老境の悲しみは親兄弟、親戚、恩人、友人が一人、また一人と旅立って行くことです。
親兄弟や恩人、仕事仲間など我が人生を大きく支えてくれた人々との惜別は悲しみも深く、そして感謝の気持ちが豊かに湧いてきます。
そしてその一方、人生の余暇に一緒に遊んだ友人たちのたちとの別れには、そこはかとない悲しみを感じるものです。それは淡い水色のような悲しみです。
そんな友人たちの思い出を少し書いてみたいと思います。山梨県の別荘地で一緒に遊んだ人々の思い出です。
その別荘地の25人くらいのメンバーで40年ほど前に「柳沢清流園管理組合」というものを作りました。毎年、夏に総会と懇親会をして来ました。
その清流園のある場所は下の甲斐駒岳の手前の深い森の中です。
この別荘地ではいろいろな人と知り合いました。大工さん、庭師、会計士、会社員、ブドウ栽培家、不動産業者、そして共産党員などなどです。
大工さんの中川さんはこの地に独りで住み着いていました。別荘を10軒も建て、井戸も掘り 、小型ブルドーザーで悪路も補修して清流園の維持に大きな貢献をした人でした。
何度も彼の家に上がり込み他愛のない話をしました。彼はたまにしか人に会えないのでいろいろな話をたて続けに話していました。
小さな別荘を作るときの苦心談が主な話題でした。彼はロマンチストだったらしく作る別荘には必ず小さなベランダのついた屋根裏部屋があるのです。露天風呂をつけた家も建てました。
新築の別荘に入れてくれて説明してくれます。2階の屋根裏部屋のベランダに出ると森の梢の上に甲斐駒岳が透けて見えるのです。八ヶ岳も少しだけ見えます。下に、別荘地の傍の牧草地から見た八ヶ岳の写真を示します。
中川さんは自分の別荘の庭に大きな池を作り、鱒を飼っていました。その鱒を何度か頂いてきてムニエルにしてビールを飲んだものです。
昨年の春に会った時は、「娘が旦那と一緒にこちらに引っ越して来る」と言って、楽しみにしていました。奥さんが早く亡くなったので、娘の自慢話を何度していたものです。その中川さんが昨年の春先に旅立ってしまったのです。
その後の田植えの頃、私は清流園に遊びに行って彼の訃報を知りました。
下に田植えの頃の、清流園への道の入口の写真を示します。
この清流園では、もと代々木の共産党本部で働いていた追平 さんとも知り合いました。一人で住んでいて、よく散歩をする人でした。私の庭にも何度も寄ってくれて話し込んで行きました。北海道帝国大学を出た人で、卒業後から一生、共産党本部で働いていた人です。
徳田球一さんや野坂参三さんの人間的な側面を話してくれたときは大変面白かったものです。彼は都会育ちなのでパンが好きで近所に美味しいパン屋が無いとこぼしていたものです。 家内が東京の美味しいパンを届けたら満面笑顔になりました。彼も何処か行ってしまってもう4年くらにになります。懐かしい人です。
懐かしいと言えば勝沼のブドウ農家だった中村さんも面白い人でした。狩猟が趣味で犬と共に奥深い山々に何日間も入ってイノシシや鹿を撃つそうです。しかしあまり命中しないと言います。獲物の話より山奥で野営する苦労話は面白かったのです。
その彼からブドウ酒の密造方法を教わったのです。まず多量の規格外のブドウを勝沼から買ってくるのです。それを潰して、砂糖を加えて、広口ビンに入れて数週間発酵させます。時々、味見をし甘味がアルコールになったら完成です。新聞紙で濾して葡萄酒の完成です。直ぐに飲まないと発酵が進み酢になってしまいます。
密造ですから官憲の取り締まりは無いのですかと聞きました。するとブドウの産地の勝沼では皆が自家用に作っているので、時々取締りがあるそうです。しかし取締り日は近所の人が皆知っているので見つからないと言ってました。
別荘地にも官憲が来ますかと聞いたら、こんな悪路の奥までは来ないと笑っています。その悪路の写真を下に示します。
この中村さんは60歳を過ぎてすぐに亡くなりました。旅立ってからもう15年くらいになります。
こうして柳沢清流園の人々は一人去り、また一人旅立ってしまい創立当時のメンバーは庭師の谷崎さんと私達だけになってしまいました。
しかし別荘の持ち主の二代目がメンバーになって今年の夏の懇親会には三代目の子供も含めて25人も集まりました。
別荘地の風景は年年歳歳同じようですが、人々は変わって行きます。
気がついてみると、昔一緒に遊んだ人々がみな消えてしまいました。淋しくなりました。老境の悲しみです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)