後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

2009年12月と2013年11月の同じ白鳥夫婦の写真です

2014年04月23日 | 写真

019

030  

2009年の年末は、家の大掃除が順調に済み、年賀状も出し、クリスマスのミサへも行って来たし、全てが流れるように進んでいました。

12月26日は朝から穏やかな日和なので家内と一緒に霞ヶ浦のヨットの大掃除へ行きました。キャビンの中は家内が雑巾がけをし、私は甲板をデッキブラシで水洗いしました。

昼食後は湖沿いに2Kmほど歩いて2008年の春から白鳥4羽が棲みついていた芝生のところまで行きました。

場所は桜川の河口から湖に向かって左側の港町の高齢者用のホームのビルの前広い芝生の生えているところです。

子供2羽は秋から巣立って姿が見えません。

白鳥の夫婦は離婚なしで一生そいとげるそうです。成程、2羽の大きな白鳥の夫婦が仲よく緑の芝生をしきりに食べていました。人間に慣れていて、傍に行っても平気です。しばし白鳥の夫婦と遊んで船に帰りました。

上の2枚に写真がこの夫婦の白鳥の写真です。

それが2014年の11月19日に久しぶりに同じ場所に白鳥に会いに行きました。4年ぶりでした。

そうしたら霞ヶ浦に棲みついた夫婦の白鳥が居るではありませんか。それも新しく2羽の子供を育てていたのです。

こうして見るとこの夫婦は毎年のように、春に2羽の子供を産み、育てているようです。そして子供の白鳥は2年後の春にはシベリアに飛んでいくのでしょう。

港町の高齢者用のホームのビルの前の堤防の上の草を食べている写真を下に示します。

それにしても人家のすぐ近くに夫婦の白鳥が悠悠と平和に暮らしながら子供を育てているのです。近所の人々の白鳥への愛が感じられ、心温まる思いをしながら帰ってきました。


趣味としての宗教あれこれ(2)趣味として気楽に答えたら洗礼を受けた方がいました

2014年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

真面目な信者の方々に怒られそうですが、私は肩から力を抜いて宗教を趣味のように大切にしています。

一年前の2013年2月4日掲載記事で、「カトリック初心者」さんという方から頂いた4つの質問をご紹介しました。

私は気楽にお答えしました。真面目に教理も勉強していなかったので4つの答えには間違ったことも含まれていると思います。

しかしこの「カトリック初心者」さんは1年後の2014年の復活祭の徹夜ミサで洗礼を受けたのです。

カトリック関口教会の山本量太郎主任司祭さまから洗礼を受けたのです。

山本神父は私が1971年にカトリック立川教会で洗礼を受けたときの代父をして下さった山本大二郎氏の息子さんなのです。その上、山本神父さまは私共のカトリック小金井教会の主任司祭を10年もして下さってから関口教会の主任司祭になられた方です。

私にとっては二重、三重の喜びです。大きな感動です。

ブログに気楽にカトリックのあれこれを書いていたら、それを読んで洗礼を受けるキッカケにして下さったのです。そして個人的に深い関係のあった神父様から洗礼を受けたのです。

人生にはこんなこともあるのです。

そこで以下にカトリックに関する気楽な問答をもう一度書いておきます。

====「カトリック初心者」さんからの4つの質問===========

①「主の平和」は、どう解釈したらいいですか。
②小さい頃、祖母からご先祖様を供養し敬うよう言われましたが、
 キリスト教では先祖については、どのような教えですか。
③因果応報、自業自得、のような教えはありますか。
④なぜ同性愛を認めないのですか。

====以下は私の気楽な4つの答えです==============

まず一般的なことを書きます。キリスト教にはいろいろな宗派があり、それぞれが異なった「信者が守るべき規則」や「信仰の仕方」を定めています。

その違いはイエス様の教えを書いた福音書のどの部分を重要と信じるかによって生じる相違なのです。この様子は仏教でも全く同じです。

ですから変な規則や信仰の形式にぶつかったら、それは本当にイエス様のお心なのか、後の人間の教えなのかを自分で深く考えることが重要になって来ます。

頂いたご質問を実例にしてもう少し私個人の感想を申し上げます。

①「主の平和」は、どう解釈したらいいですか。

分かり難い言葉ですね。しかし簡単に言ってしまえば神様が与えてくれる平和という意味です。

世界には戦争の無い平和な国がかなりあります。しかしそれは軍事的なバランスによって出来ている「はかない平和」です。バランスが崩れると一瞬にして戦争が起きそうになります。この軍事的なバランスによる平和は人間が作った「かりそめの平和」です。

それに対して神様の与える平和は人間の心の中へ頂ける絶対的な平和です。

それはその人が戦場にあっても心で体験出来る平和です。その平和は牢獄の中にでもあるのです。

私はそれを100%確信してはいませんが、時々確信する時があります。そんな瞬間はとても心が休まります。信者が「神父さまの上にも主の平和」と祈るのは神父さまの為でもあり、自分の為にもなっています。そんな感じがします。

②小さい頃、祖母からご先祖様を供養し敬うよう言われましたが、
 キリスト教では先祖については、どのような教えですか。

まずとても優しかった祖母へ私も敬意を感じます。そして幸せな祖母との日常が目に見えるようです。幸福な幼少時代だったに違いありません。

キリスト教では露骨に先祖様を敬えとは教えていません。しかしカトリックでは11月に死者の日があり、その折りに墓掃除と花々を供えて墓参りをします。ヨーロッパでそんな光景をたびたび見ました。

全ての死者へ尊敬の念を持つことは人間として大切なことです。私は春と秋のお彼岸の折りに必ず父母や親類の墓参りを家内と一緒にします。

墓参りをすれば自分の気持ちがよくなるから行くのです。それで良いではありませんか?お葬式も同じことです。

③因果応報、自業自得、のような教えはありますか。

あります。それはおもにキリスト教の旧約聖書に丁寧に書いてあります。

しかしイエス様は人間が考える因果応報や自業自得の理解にこだわらないことを教えたのです。それよりも神様を大切にして、愛し、そして隣人を愛することの重要性を強調して教えているのです。

この延長で復讐はするな、それは神のことと教えたのです。

私は、因果応報、自業自得にこだわると心が暗くなります。だからそんな感じ方をしないようにしています。それは個人、個人の感じ方の問題のように思っています。

④なぜ同性愛を認めないのですか。

これはカトリックでは何故離婚を認めないのかという問題と関連が深いと感じています。

聖書には結婚は神が与えた奇跡だという意味の言葉があるようです。

ですから奇跡ではない離婚や同性愛は神様はあまりお好きではないようです。私はそんな感じて受け止めています。

しかし人間社会はそんな綺麗ごとですみません。離婚も起きますし。同性愛もあります。私のまわりに もしそのようなカトリック信者がいても 私は絶対にその人を非難しません。いや非難してはいけないものと信じています。

ですからそのことを洗礼を受けるか否かの条件にしないほうが良いと感じています。洗礼を受けてからゆっくり考えるほうが良いと感じています。

さてカトリックの良さの一つを書いてお終いにしたいと思っています。このブログはカトリックの神父様も時々ご覧になっています。私が勝手なことや間違ったことを書いても神父様は絶対に非難しません。破門されることもありません。そこがカトリックの良いことだと嬉しく思っています。(終わり)

=====以下は洗礼を受けてから頂いたメールです============

 後藤和弘さま  

こんばんは。

昨日の復活徹夜祭で、神様に見守られる中、洗礼を授かりました。 

分け合ったあちこちの主の光、栄光の賛歌に鳴り響く鐘の音、

諸聖人の連願、、、胸がいっぱいになりました。 

後藤さんの助けを借り、新しい道筋で完成に向かって安心して進んでいきます。

ありがとうございます。これからも、どうぞよろしくお願いします。

(ご本人の実名が末尾にありました。)

=============================

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤4和弘(藤山杜人)

下に挿絵として以前に明治村で撮った古い和風の教会の写真を示します。

写真は2010年4月に愛知県の明治村で撮影いたしました。長崎の港の外に伊王島という島があり、その大明寺に聖パウロ教会堂がありました。明治12年に建造され、昭和48年まで100年間も使用されていた木造建築です。外見は普通の和風の建物に見えますが、内部はフランスのカトリック教会のように出来ています。

0101

0121