後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

我が友人、星野君との最後のセイリングの写真

2014年04月22日 | 写真

大学の同級生だった星野君は2011年9月に急な病で旅立ってしまったのです。毎年10月に一緒に霞ヶ浦でセイリングするのが数年来の恒例になっていました。翌月の10月にも一緒にセイリングする約束をしたいたのです。その直前の死でした。

そんな訳で前年の2010年の10月28日が最後のセイリングになってしまったのです。

その日、一緒にセイリングした霞ヶ浦は久しぶりの晴天でした。

彼は自宅のある福島から東北新幹線で上野経由でやって来ました。

ヨットが港を出ると、始めは風が穏やかでしたが、沖では物凄くなり、船が身を躍らせて走りまわりました。

帰港のころは又静かになり夕日を楽しみながら帰ってきました。夜は土浦駅のそばの居酒屋に行き酒を酌み交わしたものです。

ホテルに一泊し翌朝も3人でセイリングへ出ようとしたとき突然雨が降ってきました。船は出さないでセールにカバーをかけて帰って来ました。

その思い出の最後のセイリングの写真を3枚下に示します。

012_2

026

044

そしてこの最後のセイリングの前の年の2009年の10月15日のセイリングの写真を下に示します。強風でした。

003

右側が在りし日の星野君で、左は同じ大学の同級生の大友君です。大友君は現在も健在です。

021

強風でヨットがかなり傾いて疾駆しました。

026

そして夜は星野君が持参したシャンパンでキャビンの中でパーティを楽しんだのです。下にその写真を示します。

032

私はホワイト・シチュウを鍋に入れて持参し、キャビンのコンロで温めて供しました。

037

外に出るとそこには写真にあるようなロマンチックな光景が広がっていました。

042

尚、星野君の追悼記は、猪苗代湖の白鳥とヨット、そして今は亡き星野君を想う に御座います。

高齢になると友人たちが次々に旅立って行きます。静かな気持ちで彼らの旅立ちを見送っています。そうして、老境の時が流れて行くのです。(終わり)


夢多き人々の旅立ち(1)山林の中で交友のあったある善良な共産主義者

2014年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム

小生は淋しい山林の中に小屋を持っています。もう40年間も通っています。そこは高級別荘地とはあまりにも違い、自然がいっぱいあるところです。鹿や猪や猿が走りまわっている山奥です。
その一帯には別荘と呼ぶにはあまりにも質素な小さな別荘が沢山あります。はっきり言えば小屋です。小屋ですから水道は自家水道でガスはありません。
そんな場所なので小屋の価格が格安なのです。そいう所にはお金持ちは来ません。つつましい生活から貯金をした人が自然の中で過ごすという大きな夢を持ってやって来るのです。横浜や東京からやって来ます。
とにかく皆がロマンチストなのです。
そんな地域に40年前に土地を買った人々25人くらいで清流園という管理組合を作りました。
毎年泊りがけで懇親会を開いてきました。しかし年を経るごとのそのロマンチストたちが次々に旅立って行くのです。懇親会に出る人も少なくなってしまったのです。組合の創立メンバーは私ともう一人の二人だけになってしまったのです。

そこでその夢多き人々の思い出を少し書いてみようと思います。
今日はある善良な共産主義者のODさんの思い出です。
ODさんは東京を離れ、山梨の甲斐駒の見える所に家を建て、下の写真のような牧草地のすぐ隣に独りで住んで居ました。

104
その頃からの20年以上の知り合いです。
しかし、彼とは2012年6月に会ったのが最後になってしまいました。
私の小屋の近所をよく散歩していたので、時々会いました。いつもニコニコしていて、優しそうな老境の人です。その風貌が善良そうでした。
雑木林の中を独りで歩く様子に気品があり、背筋が通ったような雰囲気でした。

ある時私の小屋に寄ってくれました。いつものように椅子をすすめ話します。
山に来たら、前歴や職業のことを聞くのは御法度です。ですから20年以上彼と交流がありましたが、何をしてきた人なのか一切分かりませんでした。
特に強く聞いた訳ではありませんが、彼が自分の前歴を話し出したのです。ニコニコしながら、「私は共産主義者でした」と静かに言います。
大正13年生まれ。都内の旧制中学、旧制高校を卒業後、山岳部のある北海道帝国大学へ進みます。中学時代から山岳部で登山をしていたので山岳部のある大学を選んだのです。
その北国の大学で共産主義に出合うのです。純粋で、ロマンチストの彼は乾いた紙が水を吸うようにすっかり共産主義を吸いこんでしまったのです。丁度、第二次世界大戦の始まった頃でしたので軍部独裁の風潮へ反発があったとも言います。
卒業後は代々木の本部で働きました。徳田球一さんや、野坂参三さんや、志賀義雄さんなどの部下として働いたのです。この3人の性格の違いを面白おかしくいろいろ話してくれました。
非国民として官憲に追われ、逃走する生活だったそうです。しかし彼は一度も捕まらずに逃げおおせたのです。
彼の学生時代は下宿生活でした。札幌で下宿していた家のお嬢さんと結婚します。娘が2人できました。
しかし官憲の取り締まりが奥さんの親族全てに及ぶのを見て、離婚を決意します。
戦前は「主義者」が親類に一人でも居ると一族が酷い目に会う時代だったのです。
思わず長話になってしまいました。

フッと気が付くと周りの林に夕闇がせまっています。足元が暗くなると危ないので、家内とともに彼を小川の渡り場の所まで送って行きました。
「またお会いしましょう!」と言って別れました。小川の向こうの雑木林の中に彼の後ろ姿が次第に小さくなって行きます。振り返って見ると、私の小屋へ帰る道だけがほの白く見えます。
2012年6月に、パンが好きだという彼に、家内が東京で買ったパンを届けたことがありました。彼は留守中でしたが、すぐ私達の小屋へお礼を言いに来ました。そして「ボケ」が進んできたので、間もなくお別れになるかも知れないと言います。
彼に会ったのはそれが最後になりました。
2012年の7月に山小屋へ行った時、彼の意識が混濁してしまったので救急車で病院に入ってしまったと近所の人から聞きました。その後、遠くの病院に行ってしまったのです。もう二度と会えません。
山に行くと時々、下の写真のように雨戸の閉まっている彼の家を何となく見に行きます。

103
彼は死んでしまった訳ではありません。ひょっとして意識が正常にもどり、このブログを見るかもしれません。
彼の心がなごむように2014年の4月8日に彼の山荘の近くから撮った甲斐駒岳の写真を下に一枚お送りします。大正13年生まれなので今年で90歳か91歳の筈です。
彼の意識が正常に戻るようにと祈りつつ、彼の思い出を懐かしんでいます。
Img_0364

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)