後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

国際基督教大学の桜並木

2014年04月02日 | 写真

毎年、桜が咲くと、三鷹市にあるこの国際基督教大学は観桜客に構内を開放します。

10時から午後5時まで自由に出入り出来ます。今日の午前中に家内と共に行って写真を撮って来ました。車で20分位の近いところにあるので、毎年行って桜花を楽しんでいます。

今年は一段と綺麗に咲いていました。下にその写真をお送り致します。

Img_5737

Img_5733

Img_5730

Img_5735

住所:東京都三鷹市大沢三丁目10番2号

交通の便は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6 にあります。

この大学はゼロ戦を大量生産していた中島飛行機の跡地にあり、開学当時の大学の本館は中島飛行機の本社ビルでした。

ですから上の写真にある桜並木は中島飛行機からの並木ではなかと想像できます。

高齢者にとっては感慨深い建物です。下に当時の大学本部ビルの写真を示します。写真の出典は、上の交通の便の出典と同じです。

International_christian_university_


人生のむなしさと喜び(1)消えてしまった我が故郷とよみがえる思い出

2014年04月02日 | 日記・エッセイ・コラム

老境にいたり人生を振り返ってみると邯鄲の夢のようにはかないものでした。

親や友人や恩人たちも死んでしまい周りが淋しくなりました。

広々とした公園には桜樹が並んで爛漫と咲いていますが、昔一緒に花見をした人々が旅立ってしまいました。むなしい思いです。

毎年のことですが華やかな桜花を眺めながら寂寥を感じています。人生のむなしさを感じています。

そして消えてしまった我が故郷、仙台の昔の桜を思い出しています。

仙台は伊達政宗が1600年前後に築いた城下町です。青葉城の大手門から真っ直ぐ東へ伸びる通りは広瀬川の大橋を渡ったところから、東端の現在の仙台駅までを大町通りと言います

その大町通りの途中を直角に奥州街道が横切っていて、その四つ角を「芭蕉の辻」といいます。江戸時代は有名な繁華街で、豪商の店が集まっていました。その奥州街道の部分を国分町といって賑やかな商店街でした。

私が少年だった育った頃は、繁華街の「東一番丁」とそれと交叉する「大町通り」へよく遊びに行ったものです。そして「芭蕉の辻」や「国分町」へも足をのばし、意味も無く歩きまわったものです。

仙台を出て東京に暮らすようになって54年。

甘い追憶の中のふるさと、仙台を探す旅に時々出かけます。

ところが故郷の街々はすっかり変わり果てて、見知らぬ白い街になってしまったのです。

大きな道路には沢山の車が情け容赦なく疾走しています。道行く人々は足が長く、見知らぬ外国人のように速足に過ぎ行くばかりです。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。しかし、みんな何処かへ消えてしまいました。

消えてしまったふるさとの街を歩く淋しさ、寂寥感が身に沁みます。

私の家は伊達政宗の廟所のある経ケ峯という小山の東側にあったのです。政宗から三代までの廟所のある杉木立の暗い淋しい山でした。

その廟所の石段を降りると、下馬の明るい広場へ出ます。その先には評定河原へ渡る一銭橋がありました。広瀬川へ遊びに行くお決まりの道だったのです。私の大切にしていた思い出の場所でした。

それが最近は金ぴかの桃山調の瑞鳳殿という豪華な廟堂になっています。昔は、そんな派手な廟所はありませんでした。

昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。笹蒲鉾でした。仙台駄菓子でした。その昔の名産品は全て消えてしまい、笹蒲鉾だけが残りました。最近、急に仙台の名物が、牛タン焼になったのです。

まったく理不尽ですが仙台が牛タンを売り物にしていることに、何故か私は少しばかり腹を立てているのです。

仙台へ行く度に昔の名物や面影がドンドン消えて行きます。もう私のふるさとは完全に消えてしまったようです。

人々は忙しく変わって行きます。輪廻転生です。虚しいものです。

ところが最近、偶然のことから故郷へつながるかすかな絆を発見したのです。

そのおかげで又こうして故郷、仙台のあれこれを懐かしく思い出しています。これこそ老境の喜びなのです。人生にはこんな喜びもあるものなのです。

2月の大雪の時、山林の中の小屋を見に行きました。その時に雪道でころんで足を捻挫しました。

それ以来近所の接骨院へ通って、針お灸、揉み治療を受けています。

その院長先生の奥さんが治療をしていた時、少し話をしました。そうしたら昔、仙台で通った小学校の同級生の娘さんだったのです。なんという奇遇と、驚くとともに昔の思い出がいろいろと鮮明によみがえって来たのです。

その同級生は八木さんという女の子でした。仙台の八木山一帯の所有主の子供でした。上品な大人しい子供でした。金持ちの家の子なのに控え目で、良い子だったので男の子の憧れのまとでした。

それが1943年の小学校卒業以来、消息が消えてしまったのです。

接骨院の奥さんがその八木さんの長女だったのです。彼女の話によると母はミッション系の大学を卒業し、石巻のお医者さんへお嫁に行ったそうです。娘や息子が生まれ、孫たちもいて、現在は幸せに暮らしているそうです。

ところが東日本大震災の折に2週間ほど連絡が無くなり大変心配したそうです。

自宅は石巻市の山手にあったので津波の直撃は受けなかったそうです。しかし海水が何処からとも流れて来て家の庭や床下に溢れたそうです。すぐに避難所へ行って、その後なかなか電話が通じず連絡出来ななかったそうです。

それにしても1943年以来、どうしているか分からなかった小学校の同級生の娘さんと偶然会えたというのは驚きです。奇遇としか言いようがありません。

そして昔、仙台での楽しかったことがいろいろと鮮明に蘇ってきたのです。これこそ老境の楽しさではないでしょうか。

下に仙台の写真を4枚示します。

一番目の写真は広瀬川の評定河原橋から見上げた八木山の風景です。右の小高い山が仙台城のあった城跡です。

二番目の写真は仙台城から見下ろした仙台の中心街です。

三番目の写真は仙台城の東側にある政宗と三代目までの廟所のある経ケ峰です。

四番目の写真はその経ケ峰の頂上にある政宗と三代目までの廟所です。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

===下の記事も是非ご覧下さい=================

完全に消えてしまった追憶の中のふるさと、仙台

ふるさと仙台にまつわるエピソード(4)江戸時代に仙台を繁栄させた商人、職人などの町民たち

小さな幸せが大きな幸福へ(4)近所の接骨院でしみじみと感じる小さな幸せ

鍼灸治療の効果を上げる方法(1)三勝はり灸接骨院での治療体験から

078_2

086

093

054