後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

縄文時代の体験・・・焚火と水と小屋そして漆黒の闇夜

2014年04月18日 | 日記・エッセイ・コラム

人はそれぞれいろいろな趣味を持っています。

私が1973年に始めて、もう41年も続いている趣味は甲斐駒岳の麓の山林の中の小屋へ通うことです。一泊したり二泊もします。

そして新鮮な山林の空気を楽しみます。

時々は向かい側の八ヶ岳の南麓に沢山住んでいた縄文時代の人々のことを想像します。今から約1万6,500年前から約3,000年前の時代のことです。

その時代は掘立小屋で火を焚いて、土鍋で木の実やイノシシの肉を煮て食べていました。水は谷川の流れを使いました。

それで私が選んだ土地には下の写真のように年中枯れない清流が流れています。この水を汲んで生活に使います。飲み水が必要な時は沸騰してから使います。

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この庭には煉瓦を積んだだけの焚火用の炉があります。下の写真は家内と孫が落ち葉焚きをしている光景です。

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縄文時代を実感するのは日が暮れて周囲の山林に漆黒の闇が覆う夕暮れ時です。下がその夕暮れの山林の光景です。

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真っ暗になると小屋の中に逃げ込みます。小屋は残念ながら掘立小屋ではなく下の写真のようなな2部屋の鉄筋コンクリート造りです。

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この小屋の中では焚火は出来ませんから下の写真のような一番質素な薪ストーブを焚きます。

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縄文時代と違うことは電燈があることです。しかし下の町の肉屋さんが鹿肉やイノシシ肉を売っています。ある時、イノシシ肉 と野菜の煮物を薪ストーブの上でクツクツと煮ながらビールを飲みました。縄文時代は塩だけだったので塩味だけにしました。

そうすると縄文時代の人になったようです。ビールと電燈はいけませんが何となく縄文人になったような気分になるのです。

でも本当のことを言うと鹿肉もイノシシ肉も不味いのです。堅過ぎて、そして獣肉としての臭みがあるのです。やっぱり黒毛和牛や国産の豚肉のほうが圧倒的に美味しいのです。しかし獣肉としての臭みが縄文時代を再現してくれるのです。

この小屋には電気だけはありますが、水道もガスも来ていません。縄文時代にかなり似た生活が出来るのです。

数年前まではトイレも縄文時代でした。しかしそれが苦労なので水洗便器をホームセンターから買ってきて、自分で設置したのです。

水道が無いので壁の高いところに水槽を固定しました。それに庭の小川の水を入れて、完璧な水洗トイレにしました。

縄文時代の人々は春から秋までは毎日、毎日、木の実を採集したり、獣を狩っていたはずです。

しかしそれも下のように雪の積もる冬は無理です。どのようにして冬を食いつないだのでしょうか?

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現代人の私は食糧に関しては、下の町のスーパーに買い物に下りて行きます。そして文明の有難さをしみじみと味わうのです。

こんな変な趣味をもう41年も続けています。

しかしまだ飽きません。まだまだ続けるつもりです。


小保方論文騒動の再考・・・和を重視する日本社会は科学研究には向いていない!

2014年04月18日 | 日記・エッセイ・コラム

最近の理研の小保方論文の騒動のニュースを見ていると、つくずく日本社会は科学研究には向いていないという事実に驚嘆しています。

ノーベル賞をもらった大部分の日本人は、アメリカなどの海外の大学で研究成果を挙げている事実を見れば明白です。

日本の社会環境は独創的な科学研究には向いていないのです。その事実を私は非難する気持ちは毛頭ありません。そんな社会には欧米社会に無い良さががあるからです。しかし欧米社会との相違を認識して置くことが重要だと信じています。

そこで、今日は、日本社会が科学研究に向いていない理由を3つほど挙げてご説明したいと思ます。

まず簡単に3つの理由を記します。アメリカでの研究経験と日本での研究経験を有する小生の個人的見解です。

(1)和をもって尊しとなす社会では科学的ディスカッションを嫌います。独創的な発想が生まれにくい社会です。

(2)研究費獲得に自由競争の原理が働いていないのです。

(3)独創的な研究者を育て管理する「研究の管理者」が欠落している社会なのです。

いきなり上のように個条書きに3つ並べても分かり難いと思います。下に少し説明を致します。

(1)日本では科学的ディスカッションは指導教官とその学生の間でしか許されません。

公開の学会発表の席でディスカッションをすると直ぐに感情的な対立になってしまうのです。小生も他の大学の研究発表に質問をよくしました。すると質問された人は感情的に怒り出すのです。そして偉い先生が後でコッソリ私に注意してくれるのです。「質問はケチをつけれたと思う人が多いからほどほどにしないさい」と。

アメリカでは質問すると喜ばれるのです。内心は不愉快に思う場合があっても、「これは良い質問だ!」と返すのです。するとその一言で本人も冷静になれるのです。もちろん質問する場合には、まず相手の研究の良い点を必ず褒めます。それから疑問点や弱点を聞くのです。このようなディスカッションのルールとそれを支える文化が日本には無いのです。

小保方論文騒動で筆頭共著者の笹井芳樹氏が直属の部下でない小保方さんとディスカッションをすると失礼になると思い、それをしなかったと明言しているのです。あかの他人へ質問したりディスカッションをすると失礼になると笹井芳樹氏が信じていたのです。科学研究に適さない文化を背負っていたのです。

(2)日本の国立大学と国立研究所の研究費は文部科学省から毎年、自動的に支払われます。国民の支払う税金から支払われているのです。

旧帝国大学や理研や天文台などの古い伝統のある研究機関では毎年ほぼ同じだけの研究予算がつきます。その他、早稲田大学や慶応大学のような研究実績のある私立大学へはかなりの研究予算が支払われます。

研究者個人がいくら独創的な研究をしても次年度に急に研究予算が増大する仕組みになっていません。日本では研究費は組織に支払うものであって研究者個人に支払うようにはなっていません。

これと対称的なのはアメリカの大学の研究費です。研究者個人が空軍の研究所やいろいろな研究費支援団体へ営業活動をして研究費を獲得しなければなりません。個人的営業活動なので自由競争の原理が働くのです。

営業活動では科学者でない経営者へ分かりやすく自分の研究の価値を説明しなければいけません。素人へ分かりやすく説明するのが営業活動の成否を分けるのです。

(3)日本では「研究の管理者」がいない社会なのです。

研究費を個人が獲得するアメリカ社会ではその研究の価値を判断し、予算を通うして研究を管理する組織と人材が厳然として存在しているのです。

かれらを研究のDirector と言います。研究者はDirector に服従しています。

ところが日本では研究者が一番偉くて、その研究者の死活を左右する組織も人材もいないのです。

何処でも研究者はとかく マニアックになりがちです。社会へ貢献しない方向へ走りがちです。これを予算のことでコントロールするのが研究のDirector 達なのです。日本には無い文化です。

その他にも日本社会が科学研究に向いていない原因がいろいろありますが、今日はこの位で止めておきます。

それはれはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。

後藤和弘(藤山杜人)

===それでも私はこの美しい日本が大好きです============

日本には四季折々の美しい風景がどこにでも広がっています。山紫水明なのです。

下の2枚の写真はその一例に過ぎません。小生の山林の中の小屋の近所から撮った甲斐駒岳の風景写真です。

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