後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

邯鄲の夢もそろそろ店仕舞いです

2015年06月14日 | 日記・エッセイ・コラム
先週の11日の夕方から夜にかかて小屋の窓から暮れて行く林の様子をジッと眺めて過ごしました。昔は細い幹が並んだ雑木林でしたが、小屋を作ってから40年で皆大木になっています。林の中に夕闇が忍び寄って来たころに小屋に入り、薪ストーブを焚きました。
そして窓枠にビールのグラスを置き、ゆっくりとあれこれ思い出にふけっていました。
そして我が人生もそろそろ店仕舞いだなと考えていました。それはまさしく邯鄲の夢でした。
帰宅した後に趣味人倶楽部の「ノンキさん」という方から次の文章が届きました。

せっかく奇跡と偶然が、
たまたま重なりあって、
大宇宙に刹那の存在。

春夏秋冬、喜怒哀楽、
そろそろ店仕舞


「ノンキさん」は達観の境地です。幸せな老境を過ごしているのです。
私も「ノンキさん」にあやかって達観の境地に遊びたいと思います。
しかし私はカトリックの信者のはしくれです。ですから「店仕舞い」は自分の意志では出来ません。あくまでも神様がして下さることです。神様が天国によんでくれたらそれが「店仕舞い」になるのです。しかし私は「店仕舞い」の準備を早めにしています。
昔、洗礼を授けてくれたカトリック立川教会の司祭だった塚本金明神父様の説教で、「良い商人は早く店仕舞いをするものです」と話をしていたのを思い出します。
欲にかられて何時までも店を開けていてはいけない。この世のことに何時までも執着してはいけない。神様やイエス様のお声が聞こえるように静かに祈っていなさい。そんな説教だったような気がします。
その塚本金明神父さまは府中市のカトリック墓地に眠っています。時々、お墓まいりに行きます。
そんな事を何となく思いながら小屋の窓の外の林が次第に暗くなり、やがて漆黒の闇のとばりがおりるまで見ていました。林の足元を流れる小川の水音が急に大きく聞こえるようになりました。
写真には夕闇せまる雑木林の様子、薪ストーブの写真、そして漆黒の闇の写真などを示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=====
邯鄲の枕;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AF%E9%84%B2%E3%81%AE%E6%9E%95
趙の時代に「廬生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。廬生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。そして廬生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣に至る。子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮揚がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。
中国においては粟の事を「黄粱」といい、廬生が粟粥を煮ている間の物語であることから『黄粱の一炊』としても知られる。いわゆる、日本の落語や小説・漫画でいうところの夢オチの代表的な古典作品としても知られる。
同義の日本の言葉としては「邯鄲夢の枕」、「邯鄲の夢」、「一炊の夢」、「黄粱の夢」など枚挙に暇がないが、一つの物語から多くの言い回しが派生、発生したことからは、日本の文化や価値観に長い間影響を与えたことが窺い知れる。現在ではほとんどの言葉が使われる事がなくなっているが、「邯鄲の夢」は人の栄枯盛衰は所詮夢に過ぎないと、その儚さを表す言葉として知られている。