後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

将来の日本人が考えるべき課題と目標

2009年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム

科学技術や経済の分野でアメリカに追いつき追い越せという目標もかなり達成された。それに従って、日本人の人生観も変わって来た。フリーターの増加などがその一例。人生観が変われはライフスタイルも変わる。

最近の日本人は勤労意欲が無い、礼儀を知らないと、よく老人が言う。

しかし、趣味を通して若い人々と付き合ってみると、彼らは老人より礼儀正しい場合が多い。戦後の苦労を知らないので、性格も素直で明るく育っている。要するに育ちが良いのだ。これは素晴らしいことである。

戦後の殺伐とした社会が消え、豊かになれば勤労意欲も少なくなるのは自然な現象である。

さらにインターネットの普及は趣味に関する情報の交換を容易にし、多様な趣味が若い人々の間に広がって来た。

高度成長時代の立身出世主義は心を貧しくするが、それもバブル経済の崩壊で歯止めがかかった。趣味の世界が広がり日本人の心も豊かになった。

しかし、Quality of Life-人生の文化的な質ーを考えると欧米諸国にまだまだ劣る。将来の日本の課題は人生の質とは何か?もっと明確にして、そのレベルを上げることを目標に すべきと信じている。

皆様からの多様なご意見を頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。   藤山杜人


日本の高度成長とバブル崩壊の後で残った欧米のQuality of Lifeとの格差

2009年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

個人一人あたりの年間収入や銀行貯金高を比較すると日本人は世界のトップクラスになる。しかし生活の質は欧米先進国に比較するとまだまだ貧しいのが現実です。

新幹線の乗車料金や高速道路の通行料が格段に高いのです。近所にある美術館の数が少なく入場料金が高いのです。クラシック音楽会の入場料が高いのです。ヨットやモーターボートのマリーナが少ない上、係留料が高いのです。住宅が小さい上に値段が高いのです。その上、住宅が密集していて周りに緑豊かな林が無いのです。

都会には病院が多いのに地方には少なすぎるのです。東京や大阪に良い学校が集中しすぎているのです。すべてQuality of Life を低い方向へ引っ張っています。

何故このような社会現象が改善されないままになっているのでしょうか?それは政治家だけが悪いのではなく、人々一人一人が人生の質というものを深く考えないからだと思います。お金があれば外食や美食で使ってしまう。それは「宵越しの金は残さない」という文化が関係しているのかも知れません。

日本人の人生の質を考えると欧米・・・スウェーデン、ノルウェイ、イタリー、スペインはおろか東ヨーロッパのポーランドやロシアにも劣っているかも知れません。それで大雑把に言って世界20位と申し上げているのです。(理由の一つは、欧米諸国のアフリカ、アジアの植民地からの富の蓄積が社会資本として残っているからです。)

自由民主党に代わって民主党が政権を取っても何も変わりません。

人々が人生の質とは何か?どうしたら向上できるか?深く考えて、政治家に提案しないと一向に変わらないと思います。

皆様は日本の将来をどのようにすれば良いのか?具体的にお考えでしょうか?政治家に考えてもらうという態度は民主主義とは違うと信じています。

ご意見を頂ければ嬉しく思います。(終わり)


日本の高度成長とバブル崩壊の後で残った歓迎すべきいろいろ

2009年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

1964年の東京オリンピック開催、新幹線の開業、高速道路の開通、から高度成長が始まったと言います。その経済が泡のように崩壊したのが1990年頃です。経済分野によって崩壊現象の起きた時期が少しずつ違うので「頃」と言います。1990年頃の日本のGNPはアメリカに次いで世界第二位でした。そしてその後でバブル経済の崩壊が起きたのです。

バブル経済の崩壊によって倒産したり、失業した人々には現在でも深い同情を感じています。しかし高度成長時代の拝金主義が消え、世にはばかっていた社用族が消え、社会全体が静かな健全な雰囲気になったのです。そのことは私にとってとても嬉しいことでした。そして人々のモラルが上がりました。

遠方に山小屋やヨットを放置状態にしている私には、この社会モラルの急激な向上が体験できたのです。

1990年以前には、山小屋の周りに勝手に入り込みビールやジュースの空き缶を捨てる人がいました。ヨットの上に無断で登り、そこから釣りをする人が居ました。ところがバブル経済の崩壊後はその様に無作法な人が消えてしまったのです。日本人の民度が急に上がったようで嬉しい限りです。

そのころから日本人は経済以外の分野で世界的な活躍を始めます。絵画、彫刻の分野は当然にして、ヨーロッパのオーケストラやオペラの世界で常任契約をして活躍する音楽家が増えて来ました。それと同時に海外の貧困国で人々を助けるボランティアの数も増えて来ました。

我々戦前生まれの日本人はなんとはなしに欧米人に対して劣等感を持っていました。しかし近ごろの若い人たちはその様な感情を一切持っていません。欧米人もアジア人も黒人も何の違いも無く、ごく自然体で付き合っています。そのことが私にとって非常に嬉しいのです。

経済の高度成長とバブル経済の崩壊の両方があったお陰で日本人の社会から拝金主義が消え、社会全体が芸術や文化を重視するように変わったのです。こんな嬉しいことは有りません。もちろん毎日の新聞には相変わらず凶悪犯罪や汚職のニュースが絶えません。しかし戦後の荒廃した頃の日本の犯罪の数や凶悪ぶりに比較すると改善の方向へ変化していると思います。

巨視的に考えると日本は益々良い国、そして住み良い国になっていると思います。しかしまだまだ改善の余地が大きいのです。それはGNPで世界第二位になっても生活の質は世界第20位と推定されるからです。世界で第20位くらいとは私が大雑把に申し上げている数字です。信用なさらないで下さい。それにしてもなぜ20位と私が思っているのでしょうか? その理由はこの記事のすぐ後の続編でご説明致します。(続く)


日本の高度成長ぶりを写真で見る

2009年06月19日 | 写真

0032_1

上の写真は1963年に小金井市本町小学校西交差点から北に向かって撮影した写真です。私達一家が小金井市のこの近所に引っ越してくる前の年の風景です。道路は砂埃の舞い上がる土の道で、交差点には信号機が一切付いていませんでした。道の左手に酒、味噌、醤油、野菜などを売るよろず屋が一軒あるきりでした。その周囲には畑になっていて野菜が伸びています。この道の奥の左側には現在は消防車庫になった火の見櫓があり、その向こうは当時としては贅沢な鉄筋コンクリート4階建ての公務員住宅が並んでいました。引っ越してから食料品はこのよろず屋から買っていました。仲良くなりずいぶん長い間のお付き合いでしたが現在は有りません。

下の写真が現在の同じ場所の写真です。道路の左にある果物の看板のある八百屋さんが昔の万屋の跡地で商売をしています。

日本の高度成長の結果、土の道は完全舗装され信号機も付きました。道路の両側から畑が消え、住宅や商店が綺麗に並んでいます。泥や土埃が完全になくなり清潔な街路になりました。その後、この通りで繁盛していた肉屋さん、本屋さん、電気屋さん、お茶屋さん、写真屋さんなどの個人商店が数年前から一軒一軒と消えて行きました。スーパーや大型店のみが生き残りました。日本の経済の高度成長のお陰で我々の生活レベルは格段良くなったのです。

下の写真と比べて見ると1963年の日本の貧しさが肌に感じることが出来ると思います。

日本は経済的には世界の一流国になりました。しかし経済分野以外ではどうでしょうか?

続編で少し反省をして見ます。

なお1963年の写真の出典は、小金井市教育委員会、編集・発行CD「写真でたどる昭和の小金井」 です。(続く)

010


外国で日本の自慢をしますか?何を自慢しますか?

2009年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

外国で堅苦しい夕食会のあとで丁度2次会のように気の合った仲間だけが集まってビールを飲むことがあります。肩の力を抜いて、気軽に会話を楽しみます。そうすると故郷の自慢話になることもあります。私は、春に爛漫と咲き誇る桜の美しさ、富士山の均整美、山の紅葉の艶やかさ、などを自慢します。それに犯罪が少なくて町が清潔です。とにかく旅行を心から楽しめます。しかし私がいくら自慢しても皆はあまり感心しません。そのようなことは外国の新聞やテレビで先刻ご承知だったのです。

ところがある時、非常に熱心に聴いてくれた話をすることが出来たのです。それは260年にわたる隠れキリシタンの話でした。

特に1865年、フランス人のプチジャン神父が、長崎の大浦に天主堂を建てたときの隠れキリシタンが出現した話をすると皆が熱心に聴いてくれます。

現れた隠れキリシタンの一人がプチジャン神父へ言います、「神父様、われわれは幕府の禁教に耐え、キリスト教の信仰を260年間、捨てませんでした。いつかは海の向こうから神父様がもう一度やって来て天主堂を建ててくださると、世々代々信じてきました。それがこの大浦の天主堂なのですね」

日本人ならよく知っているこの話を欧米人は知らない。外国のマスコミには出ない話なのです。ですから、1865年に大浦天主堂でプチジャン神父が体験したこの話をすると皆素直に感心してくれます。そして、そんな例は欧米には無いと言う。そして急に日本人を尊敬するような話を始めるのです。中央政権の圧政に根気よく耐えながら信仰を守ることの出来る民族は素晴らしい。と、言ってくれる人も現れました。

この話は日本の自慢話の決定打と思い度々使いました。しかし、その導入にはまず仏教の話をします。そして日本がどんなに素晴らしい仏教国かという話をします。

つい長い話になるので、皆でビールを飲む会が長時間になるときの自慢話です。短いパーティーの時はしません。さて皆様の日本自慢の話はどのような内容でしょうか?

最後に大浦天主堂の内陣の写真を2枚添えます。出典は:http://park10.wakwak.com/~cdc/nagasaki/ouracatc/index.html です。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。 藤山杜人

Ouratenr1 Ouraten81


世のはかなさを思わせる場所、悲しい思いをさせる場所

2009年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム

東京駅前の旧丸ビルが無くなった。有楽町駅前の日劇ビルや朝日新聞社が消えてしまった。時の移ろいに何か空しい思いがします。

そして、よく買い物をした近所の馴染みのお店が突然倒産して消えてしまいます。跡地には見知らぬ商売が始まります。常日頃なじんで、生活の一部になっていた店が消滅するのです。暗く、悲しい気分になってしまうものです。この悲しさは年月が過ぎても忘れられないものです。

下の写真の回転寿司の店のあった所には、広い温室に熱帯の花々をあふれるように飾っていた園芸店・花屋さんがありました。店も広くて2棟の店内には鉢植えの花々が沢山売っています。店の前には蜜柑、柚子、柿、栗、葡萄の苗木が小さな実をつけて売っていたのです。毎年、年末になると見事なシクラメンの鉢を買うのが家内の楽しみでした。八重桜の苗やライラックの苗も買いました。何時行っても四季折々の花々が豊かに飾ってあるので、植物園へでも行くような気分で家内と散歩のように通ったお店です。

40年くらい前でしょうか、背の高い物静かな青年が一人で花々の苗を育てていました。消えのこる雪の間に鮮やかに咲くパンジーの苗を買ったのが付き合いの始まりでした。間もなく陽気な体格の良いお嫁さんが来て、温室を建て、その数が次第に増え、商売が繁盛します。アルバイトの若い男女を大勢使うようになり華々しい雰囲気の園芸店になりました。

それが数年前に突然倒産消滅しました。張り切って花を栽培し、あちこちから仕入れて来て、売っていた陽気な奥さんと、物静かな夫の姿が消えました。あれ以来二度と会っていません。何処か遠方へ行ってしまったようです。

しばらく空地になっていましたが、突然この回転寿司がやってきました。私は消えてしまった花屋さんの思い出を楽しむために時々食べに行きます。寿司を食べながら、「ああ、この辺には温室が有ったなあ!色々なランの花々が有ったなあー」と、花々のことを鮮明に思い出しながら食べます。その折々の家内の明るく輝く顔も思い出します。

新しいお寿司やさんは、値段の割には努力している店です。その上、私の心の中には美しい花々が有るので美味しく食べることが出来ます。

しかし、それと同時に世のはかなさを感じ、悲しい思いにさせられる場所でもあります。

楽しくて、悲しくて、はかなくて、せつない。  老齢になるとそんな気持になるもののようです。

貴方様にはそのような場所があるでしょうか?(終わり)

013


オリンピックをした時、日本はこんなにも貧しかったのです

2009年06月18日 | 写真

1964年、昭和39年に東京ではじめてオリンピックが開催されました。その年は都市美化運動が行われ、都下の小金井市でも一斉にドブ浚い(さらい)が行われました。

下の写真は小金井駅から北方向へ小金井街道を行った所です。五日市街道交差点手前左側のある商店の前で近所の人々が協力し、ドブさらいをしている様子です。

この小金井駅へ行くメインストリートの汚さ、不潔さをご覧下さい。当時は下水道が無く、廃水は吸い込み式の穴に流し込んでいました。

戦後19年もたっても日本はまだまだ貧しかったのです。

その下の写真は同じところの写真です。昔あった商店が跡形もなく消えて、美しい歩道と街路樹があります。私は日本が貧しかった頃のことを絶対に忘れないようにしています。なお、1964年の商店のドブさらい の写真の出典は、小金井市教育委員会、編集・発行CD「写真でたどる昭和の小金井」です。(終わり)

0058_1 003


「一生忘れられない大失敗」

2009年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム

これは仕事の上での恥ずかしい失敗の話です。あるとき、自分ながら見事な論文が書けたと有頂天になり、アメリカの学会誌へ投稿したのです。印刷公表される前に厳重な審査があるので有名な学会誌です。しばらくして恐ろしい審査結果が返ってきました。
 「この論文は非常に重要な問題を提案している。しかしその解答のための数学に大きな間違いがある。しかし、新しい重要な問題を提案しているので没にしないで、一度著者へ返却した方が良い」
 その後いくら検討しても数式の間違いは見つからない。自分の数学の学力不足なのです。仕方なく訂正なしで返送しました。編集部から間違いがあるが重要な問題提起なので急いで公表すると連絡がありました。

そして、翌月に間違ったまま掲載になりました。間違った論文が世界中へ公表されたのです。 

数式の間違いを自分で見つけたのは3年後でした。
 どの学会誌でも審査員は匿名です。公平な審査に感動して学会誌の事務局へ手紙を送りました。「非常に公平な審査をして頂いたので審査員へ御礼の手紙を出したいので、住所・氏名を教えてください」、と書きました。
 審査員はクリーブランドにある大学のクレーガー教授でした。お会いしたことは無かったが、有名な研究者でした。私は、「審査が素晴らしかった、感動したのでお礼状を差し上げます」と、航空便を送りました。 教授からは感謝してもらって嬉しいという短い返事がきました。
 クレーガー教授に一度は会ってみたいと思いつつ、年月が流れて行きました。しかし、十年後の1990年に、オハイオ州立大学で偶然会えたのです。クリーブランドの大学を引退しオハイオの大学の客員教授で夏の三カ月だけ来ていたのでしただ。自己紹介の後、「クレーガー先生、1980年に私の投稿論文の審査をしてくれたのを憶えていらっしゃいますか?」「ああ、良く憶えているよ。審査結果に感動してお礼状をくれたので特に憶えているよ」「日本では些細な間違いでも没になります。寛大な審査でしたので感動したのです」「そうですか?あの審査結果の報告の形式はアメリカでは普通で、アメリカ人からはお礼状なんて来ません」
 聞けばオハイオでは小さな論文を一つだけ書けば良いので毎日ゴルフに行っているとのこと。ただ車が無いのでタクシーで通っているという。
 すぐに送り迎えを申し出て三回ほどゴルフ場へ通う。四回目に、「勤務時間中に来てもらうのはやはり遠慮するよ」と丁重に断られる。あれ以来会っていないが永年の借りを返せたようで何か気持ちが良い。自分の数学の学力不足が大失敗へ繋がったのです。人生にはその様な苦い失敗が数多くあるものです。(終わり)


ルノーという乗用車を憶えていらっしゃいますか?

2009年06月17日 | うんちく・小ネタ

1958年に大学を卒業し、留学し1962年に東京に帰ってきました。そして1964年の東京オりンピックの年に小金井市へ引っ越しました。1958年から1964年頃まで日本の町を我がもの顔に走り回っていた車はアメリカの大型車でしたが、その中で注目を集めていたのがカブト虫形のフォルクスワーゲンとフランスのルノーでした。フォルクスワーゲンは空冷2気筒の後部エンジンでした。一方、ルノーの方は水冷4気筒の後部エンジンで観音開きのドアでした。1962年から数年間、東京の小型タクシーとしてずいぶん乗った記憶があります。実に独創的な車で、形はカブトムシ型ですが流れるようなスタイルで、サスペンションは独立懸架、加速性も良く、流石、水冷4気筒と感動して、タクシーに乗るときはルノーを探して乗ったものです。

あのように独創的で、癖の強い、乗って楽しい車にはその後、2度と会っていません。フランスの文化を背負っていたのでしょう。JR武蔵小金井駅北口の1964年頃の写真の左手前にルノーが写っています。年輩の方はきっと懐かしい車と思いご紹介します。写真の出典は、小金井市教育委員会、編集・発行CD「写真でたどる昭和の小金井」、です。

0026_2


梅雨の合間にセイリングして来ました

2009年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム

オリビア号というヨットに乗っておられるセニュールさんから久しぶりにコメントを頂きました。彼のヨットのブログ:http://plaza.rakuten.co.jp/exolivia/ を見ていましたら三崎港のゲスト岩壁や小網代湾のヨットの風景などの写真が沢山あります。刺激を受けて、今日は久しぶりに霞ヶ浦でセイリングをして来ました。天気がいま一つで、鮮明な写真が撮れませんでした。2枚だけ掲載致します。(終わり)

020 048


今年は自宅の庭で潮来のアヤメが楽しめました

2009年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム

昨年の6月に水郷、潮来のアヤメ祭りへ行き一面に咲いた花々を楽しんで来ました。道のそばで小母さんが、どうせ花を買うなら根株付きの花を来なさいと言います。その上、水盤への植え方や来年花を咲かせるための方法を色々教えてくれました。忠実にその通りしましたら一年後に5株全てが咲きました。下の写真は4番目と5番目に咲いたアヤメの花です。潮来は遠方なので今年は失礼して、自宅の庭で楽しむことにしました。一面に咲いている様子は「潮来アヤメ祭り」として検索すると日々の開花の様子の写真が沢山見れます。お楽しみ下さい。(終わり)

010 008


教養としてのキリスト教(14)貧困層を解消しようとするキリスト教

2009年06月17日 | うんちく・小ネタ

イエスが神に祈る台詞は「主の祈り」として、信者は毎日のように唱えます。

「天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように。み心が天に行われるように地にも行われますように。私たち(全人類)の日ごとの糧を今日もお与え下さい。私たちの罪をお許し下さい。私たちも人を許します。私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救い下さい。」

上の(全人類)のところは私がイエス様のお気持ちを勝手に想像して入れた個所です。この「私たち」を信者だけに限定しない方がイエス様のお気持ちに近いと想っています。そしてイエス様はパンや魚を不思議な力で一瞬にして増やし群衆の一人一人へ分け与えたことも聖書に書いてあります。

イエスが歩き回った所は何処に行っても貧しい人々が居たのです。ですから貧困層の解消はキリスト教の大切な部分です。

しかし、現在、キリスト教が優勢な国々にも相変わらず貧困層が居ます。キリスト教は貧困層の解消には無力だったように見えます。

特にカトリックの優勢な中南米では貧富の格差が大きく、社会構造を変えないと何も変わらないと思うカトリックの人々が居ました。その結果、1960年代から1970年代に盛んになった「解放の神学」という一派が勢力を持ちました。

社会構造の変革をしようとした一派でしたので、中南米では共産革命をしようとする人々と協力しました。そしてニカラグラで独裁政府を倒し、出来上がったサンデニスタ共産党政府では3人のカトリック司祭が大臣になり、一人の司祭が米州機構大使の要職に着任しました。これは驚くべき歴史的な事実です。

ローマ法王はこの4人をいきなり破門にせず自ら辞任することを要求します。その後紆余曲折がありこの「解放の神学」の一派は現在はほとんど力が無くなっています。しかしこの歴史的事実は世界中の全ての人々へ重大な問題を与えたのです。

「宗教で貧困層は解消できるか?」、「共産主義は貧困層を解消したか?」、「宗教と共産主義が協力したら貧困層は解消したか?」。

皆様それぞれお考えになるようにお祈りいたします。(続く)

今日は皆様と一緒に貧困層が無くなるように心からお祈りしたいと思います。藤山杜人


あまりにも貧しかった頃と現在の風景写真の比較(1)未舗装の道路!

2009年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

小金井市教育委員会が古い市内の風景写真をCDにして今朝から売り出しました。早速買って来て、JR中央線北側にある自宅の前のバス通りの、1964年(昭和39年)と現在の全く同じ地点から国分寺方向を見た写真を比較の為に掲載します。

0046_1 004

更に当時の武蔵小金井尾駅北口広場のぬかるみの様子とトラックを改造した貧しげなバスの写真を下に掲載します。私たち一家が小金井にj引っ越してきたのがこの1964年でした。

すっかり忘れていましたが、当時の日本の酷い貧しさを思い出して、吃驚しています。(続く)

(写真の出典:小金井市教育委員会、編集・発行CD「写真でたどる昭和の小金井」より)

0080_2


流れる雲のように過ぎて行くネットの友人達

2009年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

貴方にはネット上で何人の友人がいますか?

お互いにコメントやメッセージを交換し、親しくなり本名とメールアドレスを送り、メールの上で付き合っているような人をネット上の親友と言えます。この様に親しい友人は私の場合は数名程です。この様な友人はかけがえの無い友人と思います。

しかしちょっとの間だけ急に現われて、フッと消えて行く大切な友人も居ます。丁度、青空を白い雲の塊が次から次へと流れるように、現われては消えて行きます。自分のブログへ掲載した写真や文章へ印象深いコメントを数回下さって、そして、スウーッと居なくなるのです。あるいは1回だけ強く印象に残るコメントを送ってくれ、その後二度と帰って来ない人も居ます。

このような体験は実社会ではあまりありません。初対面の挨拶の時の名刺の交換からお付き合いが始まります。ですからネットの場合のようにフッと消えてしまうことが無いのです。

少し抽象的に言えば、「深い心の交流の出来る人」を友人と思います。

そうしますと、ネット上の友人も実社会での友人も違いは有りません。ただ一つの違いは本名と住所が分かっているか否かだけです。

人生も老境になると実社会で知り合った友人や恩人が次々に亡くなってゆきます。白い雲が流れ去るようです。自分も色々な病気になり、旅立ちの日が少しずつ見えてきます。自分自身もやがては流れる雲になるのです。

ネット上の友人と実社会の友人の違いが曖昧模糊として来ます。老年にはむしろネット上の友人の方が現実味を持ってきます。より大切になって来ます。

しかし、ネット上の友人がある日、フッと消え去っても残念がるのは止めましょう。自分の心の中に生きているのですから。自分もある日、ネット社会から消えるのです。

消えた友人へ感謝の気持ちと限り無い愛惜を送るだけです。(おわり)

今日も皆様がネットの上で良い友人にお会い出来ますようにお祈り致します。藤山杜人


美しいブログ紙面を作る方法

2009年06月15日 | 写真

ブログは多数の人が見ます。ですから、なるべく美しい紙面にし、見た人の心が休まるように作りたいと思っています。自分の力だけでなく友人の力も借りて、美しい写真で飾りたいと思います。そこで北海道の「あとみん」さん、水戸の玲さん、琵琶湖のほとりの「ちひろ」さんなどのブログから何度も写真をお借りして私のブログを飾りました。また海外ではタイやネパールの風景写真を「ひかるの」さんのブログからや、南フランスの風景写真をparismidoriさんのブログからお借りして何度もご紹介してきました。他の方々のお写真を御借りするのですから転載のお許しを頂きます。写真が美しければ全て借用するのではありません。見た人の心が休まる写真でなければいけません。そうすると写真についている文章を読み、写した人が虚心坦懐に撮っているか?健康で平和な生活を送っているか?家族関係は?そして自分の境遇に満足しているか?などをなんとなく調べます。直接お会いはしませんが個人的なメールの交換もします。

玲さん、ちひろさん、あとみんさん、Hikarunoさん、parismidoriさんは皆、自分の境遇に満足し、毎日いきいきと生活しています。その様な気持ちで写真を撮るのですから見る人も元気になります。こうして私は自分のブログ紙面を美しく作る努力をしています。一例として今日は玲さんの2006年のブログ写真から花の写真2枚と袋田温泉の露天風呂と渓流の風景写真をお送りします。お楽しみ下されば嬉しくおもいます。

なお5人の方々のブログのURLは以下の通りです。

あとみんさん:http://furano2008.blog95.fc2.com/   玲さん:http://blog.goo.ne.jp/koiredawa

ちひろさん:http://blog.goo.ne.jp/hanamusasi    Hikarunoさんhttp://asiancloth.blog69.fc2.com/

parismidoriさん:http://blog.livedoor.jp/parismidori/

5ab917aa5fe38b38a84a9feee62484091 Ab343b1f16d996a1150f2856e498d86a1 Ebc306780ee58410df47b095ecdd7d341