少し詳しくなりますが、この際、長崎県全体のキリシタン遺跡を知るために、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成を以下にご紹介いたしたいと思います。キリシタンにご興味のある方々には参考になると思います
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産の紹介:
(http://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/assets/)
構成遺産は、以下の3群の総計14資産から成り立っています。
(1)キリスト教の伝播と普及/キリスト教の繁栄と弾圧を示す遺跡 (日野江城跡、原城跡など)、
(2)禁教下の継承/禁教時代に形成された集落の内外にある、禁教時代から続く信仰の場、崇敬地等 (平戸の聖地や集落など)
(3)解禁後の復帰/潜伏して信仰を守ってきた場所に信仰の証として建てられた教会群 (黒島天主堂、頭ヶ島天主堂、天草の崎津集落など)
そして 構成資産リストは以下の通りです。
(1)大浦天主堂と関連施設
大浦天主堂は、ゴシック様式の建物で、現存する最古の教会として国宝に指定されている。
加えて、厳しいキリシタン禁制の中で、約250年信仰を守り伝えてきた浦上キリシタンが、プチジャン神父に信仰を表白したいわゆる「信徒発見」の歴史的舞台でもある。それは、1865年3月17日の昼下がりであった。
1864年建設、煉瓦造、国宝・重要文化財・史跡、 長崎県長崎市
(2)出津教会堂と関連施設
禁教時代の様相をとどめる小田平集落と、解禁後に建てられた出津教会堂、旧出津救助院の三つの要素から構成される。うち出津教会堂はド・ロ神父の設 計・指導により建てられた教会で、当初は現在の半分程度の規模だったが、1909年に2度目の増築で正面玄関部に、四角の鐘塔などが建ち、現状となった。 外海地区の強風を考慮した低平な外観と内部空間が特徴である。創建から増築まで一貫してド・ロ神父が関与した教会である。
ド・ロ神父は、地域住民の生活向上はもちろん、子どもに伝える立場の母親や娘たちへの、小教育にも力を注いだ。平易な言葉で信仰教育に努め、司祭、修道者が他のどこよりも多く育つ為の基礎をつくりあげた。
出津教会は建造から二回の増築に至るまでド・ロ神父が設計施工にあたった。国宝の大浦天主堂と同様、煉瓦の壁をモルタルで覆うという一見煉瓦造に見せない方法でつくられている。近隣のド・ロ神父記念館には、設計に関する書籍が残されている。
1882年建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県長崎市
(3)大野教会堂
ド・ロ神父の設計・指導によって出津教会の巡回教会として建てられた、玄武石を外壁にした和瓦葺きの建物。赤土を水に溶かした濁液で砂と石灰を混ぜ、石材を積み上げるド・ロ壁を用い、信徒の奉仕で完成した。山中にひっそりと立ち、風土に密着した素朴な雰囲気と雅趣がある。
山が海に急に落ち込み、平地もない場所にたたずむ外海の教会。大野教会は、出津から北上した角力灘を望む山間にある。
自然石を用いた「ド・ロ壁」と呼ばれる、ド・ロ神父独特の工法により建てられた。入口側正面にある風よけの独立した壁が強風に耐え、素朴で風土に密着した建物である。
1893年建設、石造、国指定重要文化財、 長崎県長崎市
(4)日野江城跡
肥前西部で最大の勢力だったキリシタン大名・有馬氏の居城跡。
有馬氏はキリシタンを保護し、領民にもキリシタンになることを勧め、積極的に国際交流を推進した。
城下には教会やセミナリヨがあり、かつて日本のキリシタン文化最先端の街だった。
近年、金箔瓦や外来系の石垣遺構などが発見されている。
国指定史跡、 長崎県南島原市
(5)原城跡
徳川幕府の治下で最大の反乱といわれる「島原・天草一揆」。
その舞台となった原城では、老若男女を問わず、ほとんどの人々が殺され、島原半島南部の村には、全滅したところもあった。
城跡からは十字架やメダイなど、キリシタン遺物が多数発見されている。
国指定史跡、 長崎県南島原市
(6)黒島天主堂
九十九島で最大の黒島に潜伏したキリシタンの教会復帰は早い。
信徒発見の2ヵ月後には20人の総代が大浦のプチジャン神父を訪ねて信仰を告白、その後ポワリエ神父が総代の一人・出口大吉の家で最初のミサを行い、1873年までに「カトリックの島」となった。
現在の煉瓦造教会は、マルマン神父の努力と信者の献身的な協力で建てられた。
煉瓦・資材は名切の浜からの急な坂を背負って運ばれた。
内観はアーケード、トリフォリウム、高窓を備えた壮大な空間。
有田焼タイルや黒島の御影石など地域の材料が使われ、個性的である。
1902建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県佐世保市
(7)田平天主堂(鉄川与助の設計・施工)
田平教会は、ド・ロ神父やラゲ神父の尽力で出津や黒島から開拓移住した信徒たちが、中田藤吉神父の指導と鉄川与助の設計・施工で建立。重層屋根構成で、正面には八角ドーム屋根の鐘塔をもつ。
堂々とした煉瓦造教会は壁面に2色の煉瓦が使用され深みがあり、平戸瀬戸からの景色によく映える。
教会傍らには墓地があり、先祖たちが温かく見守る。
1918建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県平戸市
(8)その1、平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
その2、平戸の聖地と集落(中江ノ島)
平戸では、ザビエルが1550年に布教して以降、キリスト教が盛んだったが、16世紀末からの禁教政策のため、キリシタンは潜伏を強いられた。
厳しい弾圧の中、教会堂の代わりに、先祖の殉教地や平戸島の安満岳、また平戸島の北西岸にある中江ノ島などが聖地とされ、信仰を守り伝えるよすがとされた。
これらの聖地は今なお崇敬されており、禁教時代の独特の景観をとどめている。
国選定重要文化的景観、 長崎県平戸市
(2014年12月、「平戸島の聖地と集落」が1、平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)と2、平戸の聖地と集落(中江ノ島)に分割されました。
この結果、構成資産数は13資産から14資産へ、変更となりました。)
(9)野崎島の野首・舟森集落跡(野首天主堂は鉄川与助の設計・施工)
五島列島の北に位置する野崎島には、野首と舟森という2つのキリシタン集落があった。
野首集落に建てられた旧野首教会は、設計・施工にあたった鉄川与助にとって最初の煉瓦造教会。
舟森集落にかつて存在した瀬戸脇教会と交互にミサが行われ、二つの集落を繋ぐ里道を信徒は歩いて通ったという。
高度経済成長の下、野崎島では過疎化が進み、1971年、住民全てが島を離れた。
無人となった島で教会は一時荒廃してしまうが、小値賀町により修復・整備され、現在は野生化した鹿とともに生きている。
国選定重要文化的景観、 長崎県北松浦郡小値賀町
(10)頭ヶ島天主堂(鉄川与助の設計・施工)
県内唯一の石造教会は鉄川与助設計施工、大崎神父の指導により建てられた。
島外から石工を招き、信者たちが身代をかけ11年以上を費やしながら、本島内の石を切出し、積上げて完成した信仰の結晶である。
内部に柱はなく、五島の椿を模した花柄とブルーの色彩を基調とした装飾が一種独特の華やかな雰囲気を漂わせている。
1919建設、 石造、国指定重要文化財、 長崎県南松浦郡新上五島町
(11)旧五輪教会堂
五島列島久賀島の東部、奈留瀬戸に面し、険しい山を背にする小さな漁港の狭い平地に建つ。
1881年に浜脇教会として建てられた聖堂が1931年現在地に移築された。
外観は素朴な和風建築でありながら、内部は三廊式、ゴシックの木造リブ・ヴォールト天井からなる。
明治初期の教会建築史を物語る貴重な遺構である。
屋根裏には、竹でおさえて少しでも天井高に、また豪華にしようとした人々の努力が見られる。
老朽化と急激な過疎化により、一時解体の話もあったが、信徒の熱意と力で隣接地に新聖堂を建て、旧聖堂を守っている。
1881建設、 木造、国指定重要文化財、 長崎県五島市
(12)江上天主堂(鉄川与助の設計・施工)
江上教会は奈留島の辺地、海岸沿いにあり、廃校となった小学校脇の林にひっそりと建つ。
外海から移住してきた潜伏キリシタンたちの多くは、漁業に従事していたが、僻地での厳しい生活を余儀なくされた。
1881年、洗礼を受けた江上の人々は当初聖堂をもたず、家でミサを捧げていた。
その後1917年には、現在の教会が鉄川与助によって建設された。
クリーム色と水色の木造教会は、リブ・ヴォールト天井やロマネスク風の窓があり、神の家としての美しさがある。
緑に包まれ青空を仰ぐように建つ教会を中心に、今も信徒が生活をしている。
1918建設、 木造、国指定重要文化財、 長崎県五島市
(13)天草の崎津集落
天草では、16世紀にアルメイダが布教して以降、キリスト教が盛んだったが、島原・天草の乱で多くのキリシタンが命を落としたため、崎津などの限られた集落にキリシタンが潜伏するのみとなった。
乱の後、天領であった天草も長崎奉行所の支配を受けることとなり、長崎で使用された踏み絵を用いて、庄屋役宅で絵踏みが行われた。
厳しい取締りの中、崎津集落の人々は、表向きは仏教徒でありながら、潜伏キリシタンとして信仰を守り伝えてきた。
※崎津の「崎」について、正しくは山偏に竒です。