後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

貴方はこんなに悲しい序文をお読みになったことがありますか?

2010年04月02日 | 日記・エッセイ・コラム

「アイヌ神謡集」の序文
 
 其の昔此の廣い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天眞爛漫な稚兒の樣に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと樂しく生活してゐた彼等は、眞に自然の寵兒、何と云ふ幸福な人だちであつたでせう。 冬の陸には林野をおほふ深雪を蹴つて、天地を凍らす寒氣を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には凉風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の樣な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟かな陽の光を浴びて、永久に囀づる小鳥と共に歌ひ暮して蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は野分に穗揃ふすゝきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、圓かな月に夢を結ぶ。嗚呼何といふ樂しい生活でせう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、此の地は急速な變轉をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて野邊に山邊に嬉々として暮してゐた多くの民の行方も又何處。僅かに殘る私たち同族は、進みゆく世のさまにたゞ驚きの眼をみはるばかり。而も其の眼からは一擧一動宗教的感念に支配されてゐた昔の人の美しい魂の輝きは失はれて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おゝ亡びゆくもの‥‥‥それは今の私たちの名、何といふ悲しい名前を私たちは持つてゐるのでせう。 其の昔、幸福な私たちの先祖は、自分の此の郷土が末にかうした慘めなありさまに變らうなどとは、露ほども想像し得なかつたのでありませう。 時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競爭場裡に敗殘の醜をさらしてゐる今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て來たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては來ませう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈つてゐる事で御座います。 けれど‥‥‥愛する私たちの先祖が起伏す日頃互に意を通ずる爲に用ひた多くの言語、言ひ古し、殘し傳へた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまふのでせうか。おゝそれはあまりにいたましい名殘惜しい事で御座います。 アイヌに生れアイヌ語の中に生ひたつた私は、雨の宵雪の夜、暇ある毎に打集ふて私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。 私たちを知つて下さる多くの方に讀んでいたゞく事が出來ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。  

知 里 幸 惠


銀のしずく降る降るまわりに、金のしずく降る降るまわりに、

2010年04月02日 | 日記・エッセイ・コラム

Yukie_chiri1 アイヌ民族の美しい叙事詩を一つだけご紹介します。知里幸恵さんの翻訳による叙事詩です。彼女は、東京の金田一京助氏の自宅へ招ばれ、翻訳、編集作業中に19歳で病死したアイヌの少女です。アイヌ語から日本語へ翻訳した数多くの叙事詩、「アイヌ神謡集」の冒頭の詩です。後半は省略しましたが、http://www.nextftp.com/y_misa/sinyo/sinyo_01.html をクリックすると全文を見ることができます。知里幸恵さんの写真はWikipediaの「知里幸恵」の項目から引用しました。金田一京助氏の家で死ぬ2ケ月前に撮影されたものです。

(知里幸惠編訳-「アイヌ神謡集」より)

梟の神の自ら歌った謡

      しずく
「銀の滴降る降るまわりに」


「銀の滴降る降るまわりに,金の滴

 
降る降るまわりに.」という歌を私は歌いながら

 
流に沿って下り,人間の村の上を

 
通りながら下を眺めると

 
昔の貧乏人が今お金持になっていて,昔のお金持が

 
今の貧乏人になっている様です.

 
海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓に

 
おもちゃの小矢をもってあそんで居ります.

 
「銀の滴降る降るまわりに

 
金の滴降る降るまわりに.」という歌を

 
歌いながら子供等の上を

 
通りますと,(子供等は)私の下を走りながら

 
云うことには,


「美しい鳥!神様の鳥!

 
さあ,矢を射てあの鳥

 
神様の鳥を射当てたものは,一ばんさきに取った者は

 
ほんとうの勇者,ほんとうの強者だぞ.」

=====以下省略==========


東京の中心ちかくにあるマリーナの風景写真です

2010年04月02日 | 写真

JR新橋駅から歩いて12分位の所にあるマリーナです。築地魚市場と浜離宮の間の築地運河にあります。一番上の写真の左が浜離宮で右が三井造船本社ビルでその手前の右側方向に築地魚市場があります。この写真の真ん中に写っている白い船体のヨットがハンスクリスチャン43フィートのBambino号で隣のブルーの船体のヨットがババリア39フィートのBig Bear 号のようです。Banbino号には昨年の5月に駿河湾でのセイリングに乗せて貰いました。Big Bear号には三崎港から築地運河までの7時間のセイリングに乗せて貰い、さらにもう一回、夜の東京湾のセイリングにも乗せて貰いました。お世話になったHootaさんとO熊さんへ感謝しつつこの写真を撮りました。

他の写真3枚は浜離宮側から撮ったものです。ヨットのお好きな方なら一番下に写っているマリンブルーの大型レース艇 Big Apple は良くご存知の事と思います。ほれぼれするような名艇ですね。ヨットのお好きな方々にお楽しみ頂ければ嬉しく思います。(終り)

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東京のお薦め観光コース:浅草から浜離宮まで隅田川巡航コース

2010年04月02日 | インポート

桜花の咲く季節には、何度乗っても飽きないコースです。浅草、吾妻橋から浜離宮まで40分、隅田川を川風に吹かれながら、のんびりと船で下ります。今年は、浅草から建設中の「スカイツリー」というテレビ塔が半分出来ているのが見えます。隅田川は水豊かに流れ、江戸時代を思わせてくれます。コンクリートの河岸は青草繁る土手に、ビルを消して和風の家屋を想像します。大型観光船でなく手漕ぎの屋形船に乗ったことを想います。そんなことを楽しみながら船は緑濃い、江戸時代そのままの浜離宮に接岸します。写真をお楽しみ頂ければ嬉しくおもいます。(終り)063 046 076 077


この美しい日本はユダヤ人大量虐殺に関する限り完全無罪です!

2010年04月02日 | 日記・エッセイ・コラム

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私は、現職中から長い間、第二次大戦中のドイツによるユダヤ人大量虐殺へ同盟国だった日本にも責任があると恐れていました。軍事同盟を結んで一緒に戦争をしたのですからホロコーストへ対して何らかの責任があると思っていたのです。

昨年以来、少しずつ調べてそのテーマで何回かこのブログ上で記事を掲載して来ました。杉原千畝さんが6000人ぐらいのユダヤ人へヴィザを発給し、その命を救ったことだけでは帳消しにならない、何か悪い事をしていたのではないかと思っていました。

ところが予想に反して日本の陸軍がユダヤ人を満州に招き入れ、自治区を作る計画をしていたのです。ドイツ軍の幹部が来て日本もユダヤ人を抹殺するように要請しましたが、陸軍は上海にユダヤ人を匿い、形だけゲットーを作ったのです。

その事実は、3月11日掲載記事、奇想天外!関東軍のユダヤ人の大規模救済計画ー河豚計画 に詳しく書いてあります。

陸軍は満州や上海へ多数のユダヤ人を受け入れることを計画しました。1938年の日本政府の五相会議で、その計画を国策として承認したのです。

日本の軍部はドイツのユダヤ人大量殺戮の意味が理解出来ず、そのようなドイツ軍の政策には一切協力をしていません。

その計画のことを、「河豚計画」といいます。戦後、日本の事を研究したユダヤ系アメリカ人のマーヴィン・トケイヤーさんが、「河豚計画」(The Fugu Plan)という本を英語で出版したのです。

この英語の本のお陰で、日本の軍部がユダヤ人を保護しようとしたことが世界中へ知られるようになったのです。

所がこの本の影響力については日本側からだけの情報しか見ることができませんでした。少し調べて又、記事を書いて見ようと思っていたところ、仙台一高時代の旧友から以下のメールを頂きました。

=====旧友のGTさんからのメール========

藤山杜人 様
お久しぶりです。同じ名字の藤山莞爾です。
東京六高会のブログ、拝見しました。最近、都合で欠席続きなので、懐かしく拝見しました。
貴兄のブログ(関心の広さに感心しています)を拝見していて、オヤと思った記事がありました。
2010/03/11投稿の「河豚計画」についてです。実は5年ほど前、この本の著者の マービン(彼は仮名でマーウインと書きましたが)トケイヤ―氏に会い署名入りのこの本をもらいました。その時初めて「河豚計画」なるものを知りました。
彼の来日の目的は、在米ユダヤ人一行を引率し、「河豚計画」にある神戸や中国上海付近のかつてのユダヤ人居住地を回る旅でした。そのメンバーに私の知り合いでフロリダ在住のユダヤ人夫妻がいて、彼らが東京でトケイヤ―氏を紹介してくれたのです。
あまりにも奇想天外で印象深く、知り合いの新聞記者にも聞いてみたのですが、聞いたことがある程度だったので、私の記憶からも薄らいでいたのですが、貴兄の記事でまた蘇りました。貴兄の関心のきっかけは何だったのでしょうか。
久しぶりなので、東京六高会のブログのお礼とともに、一言申し上げました。
時折のぞかせてもらいます。
藤山莞爾
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これで、私は胸のしこりがすっかり下りました。日本人は完全無罪なのです。余計な心配をする必要は一切ありません。取りあえずその事だけをご報告したくて筆を取りました。私の無知がお恥ずかしいです。(終り)


「差別用語」排除と日本文化の変化(2)アメリカの完全平等主義が日本へも浸透する

2010年04月02日 | うんちく・小ネタ

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差別用語撤廃運動は日本人の独創による運動ではありません。20年以上前まらアメリカでは女性差別、黒人差別の撤廃運動のなかで差別用語の撤廃が進んでいました。毎年貰うクリスマスカードの宛名が、昔は、Dr.and Mrs. Fujiyama が Mr.and Ms. Fujiyama に変わり、最近は敬称無しで、Morito and Harumi と変化して来ました。

それと何年か遅れて日本でも看護婦が看護師へ消防夫が消防隊員へと言うようになりました。その頃から・・・君、や・・・殿、や・・・先生という敬称はなくなり、すべて・・・さんと呼ぶようになりました。

アメリカ社会は一旦流行の社会運動が起きるとかなり長期間徹底して進む傾向があります。特にその目的が「善」である場合は長期間進行します。他人を蔑む意味を持った全ての英語が無くなりました。

その一方で利潤追求のための完全自由主義も徹底して、その結果、架空の金融商品が売買されるようになり金融危機やリーマンショックが起きました。流石に金融界へは規制が入るようになりましたが、他の産業分野では日本では考えられないような完全自由競争が行われています。その上、給料の格差は日本では考えられない位大きいのです。

従ってアメリカでの差別用語撤廃運動は自由競争によって生まれる金銭上の格差を心理的に慰やす効果が大きいのです。人間は完全に平等です。しかし貧富の差だけは厳然と存在するのです。

さて、ここからは日本の差別用語撤廃運動の特徴の一つだけを書きます。日本の戦前、戦後に使われていた言葉は差別用語が無数にありました。明らかな蔑みの意味がなくても当時の暗い差別社会を連想させる言葉が沢山あります。撤廃運動では蔑みの言葉だけでなく、差別社会を連想させる言葉は全て止めようという運動のような特徴です。これは一種の連想ゲームのような運動です。私はこの運動の善悪を論じようとしません。あるがままに受け入れます。社会運動には良い効果とその陰にある悪い効果も少しあるのもです。最後に昨日頂いたコメントをご紹介して、皆様にも深く御考え頂ければ嬉しく思いますい。(終り)

========とかっちさんからのコメント===========

久々にお邪魔いたします。差別用語に対し色々な意見はあると思いますが、世界において日本語ほど多彩な表現力を持った国はない、と評価されている、と言うのを聞いた事があります。
明治、大正、昭和と近代文学で活躍された文豪達の作品にその時代を如実に訴える悲哀や苦悩、力強さの中にそれなりの表現、差別用語と捉える言語が数多く出てきますが、読む側にはそんな思いを汲み取り学んだ気が致します。
子供向けの昔話のお話でも差別用語と思われる語句もありますが、言葉の使い方で生き生きと表現される訳で、理屈ではないと思います。
さだまさしの歌で関白宣言が女性団体から吊るし上げられた事がありましたが、私はほほえましく、感じました。
スチュワーデスがキャビンアテンダントに変わったり、化粧品のコマーシャルでは美白を強調してますが、人種的、色黒体質の人に悪い?などなど、きりがありません。

うわべだけの表現方法にこだわるより、現実を見据え、心の広い人間性を養いたいものです。世界では、「もったいない」 という言葉が普及しつつあるともききます。

(投稿 とかっち | 2010/04/01 12:14