後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本人と宗教とのかかわり(2)キリスト教の嫌いな人、好きな人

2015年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人と宗教のかかわりと言えば、神道、仏教、それからキリスト教の順で書くのが良いようです。しかし仏教はあまりにも深いかかわりがあるので大変難しいテーマです。
むしろキリスト教とのかかわりは軽く筆が進みます。
日本人がキリスト教を知ったのは1549年にザビエルがカトリックのキリスト教を伝えてからはじまりました。信長、秀吉時代に急に信者が30万人と増えましたが、やがて厳しい禁教の歴史が250年間続きます。いわゆる隠れキリシタンの時代です。
しかし今回は隠れキリシタンのことは一切省略します。
今回のテーマは明治6年の禁教令の廃止以後のキリスト教と日本人のかかわりについてです。
例によって、かかわりの様子を、「風景をスケッチ」するように気楽に描いて行きます。
まず公平に見回すと日本人にはキリスト教が嫌いな人が案外多いようです。内心は嫌いでも、「いいじゃないですか。日本には宗教の自由がありますから」と穏健なことを言います。
しかし明治維新以来、西洋の文化を熱心に導入してきたわりにはキリスト教の信者の数は総人口の3%を越えたことはありません。ザビエルの伝えたカトリックにいたっては0.3%と非常に少ないのです。ミッション・スクールは非常に多いのに洗礼は殆ど受けません。
正直に書けば私はカトリックの洗礼を受けてから40年以上、毎週のように教会のミサに出ています。あまり熱心な信者ではありませんが、一応信者のはしくれに座っています。
洗礼を受けてから何年間は日本にキリスト教信者が一向に増えないことを悲しく思っていました。そして増えない理由をあれやこれやと考えました。遠藤周作の本も沢山読みました。
しかし老境にいたってみると考えが変わってしまったのです。悲しく思うのは考えが浅いのです。そして何事も正解の無い原因を考えるのは全く無駄なことに気がつきました。あるがままに受け入れて平穏な心で生きて行くことが一番大切なことに気がついたのです。
確かに日本人で洗礼を受けた人の数は少ないのです。しかし日本人は明治時代以来、キリスト教の教えをいろいろな分野で深く受けているのです。キリスト教の嫌いな人でもその影響を逃れることは出来ません。
日本人ら誰でも、「汝の隣人を愛せ」という言葉を知っています。「人間はパンのみで生きては行けない」という言葉も知っています。そして聖書を読んだ人は。「全ての人間は神の前で平等で自由だ」ということを知ります。
現在、日本は人間は生まれながらにして自由で、平等だと信じています。江戸時代には皆無ではありませんが、あまり無かった考え方です。そして賢い人は欧米の民主主義は実はキリスト教を下敷きにして発達してきたことを知るのです。
その上、共産主義はキリスト教の反対の思想を整理して体系化したものなのです。ですから共産主義はキリスト教国でしか生まれなかったのです。
日本人は明治維新以来、西洋文化の導入に熱狂してきました。当然、キリスト教的な考え方が怒涛のように流れ込んだのです。
しかし今でも「耶蘇は嫌いだ!」とか「キリスト教徒は偽善的だ」と言って嫌う人がいます。
当然です。キリスト教の信者には自分の考えを他人へ押し付ける人が多いのです。困ったものです。「福音宣教」の鉄則は、まず他人を愛することです。愛せば自然に信者になります。口先だけの宣教は厳禁です。困ったものです。
教の挿絵代わりの写真は伊豆半島の「四季の花公園」の写真です。一昨日撮ったダリアです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)