人間は老境に至ると考え方が驚くほど変わるようです。もちろん死ぬまで変わらない人もいますが、一般的には考え方が変わるのが自然です。
私は自分の老境を3つの時期に分けています。初期高齢者と後期高齢者と晩期高齢者の3期です。
まだ私は78歳ですが、そろそろ晩期高齢者になりつつあると自覚しています。
今朝はその証拠を2つ、3つ書いてみます。
後期高齢者の始めの頃は、原子力発電の危険性をいろいろな視点から詳細に書いてきました。そして日本のように狭い国では原発を止めて、火力発電、水力発電、風力発電、太陽光発電にすべきと主張してきました。
そして慰安婦問題では朝日新聞の誤報を厳しく糾弾しながら、一方で日本が朝鮮を併合した負の遺産をいろいろな角度から書いてきました。
とにかく原発問題も慰安婦騒ぎも自分の身近かの大問題だったのです。
しかし最近はそのような問題は遠い風景を見ている感じになってきました。
夏の夜に遠方で見える打ち上げ花火の風景のように見えます。遠い夜空に美しい花が咲いて、暫くしてからドンと音が聞こえてくるのです。
どんな大問題も目くじら立てて議論したり嘆いたりしなくなったのです。
そうして、全ての問題は、現在の若い世代の賢さを信じ、彼等に任せるべきだと思うようになりました。
こういう境地を悠々自適の境地と言うのかも知れません。
このようになると、自分でも驚くほど、自然の営みに関心が強くなります。
例えば下の3枚の写真は昨日撮った自然の営みの写真です。
上は夕暮れ近い小金井公園の風景です。こんな何でもない風景が限り無く美しく感じるようになります。晩夏光、蝉しぐれ、新涼・・・などの懐かしい言葉が浮かんできます。
そして上はその公園に咲いていた小さな花です。その繊細さが感動的な花です。
家内と一緒に散歩しながら、このような平和そのもののような風景に私は溶け込んでしまいます。すると原発問題も慰安婦騒ぎも遠い、遠いある国の風景のように思えるのです。
そして家に帰り、夜は仲秋後の満月を眺め、昔読んだ「かぐや姫」の物語を思い出して楽しみました。下がその時撮った満月の写真です。
それはそれとして、老境にある人々にも子孫のために安全な日本を残すべきと主張する人も沢山います。彼等はまだ初期高齢者か後期高齢者であって、まだ晩期高齢者ではないのです。
それはそれで大変良いことです。
死ぬ最後の日まで政治問題や社会問題を身近に感じ、喧々諤々の議論をしている人も立派です。そいう方々は青春の心のまま死ぬのです。それも良いものですね。
人それぞれ、どちらでも良いのです。どちらにしても私にとっては遠い夜空に咲く花火のような風景に感じられます。
このように老境になると考え方が驚くほど変わるのです。その様子を「老境になると人間は驚異的に変わる」という題の連載記事として書いて行きたいと思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)