2011年の9月に、親友だった星清一郎君が急死した。あんなに元気だったヨットマンが突然消えてしまったのです。一緒に霞ヶ浦でヨットに乗ろうと準備をしている最中に訃報が届きました。あれから3年たった今でも、人生のむなしさがしみじみと身に迫ります。
仙台の大学で彼と机を並べたのが専門課程の1957 年と1958年。卒業と同時に彼は父が経営する精密鋳物会社の仕事をするために福島へ行ってしまいます。それから15年間くらいはお互いに多忙で会うこともありませんでした。ところがある時の同級会の折、彼がヨットの話をしていました。猪苗代湖で大きなキャビンのクルーザーでセイリングしているのです。
そして花春カップというクルーザーレースへ3回ほど招待してくれたのです。花春カップとは猪苗代湖のそばの大きな酒造会社、花春が主宰するレースなのです。
彼のヨットはヤマハ29という楽しい構造のクルーザーです。船体の真ん中の甲板に操縦席があります。その後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋があり、簡単な炊事用具がついています。船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が風波を立てている様子が眺められのです。
残雪の磐梯山を眺めながらの花春カップは終生忘れられない思い出になりました。
彼は猪苗代湖で私にヨットの趣味を始めるようにと言ったのです。
そこで、私は霞ヶ浦にクルーザーを係留し、ヨットの趣味を始めました。
そして彼を私の艇へ招待しました。一緒に仙台の大学時代の同級生も招待しました。7人が集まりました。
彼は福島から大きな荷物を背負ってやって来ました。
かなり激しいセイリングの後のパーティの時、彼がその大荷物を解き始めました。ぶ厚い断熱布の中から出てきたのはギンギンに冷えたシャンパン3本でした。その上よく冷えたシャンパングラスも、人数分の7個も出て来たのです。男ばかり7人のキャビンの中が途端に華やかになったものです。
こんなセイリングの会を4回ほどしました。何時も熱心な彼は福島から高級なシャンパンを担いでやって来るのです。
毎年秋になると私のヨットに来るので、彼は自分専用のデッキ・シューズを私の船に預けていました。
2011年の秋にもヨットに来てくれると思い、その白いデッキ・シューズを取り出して、すぐに履けるように並べて置きました。その次の週に、彼の急な病死の連絡があったのです。
彼は友情に篤く、素直な性格で実に気持ちの良い男でした。
私は彼の死後にヨットを処分して、25年続いたヨットの趣味を一切止めました。75歳になって体力が落ちたので止めようと考えていたのです。しかしヨットの趣味を教えてくれた星野君が旅立ったので何故か未練も無く、止めることができました。
それは不思議な心の動きです。星野君があの世へ私のヨットに乗って行ったような感じです。それは2011年の10月のことでした。
それ以来、私はヨットには一切触ったことがありません。完全に縁が切れたのです。
ところが丸2年経過したとき、繁田慎吾さんという方と中村文政さんという方が霞ヶ浦にそれぞれ係留しているご自分の美艇へ私を招んでくれたのです。
昨年の11月から今年の1月にかけて3回も懐かしいヨットの体験をさせてくれたのです。胸躍るようなセイリングでした。忘れていたヨットの楽しさが体中によみがえりました。
考えてみると実に不思議な感じがします。
この2人とは全くの他人で、仕事の上でお付き合いをしたことも一切無いのです。
私は繁田さんと中村さの役に立つことは何もしませんでした。
しかしお二人は全く純粋な善意だけで招待してくれたのです。
セイリング後はキャビンの中で心暖まる昼食を供してくれたのです。
魔法瓶につめたコーヒーやほうじ茶をカップに注ぎ、奥様の作った玉子焼きやおかずも出して下さいました。
老人になってしまって、もうヨットの帆走も出来なくなった私に、もう一度その楽しさを味わってもらいたいという善意なのです。
感動的な体験です。奇跡のような体験でした。ヨットを止めてしまった私を憐れんで霞ヶ浦に住んでいる神様がさせてくれた体験のようです。
人生ははかなさと喜びが混じり合った不思議なものです。
繁田さんと中村さんと一緒にセイリングをしながら、私は2年前に旅立った星野君の冥福を祈っていました。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
下に関連の写真を示します。
始めの2枚は最後に星野君と一緒にセイリングした2010年10月27日に撮った霞ヶ浦の写真です。
3枚目の写真は昨年の11月の中村さんの栃木さくら号の帆走中の写真です。
4枚目の写真は繁田さんの美艇の写真です。
5枚目の写真は繁田さんの艇の上で撮った中村さん(左)と繁田さん(右)の写真です。
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