲル係数というものをご存知ですか? そうです。全収入にたいする食費の割合ですね。エンゲル係数が80とは全収入の80%を食費に使っているということです。終戦後の日本には珍しいことではありません。現在は20や30くらいでしょうか?

このエンゲル係数と類似の「趣味支出係数」を提案します。全収入へ対して趣味へ使うお金の割合です。「趣味支出係数」が10とは全収入の10%を趣味へ使っているという意味です。おっざっぱに言って現在の日本の状態ではないでしょうか?

それが10年後には間違いなく増大します。しかし具体的に20になるか25になるかは予測が難しいです。詳細な議論は次回以降にしますが、この「趣味支出係数」を文化レベルのバロメーターと定義したら異論が出ると思います。でもその議論は面白そうです。(続く)Asw601


暗夜の山林を歩く

2008年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム

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都会に住んでいると昼も夜もあまり変わらない。店の灯や街路灯が明るいので月夜でも満月に気がつかないこともある。しかし人家が遠い山林の中の小屋に泊まると夜の暗さに吃驚する。

上の写真の左2枚は秋の日に輝く庭の小川と小屋の外観である。いつもは夜になると雨戸を閉め室内にこもって、早々と寝てしまう。何かが怖くて夜は外に出ない。

今回は近くの別荘の主人に夕食をご馳走になったので夜の道を帰って来た。ほろ酔いの勢いでその後も山林の中を散歩してみた。懐中電灯を持たないで歩き回る。林の中の道は鼻をつつまれても分からない闇だ。木々の梢の間からほんのり明るい曇り空がわずかに見えるだけである。山林の向こうの石空川の激流の音が遠くに響いている。時々、名も知らぬ夜の鳥が暗い声を上げている。

この小屋に泊まって夜の闇を体験すると、電灯の無かった時代の人間の考え方がよく分かる。月夜のときしか歩かない。暗くて歩けないのだ。提灯やローソクは随分後の時代になってから用いた。それでも足元しか明るくない。昔から半月がだんだん満ちてくるまで心待ちにしていた事情が深く理解できる。

太陽が上がったら起きて、沈んだら寝る。それが人間の生活だった。夜の世界は妖怪や幽霊の世界だから、よほどの事が無ければ外には出ない。古い時代の人々は色々な妖怪の存在を信じていた。その妖怪達は、今では暗夜の山林の中に移住して生きている。イノシシや猿と一緒に住んでいる。でも人間を脅かしたり、悪戯をしたりしない。小屋の中は人間の世界だ。

ヨットに泊まると外の街路や街の灯が明るい。夜の航海をしない限り、漆黒の闇はない。

山林の中の小屋に泊まると、人間の根源的な生き方を考えてしまう。昔の人間は自然に対してあまりにも弱く、小さかった。しかしそれが故に生きる喜び、人生の楽しさ、家族の有難さを一層強く感じて居たに相違ない。毎日、毎日生きることが歓喜であった。山林の中の小屋に独り泊るとそのような実感が体験できる。寒くても頑張って泊ると、何か深い幸福感を味わえるのだ。(終わり)