後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

島全体が熱帯的植物園ー八丈島

2009年02月06日 | 写真

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私の趣味は雑木林を眺めることです。従ってこのブログは「山林・杜の人のブログ」と称し、雑木林や山林の写真を数多く掲載しています。その延長で植物園が大好きです。札幌に行けば必ず北海道大学付属植物園へ行きます。九州の宮崎のそばの青島は小さな島全体が熱帯性植物園です。洗濯板のような岩礁の上の歩道を渡って行くと唐突に熱帯性の植物が繁茂している小島へ行けます。沖縄へ行けばヤンバルの森に圧倒されます。

シンガポールへ行った時は植民地時代にイギリス人が作った広大な植物園へ行きました。熱帯の大木が、ていていと聳えている林に感動しました。赤道直下の植物園です。シツットガルトに住んでいたときも植物園へ行きました。木蓮(マグノリア)や椿(カメリア)が改良されて色々な花に変身しています。

今回八丈島で感動したことは大きな島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることでした。この感動をどのように伝えるべきか、と数日考えてきました。しかし、あまり技巧をこらすないで写真をすなおに掲載することにしました。

上の3枚の写真は人間の手の入っていない文字通り自然の植物の様子です。

下の3枚は大賀卿町の中心にある公園です。

公園の真中にドライブウエイがあって車で楽しみながら通り抜けられるようになっています。ところどころの林の中に駐車場があり、散歩することも出来ます。素晴らしい所ですが、近所の人が2、3人だけ散歩している、淋しいくらい静かな公園です。子供連れの女の人へ挨拶をして少し立ち話しました。東京から、公園のそばの実家に里帰りしています。と、楽しそうでした。

人間の手の入った公園と漁港の回りの自然の山々の植物は佇まいが異なります。公園の林は整然としています。自然林は一見荒れたような印象を受けますがよく見ると種々の草木が仲良く繁っています。どちらも美しいと思います。(写真は2月28日から31日の間に撮影しました)

八丈島の植物の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。           藤山杜人

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ヨットの好きな方へ送る3枚の写真

2009年02月05日 | 写真

年度末が近づいて来たので会社の仕事がとても忙しくなってきた。引退して暇はあるが雪が積もっていて、その上寒くて海に行けない。それでもヨットが恋しい。そのようなヨット好きの方の為に3枚の明るい写真をお送りします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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上の写真は通りすがりの霞ヶ浦の堤防の上から撮った写真です。窓のロマンチックな配列に持ち主の夢多い人柄を想像してしまいます。キャビンの内装もフランス艇のように芸術的なものに違いありません。持ち主へ敬意をお送りします。

下の写真は購入の予定で持ち主に一緒に機走してもらったヤマハ29スカッピーです。大きめのエンジンがキャビン内部の前方にあり、チャートテーブルも完備した外洋仕様の頑丈なつくりのヨットでした。買いたいと言う筆者へ家人が、「貴方、湖でだけセーリングするのにこの艇が要るの?もっとキレイなキャビンの船の方が良いと思うわ」「でも男ならスカッピーを選ぶよ」、「スカッピーなら私は来ないわ。キャビンの内装が暗すぎます」

家人には負けるのが人生円満の鉄則と思いYamaha29スカッピーは諦める。しかし今でも前を通る度に心がうずく。(終わり)(


おたあジュリアの墓と神津島の秘密

2009年02月05日 | 旅行記

1970年に仕事を一切止めた。前々から行きたいと思っていた辺鄙な土地を訪ねる旅をはじめた。まず、伊豆七島の神津島へ遊びに行った。東京から高速水中翼船で4時間、遥か外洋に浮かぶ小さな火山島。山ばかりで平地が無い。船の着けられる簡単な桟橋が島の東西の両側にある。風向きによってどちらかを選ぶ。一人旅の気安さで島の民宿に投宿する。燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞く。明日、見物すべきところも説明しくれる。そして、急に声をひそめて言う、

「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」

「それは誰ですか?」ーーーーこの先は、2008年5月20日掲載の記事に続きます。

「流人を尊敬するローカル文化」のもう一つの実例なので、ここに一部を再掲載しました。

(終わり)


流人を尊敬するローカル文化ー八丈島

2009年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真は1606年に八丈島へ流人として到着した宇喜多秀家の御墓です。現在でも毎朝活けたような瑞々しい切り花が飾ってあります。毎日、切り花を供えている様子です。

秀家の回りにある縁者の小さな墓石の前にも切り花が供えてあります。いったい誰が供えるのでしょう?

秀家は秀吉の一字を貰った五大老の一人で朝鮮出兵で活躍し、帰国後は岡山城の大改修をし、備前・美作57万石の領主でしたが関ヶ原で敗将になってしまいました。八丈島へは長男の孫九郎や前田藩の医師、村田道珍斎や総数13名で島へ到着しました。流罪には正妻の豪姫以外の長男、医師、その他の付き人が許されたのです。その後の差し入れも許されました。

豪姫の実家は前田藩で、実子の居ない秀吉の養女になり、秀吉の重用する秀家の正妻になったのです。

前田藩は秀家存命中は勿論、子孫の宇喜多氏へ、2年毎に白米70俵と35両の現金、衣類、薬品、雑貨などを仕送りしていました。この仕送りは明治2年赦免になり東京へ帰るまで続きました。従って宇喜多秀家は島の人々にとっては感謝、尊敬される存在でした。

宇喜多一族は次第に増え、島の重要な家族として人々に大切にされました。

秀家のお墓の前の切り花だけではありません。歴史民俗資料館には宇喜多秀吉の関連資料だけを展示している一つの部屋があります。

八丈島へは1917人の流人が来ました。粗暴犯の他に江戸幕府や仏教界での権力闘争に敗れた政治犯も多かったのです。これらの人々は知的レベルも高く、島の文化へ大きな貢献をしました。歴史民俗資料館発行の資料解説No.5には20人ほどの流人の名前を記し、島への貢献の内容を説明しています。カイコと、黄八丈と呼ばれる絹織物を伝えた人、サツマイモを伝えた流人、薩摩焼酎の作り方を伝えた人、詩歌管弦の指導をした風流な流人、などなどの名前を明記し感謝しています。中には大工の棟梁も居て、島でも弟子をとり、多くの大工を育てた人もいます。

これらを総称して「流人文化」といい、八丈島の人々は現在でも誇りにしています。

最後に今回欠航のため島に居続けた間に感じたことを記します。孤島に流されたような気分になります。すると周りの人々すべてが大切な存在として感じられるのです。とくに海を渡って来た人々を尊敬したくなります。大島や神津島くらい伊豆半島へ近いとそんな気分にはなりません。太平洋に浮かぶ孤島だからこそ人間が一人一人が大切に思えるのです。

八丈島のローカル文化は欠航という目に会って初めて少し実感したような気分になりました。

(終わり)


縄文人の外洋の航海について

2009年02月04日 | うんちく・小ネタ

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八丈島の歴史民俗資料館でお会いした地域歴史専門家の細谷昇司氏のご説明を聞きながら資料館を各室を順に見て行きました。ある部屋に、約6000年前の縄文時代に島のあちこちに住んでいた人々の遺骨や石器・土器が展示してあります。石斧の石は海岸にあるような石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来たばかりの島には有る筈がありません。従って縄文人は土器を持って太平洋を渡って本州から来たのです。

しかし本当に丸木舟しか無い時代に縄文人は三宅島から御蔵島、そして八丈島へと渡って来れたのでしょうか?

江戸時代に幕府所有の大型帆船でも八丈島へわたるのに1ケ月以上も海上をさまよったのです。三宅島から大島へ逆走したり難破しそうになったりしたのです。

疑問に思っていましたら、細谷昇司氏が教えてくれました。2008年5月に八丈島から御蔵島までの80kmを八幡さんという青年が単身でシーカヤックで渡ったそうで す。

080530bouken1 南海タイムスという新聞の2008年5月30日の記事から左の写真と以下の文章を転載いたします

沖縄県石垣市、八幡暁さん(33)が28日早朝4時に神奈川県の鎌倉へ向けて八丈島の永郷海岸をシーカヤックで出発した。八幡さんは最初の寄港地・御蔵島までの約80キロを、20時間で動力を使わず2本の腕で漕ぎ渡る。
黒潮の影響を受ける八丈島・三宅島間は潮流が速く、これまでにシーカヤックでの航海例がないルートだ。

八幡さんはオーストラリアから日本までの総距離80009000キロをシーカヤックで漕ぎきる計画を2002年から実行中だ。「このアジア回りは世界で一番島が多く、世界のカヤッカーが航海していないルート」という。これまでにオーストラリアとニューギニアの半分を縦断。昨年は、フィリピンと台湾の間にあるバシー海峡の横断に成功している。
「シーカヤックはサーフィンと同じで、大きな波を受け流したり、乗っかったりする技術がなければ、波に転がされてしまう。海で気象現象を予測し、起こってしまうリスクを回避するのも楽しみのうち。だから航海は単独無伴走」という。

http://www.nankaitimes.com/news_photo/photo08/photo/topnp_08.html ) 

八丈島は絶海の孤島と言いますが御蔵島から肉眼で見えるそうです。縄文時代人は洋上で島が見えれば丸木舟で渡って行ったのです。天気の安定する季節を選んで、丸木舟を現在のシーカヤックのように漕いで行ったのでしょう。小さな帆も上げて多少は風の助けを使ったとも想像できます。

操船の難しい大型帆船より自分の両手で漕ぐ丸木舟(カヌー)の方が確実に外洋を渡れたのでしょう。その時、八幡さんの言う、「シーカヤックはサーフィンと同じで、大きな波を受け流したり、乗っかったりする技術がなければ、波に転がされてしまう。」という技術が重要になるのでしょう。

尚、細谷昇司さんは「ながれ」というハンドルネームでブログ

http://blog.goo.ne.jp/zuninrunin/ を書いています。(終わり)

 


趣味のグルメの内容のいろいろ

2009年02月04日 | うんちく・小ネタ

戦前に生まれ育ったせいか、「美食趣味」というものに抵抗感がある。その頃の日本は食糧事情が悪かった。

また食べ物の話をするのは品性が悪いという話をよく聞いた。それでブログにはグルメ記事をなるべく掲載しないようにして来た。

グルメとは本来、「美味追及の文化的活動」である。従ってその内容は深淵な意味を含んでいる。しかし日本のマスコミでは、グルメの本来の定義から離れて「美味しい店を探して食べ歩く」という限定された意味で「グルメ」という言葉が使われる。そこで以下の文章では「趣味のグルメ」をこの日本のマスコミの定義に従って考えて見る。

「美味な店を探す」にもいろいろな探し方がある。金額に拘らないで美味しいレストランや料亭へ行って楽しむ。また、一方では、なるべく節約しながら都会や地方の料理を味わう。

インドやアフリカでは餓えた人々が多数居る。そんな事をつい思い出すので私のグルメ趣味は以下のような条件付きの趣味である。

(1)地域性を考え季節によって安価に得られる食材を使っている。

(2)食材を無駄なく使い、料理法に創意や工夫が感じられる。

(3)決して高価な食器ではないが盛りつけやサービスに誠意を感じさせる。

上の(1)、(2)、(3)の条件を満足していれば料理の値段も当然ひかいめになる。

そのような店を探して、料理をつくった人々の気持ちを考え、その地域の文化と結び付けて楽しむ。これが全てではないが私が食事をする店を探すときにはいつも考える条件である。店を探すときはなるべくインターネットに頼らないで現地の人々に聞く。

八丈島ではすべて上の条件を満足する所にめぐり会えた。それで八丈島の印象が良いのだ。先日は、あそこ寿司を紹介したが、今日はまず、銀八寿司を紹介する。

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ご主人の写真と伝統的な島寿司の写真である。東京にあるような江戸前の高級なニギリもある。しかし島寿司の価格の方が低い。活きの良い地元の魚を無駄なく使っている様子がうかがえる。メダイ、アオゼ、オナガダイなどである。島へ行ってインドマグロやイクラ、エビなどのニギリを食べるのは何か不自然で私の趣味ではない。地元では白身の魚を何日も腐らせないで寿司を楽しむために漬けにしてあるのだ。甘めのシャリに慣れてしまえば絶品である。

つぎは島料理の厨という店を紹介したい。

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左が昼食の島御膳「おまかせ」(1500円)で右は質素な店の佇まいの写真である。島豆腐、飛魚のツミレ煮、地魚の刺身などが丁寧に誠意を込めて作ってある。

料理人の誠意というものは説明が困難だ。しかし食べてみると明解に分かるのだ。

如何にも島の家庭でつつましい食材で、美味く、健康に良いように作った感じの御膳である。その家庭的な誠意に感激した。支払をした後で厨房をのぞくと50歳くらいのおばさんが一人で作っている。「おいしかったですよ」と声をかけたらニコリとしていた。

次は泊った八丈ビューホテルの夕食の写真を示す。

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ホテルと言っても実態は旅館である。太平洋の眺望の良いことを抜きにすれば良くある和風の旅館である。1泊2食付き12600円という。部屋が良いだけに、食事の経費を節約しなければ経営が続かない。

しかし上の写真からうかがえるように、料理人が努力して島料理を出しているのだ。伝統的な島寿司もついている。刺身にはマグロなど使わないで島魚を使う。島で容易に手に入れる魚はカジキ、オナガダイ、アオゼ、メダイ、トビウオなどである。勿論アジやサバもとれるが、流石にホテルでは出てこない。

この写真の右上の鍋はヤギ肉の鍋だ。これも島料理。そこで沖縄のヤギ汁を思い出した。これも琉球文化の影響だろうかと沖縄のことをあれこれ考えながら食事を楽しんだ。ここで美味な島焼酎をあれこれ飲んで見たかったが、焼酎は強すぎるので自重して次回へ延期とした。

島の人々が工夫して食材をなるべく美味しく料理してるのを実感出来た。そこで島にある大きなスーパーマーケットへ行ってみた。売っている食料品は東京のスーパーと殆ど変らない。しかし、島寿司のパックが売っている。トビウオやオナガダイや名前の知らない島魚はそのままの姿で売っている。アジやサンマは冷凍で本土から運び込んだ物だ。アシタバがホウレンソウの代わりに売っている。

しかし島独特の商品は意外に少なく大部分の商品は全国から、世界中から来ている。この状態は山林の山小屋趣味でよく行く山梨県北部の農村にあるスーパーと同じだ。山梨では島魚やアシタバは無いが、大部分は同じものを売っている。

私の趣味のグルメとは、この様にいろいろな人々の食生活、少し格好良く言えば食文化を探す趣味なのだ。

当然、趣味は個人の自由だ。どのようなグルメ趣味を持とうが私は特別な意見は無い。ただ私の個人的な趣味のグルメの楽しみ方を書いただけです。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。    藤山杜人

追記:八丈島銀八寿司、八丈島厨(くりや)、八丈ビューホテルは検索するとHPが出てきます。


江戸時代大型帆船の苦難のセイリング記録

2009年02月03日 | うんちく・小ネタ

伊豆諸島の順察をして「南汎日録」を書いた代官、羽倉簡堂の海上の苦難ぶりを、「8joるんるんガイド」2008Vol.14秋号から抜粋して紹介します。

使用した船は八丈島預かりの江戸の大型官船で、長さ11間、巾3間の一本マストの外洋帆走用の船であった。船頭と水夫9人が乗り込み当時としては頑強さ、航行能力に優れ頼りになる島通いの大型官船であった。

1839年4月22日、一行は数艘の船隊を組み江戸の鉄砲洲を出発した。大島、利島、新島、神津島、を視察し、5月18日に三宅島へ到着した。ここまでは幸運にも風向きが良く問題なく帆走出来た。

しかし、三宅島からが苦難のセイリングとなる。簡略に書く。

5月27日三艘で、遠方に見える御蔵島へ出発。始めは風向きも良かったがしばらくして八丈島が見えだした頃、荒天になり一艘は転覆し、残りはなすすべもなく出発した三宅島へ漂着する。

6月2日態勢を整えて出発するが、風が逆風になり大島まで戻ってしまう。

6月7日大島出港、八丈島直行を試みるが、式根島へ流される。

6月8日式根島を出て八丈島へ向かうが逆に伊豆の三崎港まで戻ってしまう。

6月27日式根島を出港し八丈島を目指す。

7月1日八丈島の見えるところに達するが、今度は西風に吹かれ、東の遥か太平洋上まで流される。200海里も流された後、東風に変わる。この幸運を必死でつかみ西へ帆走する。ついに午後8時頃、八丈島の西の八丈富士の麓の小さな浦、荷浦に到着することが出来た。

三宅島を出発したのが5月27日、八丈島へ到達したのが7月1日であった。実に1ケ月以上行ったり来たりの苦難なセイリングであった。

三宅島と八丈島の間には黒潮の主流が西から東に流れ難所である。

それにしても現在の外洋帆走洋用の長さ12メートル位のクルーザーは三宅島と八丈島の間は10時間位のセイリングという。

GPSや天気予報の有無もあるが、決定的な違いは風に向かって登れるか否かの性能の違いと思う。帆船の設計の進歩の大きさに感慨無量です。(終わり)


比企氏・間寛平氏のヨットが太平洋日付け変更線を越えました!

2009年02月03日 | うんちく・小ネタ

Yacht1 1月上旬に出発した比企さんと間さんの乗った左の写真のヨットが日付け変更線を昨日越えました。

アメリカ向けに順調にセイリングしている様子の動画が、http://www.earth-marathon.com/ に御座います。

これに比較して江戸時代に八丈島まで帆走しようとして、大島へついたり、伊豆半島に流れ着いたり、江戸へ逆戻りしたりと、まったく支離滅裂な帆走ぶりでした。命がけの危険な旅でした。

勿論、GPSも天気予報も無い時代でした。しかし帆走能力が決定的に違うのです。0701syoko_kara031 ヨットではマストに沿って三角形のセイルを揚げ、風上45度まで上れます。ジグザグ走法をすると完全に風上へのぼれます。

従って八丈島さえ見えていれば逆風でも到達できるのです。

このような江戸幕府の大型官船でも、八丈島を目前にして、逆風の為、三浦半島まで吹き流されることがしょっちゅうあったそうです。左の幕府の官船は流人を島へ送る船です。近藤富蔵の「八丈実記」から転載した図です。http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0701syoko_kara03.htm 

このブログは「山林・杜の人のブログ」---クルーザーヨットのブログーーーという名称なのにヨットの記事が最近無いので、ヨットの記事を掲載します。(終わり)


「八丈島からの実況放送」

2009年02月03日 | 旅行記

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ここはホテルのロビー。眼前の大きなガラスの向こうに太平洋が広がっている。左手の遠方には急峻な絶壁が海へ落ち込んでいる。八丈島は雄大な火山島だ。三原山と八丈富士という火山が東西にある。ひょうたん形の大きな島である。3日間レンターカーで島の隅々まで走りまわり古民家村や歴史民族資料館を丁寧に見た。心のこもった島料理のお膳や島で取れた魚の握り寿司も食べた。強風で定期船も航空便も欠航になり、予定に無かったもう一日をこのホテルに泊まることになる。
時間が出来たので八丈島の第一印象を島に居る間に書き残して置きたいと思う。
まず植物が決定的に違う。関東地方によく見られるケヤキ、クヌギ、コナラなどの落葉雑木林が一切無い。松や杉のような針葉樹も無い。山にビッシリ繁茂しているのは数種のヤシ、タブの木、多くの種類のシダ植物、アロエ、ハイビスカスなどの花々などである。植物の専門家でないが一見沖縄の山の植物とあまり変わらないようだ。熱帯性の植物が溶岩や火山灰の急な斜面に成長している。
火山のスケールが大きいのでハワイ諸島を連想させる。景観の規模が大島や神津島などの伊豆七島に比較して数倍大きい。気持ちがゆったりとして豊かな気分になれる。特にここ八丈ビューホテルのロビーは三方が総ガラス張りで太平洋が一望できる。

土地が溶岩や火山灰に覆われていて作物が出来ない。良い質の米も採れない。したがって日本の水田農村に比して昔から苦しい生活が続いていた。東京都は大きな支援をしているが、経済的にはまだまだである。車で3日走り回り家々の材質を見れば明らかだ。
しかし、しかし、とくりかえし強調したいのだが、昔の日本の親切さや人情がいきいきとして存続している。今回の旅行のアレンジをしてくれた会社のおばさんに島の人々の親切さを色々聞いた。このおばさんは東京から20年前に島に移住し子供も島で大きくなった。
この島では家々のカギをかけない。車のカギも四六時中さしたまま。朝起きてみると玄関先に新鮮な野菜が置いてある。近所の人が朝とれたものを置いておくそうだ。島の外から移住して来た人々にはとても住みよい所だと何度も言う。
第一印象の結論は「繁茂する熱帯性植物」と「昔の日本人の良さの温存」の二つといえる。

窓の外の太平洋には雨雲がますます黒くなり、風が一層強くなってきたようです。
もう一泊する覚悟をしながら第一印象の報告を終わりとします。八丈ビューホテルのロビーにて。(眼前の太平洋には夕霧がかかっています、、、)  藤山杜人

2009/01/30 14:55に書いた文章です。

補足:「1838年に代官、羽倉簡堂の見た八丈島の風景と生活状況」

1838年に下総、両野、伊豆、伊豆諸島の代官だった羽倉簡堂が伊豆七島、御蔵島、八丈島を視察し、「南汎日録」を書いている。
小生の見た現在の八丈島と同じ記述、違う点を簡略に記して補足とする。
まず植物や山々の風景は琉球(沖縄)に似ている。人々の習俗も琉球に似ている。と、書いてあるが、小生の印象と一致している。
江戸幕府の出先役所の玉石の石垣に囲まれ、ヤシやソテツ類が繁り、ウグイスがしきりに鳴いていた。この風景は現在も全く同じ。
一つだけ決定的に違う風景は、あちこちに棚田があり二毛作で稲を盛んに栽培していた風景です。その水田風景は現在は完全に無くなっています。
「あそこ寿司」の主人も水稲のことを話していた。何故無くなったのですか?という小生の問いに対して、減反政策ですよと笑っていました。秋田コマチやヒトメボレやコシヒカリのような良質な米は取れないので農家は止めてしまったそうである。
「南汎日録」には他にも面白いことが多く書いてあるが、とりあえず補足的な内容のみここに記す。


江戸時代の八丈島役所と玉石垣の里

2009年02月02日 | インポート

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大和朝廷のころは形式的には駿河の国へ属していた。直接的な支配は室町時代末期に北条早雲の家来が代官として大賀卿村の大里に陣屋を作ったころから始まる。それ以前は室町時代に鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉憲顕が派遣した代官も居た。しかし、船旅の危険が大きいためほとんど独立的な孤島であったと思われている。江戸幕府は早雲の派遣した代官の陣屋跡に島役所を作り、八丈島を江戸幕府の直轄領にして直接統治し始める。

幕府は、独特の染め方をした絹織物、黄八丈を年貢として納めさせた。

江戸時代になって始めての流人は関ヶ原の合戦で敗れた秀吉の家老であった宇喜多秀家とその付き人一行である。それ以来幕末までに合計1917人の流人が八丈島へやって来た。

江戸幕府の島役所は島の中央部の南岸の八重根港のそばの高台の上にあり、その付近には大里と呼ばれるが出来た。島役人とその家族の住む家があった。その屋敷の回りには流人が営々として海岸から運び上げた玉石の石垣が出来ている。現在も石垣は大里の中にあり、その中の家には人々が住んでいる。ここに示した写真7枚はその様子を示している。特に最後の写真は江戸時代の島役所の敷地跡で、現在は大里というバス停があるのみで建物は無い。しかし回りの家々は江戸時代そのままの玉石垣で囲まれていて八丈島の昔の面影を残している。見逃せない場所であろう。

撮影日時;1月31日午前10時頃、(終わり)


さるびあ丸で八丈島へに行きましょう(3)いよいよ八丈島へ着きます

2009年02月02日 | 旅行記

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朝は明るくなったらすぐに起床しましょう。船のデッキへ出ると南方向に上の大きな写真のように左に東山(三原山)、右に八丈富士が連なる八丈島が横たわっています。その右(西方向)の海上の八丈小島が見えます。船は北から近ずいています。右が西、左が東です。島には北側に底土港と南側には八重根港の二つがあり風向きによって着岸する港を選んでいます。今日は北側の底土港に着岸します。

このさるびあ丸と同形の かめりあ丸の航行中の姿を八丈島に一泊した翌日の9時頃に南溶岩原から写真に撮りました。下の写真は朝霧にかすんだ かめりあ丸が八重根港へ向かっている姿です。

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これで八丈島までの船旅へのご案内を終わりと致します。おつかれさまでしした。

(終わり)


さるびあ丸で八丈島へに行きましょう(2)飲みながら楽しむプライベートデッキへご案内します

2009年02月02日 | 旅行記

お独りで旅をする。アルコール飲料は嫌いではない。そんな方へのご案内です。

まず芝浦客船ターミナルで予約していた乗船券を受け取ったら中にあるレストランへ入って生ビールのジョッキを一杯だけゆっくり飲みます。ようく内装をご覧ください。カンターの下が玉石垣になっています。八丈島の江戸幕府の島役所の回りのの玉石垣を摸したものです。玉石垣のを散策することを想像しながらジョッキを傾けていると乗船開始のアナウンスが流れます。でもあわててはいけません。500ccの缶ビールを1ケだけ買って乗り込みます。乗って船室に荷物を置いたら船内を一回りし緊急脱出の道筋を見て置きます。船室に戻ったら救命胴衣を出して確認します。それだけ済ませば、デッキに出ていよいよ缶ビールを飲み始めましょう。

下の4枚の写真はデッキのテーブルの上の缶ビール、レンボーブリッジ夜景、出港後その橋を下から見上げた夜景、そして羽田空港前を過ぎて川崎の扇島の夜景を示しています。肉眼では夜景が鮮明に見え美しいものです。美しい夜景を楽しみながらゆっくりビールを飲みましょう。

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ビール缶が空になるころに横浜のみなと未来の大観覧車の電飾が見えてきます。出港後約1時間です。そうしたら下の写真のように持参してきたウイスキーの小瓶とグラスを持ちだしてきます。

チビチビ飲んでいると観音埼の灯台の強烈な点滅が見えてきます。出港後約2時間後です。その頃になるといささか酔いが回って来て夜景がくるくる回り出します。

下の3枚の写真はウイスキーの小瓶のグラスの写真とくるくる回る夜景の写真2枚です。

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観音埼の灯台を過ぎても浦賀、久里浜、三浦三崎の灯が遠くにかすんで見えます。

少し酩酊しているので屋外に居ても寒くありません。幸い20ノットで走る船と同じ方向へ20ノットの風が吹いているようです。心地良い夢心地になりますが、船室へ入ってベットで眠りましょう。時計を見たら午前1時30分でした。

明朝は八丈島へ着くことを想像していたらすぐに眠ってしまいました。(続く)


マザーテレサの言葉が全てを語っています

2009年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログで今日、「宗教で寛容の気持ちが一番重要です」という趣旨の記事を掲載しました。

それに対してオカブさんからコメントを頂きました。その後半をここにご紹介いたします。最後のマザーテレサの言葉が全てを語っています。

=====オカブさんのコメントの後半です=========

前半分省略、、、、、しかし、私が憂慮する第二、第三のキリスト教の非寛容の弊害は、「福音派」プロテスタンティズムの政治的干渉による、アメリカの対イスラム強硬路線外交であり、さらには私達の身近に見られる、キリスト教による日本の伝統宗教への否定的態度です。この二つにより、近年、日本におけるキリスト教界は未信者である一般の方々による支持を決定的に失っていると言えます。
もちろんキリスト教が「世に媚びる」必要は毛頭ないのですが、前者はまさにキリスト教原理主義が皮肉にも「非聖書的な」価値観に基づき、特にパレスティナの安寧に対して「サタン」の行いを実践していると言っても過言ではないし、後者に関していえば、日本の神道や仏教というものは形式的には神仏への礼拝という形をとりますが、「カミ」も「ホトケ」も、キリスト教の「主なる神」の概念とまったく接点を持たないものであり、キリスト教と対立するものではないこと。すなわち、純粋にいえばキリスト教を宗教とするならば仏教・神道は宗教にあらず、仏教・神道を宗教とするならばキリスト教は宗教にあらずということでしょう。マザー・テレサは瀕死のヒンドゥー教徒の患者に「最高のヒンドゥー教徒になりなさい」と教えたそうです。
「宗教に大切なのは寛容の気持ち」という御テーマは最も私達が心しなけらばならないことと申せると思います。

正統的なキリスト者からすればご批判もありましょうが、小人、駄文を草した次第であります。

(終り)