19歳で夭折したアイヌの少女、知里幸恵さんの悲しい文章を昨日紹介しました。アイヌ民族の住んでいた太古ながらの自然の環境が、どのように変わったかを明快に描き出しています。その結果、人々の美しい魂の輝きが消え、民族は不安に満ち、不平に燃え、あさましい姿になってしまったのです。それが滅びゆくもの・・・・それが私達、なんと悲しいことなのでしょう、と書いています。この文章では北海道の土地がシャモ(和人)によって変わって行く様子を正確に書いています。そしてアイヌの人々の心の荒廃も分かり易く説明しています。しかし知里幸恵さんは和人を直接的には批難していません。その故に感動する人々も多く、後世に大きな影響を残しました。
アイヌ民族は土地の所有という概念を持たない狩猟民族です。フクロウや熊など自然のものが神さまです。文字は持っていません。しかし、「アイヌ神謡集」を見ると彼等の豊かな精神生活が分かります。尊敬したくなるような文化を持って、輝きながら生きていたのです。
世界中には今なお原住民という少数民族が生活しています。南米大陸の密林の奥深く。そしてパプア・ニューギニアの山々に。知里幸恵さんの悲しい文章はこのような先住民族とどのように付き合うのが最善かを教えてくれます。
農耕民族が狩猟民族の住んでいる土地へ入って行ってはいけません。農耕民族にとっては田畑が命です。森や密林を切り開き、田畑に変えます。農業用水のために自然の川に手を入れてダムを作り、田畑へ水路を作ります。これだけで狩猟民族の獲物や川魚が減少してしまいます。狩猟民族の生活が困窮します。
狩猟民族との付き合い方で重要なことは「そっとして置く」ことです。あるがままに狩猟生活が続けらるようにして置くことです。交易もしてはいけません。物々交換でもいけません。交易の富に目がくらんで、必要以上の獲物を獲ります。過剰に鮭を捕ります。そして資源枯渇へとつながるのです。
アイヌ民族の住んでいた蝦夷地の南端に松前藩がありました。アイヌとの交易で得た物資を、北前船で上方へ送って経済をまかなっていたのです。江戸時代からアイヌ文化へ悪い影響を与えていました。アイヌ民族による反乱がそれを物語っています。そして明治維新によって蝦夷地は北海道と名前が変わり、今度は強制的にアイヌ文化の破壊が始まったのです。
南米の国々では原住民を保護する方法として「接触しない方法」をとっています。兎に角、文明社会の人々が接触することを禁止し、接触しないように監視しているのです。よく「学術調査」のために学者が入って行きますが、それもいけません。勿論、宣教師も文化に影響を与えるのでいけないのです。学者と宣教師は入っても良いという時代もありました。しかし宣教師のお陰で、西洋人と付き合いだし、西欧化したアフリカの緒民族の運命を見ると、「宣教師もいけない」と思えます。
宣教も学術調査も結局は自分達の利益に繋がります。原住民の利益にはなりません。この考え方の延長にあるのが「調査捕鯨への反対運動」と思われます。それはさて置き、明治維新の時、どうすればアイヌ民族文化が存続したでしょうか?
松前藩を廃止し、蝦夷地から和人の強制引き揚げを実行し、北海道をアイヌ民族の自由にさせれば良かったのです。しかし、欧米の植民地化をおそれ富国強兵を急ぐ明治政府にとっては北海道を諦めることは出来なかったのです。それが善い事だったのでしょうか?皆様のコメントを頂ければ嬉しく思います。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人
下の写真はあとみんさんのブログ「富良野健康生活」からお借りした北海道の新緑の季節の富良野の山林の様子です。