現在、日本の仏教界で読まれている経典の殆どすべては唐の玄奘三蔵法師が645年にインドから持ち帰り、漢文に訳したものです。
ですから日本の多くのお寺の本堂の脇には、玄奘三蔵法師が経典を大きな箱に入れ、背負ってインドから帰る姿の像が立っています。
私は玄奘三蔵法師が好きで、以前からいろいろ本を読んでいました。
したがって玄奘三蔵法師の像を見ると大変嬉しくなります。
彼は日本の仏教の大恩人なのです。
この玄奘三蔵法師の遺骨の一部が埼玉県の慈恩寺にあるというのです。
数年前に私は車を駆ってこのお寺を訪れ現在の住職さんと、先代の住職さんの奥様の話をお聞きしました。先代の住職さんが遺骨を受け取り、立派な玄奘塔を作り、遺骨をその塔の基部に祀ったのです。その玄奘塔も参拝して来ました。
しかしその玄奘三蔵法師の遺骨は本物でしょうか?
本物でないかも知れませんが、遺骨が中国から渡って来た経緯が面白いのでご紹介いたします。
埼玉県にある玄奘塔は慈恩寺から少し離れた畑の中にありました。
それは西遊記(孫悟空物語)で名高い玄奘三蔵法師の霊骨を埋めた石塔です。十三重で高さは約15mあり、慈恩寺が管理しています。
三蔵法師の遺骨は、宋の時代に長安(現西安)から南京にもたらされた後、太平天国の乱で行方不明になりましたが、第2次大戦中に南京を占領していた日本軍が、偶然にも土木作業中に法師の頭骨を納めた石箱を発見(昭和17年)しました。
頭骨は、当時の南京政府に還付され、昭和19年に南京玄武山に玄奘塔を建立し奉安されるとともに、日本へも分骨されたのです。
日本へ渡った頭骨は、当初芝増上寺に安置されましたが、折しもその頃の東京は空襲の被害が広がり、一時埼玉県蕨市の三学院に移され、さらに三蔵法師の建立した大慈恩寺にちなんで命名された慈恩寺に疎開しました。 第2次大戦後、日本の仏教界が正式な奉安の地を検討した際に、三蔵法師と縁の深い慈恩寺が奉安に最適の地とされ、昭和25年に十三重の花崗岩の石組みによって玄奘塔が築かれました。 その後、慈恩寺から台湾の玄奘寺(昭和30年)や奈良の薬師寺(昭和56年)へも分骨されています。
この遺骨は考古学的にも文献学的にも本物であるという証明は不可能です。しかし関係者の玄奘三蔵法師へ対する尊敬と崇拝の気持ちを考えると、それは本物でないと言うべきではありません。ある人々が信仰の対称としているものに真贋の詮索をしないのが良いと私は考えています。
一番目の写真は西遊記の絵で、出典は、http://4travel.jp/travelogue/10706944 です。
二番目の図面は玄奘が629年から645年までの16年間のインドへの旅の行程を示す図面で、出典は、「中国思想史」http://www42.tok2.com/…/yasu…/chinashisoushi/12tenjikuhe.htm です。
三番目の写真は埼玉県にある玄奘塔の脇にある玄奘の像です。
四番目の写真は玄奘塔の門です。
五番目の写真は玄奘塔で、その基部に現状の遺骨の一部が埋まってあります。
これら3枚の写真の出典は、http://www.ukima.info/feature/jionji/jionji.htm です。
====参考資料===============
玄奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘(チンイ)。諡は大遍覚[1]で、尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。
629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。以下は、https://ja.wikipedia.org/…/%E7%8E%84%E5%A5%98%E4%B8%89%E8%9… に続きます。
ですから日本の多くのお寺の本堂の脇には、玄奘三蔵法師が経典を大きな箱に入れ、背負ってインドから帰る姿の像が立っています。
私は玄奘三蔵法師が好きで、以前からいろいろ本を読んでいました。
したがって玄奘三蔵法師の像を見ると大変嬉しくなります。
彼は日本の仏教の大恩人なのです。
この玄奘三蔵法師の遺骨の一部が埼玉県の慈恩寺にあるというのです。
数年前に私は車を駆ってこのお寺を訪れ現在の住職さんと、先代の住職さんの奥様の話をお聞きしました。先代の住職さんが遺骨を受け取り、立派な玄奘塔を作り、遺骨をその塔の基部に祀ったのです。その玄奘塔も参拝して来ました。
しかしその玄奘三蔵法師の遺骨は本物でしょうか?
本物でないかも知れませんが、遺骨が中国から渡って来た経緯が面白いのでご紹介いたします。
埼玉県にある玄奘塔は慈恩寺から少し離れた畑の中にありました。
それは西遊記(孫悟空物語)で名高い玄奘三蔵法師の霊骨を埋めた石塔です。十三重で高さは約15mあり、慈恩寺が管理しています。
三蔵法師の遺骨は、宋の時代に長安(現西安)から南京にもたらされた後、太平天国の乱で行方不明になりましたが、第2次大戦中に南京を占領していた日本軍が、偶然にも土木作業中に法師の頭骨を納めた石箱を発見(昭和17年)しました。
頭骨は、当時の南京政府に還付され、昭和19年に南京玄武山に玄奘塔を建立し奉安されるとともに、日本へも分骨されたのです。
日本へ渡った頭骨は、当初芝増上寺に安置されましたが、折しもその頃の東京は空襲の被害が広がり、一時埼玉県蕨市の三学院に移され、さらに三蔵法師の建立した大慈恩寺にちなんで命名された慈恩寺に疎開しました。 第2次大戦後、日本の仏教界が正式な奉安の地を検討した際に、三蔵法師と縁の深い慈恩寺が奉安に最適の地とされ、昭和25年に十三重の花崗岩の石組みによって玄奘塔が築かれました。 その後、慈恩寺から台湾の玄奘寺(昭和30年)や奈良の薬師寺(昭和56年)へも分骨されています。
この遺骨は考古学的にも文献学的にも本物であるという証明は不可能です。しかし関係者の玄奘三蔵法師へ対する尊敬と崇拝の気持ちを考えると、それは本物でないと言うべきではありません。ある人々が信仰の対称としているものに真贋の詮索をしないのが良いと私は考えています。
一番目の写真は西遊記の絵で、出典は、http://4travel.jp/travelogue/10706944 です。
二番目の図面は玄奘が629年から645年までの16年間のインドへの旅の行程を示す図面で、出典は、「中国思想史」http://www42.tok2.com/…/yasu…/chinashisoushi/12tenjikuhe.htm です。
三番目の写真は埼玉県にある玄奘塔の脇にある玄奘の像です。
四番目の写真は玄奘塔の門です。
五番目の写真は玄奘塔で、その基部に現状の遺骨の一部が埋まってあります。
これら3枚の写真の出典は、http://www.ukima.info/feature/jionji/jionji.htm です。
====参考資料===============
玄奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘(チンイ)。諡は大遍覚[1]で、尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。
629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。以下は、https://ja.wikipedia.org/…/%E7%8E%84%E5%A5%98%E4%B8%89%E8%9… に続きます。