後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今年も5月8日に神津島でジュリア祭りが開催されます

2010年04月25日 | うんちく・小ネタ

今年も5月8日に神津島でジュリア祭りが開催されます。パック旅行がJTB(電話:03-5909-8242、担当:阿部、村田、相田)によって企画されています。詳しくはJTBへお問い合わせ下さい。

それに関連して2年前に神津島へ行った時の旅行記を再び掲載致します。ご参考になさって頂ければ嬉しく思います。

=========神津島旅行記==============

東京から高速水中翼船で4時間、遥か外洋に浮かぶ小さな火山島。山ばかりで平地が無い。船の着けられる簡単な桟橋が島の東西の両側にある。風向きによってどちらかを選ぶ。一人旅の気安さで島の民宿に投宿する。燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞く。明日、見物すべきところも説明しくれる。そして、急に声をひそめて言う、

「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」

「それは誰ですか?」

「小西行長が朝鮮征伐のとき連れ帰った娘です。日本に来てからキリシタンになったのでここへ流された女です。当時の島の人々を助け勇気づけたので女神のように思っている人が多いです」

「何故そんなに声をひそめて喋るのですか?」

「おたあ、を島の人々が始めは、助けて保護したのです。キリシタンを助ければ幕府から重い処罰を受けます」

「それで?」

「おたあ、は立派な女です。元気になると島の人々の面倒を良くみたのです。困った人の相談に乗り、人々を勇気づけました。皆尊敬し、おたあは本当に優しく賢い女だったのです」

「分かりました。でも今はキリシタンへの弾圧もない自由な時代です。何故小さな声で話すのですか?」

「島の人々は今でもおたあ、のことを尊敬しています。小さな声で話すことで尊敬の念をあらわしているつもりなのです。まあ、つまらない話かもしれませんが」

「神津島の人々だけの小さな秘密ですね?」

「まあ、秘密って程でもありませんよ」とニコニコし、宿の主人が満足げな様子である。

現地へ行ってみないとローカルな歴史は分からないものと再度、感じいった。

帰宅して調べてみた。おたあ、は3歳の時、日本へ連れて来られ、アウグスチノ小西行長の幼女となり、洗礼を受け、ジュリアという名を授かる。関が原の合戦の後、小西は石田三成とともに三条河原で斬首される。

家康の側室の侍女となったが家康の言いなりにならない。桃山、江戸、駿河と移され、禁教令と共に神津島へ流刑になった。慶長17年、1612年のことである。小西行長の友人の石田三成一族も神津島へ隠れ住み、ジュリアを助けたという話もある。

毎年、神津島おたあジュリア顕彰会などの主催で「ジュリア祭り」がある。カトリック東京大司教区と韓国のカトリック教会が共同でジュリアの慰霊祭も同時に行っている。

尚、ジュリアの最期には諸説があって、神津島から天国へ昇ったのかは定かではない。

写真4枚は上列左がジュリアの姿、その右が神津島にある記念塔(お墓と想定されていた)。下列左は韓国、切頭島へ神津島から引っ越したジュリアのお墓(1972年日韓の友情による移設)、その右の写真は荒れる太平洋の波の様子です。なおジュリアの姿絵は、http://shl.holy.jp/text_gospel/julia.html から転載しました。(終り)

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キリスト教が排他的だと批判する人々へ送る私の本音

2010年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

2、3ケ月前に、あの小沢さんが仏教界の指導者を訪ね、「キリスト教は排他的です」と批判しました。新聞がその露骨な票欲しげな態度を批判的に取り上げていました。

しかし小沢さんの発言は多くの日本人の本音です。事実、洗礼を受ける前の私もそのように理解していましたのです。

毎日曜日に唱える信仰宣言では唯一の神を信じますと言明します。イエス様の所だけへ行きますとも言います。中世のヨーロッパではイスラム教徒を殺戮するために十字軍を中近東地域へ執拗に送りだしたのです。

その2つのことで日本人はキリスト教を排他的と思い込みます。日本人の本音ではキリスト教を敬遠したいのです。

しかし洗礼を受けてその内側に入ってしまうと決して排他的でないことが分かります。唯一の神を信ずるのはユダヤ教もイスラム教もキリスト教も同じです。同じ神なのです。イエス様の所だけへ行きますという事はキリスト教を彼が作った宗派なので当然のことです。多くの人々はこの言葉の故にキリスト教徒は佛教を攻撃したり、佛式のお葬式へは欠席すると思っています。神社へも参拝しないと思っています。

ところが洗礼を受けて神父様の説教を何百回も聞きましたがお葬式は欠席しなさいという言葉は一回も聞いていません。神社に行くなという台詞も一切聞いたことがありません。そんなことは全く個人の自由なのです。私の仏教との関係は洗礼以前と以後と全く変わりません。いや以前より仏教の素晴らしさが深く理解出来るようになりました。

キリスト教を広げるために武力を使へとは聖書に書いてありません。それは人間の征服慾を正当化する卑怯な説明なのです。聖書にはイエス様が弟子達へ世界中へ行って述べ伝えよと言ったと書いてあります。述べ伝えることと武力を使うことは全く別です。それよりも聖書ではあちこちに平和の大切さが書かれています。

仏教のお葬式に出ないキリスト教徒もいます。イスラム教徒へ武力を使うことに抵抗感を持たない人々もいます。それは事実です。しかし私の本音はこうつぶやくのです:「世話になった人のお葬式にでない罰当たり者。イエス様お許し下さい」、そして「他宗教へ武力を振るう人間の罪と、弱さをお許し下さい」とつぶやいています。

排他的なキリスト教徒がいましたなら彼等の救いの為にお釈迦様へ頼んで下さい。「御慈悲を下さい。彼等を地獄へ落とさないでください」と。

縁あって、この拙い文章をお読み下さった方へ感謝いたします。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人

下の写真は長崎の島にあった日本式のカトリックの教会です。明治村で撮影しました。

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