後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ハンガリーへ留学している若い人の手記をご紹介します

2010年04月04日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真の出典は、http://rapszodia.hu/felnapos-budapest.html です。)

以下の手記は「ドナウの四季」2010年春季号、No.8 に掲載された数人の留学生の手記の一つです。ハンガリー在住の盛田常夫さんが編集、出版している雑誌です。詳しくは、http://morita.tateyama.hu をご覧ください

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「ハンガリー中毒」ーバラシ・インシュティテュート、竹田 麻子

 こんにちは。現在ブダペストで「ハンガリー学(Hungarológia)」を勉強している竹田麻子と申します。私は極度のハンガリー中毒です。私のハンガリー中毒は、学生時代に1年間デブレツェンへ留学した時に始まりました。当時の大阪外国語大学でハンガリー語を専攻し、2年半の勉強を終えた後、デブレツェン大学に通い始めました。しかし、大学の二年半を学業のみに費やしたわけではなかった私は、留学当初は全くと言って良いほどハンガリー語が理解できず、「ありがとう」、「ごめんなさい」、「ハンガリー語専攻の1年生です(これは1年生の最初の授業で繰り返し練習したので、頭に残っていたのです!ただ残念ながら、留学時はすでに3年生でした…)」程度しか話すことができませんでした。そんな中でも、ハンガリー人や他国出身の留学生仲間にも恵まれ、ハンガリーのお母さんと呼べるような人が二人もでき、食べて飲んで、これまでの人生で最高と思える1年を過ごすことができました。もちろん、差別をされたり失敗したりと悔しいことも色々ありましたが、振り返ってみれば楽しいことの方が断然多かったように思います。

 楽しかった思い出に招かれるように、留学を終えた後も毎年ハンガリーへの旅行を続けていました。ハンガリー人の友人に会ったり、私と同様ハンガリー中毒でハンガリーへ舞い戻ってきた留学仲間と会ったりして、毎回「やっぱりハンガリーは最高だ!」という思いを強め、次のハンガリー旅行計画をたてるのでした。

 大学卒業後は企業に就職し、全くハンガリーと関係のない業務に就きました。仕事は充実していましたが、「やっぱりハンガリーで働きたい!」という強い思いから退職、幸いなことに奨学金プログラムに参加できることになり、20099月からBalassi Intézetで「ハンガリー学」コースで勉強中です。

 さて、この「ハンガリー学」コースですが、これはハンガリー語を始め、歴史、文化、社会など、とにかくハンガリーに関わること全てを勉強するプログラムです。授業は全てハンガリー語で行われ、期末には筆記、口頭試験も待っています。ハンガリー中毒の私ですが、予想していたよりも濃い授業内容に面食らってしまいました。クラスメートはポーランド人、ブルガリア人、セルビア人、クロアチア人、ルーマ

ニア人、トルコ人で、皆ペラペラとよく話します。親がハンガリー人である学生もおり、予期せず上級者クラスに入った私は、初めはクラスメートの語学力の高さに驚き、とてもついていけないと焦りました。しかしながら、ここで負けては仕事を辞めてまで来た意味がない!と思い、必死でクラスにしがみついている状態です。

 私がクラス唯一の(東)アジア人ですが、メリットもデメリットもあります。デメリットから挙げると、日本語とハンガリー語で共通する単語が少なく、わからない単語が人一倍多いということです。特に、病名や学問の名前などラテン語起源の単語については、私には「単語からでは想像もつきません!」というものも、クラスメートたちの母語では同じラテン語起源の単語となっているものが多々あり、彼らにとっては完全にハンガリーオリジナルの単語よりも理解し易いようです。メリットとしては、ハンガリーを含めヨーロッパのそれと大きく異なる日本の文化、習慣が興味深いらしく、日本やアジアに関する何を言っても、クラス全員が面白がって耳を傾けてくれることです。これは単なるメリットでなく、彼らの優しさでもあります。

 昨年9月から約半年間、順風満帆とはいかないながらもテストなどを乗り越えてきたおかげで、最近は自分のハンガリー語力にも自信がついてきました。今回のプログラムを通して一回り成長できた自分を武器に、最終的な目標であるハンガリーでの就職を目指し、一歩一歩前に進んでいこうと思います。 きっと私のハンガリー中毒は、この先も治ることはないでしょう。(終り)


華麗な国立の桜並木の写真

2010年04月04日 | 写真

JR中央線の国立駅の南口を出ると南にむかって一直線の大通りが数キロ続いています。南武線の谷保駅まで続く大きな道です。その両側に見事な桜並木が続いています。谷保駅に近い所で東西に走る大通りと交差します。その東西の道も桜並木です。満開の桜が華麗です。写真を撮っていたら、隣のおじさんが、「NHKが国立の桜並木の風景を放映していたので、群馬県からわざわざ来たかいがありました」と話していました。昨日撮った写真をお送り致します。

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今日は復活祭、悲しくて楽しい日です

2010年04月04日 | 日記・エッセイ・コラム

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今日は復活祭の日です。復活祭の前には40日間の四旬節があります。早春の寒い日から、次第に春が近づき花々が咲き出す季節の40日です。クロッカスが咲き出し、水仙が咲き、梅が咲き、コブシとモクレンが咲きます。ジンチョウゲも菜の花も咲いて、ついに桜が満開になりました。このように花々のうつろいを見やりながらキリスト教を信じている私の心は悲しみと希望の楽しさが入り乱れているのです。

キリストを称賛していた人々の心変わりによってイエスはピラトの裁判へかけられます。その人々の心変わりが悲しいのです。ピラトは群衆の「死刑にしろ!」という叫びを静めるため、厭々ながら死刑の判決を下します。

そしてイエスは十字架を担がされ、ゴルゴタの丘の上で磔にされ、長い時間苦しんで絶命します。残された衣服を処刑したローマ兵がくじ引きで分け合うのです。

目の前で処刑されているような感じがします。具体的な事実が聖書に書いてあるからです。イエスの死が悲しいのです。そしてイエスを死刑にしろと叫んだ、以前の信者達の心根が悲しいのです。

しかし死んで3日目にイエスは生きかえります。復活したのです。それが大きな喜びです。楽しい出来ごとです。そして弟子たちと親しく話をして、別れて、天へ登ります。

このことは将来もイエスは生きかえって、私達の所へ来てくれることを暗示しています。そんなことを想うと楽しいのです。明るい希望の光が差し込んできます。

毎年、春先の40日間の四旬節の間中、悲しみと楽しい希望が交互に入れ替わり何となく静かな気持ちで過ごします。いつもいろいろな趣味を楽しんだりしていますが、心の中は悲しみと希望の光が行ったり来たりする季節なのです。そして今日はイエスが生き帰った日です。復活祭の日です。これから教会のミサへ行きます。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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