後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

梅雨の無い北海道の爽快な写真をお送りします

2009年06月25日 | 写真

富良野の あとみん さんは富良野健康生活というブログで、いつも素晴らしい北海道の風景写真を発表していらっしゃいます。お許しを頂いたので今日はいかにも北海道らしい爽快な写真を2枚お送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。出典は、http://furano2008.blog95.fc2.com/ です。(終わり)

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日本の平和な生活はいつまで続くのでしょうか?(1)米露 の軍事衝突の怖さ

2009年06月25日 | うんちく・小ネタ

日本の平和な、そして豊かな生活が戦争で壊されるとしたら、北朝鮮の軍事的冒険がもとで日本海で戦争がおきる為でしょう。誰でもがそう思っています。ですから北朝鮮へ圧力をかけて疲弊させドイツの統一のように韓国と平和的に合併すれば良いと思います。

しかし北朝鮮に圧力をかけると窮鼠猫を咬むというように北側から軍事作戦を仕掛けてきます。そこで日本の近辺で戦争が起きないようにするにはどうすれば良いのでしょうか?

答えは単純ではありません。アメリカとロシアと中国は軍事的外交力を持っていて常に軍事的に優位に立とうと努力しています。この3国が日本海の平和の鍵を持っているのは明白です。

アメリカもロシアも中国も北朝鮮という軍事冒険国家を上手に平和国家へ変貌させ、その結果として自分の軍事的優位を確立する戦略を取っています。

日本の将来の生活はこの3国によって影響を受ける可能性が非常に大きいのです。この中で一番怖いのはアメリカとロシアの軍事的、局地的な衝突と思います。

ここで日本海から目を転じて、中央アジアのキルギス共和国で最近起きている米ロの軍事基地建設競争を見てみましょう。昨日、6月24日の読売新聞朝刊の7ページ目に「キルギスで米露綱引き」という解説記事があります。アメリカは現在まで年間40億円をキルギスへ支払ってマナス基地を借りてきました。一方ロシアはキリギスへ2300億円の経済支援をキリギスへ与える代償としてカント基地の49年間のロシア軍駐留を交渉しています。

読売新聞はアメリカがキリギスに基地を持つのは対アフガニスタンへの軍事拠点と言っています。これは日本のマスコミがアメリカの言いなりに報道する見本です。この基地を一番怖がるのはロシアです。地図をご覧下さい。キリギスは中国の国境を接し、ロシアの首都モスクワを無着陸で爆撃できる距離にある国なのです。ここに軍事基地をアメリカが持つことはロシアと中国が嫌がる軍事的外交なのです。将棋で言えば「王手、飛車、角 取り」の手に似ていると思います。ロシアの喉元に刃物を突き付けるようなやり方です。それが証拠にロシアは2300億円も出そうとしています。公平に見れば、アメリカのやり過ぎです。

キリギスという小さな国の中にアメリカとロシアの軍事基地が並存するのです。怖いと思いませんか?この事実が日本海の平和とどのように関係するのでしょうか?その可能性は続編で論じて見たいと思います。(続く)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。   藤山杜人


草の根外交の重要性と外務省の行う外交との違い

2009年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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(この写真は本文の内容とは関係のない挿絵です。昨年潮来から持ち帰った根株から7番目に咲いた花です)

国民の考えが一国の外交政策を決めるという建前の民主主義国、アメリカでは草の根外交が重要だとよく言われています。しかし我々にとっては、「草の根外交」などという意味が分かりません。

そこで、今日はこの「草の根外交」のことを考えてみましょう。

我が国の国際外交は政治権力者が外務省というエリート公務員組織を通じて行います。当然のことながら日本の外務省の行う外交政策は民間人の利益にならないことが多くなります。日本の在外大使館は国会議員の面倒は良く見ますが、民間人へは親切でありません。

これに対して草の根外交とは、民間の日本人が個人的に外国に住み、外国の人々を支援する活動を意味します。さらに草の根外交の意味を広げて、個人的に外国の人と付き合うことも含めます。人間同士の付き合いですから楽しい交際だけでもありません。嫌な目にも会いますし、酷く裏切られたりもします。この個人的体験を国の外交政策へ反映させるのは「選挙」を通してしか出来ません。

実例を一つだけ上げます。昔、韓国人に個人的に酷い目にあわされた人は韓国へ厳しい政策を主張している候補者へ投票します。また逆に韓国人に良いことをして貰った人は反対の政策を主張している候補者へ投票します。これが個人的体験を外交政策へ反映させる実行行為なのです。

しかし、国会議員の選挙の時、候補者が外交政策について明確な主張をすることはありません。国内政策や税金低減のことばかり詳しく主張します。ですから草の根外交はなんの影響力もないのが日本の現実です。日本では外務省の外交活動と草の根外交が断絶状態にあるのです。

アメリカ人の国家外交政策への民間人の草の根的参加の実例を一つだけ知っています。それはベトナム戦争でアメリカが負けて撤退した後のことです。アメリカ側へ協力したベトナム人が難民としてアメリカに逃れてきました。私のアメリカの友人はその難民を、20人近くも自宅に引き取って衣食住を与え、就職先を探して送り出したのです。全くのボランティアです。国家からは補助金など出ません。その数年後に、私が彼の家に数日泊まったとき、そのいきさつを詳しく聞きました。

彼の説明は以下のようでした。「国がベトナム難民を支援するという外交政策を決定したのでアメリカ人が個人的にこの外交政策へ協力しただけです。草の根として自主的に参加したのです。これが草の根外交というもので、近所の人々もベトナム難民を泊めていました」。

そして続けて言います。「その後しばらくしてボートピープルが出た時もアメリカ人は個人的にお金を集めて船を出し、ベトナム沖で難民船からベトナム人を助け上げたのです」。

アメリカ人は国家の外交政策は国民一人一人が決定し、一旦決まったら個人的に出来る部分に直接参加するのです。少なくともそれが民主主義と思い込んでいるようです。

日本の外交政策と比較して、皆様はどのようにお考えでしょうか?   (終わり)


今日は雨、そこでカトマンズの明るい花々の写真をお送りします

2009年06月24日 | 写真

朝から雨で気分が良くないので、せめて気持ちだけでも晴れ上がるように、花の写真を3枚お送り致します。カトマンズにお住まいのブログ上の友人の「ひかるの」さんが昨日撮影しました。彼の文章も悠々とした暮らしぶりを伺わせるのです。写真の下に転載します。

ひかるのさんとは東京で2回お会いしました。タイやインドやネパールに25年も住んでいます。Quality of Life のことを考えるとき、ひかるのさんの忙しい日本の生活から離れた人生を思い出します。質の高い人生の一つの在り方と思います。

今日も皆様のご健康と、悠々たる日常をお祈り申し上げます。 藤山杜人

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ネパールの暦で 雨の月 アサールの月が1週間過ぎてしまったというのに、 雨期入りの気配はない。
 今日も目覚め際に 窓の外を眺めると 空が灰色に曇っている。 いよいよ、雨かと期待していると 午前10時になると 太陽が顔を出した。 今日も暑い1日の始まりである。

 今日の計画停電は 午前中は 10時から正午まで、夜は8時から10時までの
 4時間である。 計画停電時間は 午前10時から始まったので、いつものように散歩に出掛ける ことにした。
 ふらふらと歩いているうちに 急に思い立ち、バグマティ上流にあるパタンの旧市街のバグマティ川沿いにあるナラヤン寺院まで足を向けることに決めた。歩くと片道2キロ以上ある。

 バグマティ川に沿って 対岸に2年前に出来たスラムを眺めながら、歩きづらい砂利道を進んでいく。路上の片隅に目をやると 紫色の昼顔らしい花が咲いている。はっとするような鮮やかな紫だ。夏の暑い陽射しなど もろともしていない。
 砂利道から UNの援助によって造られた公園の中に入っていくと、今、カトマンズの
 どこでも咲き誇っている花が咲いているが その名前は知らない。薄い桃色系のものと濃い桃色系など 花の色は何種類かあるようだ。
 公園を抜けた民家の脇には 芙蓉の花なのだろうか、これも太陽を目指して咲き誇っている。陽射しはどんどん強くなり、歩くことも耐え難くなる。カトマンズ庶民たちの洗濯場になっている広場までやってくると女の子たちが 花を摘んでいる。近づいていくと これ又、名も知らぬ花が咲き誇っている。女の子たちに聞くと 首飾りを作る花だと言う。
 この広場まで2キロ以上の道のりを歩いてきた。再び同じ距離を帰っていくことになる。
 今度は 来た道とは反対のバグマティ川沿いの道を歩くが、日陰はなく、いささか頭は ぼーっとしてくる、喉は渇くで 歩くことさえ苦痛になってきた。

 やっとの思いで 家の近くまで帰ってくると、パン屋の屋根を覆うように
 ブーゲンビリヤの花が 圧倒するような赤で咲き誇っている。
 これは 大した見ものである。
 パン屋のパンの味以上に凄いぞ。
 いっぺんに疲れが吹き飛んでしまった。(終わり)

(出典:http://asiancloth.blog69.fc2.com/)===ついでに彼との交信も====

ひかるのさん
ご無沙汰してしまいました。御元気なご様子を拝見し嬉しく思います。
ところで、ここに掲載してある「カトマンズの花々」を小生のブログでご紹介したいのです。どうぞ転載のお許しを下さい。一番目と三番目と十番目の3枚をお願いいたします。
御元気でお暮らし下さい。敬具、藤山杜人
2009-06-22 月 17:11:43 | URL | 藤山杜人 [編集]
藤山様
どうぞお使いになってください。
 暑い毎日が続くカトマンズです。
 カトマンズ市民は 皆 水不足の真っ只中にあります。
 お互いに顔を合わせれば、いつ雨が降るのだろうというのが
 掛け言葉です。

 宍戸様から メールを頂きました。
 全く見知らぬ人だったので 驚きましたが、藤山様の
 ブログのお仲間だったのですね。              ひかるの

朝鮮族自治区なんて突拍子すぎる!しかし、深い意味があります

2009年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は中国の朝鮮族自治区出身で中国共産党員の金さんの話を紹介し、日本人は朝鮮文化をもっと尊敬し、朝鮮族の人々ともっと友好的になったほうが良いという主張する記事を掲載しました。私の文章には日本にも朝鮮族自治区を作ろうという強い主張は書いてありませんでした。ただその可能性を考えてみませんか?という提案をしただけです。しかし、突拍子過ぎるし絶対反対というメールやコメントも頂きました。

とにかく、今日の記事に対して趣味人倶楽部の中で賛否両論の激しいメールやコメントを頂きました。
日本に朝鮮族自治区を作るのは私の主張ではありません。朝鮮文化を尊敬したほうが自分の文化も豊かになります、という主張をしたかったのです。

さて、ここで何故私が朝鮮族へ寛大な意見を持つようになったか?その個人的理由を書かないと不公平になると思います。
一言で言えば、1984年頃、「大韓民国金属学会」に招待講演によばれ大変親切な接待を受けたからです。個人的な恩があるからです。そのいきさつは長くなるのでいつか書きますが、要するに個人的な恩恵を受けたので韓国人の肩を持つのです。

しかし、実はそれだけではありません。私は欧米諸国で何度も差別され不愉快な思いをしました。その結果、差別する人々の心が貧しいことに気が付きました。

可哀相なのは差別されている人々ではなく、差別をしている人々なのです。その事が分かってからなるべく他人を差別しないようになりました。

差別されるより差別している人々の方が不幸な、悲しむべき存在なのです。自分を善い人間にしようと努力している人々は他人を差別、蔑視しないほうが良いのです。

この2つのことを書き加えて、色々な方々からのコメントへ対する御礼に代えたいと思います。
賛否、どちらにしてもコメントやメールを下さいました方々へ感謝申し上げます。

yuyuさんが私の真意を読みぬいて下さいました。そして私の文章の至らない部分を補強して下さいました。以下にそのyuyuさんのコメントをご紹介して、終わりにします。

========yuyuさんのコメント==============

日本の政府、官僚の支配の方法がお粗末なのでしょうね。百済、秀吉と古い時代から、関東大震災後、下らぬ流言から、朝鮮人を襲った事件。彼らを下に見る悪い傾向があります。占領地政策も支配そのものでしたから、反感のみが残りました。
私は多くの韓国アーティストとの親交があり、先方の政府や行政機関との正式な文化交流もしてきましたから、彼らを見下げる理由を見つけることはできませんでした。
寧ろ、日本の文化が中国から伝来するとき、朝鮮半島経由が多かったのです。このことは、奈良時代の遺跡からも十分証明されます。
尊敬に値する多くの学者、芸術家と交流してきましたから、お互いが尊敬しあう仲でもあります。
ある時、私が仲間数人と韓国ソウル特別市を正式訪問したことがあります。市には愛知県、犬山市、一宮市、江南市の尾張地区の首長の親書を携えてでした。愛知県の担当係長は頑張って、日本語と英語の二国語の親書を用意してくれました。
ところが出発寸前になって、県とソウル市は格が違うから親書を出した前例がないと、上司が断ってきました。
我々に利害はありませんから、親書のことは中止して出向きました。

先方は到着時刻に我々を正式に待ちうけ、次の年オープン予定の美術館館長まで市長室に呼んで待機してくれました。各都市への返礼は当然ですが、愛知県へも丁寧な口頭の返礼が有りました。
後日、国会議員のパーティーで、愛知県の知事に会ったので、其の話を伝えました。親書を封じた課長は叱りを受けたと聞きました。ソウル特別市は格式は日本の県と同格だったからでした。即ち、其の課長の偏見とお役人根性がそうさせたのでした。
そんな例から見ても、日本人の韓国に対する意識を変える必要は多分にあると思います。
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戦後の雰囲気が漂う新橋駅前

2009年06月23日 | 写真

東京の街街には一種独特な雰囲気がまとわり着いているところが多く有ります。江戸時代の屋台が連なったような浅草の仲見世通り、寅さん映画で有名な柴又の帝釈天の参道、昭和のモダンな雰囲気が漂う日本橋三越界隈、新宿駅東口から中村屋、紀伊国屋書店、伊勢丹へと続くなにか懐かしい雰囲気の通り、そして原宿や竹下通りの気楽な若者の群れる町。それぞれ独特の雰囲気があります。そして新橋駅を出て西側の広場へ出る度に、ああ戦後の雰囲気がまだ残っているなあ、と感じるのです。広場は綺麗に舗装され、向こうに蒸気機関車が飾ってある平凡な広場なのです。何故、終戦後の雰囲気があるのでしょう?そんなことを感じるのは私だけかも知れません。写真を3枚掲載します。ご意見を頂ければ嬉しいです。(終わり)

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苦難の歴史を持つ朝鮮族と友人になろうー朝鮮族で中国共産党員になった金さんから聞いた話―

2009年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム

朝鮮半島は中国に接し、昔から中国の歴代王朝の圧迫や侵略を受けてきました。また日本は海を渡って百済を助け高句麗を攻めました。近世になってからは秀吉軍が侵入し朝鮮半島の全域の寺を徹底的に焼き尽くし、陶工や職人達を多数拉致し、連れ帰りました。北に強大な中国、南には日本という場所にある朝鮮の歴史は苦難の連続でした。

しかし朝鮮の苦難は日清戦争や日露戦争のあと一層酷いものになったのです。日本が朝鮮を武力併呑してしまったのです。日本の統治は過酷を極め、全住民の名前を日本風に変えさせ、日本語の使用を強制したのです。朝鮮文化の抹殺をしようとしたのです。

1981年、中国の中国の瀋陽へ行ったとき親しくなった金教授の両親は、日本によって旧満州へ追われ満州開拓へ協力したそうです。終戦後、旧満州が中国共産党の支配下になった時、金さんは共産党員になったという。日本の支配と中国の支配の両方を体験した朝鮮族です。中国国籍はすぐ貰えたそうです。旧満州には多くの朝鮮人が住んで居たので、現在の中国には朝鮮自治区が数多く存在しています。中国政府によって朝鮮語と朝鮮風の生活が認められているのです。

日本と中国のどちらの支配が住みやすいですか?と金さんへ聞いたところ、言下に中国です、と言いました。日本は朝鮮を武力併呑した後、多くの朝鮮人を日本本国だけでなく樺太、満州、南洋諸島へ連れていって労働者として使役しました。兵隊へも駆り出して使ったのです。戦死者も多く、その上、1945年8月6日にソ連が樺太や旧満州へ侵入してきた時、日本人は朝鮮人を置き去りにして引き上げてしまったのです。

中国人の他民族の支配は長い歴史があり、賢明な支配の仕方が出来上がっている。食生活、生活習慣、宗教は可能なかぎり自由にするという。金さんの勤めている大学の学生食堂には、回族学生ための料理人が居て食堂も別棟になっているという。

日本の支配の仕方は、創氏改名のように名前から変えさせ、朝鮮語を禁止し、反感を買ったのです。日本人はその罪滅ぼしをするように心がけながら、韓国や北朝鮮の(政府ではなく)民間の人々と個人的な友人になるように努力したほうが良いと思います。

在日韓国人・朝鮮人に対する差別もまだ有るようで心配です。一切の差別を無くせば、日本人にとっても、もっと住みよい国になると思います。(昨年、小金井公園で撮った李朝宮廷芸能の写真を挿絵として添えます)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。      藤山杜人

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この拙いブログへのアクセス数の多さに感謝します!

2009年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

今日の東京地方は朝からドンヨリした梅雨空で、今にも降り出しそうです。憂鬱な気分です。

こういう日は楽しいことを書いて爽快な気分になるのです。何か愉快なことは無いかなあ?と考えていましたら気分がウキウキすることを思いつきました。

昨日のこのブログへのアクセス数が418件もあったことです。クドクドと書き込んだ長文の記事を毎日2、3本掲載しています。我ながら出来の悪い写真を毎日4、5枚大きく掲載しています。

つまらない題目の随筆を書くだけのブログです。趣味といえばヨットと山林の中の小屋だけです。芸能界のことはサッパリ知りません。スポーツ音痴です。軽妙洒脱な語り口も出来ません。ただただ長い駄文を書きこむだけです。それなのに見て下さる方が、昨日は418人もいらっしゃったのです。気持ちが明るくなります。憂鬱な梅雨空など忘れてしまいました。

このブログを始めてから、「一日のアクセス数は200以上」 という目標を設定して、毎日努力してきました。ところが6月に入ってから、一日のアクセス数の一週間平均が300以上という日が続いています。昨日など一週間の1日当たりのアクセス数の平均が359件でした。

ブログのアクセス数を増加させるためには、芸能界の話題やグルメ記事を鮮明な写真とともに多数掲載するのが良い、と聞きました。お笑い芸能人の記事もアクセス数を増やすとも言います。しかしこのブログにはそのような内容の記事は一切有りません。知らないので書けないのです。

それなのに世の中の皆様はこの長文だらけのブログをご覧になって下さいます。私は心の中から深く感謝しています。

本当に有難う御座います。感謝申し上げます。 藤山杜人


豪華なヨットのキャビンを独り楽しむ

2009年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

先日の夜のセイリングのことです。海の上から見た街の夜景が素晴らしいので皆は外に居ます。キャビンの中は何時も誰も居ません。

美しい木で出来た内装を楽しむために独りでビールを飲みました。テーブルも椅子も重厚に出来て居ます。外の木製の甲板とともに有名な岡崎造船で改良したそうです。日本一美しいヨットを作ることで有名な瀬戸内海の岡崎造船です。仕事をしたのは71歳の老職人で、最後の仕事と言っていたそうです。外の舵輪のところに居る船長のOさんが静かな声で話をしてくれました。良く出来た内装のキャビンで独りビールを飲むのは楽しいことです。

キャビンの壁には大きなテレビがあります。船の前方の映像を暗夜でも鮮明に映し出します。キャビンの中からでも、リモートコントロールで舵を動かす操舵装置がついています。レーダーもGPSも全ての電子機器がついているそうです。自動水洗トイレも前後2ケ所についています。寝心地の良さそうな寝室も前後に3つあります。全部で8人は泊まれそうです。

このような内部の構造を考えた人々の偉さを想像しながら、ビールを飲むのです。テーブルの向こうに見える冷蔵庫には持ち込んできた発泡酒という軽い味のビールが沢山残っています。外から船長のOさんのくゆらせている葉巻の香りが流れ込んできます。

夜のセイリングの楽しさは街の夜景を見るだけではありません。実はキャビンの中で飲むビールも楽しいものです。下に、外の様子と、キャビンの中を撮った写真を掲載します。(終わり)

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娘が殺されても銃規制へ賛成しないアメリカ人

2009年06月22日 | インポート

個人が銃を持つ権利は憲法で決まっていると、アメリカ人はよく言う。そのように解釈される文章があると言う。

それにしても、あまりにも痛ましい事件だった。親しい友人の娘のことなので、心が痛む。しかし、アメリカ社会が銃を持つ自由で成立していることを日本人が深く理解するために書くことにした。

 オハイオに住んでいた1960年、1961年に良く遊びに来てくれたアメリカ人一家がいた。その可愛い娘が十年後に恋人の男性に射殺された。それも自宅の庭の中で。その恋人の男は永い付き合いで家族同様に娘の自宅に出入りしていた。銃声に、ある予感を持った父親が引き出しからピストルを取り出して飛び出していく。娘が裏庭の芝生の上に倒れている。男の姿は無い。娘が20歳になった年の夏のことだった。

 それから、10年後、1980年にその一家の自宅に泊まる。18年前に、その娘のかわいい姿をオハイオで何度も見ているので、お悔やみの言葉を言う。しかし慰める言葉も無い。いずれは結婚してくれると信頼していた青年に殺される。あまりにも痛ましい。

 「日本ではピストルの規制が厳しく、個人がピストルを持つことは無い。アメリカも日本のようにすればこんな痛ましい事件は起きなかった」 と、私が言った。

 父親は引き出しからピストルを取り出して、私に持たせ、「よく見ろ」と言う。

 「日本のことは知らないが、アメリカ社会の自由と平等はピストルを持つ自由で成り立っている。娘を殺した男は絶対に許せない。しかし、それだからと言ってアメリカ社会の銃器保持の自由を廃止するという論理が理解できない」

 「物騒なものが手元にあるから使う人が出るのでは?」

 「危険な道具を使うか否かは人間が決めること。道具が人間に使えと命令するはずが無い」

 「でもアメリカでは銃を使った犯罪が多すぎませんか?」

 「このピストルは一度も使ったことは無い。使わなくてすむように賢明な生活をすれば良いのです。銃を使用した犯罪は自由社会の代償であり、仕方のないことです」

 「銃使用の犯罪は自由社会の代償ですか!」

 娘を射殺した男は逮捕をまぬかれ、遠くの州へ逃げて行ったそうである。その数年後、男は外国から両親へ謝罪の手紙をくれたそうである。その後の消息は分からない。父親は絶対に許さないと悲しそうな顔で言う。そばで母親が涙をぬぐっている。

アメリカの学校などでしばしば銃の乱射事件が起き、日本の新聞では「個人の銃保持を禁止すれば良い」と同じ主張を無責任に繰り返している。虚しい空念仏を繰り返しているだけである。最近、銃を規制する州も増えつつあるが、猟銃などは釣り道具屋やホームセンターで売っている。

アメリカ人の本音を聞いたり、突っ込んだ取材をしようとしないマスコミの軽さに毎回呆れている。 マスコミこそ何故、アメリカで銃規制をしないか踏み込んだ調査をして報道すべきではないだろうか?

銃に頼るアメリカ人を笑う資格が他国の人々には有るのだろうか? (終わり)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。    藤山杜人


銀座に隣接したヨットマリーナをご存じでしたか?

2009年06月21日 | うんちく・小ネタ

銀座7丁目に隣接した運河があります。下のURLをクリックすると浜離宮があります。その右は築地の魚市場です。浜離宮と築地魚市場の間にある運河で、その端はJR新橋駅の方向に入り込んでいます。築地川という運河です。そこが昔からヨットやモーターボートの静かなマリーナになっています。

http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.65724818&lon=139.76654792&sc=4&mode=map&pointer=on&home=on&hlat=35.64410389&hlon=139.76142278

東京ベイヨットクラブのババリア39フィート艇のBig Bear 号のホームポートです。昨夜の夜の東京湾セイリングの折に写真を撮ってきましたので、浜離宮の緑の森の風景と合わせてお楽しみ下さい。新橋駅の品川寄りの出口から400mの所にあります。浜離宮へのお散歩に便利な地下街と思いましてご紹介いたします。(終わり)

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右手の森が浜離宮です。下の写真は千葉県保田漁港から回航してきた東京ベイヨットクラブの大型43フィート艇、Bambino です。

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下の写真の左手が浜離宮で、奥のビルの向こう側がJR新橋駅です。地下街でつながっています。400mの距離です。

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教養としてのキリスト教(15)ヨットをしているとガリラヤ湖の突風がよく分かります

2009年06月21日 | うんちく・小ネタ

今日は日曜日で、教会のミサに行ってきました。今日の朗読はマルコが書いた福音書のある部分です。イエスが弟子たちと船でガリラヤ湖を渡ろうとした途中で突風が吹き、難破しそうになります。ヨットを趣味にしていると同じような経験をします。突然、突風が吹きつけ、マストが水面に着きそうになるまで船が傾きます。恐怖のあまり舵にしがみつきます。数秒の後、船が立ち上がり、何事も無かったように静かに走り出します。実に不思議です。そうかと思うと晴天にもかかわらず大波がザワザワと来て船が大揺れします。船が一旦港を出たら何が起きるか分かりません。ガリラヤ湖も大きな湖なので急に波が荒くなり、突風が吹きます。キリストは揺れる船の上で気楽に眠っています。一緒に乗っていた弟子たちがキリストを起こし、恐怖のあまり、「先生!わたしたちがおぼれてもかまわないのですか?」となじります。

するとキリストは風と湖へ向かって叫びます。「黙れ! 静まれ!」と。

イエスの不思議な力を信じないで騒いでいた弟子たちはイエスを恐れて言います、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」。

この場面で何故急に風や波が静かになったのでしょう?ヨットを趣味にしているとよく分かるのです。怖くても我慢していると自然に静かになることがよくあります。イエスさまの力でないのです。

ところが信者である小生はこの場面はやっぱり奇跡の一つだったと信じています。多少疑ってはいますが奇跡と信じています。「教養としてのキリスト教」シリーズではキリスト教の表面的な知識を与えるのではなく信者の心の内面を説明することに重点を置いています。

さて今日の山本量太郎司祭様の説教では上の場面に関連した話です。難破しそうになった船はよく教会に例えられるそうです。教会が世間の荒波に揉まれても、イエス様の力さえ信じていれば絶対に難破などしないという趣旨の話でした。ある教会が莫大な財産を作ったが、その財産を守る心配で色々な問題が起きた例も話してくれました。

蛇足ながら、何故イエス様は弟子たちとガリラヤ湖を船で渡ろうとしたのでしょう?

向こう岸は異教徒のゲラサ人が住んでいたので、その人々へ話をするために船です。こうしてキリストはガリラヤ湖の付近を縦横無尽に歩いて宣教したのです。その間はたった4年という説もあります。とに角、数年という短い期間だけです。32歳のころ磔の刑で死にました。そして生き返り、復活するのです。(続く)


東京ベイヨットクラブの夜のクルージングへ参加しました

2009年06月21日 | 写真

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昨夜は東京ベイヨットクラブの夜のセイリングへ参加しました。クラブの代表であり、善き経済的支援者でもある「O」さんが船長をしてくれたので安心です。もう一人のベテランのYさんがセイルの出し入れをしてくれたので、お客の4人はゆっくりビールなどを飲みながら暮れゆく東京の街並みや、夜になったあとの宝石のように輝くビル街の風景を楽しむことが出来ました。O船長、Yさん御苦労さまでした。有難う御座いました。(終り)

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一番上の写真は東京タワーの遠景です。この上の写真は竹芝桟橋方向を見た写真で、初夏の夜を楽しむ屋形船が2隻写っています。一番下の写真はレンボーブリッジです。

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