後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日は調布市布田天神と常行院を散策して来ました

2014年04月19日 | 写真

今日は古いお寺や神社を散策したくなりました。そこで927年には存在していた布田天神とその隣の常行院大正寺の江戸時代の古風な庭と観音堂にお参りして来ました。

静かで深い和の文化を楽しんで来ました。

その折に撮った下の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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布田天神とは:http://www.fudatenjin.or.jp/about/index.html

布多天神社の創建はあまりに古く定かではありませんが、延長五年(927年)に制定された「延喜式」という法典にその名を連ねる、多摩地方有数の古社で、社伝によれば第11代垂仁天皇の御代約1940年前の創建といわれております。

文明九年(1477年)に多摩川の洪水をさけ、古天神というところより現在地へ遷座され、その時に、御祭神、少彦名命(すくなひこなのみこと)に菅原道真公を配祀されました。

江戸時代に甲州街道が作られ、上石原、下石原、上布田、下布田、国領の五宿ができ、布田五宿と呼ばれました。
当時、布多天神社は布田五宿の総鎮守であり、五宿天神と崇め祀られておりました。

そして布田五宿は、明治二十二年に飛田給、上ヶ給と合併して調布町となり、当社は調布町総鎮守となりました。

三栄山常行院大正寺とは:http://www.chofu-7fukujin.com/ebisushin/

開山は奈良時代と言われている。古くは上布田宿境にあった三栄山不動院寿福寺、下布田の紫雲山寶性寺、上布田の広福山常行院栄法寺の三寺を大正四年に合併し、開山時の年号に因み、三栄山常行院大正寺として創設された。栄法寺は、明治初年、神仏分離のときまで布田天神の別当であった。本堂は(旧)山門とともに栄法寺より移築せるものにして文政十年の建築である。


救助された教頭が自殺・・・私は韓国人を尊敬する

2014年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム

韓国客船の沈没での犠牲者は476人中、死者、29人、行方不明270人で、救助者は174人でした。

操舵を指揮していた25歳の女性三等航海士が急旋回すれば積荷が崩れるとという基本的なことを忘れていたのが原因のようです。

積荷の状態を想像もしないという狭い考えで操船したのですから横転し、沈没するのは当然です。

私は小型船舶を操舵した経験があるのでこの三等航海士の愚かさに強いいきどおりを感じています。 下に横転した客船の写真を示します。

(写真の出典は、http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000025213.htmlです。)

この大きな悲劇のなかで、もう一つ深い悲しみを感じさせることが起きたのです。

高校生を引率していて、自分だけ救助された教頭先生が首つり自殺をしたのです。その遺書をお読みください。

「200人以上の生徒の生死が不明なので、一人で生きるにはつらすぎる。この身を燃やして沈没地点にまいてほしい。あの世でも見つかっていない子供たちの先生になるか」

自殺した先生はソウル近郊の檀園高等学校の50歳台前半の教頭先生だったそうです。名前は報道されていません。

自殺は悪いことです。しかし私はこの先生の生徒に対する強い愛情と責任を感じています。涙がにじみ出ます。このように強い師弟愛が 脈々と流れている韓国の文化に感銘を受けています。

昔の日本にも生徒の命を救おうとして死んでしまった訓導(先生のこと)がいました。

悲しくも美しい東洋の文化です。私は韓国人を尊敬いたします。

この教頭先生と200人の生徒のために韓国人の好きな桃の花の写真をお供えします。

そして皆様と一緒にご冥福をお祈りしたいと思っています。合掌。後藤和弘

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===自殺した教頭先生に関する報道===============

【珍島聯合ニュース】修学旅行中の高校生を多数乗せた旅客船が韓国南西部の全羅南道・珍島沖で16日午前に沈没した事故で、引率として同船に乗船していて救助されたソウル郊外安山市の檀園高校の教頭が首をつって死亡しているのが確認された。

 18日午後4時5分ごろ、行方不明者の家族が待機している全羅南道珍島郡の室内体育館近くの木で教頭が首をつって死んでいるのを、同氏を捜索中だった警察が発見した。

 警察は、教頭の姿が17日午後9時50分から見あたらないとの連絡を18日午前1時ごろに受け、周辺を捜索していた。現場から遺書は発見されていない。

 生徒や他の教員らとともに引率の責任者として修学旅行に参加していた教頭は、旅客船から救助された後、「私だけが救助された」と自らを責めている姿が見られたという。

 教頭は16日、海洋警察庁から救助状況などに関して参考人として調べを受けていたことが分かった。

 警察は現場の状況などから、旅客船沈没事故で多数の生徒の安否が分かっていないことに対し、教頭が責任を感じて自殺したものとみて、正確な経緯を調査している。