老境になると自分の国の言葉や文化の源が何処なのかが気になりだすものです。
私も素人勉強でその謎に挑戦しています。
大雑把に言えばアイヌと朝鮮と中国と南方系の民族がそれぞれの文化を背負って日本列島にやって来て日本人を作り、日本文化を作ったことは間違いないと思います。
しかしそれぞれの影響は時代、時代によって非常に違う筈です。そんな思いで今日も日本の古墳時代のことを検索しながら読んでいました。
そうしたら3世紀kら6世紀にかけての古墳時代は圧倒的に朝鮮半島の影響を受けていたことが分かりました。
その研究結果は、http://web.joumon.jp.net/blog/2009/01/688.html に掲載されています。
この文献は公平な歴史観にもとずいた明快な説明なので、是非皆様へもお薦めしたいと存じます。
その趣旨は、現在の日本語にも韓国・慶尚道の方言の影響を深く受けているという主張です。
そして3世紀から6世紀ころの日本の古墳文化の源はこの慶尚道にあった伽耶(加羅)であった証拠を並べているのです。
私も埼玉県の巨大古墳群を何度も見学しましが出土品の馬具、剣や装身具があまりにも慶州の古墳と酷似しているので古墳文化の源はこの慶尚道にあったという説明に強く賛同しています。
それでは以下に、http://web.joumon.jp.net/blog/2009/01/688.html からの抜粋文をご紹介いたします。
・・・・私には、日本語と韓国語をかたっぱしから比較していくなかで、漠然とはしているけれどもわかってきたこがあった。それは、まだ確信には至らなかったが、「ああ、日本語というのは韓国・慶尚道の方言なんだ」ということである。ひとつひとつの言葉を対象してみると、「どうも、これは慶尚道の方言だなあ」という思いが強くなったのである。
慶尚道とは現在の朝鮮半島の東南部一体を指すのだが、この地方の方言は韓国のなかでも非常に特殊なことで有名で、実は、この特徴が日本語の特色に非常に似ていることに気づいたのである。
たとえば、韓国語のなかでも慶尚道の方言は非常に省略が多いことで有名である。現代の韓国語で「ハンダヘド」という言葉がある。ところが、これを慶尚道では、「ハン」をとってしまって、「タヘド」と言ってしまう。もっと省略するときには「ハンダ」まで省略し、さらに「ヘド」もH→Kの音韻変化をきたして、「ケド」と言う。こういう言い方は慶尚道以外ではしない。韓国広しといえども、「ハンダヘド」を「ケド」などというのは慶尚道だけなのだ。それくらい省略するのである。
ここまで言えば、もうお気づきのことと思う。この「ハンダヘド」の慶尚道方言は、そのまま日本語の「けど、だけど」となるのである。
もっとわかりやすい例をあげよう。韓国語の命令語に「ハセヨ」、「ハシヨ」、「ハシラ」、「ハセ」というものがある。慶尚道方言の最大の特色は「ハ」音の脱落である、ということをもう一度思い起こしてほしい。これから「ハ」音をはずすとどうなるだろうか。それらは「セヨ」、「シヨ」、「シロ」、「セ」という日本語の命令形語尾になるではないか。
・・・このような事例が他にも重なって、私は「日本語というものは慶尚道の方言だ」という確信をもつようになったのである。
下は現在の韓国の地図です。
慶尚道とは慶尚北道と慶尚南道を合わせた地域で、とくに慶尚南道を中心とする地域は3世紀~6世紀に「伽耶」と呼ばれていた地域です。その時代は、まさに日本の支配民族が渡来した時期であることを考えると、日本へ渡来した人々や文化の中には「伽耶(加羅)」の要素がその言語とともに色濃く浸透している可能性があるということです。
(5世紀頃の朝鮮半島)
・・・中略・・・・
澤田洋太郎氏は「伽耶は日本のルーツ」(93年)の中で、考古学的視点から以下の根拠により日本人の原郷を伽耶地方だとしています。
弥生時代の北九州地方と伽耶地方の遺跡や発掘品を比較すると、 双方非常によく似ていて、若干、北九州の方が新しい。
環濠集落や銅剣、鏡、管玉の意匠が、そっくりであること。
双方で、そっくりの馬よろいが発見され、騎馬民族系譜であること。
墓制がそっくりで、石槨はあるが、棺はないという騎馬民族の特徴があること。
この騎馬民族的特長は、百済や新羅にはないこと。・・・・後略
以下の詳細は、http://web.joumon.jp.net/blog/2009/01/688.html ご覧をになって下さい。
このように朝鮮半島南部の文化が日本文化へ大きな影響を与えた時代がまぎれもなく存在していたのです。
しかし大和朝廷が確立し、中国大陸ヘ直接、遣隋使や遣唐使を何度も送るようになると都の道路が長安に習って碁盤の目ように整然とし、租庸調の税制も唐から直輸入するようになったのです。従って藤原京以後の日本文化は中国大陸がその源とするようになったのです。
江戸時代になりオランダの南蛮文化やキリシタン文化は入って来るようになりました。しかし依然として中国大陸の文化が尊重されていたのです。
それが明治維新によって一挙に西洋文化が怒涛のように流れ込んで来たのです。
そなことも考えながら、http://web.joumon.jp.net/blog/2009/01/688.html を読むと歴史の一ページとしても面白さがよく分かると思います。
老境の読み物としてご推薦できる文書を見つけたので、チョットご紹介いたしました。(終わり)