東京都の府中市は飛鳥時代や奈良時代の律令国家の武蔵国の首都でした。現在の関東全域の首都として平安時代の末まで関東地方の行政の中心でした。鎌倉、室町、江戸と時代は変わっても東山道と甲州街道の交わる宿場として栄えていたのです。しかし明治維新後に鉄道の通過を嫌ったために少し衰退した町です。
しかしその後、大企業の工場や東京競馬場が出来たため非常に財政豊かな自治体として素晴らしい美術館や博物館を持っています。
財政が豊かなので考古学的な発掘や古代史の研究が行き届いています。
そこで昨日は府中市の郷土の森博物館を訪問し、旧石器時代から武蔵国の官庁(国衙)の置かれた時代までの出土品の展示の写真を撮って来ました。
今日は旧石器時代、縄文時代、弥生時代、そして古墳時代の府中市の歴史を簡単にご紹介したいと思います。
それではまず時代区分を整理しておきます。
旧石器時代– 紀元前14000年頃、縄文時代 前14000年頃–前3世紀頃、弥生時代 前3世紀頃–後3世紀中頃、古墳時代 3世紀中頃–7世紀頃、飛鳥時代 592年–710年、 奈良時代 710年–794年、平安時代 794年–1185年、 鎌倉時代 1185年–1333年 以下省略。
さて府中市は多摩川の北側の河岸段丘の上にあります。
その河岸段丘からは旧石器時代の石器や縄文時代の土器が多数発掘されています。
まず、その頃の人々の生活の様子を描いた絵を示します。
縄文時代の生活の様子の絵の出典は、http://bbs.jinruisi.net/blog/2013/12/1181.html です。
この生活の様子は旧石器時代の終わりごろから古墳時代、そして平安時代まで同じ様だったと考えられたいます。京都や奈良の町は別にして農村風景は同じ竪穴住宅や掘っ立て小屋が多数あったと推定されています。
現在の府中市に人が住み始めたのは35000年前からと確認されています。確かな証拠は35000年前の黒曜石の刃物類が多数発掘されたことです。下にその写真を示します。
このような黒曜石の一部に伊豆七島の神津島産のものも存在していたのです。驚くことに府中市は神津島と交易していたのです。
下の写真は25000年前の石で出来た矢じりです。
このような道具が使われていたのは土器のまったく存在していなかった16000年前までの旧石器時代の間でした。
その後、縄文時代が始まると大きな土器が盛んに作られるようになります。
上は現在の府中市内から発掘された縄文時代(前14000年頃–前3世紀頃)の土器です。
上は同じく府中市内から発掘された古墳時代(3世紀中頃–7世紀頃)の土器です。
上も古墳時代の古墳から出て来た装飾用の土器のようです。
さて始めに現在の府中市は関東地方の中心として栄えた場所ですと書きましたが、もう一つ重要な歴史的事実は現在の豪壮な大国魂神社の前身の神社が仏教伝来以前からここにあったことです。
それに府中市内には熊野神社古墳という大きな古墳が存在し、豪族も住んで居たことが分かっています。
私が強調したいことは現在の府中市は律令国家の官庁が置かれ国司が派遣されるずっと以前から人々の集まる市場であり、宗教の中心地だったという事実です。
日本の歴史というと律令国家が全国に配置された以後のことを強調して教えていますが、それ以前にも豊かな長い歴史があったのです。大和朝廷の権威を強調するか、あるいは地方、地方の人々の生活を中心にするかによって歴史観が変わることを示したいのです。
下に多少の参考資料をつけて終わりとします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============
武蔵国:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD
「武蔵」の名の起源は諸説唱えられているものの、いずれの説も根拠となる資料に欠き定説となるには至っていない。 本居宣長は『古事記伝』の中で「武蔵国は駿河・相模と共に佐斯国(サシ)と呼ばれ、後に佐斯上(サシガミ)・下佐斯(シモザシ)に分かれ、これが転訛し相模・武蔵となった」とし、賀茂真淵は『倭訓栞』に「身狭(ムサ)国があり、のち身狭上(ムサガミ)・身狭下(ムサシモ)に分かれて相模、武蔵となった」と唱えている。さらに近藤芳樹『陸路廼記』など「総(フサ)国の一部が分割され総上(フサガミ)・総下(フサシモ)となり、それぞれ相模・武蔵となった」とする説もあるが、これらの説は、武蔵国はかつて毛野国(群馬県・栃木県)地域と一体でありその後7世紀にヤマト王権が総国からこの地域に進出して勢力下においた、とする考古学的成果と相容れない。
縄文時代:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)[* 1]から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。
縄文時代の終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とするが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。
しかしその後、大企業の工場や東京競馬場が出来たため非常に財政豊かな自治体として素晴らしい美術館や博物館を持っています。
財政が豊かなので考古学的な発掘や古代史の研究が行き届いています。
そこで昨日は府中市の郷土の森博物館を訪問し、旧石器時代から武蔵国の官庁(国衙)の置かれた時代までの出土品の展示の写真を撮って来ました。
今日は旧石器時代、縄文時代、弥生時代、そして古墳時代の府中市の歴史を簡単にご紹介したいと思います。
それではまず時代区分を整理しておきます。
旧石器時代– 紀元前14000年頃、縄文時代 前14000年頃–前3世紀頃、弥生時代 前3世紀頃–後3世紀中頃、古墳時代 3世紀中頃–7世紀頃、飛鳥時代 592年–710年、 奈良時代 710年–794年、平安時代 794年–1185年、 鎌倉時代 1185年–1333年 以下省略。
さて府中市は多摩川の北側の河岸段丘の上にあります。
その河岸段丘からは旧石器時代の石器や縄文時代の土器が多数発掘されています。
まず、その頃の人々の生活の様子を描いた絵を示します。
縄文時代の生活の様子の絵の出典は、http://bbs.jinruisi.net/blog/2013/12/1181.html です。
この生活の様子は旧石器時代の終わりごろから古墳時代、そして平安時代まで同じ様だったと考えられたいます。京都や奈良の町は別にして農村風景は同じ竪穴住宅や掘っ立て小屋が多数あったと推定されています。
現在の府中市に人が住み始めたのは35000年前からと確認されています。確かな証拠は35000年前の黒曜石の刃物類が多数発掘されたことです。下にその写真を示します。
このような黒曜石の一部に伊豆七島の神津島産のものも存在していたのです。驚くことに府中市は神津島と交易していたのです。
下の写真は25000年前の石で出来た矢じりです。
このような道具が使われていたのは土器のまったく存在していなかった16000年前までの旧石器時代の間でした。
その後、縄文時代が始まると大きな土器が盛んに作られるようになります。
上は現在の府中市内から発掘された縄文時代(前14000年頃–前3世紀頃)の土器です。
上は同じく府中市内から発掘された古墳時代(3世紀中頃–7世紀頃)の土器です。
上も古墳時代の古墳から出て来た装飾用の土器のようです。
さて始めに現在の府中市は関東地方の中心として栄えた場所ですと書きましたが、もう一つ重要な歴史的事実は現在の豪壮な大国魂神社の前身の神社が仏教伝来以前からここにあったことです。
それに府中市内には熊野神社古墳という大きな古墳が存在し、豪族も住んで居たことが分かっています。
私が強調したいことは現在の府中市は律令国家の官庁が置かれ国司が派遣されるずっと以前から人々の集まる市場であり、宗教の中心地だったという事実です。
日本の歴史というと律令国家が全国に配置された以後のことを強調して教えていますが、それ以前にも豊かな長い歴史があったのです。大和朝廷の権威を強調するか、あるいは地方、地方の人々の生活を中心にするかによって歴史観が変わることを示したいのです。
下に多少の参考資料をつけて終わりとします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============
武蔵国:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD
「武蔵」の名の起源は諸説唱えられているものの、いずれの説も根拠となる資料に欠き定説となるには至っていない。 本居宣長は『古事記伝』の中で「武蔵国は駿河・相模と共に佐斯国(サシ)と呼ばれ、後に佐斯上(サシガミ)・下佐斯(シモザシ)に分かれ、これが転訛し相模・武蔵となった」とし、賀茂真淵は『倭訓栞』に「身狭(ムサ)国があり、のち身狭上(ムサガミ)・身狭下(ムサシモ)に分かれて相模、武蔵となった」と唱えている。さらに近藤芳樹『陸路廼記』など「総(フサ)国の一部が分割され総上(フサガミ)・総下(フサシモ)となり、それぞれ相模・武蔵となった」とする説もあるが、これらの説は、武蔵国はかつて毛野国(群馬県・栃木県)地域と一体でありその後7世紀にヤマト王権が総国からこの地域に進出して勢力下においた、とする考古学的成果と相容れない。
縄文時代:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)[* 1]から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。
縄文時代の終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とするが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。