後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

宗教の違いが戦争の原因にならないようにするある考え方

2014年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム

よく宗教のことを話題にすると、無宗教のほうが良いですと言う方がいます。
何故ですかと聞くと、「宗教の違いが原因で戦争になるからです」と答えます。
そうですね。古今東西の歴史をみれば宗教の相違が戦争の原因になった例が枚挙にいとまがないのです。

現在でも中東の激しい内戦はイスラム教とユダヤ教とキリスト教の対立が一つの原因になっています。更に同じイスラム教でもスンニ派とシーア派が血みどろの内戦をしています。
この様な現象を見ると宗教の違いが戦争を引き起こしていることは紛れもない事実です。
このような宗教の違いを和解させる一つの考え方に成長の家の三つの基本教義のうちにあります。それは「万教帰一」という教えです。
以下は、
http://www.jp.seicho-no-ie.org/about/doctrine.html から転載しました。
====万教帰一とは?========
「万教帰一」とは、万(よろず)の教えを一つ(生長の家)にするという意味ではありません。これは後ろから読んで、一つの教えが万の教えとして展開していると説いています。宗教に違いがあるのは国や地域、民族によって服装が違うように、宗教も文化的な違いが現れているからだと言えます。目玉焼きに喩えると、中心部分の黄身を普遍的な根本真理と見立て、それぞれの宗教が共有していると考えます。一方、周縁部分である白身は、文化、民族、時代などの違いによって変化している部分だと考えると分かりやすいでしょう。世界の各宗教が、この中心部分(黄身)の共通性と周縁(白身)の多様性をお互いに認め合うことによって、宗教間の対立は消えることになります。それを端的に表わした言葉が「万教帰一」の教えなのです。
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上のような考え方は大乗仏教国の日本に生まれ育った人々には共感できるような考え方です。
しかし欧米社会やイスラム諸国ではなかなか賛成されないと思います。
そんなことを考えさせる最近の中東情勢です。
ところで私自身はカトリックですが、生長の家は政治に関与せず狂信的でない新興宗教なので好意的に見守っています。
そこで先日その教団の幹部の中井 良穂さんに入会の経緯をお聞きしました。以下はそれに対する素直なお答えです。
======中井 良穂さんの生長の家への入会と体験=========
  昭和13年頃、父が目の病気のことで、創始者谷口雅春師に指導をお願いして心の持ちようを変え、快癒したので入信しました。その後、母も入信。小生は父母から「生長の家」の教えを伝授されました。大学を卒業するまでは谷口雅春師著『生命の實相』を自発的に読む程度でしたが、慶応大学工学部を卒業して修士課程に入ってから、自発的に本格的な組織活動を開始し、宇治別格本山での全国学生の練成会の運営や地方大学での学内布教活動の支援など、生長の家本部学生部の一人として奉仕しました。横浜に就職後は神奈川県の青年会で奉仕。現在は講師活動とシニア層の活動をしています。宗教はとかく家庭生活、社会生活から遊離して、宗教学・宗教哲学または宗教思想に偏った観念上の活動になりがちですが、宗教を生活そのものとして「実践の道」を開いた生長の家に大いに力を授けられ、現在、『生命の實相』の輪読会(読書会)の普及に努めております。自身の体験としては、会社生活中、頭痛、腰痛の持病に悩まされましたが、『生命の實相』の要約版といわれる経文『甘露の法雨』を朝晩、読誦して潜在意識を浄めると共に、父母・先祖に感謝の念を込めて読経し先祖供養を怠らず、また、お世話になる家族や周囲の人々への感謝・祝福祈念を続けているうちに、知らぬ間に健康体になりました。今は奉仕活動が生き甲斐となり元気で80歳を迎えました。上記二つの書物の読誦をお勧めします。
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別に皆様へ生長の家をお薦めする心算は毛頭ありませんが、最近感じたことを書いてみました。挿絵代わりに3枚の花の写真をお送りします。先日、三鷹市の花と緑の広場で撮った写真です。

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インターネットにある宗教的な風景を眺める

2014年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は日曜日なのでこれからミサへ行きます。そして日曜日には軽い宗教の話を書くことにしています。

インターネットで見ることの出来る宗教的な風景についてご紹介したいと思います。それには「全国の神社・仏閣の画像集」とか「長崎の教会の写真集」というような言葉で検索すると実に数多くの美しい写真集を眺めることが出来ます。このように全国と検索しないで前橋市のお寺の画像集とか鎌倉のお寺の画像集を検索するとその地方の全てのお寺の写真を眺めて楽しむことが出来ます。

例として下に鎌倉のお寺の画像集: http://www.geocities.jp/takosiba/kamakura01.html から数枚の写真をご紹介いたします。

Joutiji011

浄智寺への参道です。

Meigetuin021

明月院への参道です。

Toukeiji011

東慶寺の本堂です。

上の三枚は質素、静寂、無常の世界を感じさせます。いかにも鎌倉仏教の雰囲気です。そして京都のお寺の画像集を見ると両方の仏教の違いが明快に理解できるのです。

このようにインターネットには実に数多くの宗教的な風景写真が出ております。

こうして見ると日本はほんとうに仏教国だと感じます。

仏教と言えば今日の読売新聞の書評欄に植木雅俊著「佛教学者 中村 元」という本が紹介してあります。

中村 元を検索すると、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%85%83_(%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%80%85) に詳しい紹介があります。その紹介文の一部を下にしめします。

・・・サンスクリット語・パーリ語に精通し、仏典などの解説や翻訳に代表される著作は多数にのぼる。「生きる指針を提示するのも学者の仕事」が持論で、訳書に極力やさしい言葉を使うことでも知られた。

その最も端的な例として、サンスクリットのニルヴァーナ(Nirvā?a)およびパーリ語のニッバーナ(Nibbāna)を「涅槃」と訳さず「安らぎ」と訳したことがあげられる。訳注において「ここでいうニルヴァーナは後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう。」としている。・・・・・・・・

昔、中村元の仏教に関する文庫本を読んだとき内容が実に分かりやすかったことを思い出しました。そうです。全て宗教の教義は判り易い日常語を使うべきです。

キリスト教の福音書は「幸せになるための話」と言うべきです。「隣人を愛せよ」は「隣人を大切にせよ」と訳すべきです。平和は安らかな暮らしと訳すべきでしょう。「神の愛」は「神様が我々を大切に思ってくれる心」と書くべきでしょう。

変に分かり難い宗教専門用語は使うべきではありません。

インターネットの世界では理解困難な専門用語はあまり出て来ません。ですからインターネットを通じて宗教のある風景を眺めながら、宗教のことを考えるのも良いと思います。

そんなことをボンヤリ考えながらこれから教会へ行ってきます。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)