後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

五畿七道の道は7つの行政区を意味し、同時に道路の意味もある

2015年06月15日 | うんちく・小ネタ
古代のことを調べていると五畿七道という言葉がよく出て来ます。
七道というから道路のことかと思うと間違いです。それは唐の真似をした行政区のことなのです。
そして紛らわしいことにはその行政区へ行く道路の意味でしばしば使われているのです。
行政区か道路のことかは前後の文章から分かりますが紛らわしい、ことですね。
そこで、以下に、http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/touzando-m/kodaimichi2.html から抜粋した明快な説明をお送りいたします。
古代の中央集権体制である律令制は7世紀後半から10世紀半ば頃までの律令その他の法に基づいた公地公民制を基礎とする支配体制です。それは「大化の改新」後に始まり、天智朝の近江令、天武・持統朝の飛鳥浄御原令、をへて文武朝の大宝律令によって完成されました。
古代の律令国家は全国を五畿七道と呼ばれる地域に区分していました。
五畿は畿内ともいい、山城、大和、河内、和泉、摂津の諸国で、七道は東海、東山、北陸、山陽、山陰、南海、西海の諸道で、これらは地域の呼称であると同時に都からのびる道路の名称でも使われています。
下に7道の行政区の地図を示します。

大宝元年に(701)に制定された大法律令と、その後部分改修された養老律令(718)に、駅制・伝馬制の古代の交通制度が規定されています。
駅制(えきせい)
駅制は中央と地方の情報伝達のために設けられた緊急通信制度で律令制に明記された交通制度です。
駅制を使った情報伝達には、特定の使者が最終目的地まで赴く専使(せんし)方式と、文書などを駅ごとにあるいは国ごとにリレーで送っていく逓送使(ていそうし)方式がありました。8世紀頃は逓送方式が取られ、専使は、使者本人の口から文書の補足を必要な場合などに派遣されていました。しかし、逓送方式の信頼性が失われていき、9世紀後半以降は、専使方式が中心となるようになりました。駅使(えきし)の行程は、緊急の場合は一日10駅以上、普通でも一日8駅以上とされていたようです。
駅路(えきろ)
駅路は都を起点に都と地方を結ぶ路で、古代の交通制度である駅制で使用すると規定された官道です。駅路は五畿七道のうち山陽道と西海道の一部(都から大宰府)を大路、東海道・東山道の主道を中路、その他を小路と三段階にわけています。
駅家(うまや・やくか)
駅路には、30里(約16キロメートル)ごとに駅家が配置されていました。ただし山間部など駅家が置けない場合など30里という規定の距離は柔軟に変更されています。また重要な路線の駅家間距離は短くされていたりもします。(この時代の一里は約550メートルで江戸時代の一里とはことなる。)
駅家は公務旅行者に乗用馬、宿泊、休憩、食事などを提供する施設です。駅家には駅馬(えきば・はゆま)が置かれ、大路では20匹、中路では10匹、小路では5匹とされていました。
駅馬は、群と諸国の間の緊急連絡、公文書の伝達、特別の要務による官人の旅行などに用いられ、その利用にあたって使者は利用証として駅鈴(えきれい・やくりょう)を携行するきまりがありました。駅鈴は、使者の位階によって剋(きざみ)数がことなり乗用の駅馬の数が示されます。剋が多ければ利用できる馬数が多くなることになります。
駅家には駅戸(えきこ)を配置し、駅戸から駅子が出て駅馬の飼養やその他の駅務に従事します。駅戸の中から駅長を一人任命し駅家の管理にあたらせています。駅家は全体的には国司の管轄下にありました。また駅家を維持・運営するために、駅田(えきでん)を置いて駅稲を当てて財源としています。

地方の歴史を知ると心豊かになる(4)東山道武蔵路と恋ヶ窪ものがたり

2015年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム
私は何故か古い時代の道路を探して、歩くのが好きです。奈良時代、平安時代、そして江戸時代までと時代が大きく変わっても、同じ道を旅人が歩いてきたような道に憧れています。
そんな古道が隣町の国分寺市にあったのです。発掘、研究され確かに奈良時代の道路だったと判っている場所です。その東山道武蔵路の一部は国指定の史跡になっています。
JR西国分寺駅の東北に「姿見の池」があり、その周辺には鎌倉時代初期の創建と言われている東福寺や熊野神社があります。このお寺と神社に挟まれている静かな住宅街の道路が710年に武蔵国の国府が置かれた時に、大和朝廷によって官道と指定された東山道武蔵路です。
正確に言えば現在の舗装道路の下に東山道武蔵路が埋まっています。道筋も現在の舗装道路より少しずれているようです。
私は時々この「姿見の池」の岸辺を散歩し、東福寺と熊野神社に参詣します。このすぐ近くに「恋ヶ窪」という宿場町があり遊女が沢山いたそうです。「姿見の池」とは遊女たちが鏡の代わりに池に姿を映して見たのでその名前がついたのです。
近くの東福寺には遊女たちの無縁墓もあります。
源平合戦の折り、東国の武士たちはこの東山道武蔵路を南に駆け抜け、鎌倉で源頼朝の軍勢に加わったのです。その中の武将、畠山重忠と恋ヶ窪の遊女、風妻太夫との悲恋物語も「姿見の池」にある看板に詳しく書いてあります。
そして新田義貞が上野や下野の武士を集めて、この東山道武蔵路を下って鎌倉幕府を府中市の分倍河原でやぶり、鎌倉に攻め込んだのです。1333年、鎌倉幕府は新田義貞軍によって消滅したのです。
東山道武蔵路を歩いた通った人は武将たちだけではありません。この道を挟んで東西に国分寺の「僧寺」と「尼寺」があったのです。757~765年頃、壮大なお寺が完成して以来、1333年の分倍河原の合戦の折り焼け落ちるまでの500年以上の間、国分寺にお参りする人々が賑やかに通った道だったのです。
この武蔵路は710年から771年までは官道でしたが、その後は東海道の相模国から分かれる支道が官道となり、格下げされます。しかしその後の時代になっても武蔵路は北関東と東海道をつなぐ非常に重要な道路でした。鎌倉時代は多くの「鎌倉街道」の一つとして整備されていたようです。
北関東の人々が京都や大阪に行くときは山道の中山道を嫌い武蔵路経由で東海道を行く人も多かったのです。
ですからこそ恋ヶ窪という宿場町は江戸時代の前までは大変栄えた町だったので。江戸幕府になってからは甲州街道と中山道と東海道などが次第に重要になり、その結果、恋ヶ窪は静かになりました。
「恋ヶ窪」という地名は有名ではありません。東京の人も知らない人が多いのです。
この地名を知っているのは現在の國分市の市民だけでしょう。国分寺市の市役所はこの恋ヶ窪町にあるからです。
市役所を繁華なJR国分寺駅周辺ではなく町はずれの「恋ヶ窪町」に置いた先人は本当に歴史が好きな人だったに違いありません。地元の歴史を大切にする心豊かな人だったのです。
私はそういう人を偉い人として尊敬しています。昨日、恋ヶ窪町で撮って来た写真を示します。そして最後に東山道武蔵路の位置を示す図面を掲載します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

上の写真は恋ヶ窪町にある熊野神社です。

上は熊野神社にある石碑で、1486年に通った旅人が恋ヶ窪が寂びれていると詠んだ歌が刻んであります。

上は鎌倉初期に創建されたといわれている東福寺です。

上は姿見の池の木道です。

上は東山道武蔵路の発掘、調査の結果を紹介している看板です。

この図面の出典は、http://aoi-pcc.sakura.ne.jp/uwado/index.html です。
===参考資料=============
東山道武蔵路:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E9%81%93%E6%AD%A6%E8%94%B5%E8%B7%AF

7世紀に律令制が確立されるとそれに伴って行政区画の整備も行われ、いわゆる「五畿七道」が設置された。この制度により畿内以外の国々はそれぞれ所定の「道」に属し、同時にそれらの国の国府を結ぶ同名の官道が建設されることになった。
この際、武蔵国は相模国に東接する海沿いの国ではあったが、近江国を起点に美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国、陸奥国(当時はまだ出羽国はなかった)と本州の内陸国が属する東山道に属することになった。このため、道としての東山道にもこれらの国々から大きく外れたところにある武蔵国の国府を結ぶ必要が生じた。
普通官道は地理的制約から特定の国の国府を通れない場合、支道を出して対処するのが定石であり(例:東海道の甲斐国・山陽道の美作国)[2]、武蔵国の場合も上野国府と下野国府との間で本道を曲げて、上野国邑楽郡から5駅を経て武蔵国府に至るルートが設置された。以下省略。