老人は若者に昔話をするものです。そこで私は今の若い日本人へ、「あなたたちは銀シャリという言葉を知っていますか?」とか「その言葉の流行った時代を知っていますか?」と自慢げに質問したいのです。
高齢者はご存じです。戦前、戦後の食糧難の時代です。白米を炊いたご飯は、銀の粒のように光りかがやいていたからです。それは胸を締め付けられるような輝きでした。あれから茫々数十年。しかし真っ白いご飯を見るたびに、時々、この銀シャリという言葉を思い出します。
シャリとは舎利に由来するといいます。お釈迦様の遺骨が白いと思い、白い粒をそう呼んだに違いありません。
ですから銀シャリという言葉を聞くとお釈迦様の慈悲の心を連想します。そして同時にアイヌ神謡集の詩を思い出します。アイヌの神の梟が飛びながら唄うのです。
銀の滴 ふるふる まわりに、
金の滴 ふるふる まわりに
という歌を 静かにうたいながら
この家の 左の座へ 右の座へ
美しい音をたてて 飛びました
私が羽ばたきをすると、 私のまわりに
美しい宝物、 神の宝物が 美しい音をたてて
落ち散りました
このようにお米は私にとって銀の粒々のように貴重な存在に思えるのです。そこで昨日から日本人とお米との関係をいろいろ考え込んでいます。
なにせ2000年前の弥生時代からお米は日本人の主食であり、現在でも家庭で炊いたご飯の他、寿司、天丼、うな丼、牛丼、カレーライスそしてコンビニのお握りという具合に日本人にとっては大切な食べ物です。
日本国内の生産量は減少していますが、その分、輸入するので日本人の米の消費量は変化していないのです。
それにしても、最近、東京の郊外では水田が無くなりました。50年ほど前に、ここ小金井市に引っ越して来たころは崖下の野川沿いには水田が広がっていたものです。府中から多摩川の上流日野あたりの両岸には豊かな水田風景が広がっていました。
それが高度成長の時代から宅地になってしまって水田風景が消えてしまったのです。かつては小金井、府中、小平、立川、日野の何処にでも稲の実る風景が見られたものです。
しかし私は水田のある秘密の場所を知っているのです。半信半疑の家内にカメラマンをお願いして車で1時間ほどのその場所に行きました。安心しました。そこには昔と変わらない水田が広がっていたのです。
一番目と二番目の写真です。
三番目の写真は水田のそばにあったサトイモ畑の様子です。
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この場所は東京都町田市の都立小山田緑地公園へ入る道の両側です。
水田は地方に行けば珍しくありません。近年は北海道に稲作が拡大して、現在は北海道の米の生産量が新潟県に次いで国内で第二位になっているのです。
北海道といえば知床や、富良野の花畑が有名です。そして屈斜路湖や阿寒湖や洞爺湖が有名です。ですから多くの人は北海道が第二位の米の生産地と聞くと驚きます。
それはさておき、水田は1世紀ころの登呂遺跡でも発見されています。8ヘクタールの水田が広がっていたことが発掘調査で分かっています。
四番目の写真に復元された弥生時代の水田の写真を示します。
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日本人は2000年も前から米を大切に育て稲作を伝承して来たのです。これからも1000年、2000年と長い年月、この稲作は続くと私は信じています。米こそ日本文化のいしずえなのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)