私は仏教や神道やキリスト教を趣味のようにしていろいろ調べるのが好きです。中国の道教や日本の妙見信仰や庚申塚信仰にも興味があります。
このようにいろいろな時代の種々の信仰を見ていると人々の希望や悲しみが少し理解出来ます。外国旅行をした折にも必ず各地の教会や墓地を訪ねます。
そうすると外国人も日本人も喜びも悲しみも共通していることを確信します。
その結果、私は外国人も日本人も少し差別しないようになりました。
これも宗教を趣味にした結果です。平穏な気持ちになります。
しかし日本の宗教関連の本を数多く見ると日本人はどうもキリスト教が好きでないようです。
どうも多くの日本人は仏教が好きでキリスト教が嫌いなのです。仏教は平和的で良いがキリスト教は戦闘的、攻撃的であり悪い宗教ですと思っているのです。
そうかも知れません。反論しません。ただ以下に私の体験を書いてみたいと思います。
私は1971年に、35歳の時、カトリックの洗礼を受けました。それ以来カトリックは私の重要な趣味になったのです。
しかし自分の趣味は宣伝しないほうが良いと思っています。
一昨日、箱根の彫刻の森美術館に行ったら舟越保武の少女像の彫刻があったので長崎にある彫刻を思い出したのです。
舟越保武の長崎にある26聖人の像の写真を下に示します。
脱線してしまいましたが、今日の主題のキリスト教は悪い宗教という問題に戻ります。
35歳から78歳の現在までのカトリックの体験から言ってある宗教は良くて、ある宗教は悪いという理解は根本的に間違っています。宗教には優劣が絶対に無いのです。これが私の体験的事実です。
私自身は祖父が曹洞宗のお寺の住職だったので一緒にお経も読みました。大人になってからは般若心経や観音経の勉強もしました。ですから私は佛教的キリスト教徒なのです。仏教の良さも理解している心算です。
その経験から言えることは宗教には良い宗教も、悪い宗教も無いのです。
しかし信じて居るその人が悪人か善人かの違いがあるのです。悪人が自分の宗教を自分の欲望のために利用するのです。そうするとその悪人が利用した宗教が悪い宗教となるのです。それだけの事です。
キリスト教を作ったイエス様は汝の敵を愛せと教えました。また仇は7の7たび、許せと教えました。罰は神が下すもので人間が他人を罰してはいけないとも教えました。
しかし中世にキリスト教の聖職者が堕落して魔女裁判をし、何十万人の人々を火あぶりにしました。
そして近代には欧米人は数多くの植民地を作り、その土地の富を収奪したのです。人権蹂躙は当たり前でした。
その事をイエス様は悲しんでいます。そんな事をした神父やその欧米人はイエス様とは何のかかわりも無い人なのです。不信者なのです。
一方、お釈迦さまはすべての生き物を殺す事を禁じました。殺生を禁じたのです。それは人間にとって一番重要な教えです。虫や魚も、まして他人も殺してはいけないのです。
実に平和的な教えです。ところが歴史的に考えると仏教の信仰国のタイ、ミャンマー、ベトナムのようなアジアの諸国の王朝の間では戦争が絶えなかったのです。戦争に参加した人々はお釈迦さまの殺生を禁じる教えを踏みにじっていたのです。彼等は仏教徒とは言えないのです。
日本の戦国時代も同じことです。当時の日本は敬虔な佛教国でした。それにも拘わらず、地方地方の武装集団がお互いに血を血で洗うような殺戮を繰り返していたのです。
仏教が善くて、キリスト教が悪いと言う議論には好戦的、戦闘的な悪意が潜んでいるのです。それを主張する人の心情が戦闘的なのです。
その事に気がつかないで外国人が悪で、日本人が善だと考えることが戦争の種になるのです。
自分がどの宗教が好きかと考え、それを他言しないのは善です。しかし、もし貴方がどの宗教が良いか、悪いかと考えだしたら、それこそが危険信号です。
宗教の優劣を論ずることで、イエス様の教えを、そしてお釈迦さまの教えを踏みにじることになります。
争いの火種になるのです。現在起きているイスラム教徒やキリスト教徒と自称する人々の間の争いや戦争は、宗教に関係の無い人々がしているのいです。
イスラム教にもキリスト教にも何の関係も無い人々が己の欲望に負けて争っているのです。日本人も全く同じです。自分だけが偉いと思う心が争いの種になります。人間とは儚くて、愚かな存在なのですね。
そんなことを考えながら一昨日、彫刻の森美術館を散歩して来ました。下にピカソ館のそばにあるステンドグラスの写真と出口に近いところにある人間の群像の彫刻を示します。挿絵として示すので特に深い意味はありません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
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