日中戦争から大東亜戦争が悲惨な敗戦で終わるまで400万人の日本人と数千万人のアジア人が戦争のために死んだのです。この間、日本の仏教やキリスト教の緒集団は大政翼賛会へ入会したり協力宣言をして軍部へ協力したのです。仏教の和尚さんであった竹中彰元 師は個人として反戦を貫いて7年も刑務所に入れられたのです。しかし竹中師の属する真宗大谷派は大政翼賛会へ協力していたので竹中師から布教師の資格をはく奪します。
一旦戦争が始まると、何故宗教団体は揃って戦争反対の政治運動をしないのでしょうか?
宗教集団の維持と拡大には政治権力へ協力しなければ、その宗教集団は組織として存続が難しくなります。従って政治権力へ反対する「反戦運動」をしないのが当然です。それが組織の持つ教義へたいする矛盾です。
話は貧困層の多い中南米へ飛びます。ある国で共産主義者とカトリックの神父が協力して革命を起こし貧富の差を無くそうとしました。革命は成功して、共産党政権が出来、その大臣として数名の司祭が任命されました。「(貧者の)解放の神学」に基ずく政治運動でした。これに対してバチカン本部は大臣になったカトリック神父の司祭職をはく奪したのです。バチカン本部の神学と解放の神学は相入れることが出来ないからです。一般的には組織の団結と維持のために処罰したと理解されています。
しかし仏教側にもキリスト教側にも「組織維持」の理由の他にもう一つの基本的な理由が厳然として存在しているのです。「人間の真の救済は政治権力を利用したり、近づいたりすると不可能になる」という理由です。宗教的真の救済は政治とは全く別問題で、人間のこの世の問題である政治とは断絶した世界にあるのです。イエス キリストの弟子たちはイエスがローマ軍を追い出してイスラエルをもう一度ユダヤの王国にしてくれると大変な誤解をします。それに対してイエスは私はこの世の政治的な闘争に来たのではない。皆様が永遠の命を得るための方法を教えに来たのです、と訓えます。ここが無宗教の方々にはなかなかご理解して頂けないポイントです。
私は平和を祈りますが、反戦デモには参加しません。(感情的には参加したいのですが)
大東亜戦争の間、大政翼賛会へ協力するのは とんでもなく間違った行動です。
全ての宗派は平和を静かに祈るのが良く、反戦運動をしたら、それは政治運動になる危険性があるのです。その事を軽く考えたとしたら、それは正しい宗教人の態度ではないのです。
全ての宗教団体は反戦も戦争協力もしないで別世界にとどまるべきだったのでしょう。
しかし、竹中師や解放の神学のカトリク神父たちは善人です。尊敬すべきです。宗派の維持・拡大の理由で弾圧すべきではありません。寛大な精神で放任するのが良かったと、私は信じています。
皆様は如何お考えでしょうか? (終わり)
この記事の挿絵として平和な花園の写真を一枚添えます。
随分前に60歳台前半で亡くなった中村さんとはいろいろな思い出があります。
下の写真のように淋しい道の左に小さい小屋がありました。松林の向こうには暮れかかる甲斐駒岳が見えています。
中村さんの小屋は質素で小さなものでしたが、亡くなってから息子さん夫婦が下の写真のような洒落た別荘にしました。しかしめったに来ないのでいつも静かです。
私は自分の小屋へ行くたびに、この前を通るのです。ですからよく中村さんのことを懐かしく思い出します。
彼は甲府盆地の東にある勝沼のブドウ栽培家でした。
彼の趣味は猟銃を担いで犬を連れ、深い、深い山奥を歩き回ることでした。
何日も泊まりながら山奥を独りで歩いていると別世界に来たようで、不思議な気分になるそうです。陶酔したような気分になるそうです。桃源郷に迷い込んだような幸せな気持ちになるそうです。
彼は鹿やイノシシを打ち獲ったことを一度も話しませんでした。猟には興味が無かったようです。猟銃と犬は熊に襲われたときのためだったのです。でも一度も遭遇しなかったので猟銃を撃ったことがないそうです。熊のほうが避けていたのです。
山奥に行くと想像も出来ない不思議な巨木があるそうです。そんな巨木を見つけるとその下にテントを張り泊まるそうです。
そんなことを目を輝かせて話していました。
そしてある時、バケツ一杯のブドウを持って来て、私に葡萄酒の醸造の仕方を教えると言うのです。それは実に面白い体験でした。
葡萄の実の皮に葡萄酒発酵酵母が自然についているので、実を洗わないで潰して数週間放置しておけば発酵して葡萄酒になると教えてくれました。至極簡単で誰にでも作れると言うのです。
そこで私も近所の葡萄栽培農家へ車を飛ばし、安い規格外の葡萄をバケツ3杯分買って来ました。それを大きな器に入れ、棒でグチャグチャに潰します。
中村さんはブドウの糖分だけではアルコール度は低くなるから砂糖を加えてから発酵させないさいと言います。
そこで砂糖をたっぷり加えて又バケツへ入れて小屋の中に入れて置きます。
1週間たったら、その後は必ず2、3日に一度は清潔なスプーンで味をみます。砂糖の甘さがあるうちはまだ発酵が十分進んでいないのです。味見を続けていると次第に甘さが消え、アルコール分に変化しワインが出来あがります。そしたら急いで紙で濾して、皮や果肉を取り除き、ワインの出来上がりです。それ以上放置を続けていると次第にアルコールが酢になってしまいます。
瓶に詰め、冷蔵庫で冷やして、ボージョレ・ヌーボーとして鮭の燻製やカマンベールとともに楽しみます。これこそ中村さんに教わった楽しみです。
もう一つ大切なことを教わりました。それは発酵中は瓶の栓をゆるくしておくということです。私はうっかりコルク栓をシッカリしてしまいました。ある夜、ポン!という盛大な音とともにコルク栓が天井まで飛び、赤い液体があたり一面飛び散りました。微生物の力はスゴイ!と家内と感心するばかりです。これも懐かしい思い出です。
自家製ワインの味ですか?それを聞かれると困るのです。とにかく美味しくないのです。ありていに言えば酔いますが、どうしようもない位不味いのです。使ったブドウが良くなかったのか、そして砂糖の分量を間違ったようです。一緒に食べた燻製とカマンベールの美味しかった事は今でも良く覚えています。
第一回の失敗の後、2度だけ挑戦してみました。甘さが残っているうちに濾してしまえばブドウの風味の残った甘口のワインになります。発酵を完全にして甘さを消してしまえばコクのある格調高い辛口のワインになる筈です。
しかし、どちらも失敗でした。砂糖の甘味の残っているうちに濾したワインはただ甘ったるいだけのブドウジュースへ焼酎を少し加えたような代物です。ワインという感じではありません。発酵を完全にしたものはアルコールは強いのですが酸っぱいのです。酢と焼酎を混ぜて水で薄めたような味がします。赤ワインは紫の色をしたブドウを使います。白ワインは薄い色のブドウを使います。私は3回とも紫色のブドウを使い、赤ワインを作りました。
この体験から得た結論は、「ワインは安いものでも買って飲んだ方が数段美味い!!!」でした。そこで売っているいろいろなワインの写真を下に示します。
そんな経験があるので、ワインを見るたびに中村さんのことを懐かしく思い出しています。彼も夢多い人でした。
それはそれとして、皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)