後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日は江戸初期に作られた玉川上水沿いの新緑の遊歩道を歩きました

2014年04月28日 | 写真

小平市の運動公園には広い無料駐車場があります。今日はそこから立川の小川橋の近くまで往復6Kmの遊歩道を散歩して来ました。

2月の大雪の時、甲斐駒岳山麓の山林のい中で転んで足を捻挫して、2ケ月間、針灸按摩整骨院に通いやっと完治しました。老齢になると怪我の直りも遅くなるのです。

今日は怪我以来、はいじめて6Kmという長距離を歩きとうしました。

別に足も痛くならないで爽快な散歩でした。

江戸幕府の残した遺産の上水のおかげで新緑の綺麗な道が羽村の堰まで続いているのです。江戸時代に工事をした多くの人々に感謝しながら歩いてきました。

道の上には下の写真のような新緑の枝が重なるように覆っていました。

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===玉川上水とは?==================

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上の写真と以下の説明の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4です。

玉川上水(たまがわじょうすい)は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水であり、江戸の六上水の一つである。また、一部区間は、現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されている。

羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)に付設された「水番所」(水番屋)を経て市中へと分配されていた。水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道であったが、羽村から大木戸までの約43キロメートルはすべて露天掘りであった。羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もそれぞれ武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれている。

『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中で川越藩の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀6000両が拠出された。

幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされるが、1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もある。

羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めた。・・・以下省略・・・・・


夢多き人々の旅立ち(3)手織り布のロマンを追い25年アジアに住んだひかるのさん

2014年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム

手織り布とその天然染色のロマンを求めてアジアを彷徨い、東京で蒐集した布の展覧会を開いていました。

そのことを彼のブログで知り、何度か展覧会に行き彼と親しくなりました。

しかしその後突然、2009年の12月に肺ガンになり2010年5月に東京の厚生年金病院で亡くなりました。

50歳くらいの短い一生でした。櫻が散るように短い一生を終えたのです。彼とは2年間位だけの淡い交際でした。

彼はタイのバンコックで貧しい一人のストリート・チルドレンを引き取り、育て上げ、息子としていました。

肺ガンになり、苦しい中でカトマンズとバンコックの家の整理をし、世話になった家主へ別れを告げました。お世話になったカトマンズの家主へ丁寧な感謝の言葉を残して永遠の別れをしたのです。

そしてタイの息子と永遠の別れをするのです。

その悲しみは彼のブログに書いてあるのです。

そのブログは「インド ブータン アジアの布 染織美術館(http://asiancloth.blog69.fc2.com/)」といい彼の死後3年経ちましたが現在でも見ることが出来ます。

このブログには、インドやネパールに25年以上棲みついた間に撮影した写真が沢山掲載してありました。 

アジアの人々の貧しさの中にも見え隠れする優しさや美しい情感が写し出されている写真が多かったがのです。

そんな写真に感動して、このブログで彼の撮った写真を何度もご紹介したものです。下にその一例として彼が最後に撮った写真を示します。

それにしてもアジア諸国を放浪するようにして転々と住んでいた彼にもタイの男の子の養子が1人いたことに少しばかり心が和みます。以下に最後のこの息子との新年会の彼のブログから記事を転載します。どうぞお一読して上げて下さい。

====息子との最後の外食========================

バンコク 正月2日目は 飲茶を食べて(投稿日:2010-01-06 Wed)
正月2日目は夕方から息子と二人で新年会を行うことにした。約束の時間は夕方の5時である。時間通りに 息子は5時にやってくる。いつもであれば、二人で市場やスーパーに行き、食べたい食材を買ってきて、作って食べるのであるが、今回は私の状態が こんな具合なので外で食べることにした。ペッブリー通りに並んでいる屋台で イサン料理でもと思ったが、私の病気のことを心配しているのか、刺激のある食べ物は避け、大型スーパー ロータスの1階にある飲茶を安く出すチェーン店 カントンハウスで食べることに決めた。最近になって利用するようになった店で、値段が安いわりには そこそこには美味しい店である。いつもは昼間に行っていたが、今回は夕方過ぎに行ってみた。昼間には空いている店も 夕方からは 家族連れで溢れている。いわゆるバンコク庶民というより、バンコクの中産階級の家族連れのようだ。家族4,5人でやって来て、ビールを飲まなければ、4,5百バーツ(千3百円前後)で十分に食事が楽しめる場所である。たまに家族連れでやって来て 外食を楽しむには安心できる予算だ。飲茶だけでなく、野菜料理や魚料理、麺類、チャーハンなども安い。飲茶類は 一皿 15バーツ均一、簡単な野菜中心の中華料理であれば、一人前50バーツ、チャーハン、焼きそばなども50バーツという安さである。体長30cm近いシーバスの揚げ物、煮物、蒸し物も2百バーツである。そんな料理を注文して タイ人の家族連れが 食事を楽しんでいる。 顔つきを見ると 中国系の人たちが多い。
 自営業をやっている人たちだろう。一緒にやって来ている年寄りの女性を見ると、服装も顔つきも完全な中国人だ。中国系の人たちは 安くて美味しい店をよく知っている。中華街の中華レストランで食事をすれば、眼が飛び出るような値段の料理もこのカントンハウスでは その半分いかの値段で料理を楽しむことが出来る。
私たちも 17種類の飲茶、焼きそば、ビール2本を注文して 新年会を始めた。タイの有名なシンハービールの大瓶が80バーツ、これも安い。近ごろは 路上の屋台でシンハービールを頼んでも 70,80バーツするようになっている。冷房付きのこの場所では 十分に安い値段である。これだけ注文して 465バーツ 約1300円である。税金もサービス料もつかないところが嬉しい。 ビールを飲まなければ、7,800円で飲茶を楽しむことが出来る。超一流の店の飲茶は それなりに美味しいだろうが、私たちにはこれで十分である。1時間ばかりの息子との新年会、腹を一杯にして 息子は自分のアパートへ帰って行った。お金が無いから 十分にお年玉を与えることは出来ないが、それでも心ばかりのお年玉を持たせた。
 彼も1月4日から仕事始めである。
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