消えてしまったふるさとの街を歩く淋しさ、寂寥感が身に沁みます。
私の家は伊達政宗の廟所のある経ケ峯という小山の東側にあったのです。政宗から三代までの廟所のある杉木立の暗い淋しい山でした。
その廟所の石段を降りると、下馬の明るい広場へ出ます。その先には評定河原へ渡る一銭橋がありました。広瀬川へ遊びに行くお決まりの道だったのです。私の大切にしていた思い出の場所でした。
それが最近は金ぴかの桃山調の瑞鳳殿という豪華な廟堂になっています。昔は、そんな派手な廟所はありませんでした。
昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。笹蒲鉾でした。仙台駄菓子でした。その昔の名産品は全て消えてしまい、笹蒲鉾だけが残りました。最近、急に仙台の名物が、牛タン焼になったのです。
まったく理不尽ですが仙台が牛タンを売り物にしていることに、何故か私は少しばかり腹を立てているのです。
仙台へ行く度に昔の名物や面影がドンドン消えて行きます。もう私のふるさとは完全に消えてしまったようです。
人々は忙しく変わって行きます。輪廻転生です。虚しいものです。
ところが最近、偶然のことから故郷へつながるかすかな絆を発見したのです。
そのおかげで又こうして故郷、仙台のあれこれを懐かしく思い出しています。これこそ老境の喜びなのです。人生にはこんな喜びもあるものなのです。
2月の大雪の時、山林の中の小屋を見に行きました。その時に雪道でころんで足を捻挫しました。
それ以来近所の接骨院へ通って、針お灸、揉み治療を受けています。
その院長先生の奥さんが治療をしていた時、少し話をしました。そうしたら昔、仙台で通った小学校の同級生の娘さんだったのです。なんという奇遇と、驚くとともに昔の思い出がいろいろと鮮明によみがえって来たのです。
その同級生は八木さんという女の子でした。仙台の八木山一帯の所有主の子供でした。上品な大人しい子供でした。金持ちの家の子なのに控え目で、良い子だったので男の子の憧れのまとでした。
それが1943年の小学校卒業以来、消息が消えてしまったのです。
接骨院の奥さんがその八木さんの長女だったのです。彼女の話によると母はミッション系の大学を卒業し、石巻のお医者さんへお嫁に行ったそうです。娘や息子が生まれ、孫たちもいて、現在は幸せに暮らしているそうです。
ところが東日本大震災の折に2週間ほど連絡が無くなり大変心配したそうです。
自宅は石巻市の山手にあったので津波の直撃は受けなかったそうです。しかし海水が何処からとも流れて来て家の庭や床下に溢れたそうです。すぐに避難所へ行って、その後なかなか電話が通じず連絡出来ななかったそうです。
それにしても1943年以来、どうしているか分からなかった小学校の同級生の娘さんと偶然会えたというのは驚きです。奇遇としか言いようがありません。
そして昔、仙台での楽しかったことがいろいろと鮮明に蘇ってきたのです。これこそ老境の楽しさではないでしょうか。
下に仙台の写真を4枚示します。
一番目の写真は広瀬川の評定河原橋から見上げた八木山の風景です。右の小高い山が仙台城のあった城跡です。
二番目の写真は仙台城から見下ろした仙台の中心街です。
三番目の写真は仙台城の東側にある政宗と三代目までの廟所のある経ケ峰です。
四番目の写真はその経ケ峰の頂上にある政宗と三代目までの廟所です。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)
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