後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

アジアの布展から手織り布の写真をお送りいたします

2015年04月20日 | 写真
ひかるのさん主催、「アジアの布展・ラオスからブータンへ」という展示会から手織り布の写真です。
この展示会は2009年4月20日から26日まで東京、神田の小川町2-8のTEORIYAで開催されました。今朝の「不思議な人々の絆(2)アジアを彷徨した「ひかるの」さんの死と人々との絆」という記事の追加写真です。





不思議な人々の絆(2)アジアを彷徨した 「 ひかるの」さんの死と人々との絆

2015年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム
ネットの上で知り合い、何度かお会いし、その物静かな人柄に惹かれていた「ひかるの」さんが肺ガンで亡くなって、もう5年になります。
彼はヒンズー語、タイ語、ネパール語、ブータン語などなどが話せました。アジアの各地を訪ね人々と温かい絆を結びました。
 ひかるのさんはカトマンズとバンコックの両方に家があり26年も住んでいました。アジアの手紡ぎ、手織り布に魅せられて棲みついてしまったのです。
彼は独身でしたが息子が一人いました。バンコックでストリートチルドレンだった少年を引き取り、育て上げたのです。大人になって働いています。
バンコックでは病身の ひかるのさんの最後の世話をあれこれしてくれます。ひかるのさんにとっては唯一人の家族です。その息子とも別れ、東京へ帰って来ました。そして肺ガンで2010年の5月に亡くなったのです。
ひかるのさんは生前、2つのブログを精力的に書いていました。
「カトマンズ・バンコク慕情~アジアの旅の徒然に」:http://blogs.yahoo.co.jp/hikaruno_season とイ「ンド ブータン アジアの布 染織美術館」:http://asiancloth.blog69.fc2.com/ です。
これらのブログにはアジアの底辺に住む人々の喜びや悲しみがしみじみと書いてあります。
日本の多くの人々もこのブログに魅せられ、ひかるのさんと心の絆が出来ていたのです。
肺ガンの治療を受けていた東京厚生年金病院には毎日のように見舞客が訪れていました。そして日本に身寄りのないひかるのさんの世話を親身でする人もいました。みんなネットで繋がった絆だったのです。
5年後の現在考えてみるとアジアでの人々との絆、そして日本での人々の絆は不思議なものです。何か不可思議な力が人々に働いていたような気がいたします。
ひかるのさんのブログに私が初めて会ったのは2008年の8月でした。すぐに「美くしく楽しいブログを発見しました」と題する記事を2008年9月7日に、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyamaに掲載しました。
そんなことを思い出しながら彼の撮った写真を6枚示します。

これはバンコックにある精霊の樹木です。ヒンズー教の影響を受けた庶民の信仰です。近代的なバンコックにもこんな信仰もあるのです。



これはブータンの衣装のキラです。野蚕の絹を手織りにし、草木染にした布です。見ていると暖かい気持ちになるから不思議です。



この2枚は肺ガンがちょっと良い時に病院を抜け出して近所の公園を散歩した時の風景です。晩春でした。これらの花々がひかるのさんが見た最後の花になりました。

なお上で紹介した2つのブログは5年後の現在でも見ることが出来ます。ひかるのさんのことを詳しく知りたい方は是非ご覧になって下さい。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

遥かな五島列島への旅(6)総集編、イエス様と神の愛

2015年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム
遥かな五島列島への旅では驚くべきことを沢山見ました。人の近づけないような急峻な山に囲まれた小さな浜に建っている美しい天主堂。見にくい場所に隠れるように作られたキリシタン墓地。 狭い五島列島に50ケ所も存在しているカトリック教会。五島出身の26聖人の一人、ヨハネ五島の磔の像。そして擦り凹んだ踏絵の真鍮のマリア像。どれもこれも江戸幕府の過酷なキリシタン弾圧を耐え、信仰を守ろうとした証(あかし)です。
この歴史の理解には、イエス様と神の愛を抜きにしては理解出来ないと考え込んでいます。
遥かな五島列島への旅は生半可にカトリックを信仰している私にとっては衝撃的な旅でした。
この感動と衝撃はなかなか言葉では表現出来ません。しかし以下に少し具体的な写真を示しながら書いてみたいと思います。
(1)交通不便で近づけない小さな集落に建っている美しい天守堂
幕府側の役人が近づけない場所にキリシタン集落がありました。ですから50ケ所ある天主堂への道は大型観光バスが入れません。舟でしか行けない所もあります。今回訪問した5つの天主堂は国の重要文化財で観光にとっても重要なのでバスが入れるのです。駐車場も広く作ってあります。下は井持浦教会と堂崎天主堂の写真です。

どちらの教会も山々に囲まれ入り組んだ浦の奥の僅かな平地に建っています。幕吏が来られないような辺鄙な場所です。堂崎天主堂のことは、「遥かな五島列島への旅(4)熱狂的なカトリック信仰のある五島の島々」をご参照下さい。

(2)天主堂の内部の美しさ
天主堂は禁教が廃止された明治6年以後、明治、大正、昭和の時代にえいえいと建てられたのです。大工の棟梁の鉄川与助がフランス人のド・ロ神父から教わってフランスの教会と寸分違わない教会を30以上建てたのです。下に堂崎教会の内部を示します。

詳しくは、「遥かな五島列島への旅(5)美しい天主堂を沢山建てた鉄川与助の偉業」をご覧下さい。
(3)キリシタン墓地はなかなか見つからない
さて五島列島に旅して意外に感じたことはキリシタン墓地が無いように見えるのです。観光バスから見えるのは仏教風の墓地ばかりです。金文字の入った豪華な墓石が並んだ仏教墓地がやたらに目につきます。みんな仏教徒を装うたのでしょう。下は頭ケ崎教会の下でやっと見つけたキリシタン墓地の写真です。

(4)殉教の像とすり減った踏絵
堂崎教会の前には下のような聖ヨハネ五島の磔の像があります。

ヨハネ五島はモレホン神父の同宿(どうしゅく)になり、一緒に暮らしていました。神父を逮捕しようとして役人がやってきた時に、素早く神父を隠れさせ、代わりに自分が捕まりました。モレホン神父は二十六聖人の殉教の様子を詳しい報告書を作成して記録しました。
神父はその後追放令にあってマカオに行きますが、そこで遺骨となってマカオの修道院に送られてきたヨハネ五島と再会します。
そして堂崎天主堂には江戸時代の擦りきれた青銅や真鍮製の踏絵が幾つも展示してあります、延べ何万回もキリシタンに踏まれてすり減ったのです。踏む隠れキリシタンの悲しみが凝縮したマリヤ像・イエス様の像です。厚い木の枠にはめ込んであります。その木の枠もすり減って堅い木目がくっきりと出ているのです。
その他書きたいことはたくさんありますが、この位で止めます。
この五島列島の過酷な歴史の理解には、イエス様と神の愛を抜きにしては理解出来ないのです。これは凄い地方史です。日本民族の永い歴史のなかでも特異な歴史です。この歴史の関連施設が世界遺産になるように祈っています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

今日は長躯、群馬の妙義山中腹の「櫻の里」へ行きました

2015年04月17日 | 写真
群馬県の下仁田町へ家内一家が疎開していました。家内はそこの小学校へ転校しました。茫々、70年も昔のことです。その小学校の同級会へ家内が出席すると言うので妙義山の麓まで車を走らせました。
早く着き過ぎたので足を伸ばし妙義山の中腹まで登り、「桜の里」の写真を撮って来ました。山の春は遅く、ソメイヨシノが満開でした。あいにくの曇りで鮮明な写真ではありませんがお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









遥かな五島列島への旅(5)美しい天主堂を沢山建てた鉄川与助の偉業

2015年04月17日 | 日記・エッセイ・コラム
五島列島に行くと人々が鉄川与助のことを自慢します。美しい天主堂や教会を沢山作った五島出身の大工の棟梁でした。棟梁と言うより教会建築家と呼んだ方がふさわしい人でした。
今回の旅行で初めて名前を知ったので少し調べてみました。面白いことに彼は終生、仏教徒だったのです。外国の神父さんとの交流は深いものでしたが仏教徒を貫きました。
以下はhttp://allxa.web.fc2.com/a-map/jp_nagasaki/tetsukawa/tetsukawa01.htmlからの抜粋です。
・・・・鉄川与助は1879(明治12)年に長崎県五島列島の中通島で大工棟梁の長男として生まれました。父親の下で大工の修行をした後、野原棟梁の下について1899(明治32)年の曽根教会(設計 ペール神父)で初めて教会建築を手掛けます。
1906(明治39)年に鉄川組(現 鉄川工務店)を設立。1907(明治40)年、初めて自身で設計した冷水教会が竣工。以後、長崎県を中心に九州各県で教会を建設し、教会建築の第一人者と目されるまでになります。
1958(昭和33)年に鉄川工務店社長を息子に譲り同社会長に就任。1976(昭和51)年に亡くなりました。享年97歳。
鉄川与助は大学で正規に西洋建築を学んではいないものの、野原棟梁の下での教会建築の経験と、ペール神父や後年に出逢って大きな影響を受けるド・ロ神父といった外国人宣教師から受けた教えによって西洋建築のノウハウを習得し、独自のスタイルを確立するに至りました。
鉄川の教会は、かつて隠れキリシタンが潜伏していた九州の僻地にあるものが多く、現地を訪れるのに一苦労します。しかし、僻地に立派な教会が建てられた背景には、迫害を恐れて長年潜伏を続けた信徒がようやく信仰を表明できるようになったという事情があります。教会がいかに辺境の地に建っているかを身をもって体験することも、キリシタンの歴史を理解するには必要だといえるでしょう。
鉄川が手掛けた教会は、一部施工のケースまで含めると約50件、彼自身が設計・施工を担当したのは34件あるといわれています。ただし、この数は戦後の鉄川工務店の仕事も含んでいるようです。34件中、戦前の仕事は28件ですが、戦災等で消えたものも少なくありません。・・・・・
それでは鉄川与作の建てた教会を見てみましょう。

一番目の写真は五島列島にある堂崎天主堂です。

二番目は五島列島にある青砂ケ浦天主堂です。

三番目は五島列島にある頭ケ島天主堂です。

四番目は五島列島にある大曽天主堂です。

五番目は天草にある大江天主堂です。

六番目は青砂ケ浦天主堂の内部です。

七番目は頭ケ島天主堂の内部です。
これらの教会群のことは鉄川与作の孫娘が愛情をこめて説明しています。
そこで、「おじいちゃんの建てた教会」http://www1.odn.ne.jp/tetsukawa/issho.html より抜粋してそれをご紹介いたします。
・・・・私が祖父と暮らしたのは、私が中学2年の時から祖父が亡くなる少し前までですので、10年位でしょうか?祖父が80才を過ぎてからです。いつも穏やかでニコニコしていて、怒った祖父の記憶は全くありません。 
 祖父は明治12年、長崎県五島で生まれました。祖父は、大変きちょうめんな性格で、学校に行くにも毎日歩数をはかっていたそうです。有川小学校の高等科に進んでからは、船で学校まで、通っていたそうですが、漕ぎ手はほとんど祖父で、風雨の強い日には、山道を片道6キロ以上歩いて通ったそうです。祖父の体力は、そういう生活の中で、自然に鍛えられたのだと思います。 
祖父の父以外の初めての師との出会いは、野原(野崎ともいわれています)棟梁でした。野原棟梁は、当時ペール(ペルー?)神父のもとで、曽根天主堂を造っていました。祖父はペール神父に、丸みのある美しい柳天井と幾何学を学びました。そして翌年、祖父が初めて設計・施工した冷水天主堂を建てます。 
その次の出会いが、ド・ロ神父様です。長崎県外海を中心に活躍したフランス貴族出身の神父は、祖父を『てつ』と呼んで可愛がってくれて、モルタルの塗り方、レンガの使い方など、さまざまな事を祖父に教えて下さいました。
 『てつ お前の心が 悪くなければ 仕事はできる』 これが神父様の教えでした。
ド・ロ神父様は、遠藤周作先生がこよなく愛した外海地区に、煉瓦造りの出津天主堂や大野天主堂を建てた方です。大正4年に完成した大浦天主堂の大司教館は、ド・ロ神父様が設計し、祖父が施工しました。
『教会は、50年、100年もたせる必要がある。その為には土台をしっかりしなければ』というのが、ド・ロ神父様の教えでした。
 その次に、祖父が影響を受けたのは、旧浦上天主堂を建てたフレノー神父様でした。神父様は、図面を引かず頭の中にある構想だけで天主堂を建てる天才でした。のちに祖父は、浦上天主堂の双塔を建てます。これが原爆で壊れてしまったのはとても残念です。・・・・・以下省略。
下の末尾に「おじいちゃんの建てた教会の孫娘さんによる紹介」がありますのでご覧下さい。
それにしても東京ではあまり有名ではない鉄川与作さんが世界遺産候補になっている江上天主堂や頭ヶ島天主堂や野首天主堂などを建てたのです。それは日本の建築史の上の画期的な偉業ではないでしょうか。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========
「おじいちゃんの建てた教会の孫娘さんによる紹介」 
鉄川与助は明治12年に南松浦郡新魚目町丸尾(五島)で生まれました。
祖父鉄川与助の造った天主堂は、50以上と言われていますが、まだ全部はわかりません。現在の状態をわかる範囲で調べてみました。                
下に、名前、献堂、場所、天主堂の説明、今の状態、を順々に書きます。  
曽根天主堂 明治32 南松浦郡新魚目町 ペール神父、野原棟梁のもとで、初めて教会建築に参加、西洋建築との出会い、 建て替えに参加しました。
鯛ノ浦天主堂 明治36年 南松浦郡有川町 木造で、野原棟粱施工、 建て替えにに参加しました。
・・・・明治39年 に鉄川組を編成・・・・  
桐の浦天主堂 明治39年 長崎県 木造で、1部煉瓦造り
冷水天主堂 明治40年 南松浦郡上五島町 素朴な木造で、初めて設計施工しました。リブ・ヴォールト天井です。  
堂崎天主堂 明治41年 福江市 赤煉瓦造りで、野原棟梁施工です。ゴシック様式で、どっしりした重厚な天主堂です。  
・・・・明治41年に日本建築学会会員になります。・・・・  
野首天主堂 明治41年 北松浦郡小値賀町 初めての煉瓦造りです。4つの窓があり、花模様のステンドグラスがとても綺麗です。昭和64年復元。『火宅の人』のロケ地です。  
佐賀公教会 明治44年 佐賀県 木造、平家建 戦災
青砂ケ浦天主堂 明治43年 南松浦郡上五島町 煉瓦造り、屋根が2層になって高く大きくなり、煉瓦と白い十字架の対比が綺麗です。内部の装飾も壮麗になります。
楠原天主堂 明治45年 南松浦郡岐宿町 赤煉瓦造りで、ゴシック様式です。どっしりした天主堂で、屋根に銀色の十字架が輝いています。増改築 
山田天主堂 大正元年 北松浦郡生月町 煉瓦造り  
今村天主堂 大正2年 福岡県三井郡太刀洗町、珍しい双塔の赤煉瓦造りの天主堂で、祖父の、1番美しい建築物とも言われています。他の教会は島などに多いですが、筑紫平野の真ん中にあります。  
大司教館 大正3年 長崎市 大浦天主堂の右側大きな煉瓦造りで、3階建てで日本瓦です。ド・ロ神父設計、与助施工です。  
宮崎天主堂 大正3年 宮崎県 木造、平家建 取り壊し
大曽天主堂 大正5年 南松浦郡上五島町 煉瓦造りで、バジリカ式会堂です。入り口正面に大きな塔屋を持つ、ロマネスク調で、円形アーチ窓の、桜の花型の色ガラスが綺麗です。  
大水天主堂 大正6年 長崎県 木造、平家建
堂崎天主堂 大正6年 福江市 赤煉瓦造りで、ゴシック様式です。
江上天主堂 大正7年 南松浦郡奈留町、小さい木造の天主堂で、窓ガラスの花柄模様は手書きです。  
南田平天主堂 大正7年 北松浦郡田平町 与助最後の煉瓦造りの天主堂で、三層です。平戸島の向かいの丘にあり、グリーンのドームを持ち、回りの景色によく映えています。
頭ケ島天主堂 大正8年 南松浦郡有川町、唯一の石造り(島で取れた石)で、ロマネスク様式です。小さい天主堂を広く見せる為初めての折上天井です。
祖父が晩年1番話していた天主堂で、それだけ苦労したようです。私が好きな天主堂の1つです。  
細石流天主堂 大正10年、福江市 ザザレと読みます。今は廃堂です。 崩壊
旧浦頭天主堂 大正10年、長崎県 木造、折上天井です。 取り壊し
人吉公教会 大正11年 熊本県 木造、平家建  
長崎神学校 大正12年 長崎県 教会ではありませんが、祖父の初めてのコンクリート造りです。三階建です。  
旧浦上天主堂 大正14年 長崎市 建設の時にも参加しましたが、双塔は、祖父が作りました。残念な事に、昭和20年の原爆でこわれました。今の浦上天主堂は、与助の長男与八郎の設計施工です。
手取天主堂、昭和3年 熊本市 最初のコンクリート造り、大正12年の関東大震災で煉瓦造りの脆さが実証されたからだと思われます。八角形のドームで小さい天主堂ですが、内部は広く高くて花柄をあしらった内部装飾が美しいです。  
大牟田公教会 昭和4年 福岡県 木造、平家建 戦災
呼子天主堂 昭和4年 佐賀県 木造、平家建  
紐差天主堂 昭和4年 平戸市 白いコンクリート造りの美しい外観と、ステンドグラスからもれる光の美しい内部を持つ、大規模な天主堂で、内部の柱の装飾が綺麗です。  
八幡天主堂 昭和5年 福岡県 木造、平家建 戦災
戸畑公教会 昭和5年 福岡県 木造、平家建 戦災
大江天主堂 昭和8年 熊本県天草、ロマネスク様式の白亜の天主堂で、コンクリート造りです。私の好きな天主堂の1つです。  
新田原天主堂 昭和8年 福岡県 木造、2階建 建て替え
水俣天主堂 昭和8年 熊本県 木造、平家建  
小倉天主堂、昭和10年、福岡県 木造、1部鉄骨、平家建、 取り壊し
崎津天主堂 昭和10年 熊本県天草 前半分はコンクリート造りで、後ろは木造のゴシック風です。鉛筆のようなとがった塔があり、外観が華やかで畳敷きです。海の側に建っています。  
水の浦天主堂 昭和13年、南松浦郡岐宿町 木造で、大規模な白亜の天主堂です。堂内の貝の聖水器が美しいです。  
鯛の浦天主堂 昭和21年 南松浦郡有川町 煉瓦造、平家建。玄関だけ煉瓦(昭和21年に 原爆で壊された、浦上天主堂の煉瓦で作りました。) 建て替え
愛野教会 昭和26年 南高来郡 木造、平家造り  
桐教会 昭和33年 南松浦郡    
浦上天主堂 昭和34年 長崎市 コンクリート造り  
諫早教会 昭和40年 諫早市 コンクリート造り  
船隠天主堂 昭和40年 南松浦郡 木造  
丸尾教会 昭和47年 南松浦郡 コンクリート造り  
  昭和51年、祖父、与助が亡くなりました。97歳でした。趣味も、建築といいきれるような一生でした。亡くなった日の朝も、故郷の五島や、教会の写真を見ていたそうです。   
追記:五島列島にある国指定重要文化財の教会や天主堂
旧五輪教会堂(世界遺産候補)、江上天主堂(世界遺産候補)、頭ヶ島天主堂(世界遺産候補)、青砂ヶ浦天主堂

世界遺産候補のとして審査されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成

2015年04月16日 | うんちく・小ネタ

少し詳しくなりますが、この際、長崎県全体のキリシタン遺跡を知るために、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成を以下にご紹介いたしたいと思います。キリシタンにご興味のある方々には参考になると思います
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産の紹介:
(http://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/assets/)
構成遺産は、以下の3群の総計14資産から成り立っています。
(1)キリスト教の伝播と普及/キリスト教の繁栄と弾圧を示す遺跡 (日野江城跡、原城跡など)、
(2)禁教下の継承/禁教時代に形成された集落の内外にある、禁教時代から続く信仰の場、崇敬地等 (平戸の聖地や集落など)
(3)解禁後の復帰/潜伏して信仰を守ってきた場所に信仰の証として建てられた教会群 (黒島天主堂、頭ヶ島天主堂、天草の崎津集落など)

そして 構成資産リストは以下の通りです。
(1)大浦天主堂と関連施設
 大浦天主堂は、ゴシック様式の建物で、現存する最古の教会として国宝に指定されている。
加えて、厳しいキリシタン禁制の中で、約250年信仰を守り伝えてきた浦上キリシタンが、プチジャン神父に信仰を表白したいわゆる「信徒発見」の歴史的舞台でもある。それは、1865年3月17日の昼下がりであった。
1864年建設、煉瓦造、国宝・重要文化財・史跡、 長崎県長崎市

(2)出津教会堂と関連施設
 禁教時代の様相をとどめる小田平集落と、解禁後に建てられた出津教会堂、旧出津救助院の三つの要素から構成される。うち出津教会堂はド・ロ神父の設 計・指導により建てられた教会で、当初は現在の半分程度の規模だったが、1909年に2度目の増築で正面玄関部に、四角の鐘塔などが建ち、現状となった。 外海地区の強風を考慮した低平な外観と内部空間が特徴である。創建から増築まで一貫してド・ロ神父が関与した教会である。
 ド・ロ神父は、地域住民の生活向上はもちろん、子どもに伝える立場の母親や娘たちへの、小教育にも力を注いだ。平易な言葉で信仰教育に努め、司祭、修道者が他のどこよりも多く育つ為の基礎をつくりあげた。
 出津教会は建造から二回の増築に至るまでド・ロ神父が設計施工にあたった。国宝の大浦天主堂と同様、煉瓦の壁をモルタルで覆うという一見煉瓦造に見せない方法でつくられている。近隣のド・ロ神父記念館には、設計に関する書籍が残されている。
1882年建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県長崎市

(3)大野教会堂
 ド・ロ神父の設計・指導によって出津教会の巡回教会として建てられた、玄武石を外壁にした和瓦葺きの建物。赤土を水に溶かした濁液で砂と石灰を混ぜ、石材を積み上げるド・ロ壁を用い、信徒の奉仕で完成した。山中にひっそりと立ち、風土に密着した素朴な雰囲気と雅趣がある。
 山が海に急に落ち込み、平地もない場所にたたずむ外海の教会。大野教会は、出津から北上した角力灘を望む山間にある。
 自然石を用いた「ド・ロ壁」と呼ばれる、ド・ロ神父独特の工法により建てられた。入口側正面にある風よけの独立した壁が強風に耐え、素朴で風土に密着した建物である。
1893年建設、石造、国指定重要文化財、 長崎県長崎市

(4)日野江城跡
肥前西部で最大の勢力だったキリシタン大名・有馬氏の居城跡。
有馬氏はキリシタンを保護し、領民にもキリシタンになることを勧め、積極的に国際交流を推進した。
城下には教会やセミナリヨがあり、かつて日本のキリシタン文化最先端の街だった。
近年、金箔瓦や外来系の石垣遺構などが発見されている。
国指定史跡、 長崎県南島原市

(5)原城跡
徳川幕府の治下で最大の反乱といわれる「島原・天草一揆」。
その舞台となった原城では、老若男女を問わず、ほとんどの人々が殺され、島原半島南部の村には、全滅したところもあった。
城跡からは十字架やメダイなど、キリシタン遺物が多数発見されている。
国指定史跡、 長崎県南島原市

(6)黒島天主堂
九十九島で最大の黒島に潜伏したキリシタンの教会復帰は早い。
信徒発見の2ヵ月後には20人の総代が大浦のプチジャン神父を訪ねて信仰を告白、その後ポワリエ神父が総代の一人・出口大吉の家で最初のミサを行い、1873年までに「カトリックの島」となった。
現在の煉瓦造教会は、マルマン神父の努力と信者の献身的な協力で建てられた。
煉瓦・資材は名切の浜からの急な坂を背負って運ばれた。
内観はアーケード、トリフォリウム、高窓を備えた壮大な空間。
有田焼タイルや黒島の御影石など地域の材料が使われ、個性的である。
1902建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県佐世保市

(7)田平天主堂(鉄川与助の設計・施工)
田平教会は、ド・ロ神父やラゲ神父の尽力で出津や黒島から開拓移住した信徒たちが、中田藤吉神父の指導と鉄川与助の設計・施工で建立。重層屋根構成で、正面には八角ドーム屋根の鐘塔をもつ。
堂々とした煉瓦造教会は壁面に2色の煉瓦が使用され深みがあり、平戸瀬戸からの景色によく映える。
教会傍らには墓地があり、先祖たちが温かく見守る。
1918建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県平戸市

(8)その1、平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
   その2、平戸の聖地と集落(中江ノ島)
平戸では、ザビエルが1550年に布教して以降、キリスト教が盛んだったが、16世紀末からの禁教政策のため、キリシタンは潜伏を強いられた。
厳しい弾圧の中、教会堂の代わりに、先祖の殉教地や平戸島の安満岳、また平戸島の北西岸にある中江ノ島などが聖地とされ、信仰を守り伝えるよすがとされた。
これらの聖地は今なお崇敬されており、禁教時代の独特の景観をとどめている。
国選定重要文化的景観、 長崎県平戸市
(2014年12月、「平戸島の聖地と集落」が1、平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)と2、平戸の聖地と集落(中江ノ島)に分割されました。
この結果、構成資産数は13資産から14資産へ、変更となりました。)

(9)野崎島の野首・舟森集落跡(野首天主堂は鉄川与助の設計・施工)
五島列島の北に位置する野崎島には、野首と舟森という2つのキリシタン集落があった。
野首集落に建てられた旧野首教会は、設計・施工にあたった鉄川与助にとって最初の煉瓦造教会。
舟森集落にかつて存在した瀬戸脇教会と交互にミサが行われ、二つの集落を繋ぐ里道を信徒は歩いて通ったという。
高度経済成長の下、野崎島では過疎化が進み、1971年、住民全てが島を離れた。
無人となった島で教会は一時荒廃してしまうが、小値賀町により修復・整備され、現在は野生化した鹿とともに生きている。
国選定重要文化的景観、 長崎県北松浦郡小値賀町

(10)頭ヶ島天主堂(鉄川与助の設計・施工)
県内唯一の石造教会は鉄川与助設計施工、大崎神父の指導により建てられた。
島外から石工を招き、信者たちが身代をかけ11年以上を費やしながら、本島内の石を切出し、積上げて完成した信仰の結晶である。
内部に柱はなく、五島の椿を模した花柄とブルーの色彩を基調とした装飾が一種独特の華やかな雰囲気を漂わせている。
1919建設、 石造、国指定重要文化財、 長崎県南松浦郡新上五島町

(11)旧五輪教会堂
五島列島久賀島の東部、奈留瀬戸に面し、険しい山を背にする小さな漁港の狭い平地に建つ。
1881年に浜脇教会として建てられた聖堂が1931年現在地に移築された。
外観は素朴な和風建築でありながら、内部は三廊式、ゴシックの木造リブ・ヴォールト天井からなる。
明治初期の教会建築史を物語る貴重な遺構である。
屋根裏には、竹でおさえて少しでも天井高に、また豪華にしようとした人々の努力が見られる。
老朽化と急激な過疎化により、一時解体の話もあったが、信徒の熱意と力で隣接地に新聖堂を建て、旧聖堂を守っている。
1881建設、 木造、国指定重要文化財、 長崎県五島市

(12)江上天主堂(鉄川与助の設計・施工)
江上教会は奈留島の辺地、海岸沿いにあり、廃校となった小学校脇の林にひっそりと建つ。
外海から移住してきた潜伏キリシタンたちの多くは、漁業に従事していたが、僻地での厳しい生活を余儀なくされた。
1881年、洗礼を受けた江上の人々は当初聖堂をもたず、家でミサを捧げていた。
その後1917年には、現在の教会が鉄川与助によって建設された。
クリーム色と水色の木造教会は、リブ・ヴォールト天井やロマネスク風の窓があり、神の家としての美しさがある。
緑に包まれ青空を仰ぐように建つ教会を中心に、今も信徒が生活をしている。
1918建設、 木造、国指定重要文化財、 長崎県五島市

(13)天草の崎津集落
天草では、16世紀にアルメイダが布教して以降、キリスト教が盛んだったが、島原・天草の乱で多くのキリシタンが命を落としたため、崎津などの限られた集落にキリシタンが潜伏するのみとなった。
乱の後、天領であった天草も長崎奉行所の支配を受けることとなり、長崎で使用された踏み絵を用いて、庄屋役宅で絵踏みが行われた。
厳しい取締りの中、崎津集落の人々は、表向きは仏教徒でありながら、潜伏キリシタンとして信仰を守り伝えてきた。
※崎津の「崎」について、正しくは山偏に竒です。


遥かな五島列島への旅(4)熱狂的なカトリック信仰のある五島の島々

2015年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム
長崎県の隠れキリシタンは250年の禁教を耐え忍びました。そして幕末の1865年にフランス人の神父の前に突然現れて、はじめて信仰を告白します。しかしそれは時期が早過ぎたのです。幕府も、その後の明治政府も禁教令を明治6年まで墨守し、その間の8年間にキリシタンが多数捕縛され各地へ流され、拷問され、殺されたのです。それは浦上崩れとか五島崩れと呼ばれるキリシタンの流刑と処刑です。
そして明治6年になってやっと晴れて信仰が公に認められ自由になったのです。
ローマ法王のもとに帰り、カトリック教徒になった信者たちはかつての辛酸をきわめた歴史の反動で熱狂的な宗教活動を繰り広げたのです。それは禁教の250年の間に溜まったエネルギーが一挙に爆発したようなものです。それは長崎県全域で起きました。しかし何と言っても隠れキリシタンが仏教徒を装って多数住んでいた五島列島で激しく燃え上がりました。
とにかく下の五島列島にある50ケ所のカトリック教会の分布図をご覧ください。

(地図の出典は、http://islands.chicappa.jp/goto-web/03sightseeingchurch.htmです。)
現在、五島列島の北半分の島々は新上五島町となり下五島は五島市という2つの自治体になっています。そして地図で示した教会は各地の集落のカトリック信仰のよりどころとして全て活動を続けているのです。この50の教会はすべて長崎大司教区に属し、その上のフランシスコ法王に直結しています。50もの教会にすべて常住の主任司祭はおけないので幾つかずつに分けて巡回教会のグループをつくり、時間をずらしてミサを行っています。この50の教会の一覧表は末尾に示してあります。

上の写真は今回訪れた堂崎天主堂で、内部は隠れキリシタン関連の展示場になっています。踏絵の延べ幾万人の足裏ですり減った青銅のキリスト像と、木目のクッキリ現れた台を見て家内は涙ぐんでいました。ここの祭壇や柳天井、そしてステンドグラスは創建当時のままです。長崎県の古いカトリック教会は初期に多くのフランス人神父の指導で作られたのでフランスの田舎の教会のような雰囲気を持っています。私どもが洗礼を受けた東京のカトリック立川教会も同じ様な構造になっていたので懐かしい思いをしました。そして家内ともども洗礼を受けた時の喜びがよみがえってきたのです。

上は日本最古のルルドの泉の上に立っているマリア様の像です。福江島の井持浦教会の左わきにありました。
http://gigazine.net/news/20111017_lourdes_japan/の資料によると以下のようです。
「1858年にフランスのルルドで聖母がベルナデッタという少女の前に姿を現し、そこの場所がルルドの泉と言います。バチカン市国も認定したので、現在でも当地を訪れる巡礼者は後を絶ちません。
1891年に当時のローマ法王レオ13世が自らバチカンにルルドの泉の模型を造らせたことから、世界中で「ルルドの泉」が造られるようになったのです。五島列島では、その8年後の1899年(明治32年)に、日本で初めて福江島の井持浦教会にルルドの泉が造られました。」

上は磔にされた聖ヨハネ五島の等身大の彫刻です。堂崎天主堂の入り口の向側にありました。聖ヨハネ五島は日本二十六聖人の一人です。
以下は、(http://tenjounoao.web.fc2.com/mysite1/nihontabi/nagasaki4.html)から抜粋しました。
ヨハネ五島はこの五島の出身ですが、どこで生まれたのかははっきりわかっていません。両親ともキリシタンの家庭で育ち、長崎と天草のセミナリヨで学びました。
その後大坂に出てモレホン神父の同宿(どうしゅく)になり、一緒に暮らして手伝いをしていたのですが、神父を逮捕しようとして役人がやってきた時に、素早く神父を隠れさせ、代わりに自分が捕まりました。
モレホン神父は二十六聖人の殉教の様子を詳しい報告書を作成して記録しました。
神父はその後追放令にあってマカオに行きますが、そこで遺骨となってマカオの修道院に送られてきたヨハネ五島と再会します。

上は堂崎天主堂に展示してあった五島列島出身の司祭さんたちの写真です。展示ではこの3倍位の人数の司祭さんたちの写真が並んでいました。一生独身をとうし神に仕え信者の世話をした神父さん達です。それは現在でもカトリック集落の信仰の支えになっています。

上は観光バスの車窓から撮ったキリシタン墓地です。五島列島で多数見られるのは仏教風の墓地です。江戸時代から目立つところに作られ仏教徒をよそう必要があったのです。幕府の役人が検分しやすいように道端や丘の上に仏教風の墓場がありました。江戸時代のキリシタンはお葬式を仏式とキリシタン式の2回したそうです。

上は初めてゆっくり写真が撮れた頭ケ島教会の下にあったキリシタン墓地です。
今回の連載の表題は「熱狂的なカトリック信仰のある五島の島々」ですが、その熱狂は現在でも続いています。その一つの例は長崎の教会群を世界遺産として認定してもらう運動です。すでに仮登録は受理されて今年は国連から評価員が来て審査が進んでいます。
その為に4人の少年少女がフランススコ法王を訪問して応援を頼みにいったのです。フランシスコさんは心良く応援を引き受けますと言ってくれたそうです。そのようなことが五島では一大ニュースになるのです。これも熱狂的なカトリック信仰の一例です。下は長崎空港にあった写真です。

自分がカトリックなのでついくだくだ書いてしまいました。これで止めます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料================
五島列島のカトリック教会群の地図:
http://islands.chicappa.jp/goto-web/03sightseeingchurch.htm
名 称   所在地   電 話   備 考
福 江 島
福江教会  五島市末広町3-6 0959-72-3957
浦頭教会  五島市平蔵町2716 0959-73-0072
堂崎教会 五島市奥浦町堂崎2019 巡回(浦頭教会)
宮原教会 五島市戸岐町733-2 巡回(浦頭教会)
半泊教会 五島市戸岐町半泊 巡回(浦頭教会)富 江
繁敷教会 五島市富江町繁敷道蓮寺    巡回(水ノ浦教会)岐 宿
水ノ浦教会 五島市岐宿町水ノ浦1644 0959-82-0103
楠原教会 五島市岐宿町楠原 巡回(水ノ浦教会)
打折教会 五島市岐宿町打折 巡回(水ノ浦教会) 
三井楽教 五島市三井楽町嶽1420 0959-84-2099  
貝津教会 五島市三井楽町貝津458 0959-84-2585  
玉之浦 井持浦教会 五島市玉之浦町玉之浦1243 0959-87-2023  
玉之浦教会 五島市玉之浦町玉之浦622-1巡回(井持浦教会) 
久 賀 島
浜脇教会 五島市田ノ浦町263 巡回(福江教会)
牢屋の窄教会 五島市久賀町大開 巡回(福江教会)
五輪教会 五島市蕨町五輪 巡回(福江教会)
嵯 峨 島
嵯峨島 嵯峨島教会 五島市三井楽町嵯峨島  巡回(貝津教会) 
奈 留 島
奈留教会  五島市奈留町浦395 0959-64-3285
江上教会 五島市奈留町大串1131 巡回(奈留教会)
南越教会 五島市奈留町船廻1587 巡回(奈留教会) 
若 松 島
土井ノ浦教会  新上五島町若松郷 0959-46-2126  
大平教会 新上五島町若松郷 0959-46-2330 巡回(土井ノ浦教会)
有福教会 新上五島町若松郷 0959-46-3307 巡回(土井ノ浦教会)
中 通 島
桐教会 新上五島町桐古里郷357-4 0959-44-0006  
若松大浦教会 新上五島町宿ノ浦郷大浦 巡回(桐教会)
中ノ浦教会 新上五島町宿ノ浦郷中ノ浦 0959-45-3936 巡回(桐教会)
高井旅教会 新上五島町奈良尾郷高井旅 巡回(浜串教会)
福見教会 新上五島町福見 0959-45-3841 巡回(浜串教会)
浜串教会 新上五島町浜串724 0959-77-2061  
上五島 真手の浦教会 新上五島町今里郷495-2 0959-52-3721  
焼崎教会 新上五島町飯ノ瀬戸郷焼崎 0959-52-9252 巡回(真手の浦教会) 
猪ノ浦教会 新上五島町続浜ノ浦郷猪ノ浦 巡回(真手の浦教会)
跡次教会 新上五島町跡次 巡回(青方教会)
大曽教会 新上五島町青方郷2151-2 巡回(青方教会)
青方教会 新上五島町青方郷505-5 0959-52-8490  
丸尾教会 新上五島町丸尾郷940 0959-54-1700  
冷水教会 新上五島町網上郷623-2   巡回(青砂ヶ浦教会)
青砂ヶ浦教会 新上五島町奈摩郷1241 0959-52-8011  
船隠教会 新上五島町神ノ浦郷船隠48-11 巡回(鯛ノ浦教会)
佐ノ原教会 新上五島町東神ノ浦郷佐ノ原 巡回(鯛ノ浦教会) 
鯛ノ浦教会 新上五島町鯛ノ浦郷326 0959-42-0221  
頭ヶ島教会 新上五島町友住郷頭ヶ島638 巡回(鯛ノ浦教会)
曽根教会 新上五島町小串郷1028 0959-55-2128
大水教会 新上五島町曽根郷大水 巡回(曽根教会) 
小瀬良教会 新上五島町立串郷小瀬良 巡回(曽根教会)
江袋教会 新上五島町曽根郷字浜口195-2 巡回(仲知教会) 
赤波江教会 新上五島町立串郷谷ノ坂子1899 巡回(仲知教会) 
仲知教会
新上五島町津和崎郷1018 0959-55-8037
米山教会 新上五島町津和崎郷589-14 巡回(仲知教会)
小値賀島
小値賀教会 小値賀町笛吹郷字段地2679-1 巡回(仲知教会)
野 崎 島
野首教会 小値賀町野崎郷

午後は気晴らしに秋川へドライブに行きました

2015年04月15日 | 写真
菜の花が農家の前に一面に咲いています。車を秋川の傍らに停め、少しだけ散歩したら黄色い山吹が咲いていました。
暇そうな老人が独りで秋川で釣りをしていました。暇そうな老人などと書きましたが私も暇ばかりです。しかし暇な毎日が幸せだと感じています。老境は意外に楽しいものです。夕方、ビールを静かに飲むのが楽しみです。こうして今日も流れゆく日々の一日になります。









遥かな五島列島への旅(3)離島に住む人々の心の豊かさ暖かさ

2015年04月15日 | 日記・エッセイ・コラム
五島列島には50余のカトリック教会があります。その大部分は明治6年キリシタン禁教が廃止された後の明治、大正、昭和の時代に造られたものです。建築の設計から施工を担当したのは鉄川与助という大工の棟梁でした。そのお孫さんが「おじいちゃんがつくった教会」(http://www1.odn.ne.jp/tetsukawa/)という資料をネット掲載にしてります。その冒頭に以下のような文章が書いてあります。
わたしのおじいちゃん鉄川与助は、長崎県を中心に九州各地で数多くの教会を造りました。
いま、あらためておじいちゃんの造った教会を見て、とても綺麗だと思います。
長崎の教会を世界遺産にという動きが始まりました。キリスト教への長い弾圧が終わった後、神父様や、シスターの方々、たくさんの信者さん方の大変な熱意と情熱で、長崎の教会が作られ、 守られてきたという事を、皆様にお伝えしたいと思っています。 (鉄川:記)

私が五島列島をたずねたのはこの明治時代につくられた数多くの天主堂を巡礼のような気持ちで巡ることでした。従ってこの「遥かな五島列島への旅」という連載記事では五島列島のキリシタンに関する内容が多くなります。キリスト教に関心の無い方はどうぞお許し下さい。
しかし五島列島を3日間観光バスで現地のガイドさんの説明を聞きながらめぐってみるとカトリックの信者は多いとはいえ、それは少数派だと分かりました。大多数はおもに浄土宗と神道の人々でした。ですからカトリックの信仰のことばかり書けば公平を欠くことになります。そこで今日は宗教のことを離れて島々で感じたことを書いてみます。
五島列島は入り江が入りくんでいてその奥には質素な集落が散在しています。何よりも強く感じたことは質素ながら心豊かに暮らしている様子がバスの窓から見えるのです。ガイドさんの説明も優しい口調で島の生活の幸せさをいろいろ話しています。よく見ると少ないながらも花畑がありそのそばを中学生が自転車で通学しています。そんな写真を下に示します。

学校は立派な建物です。そして通りのあちこちに清潔なトイレが建っているのです。訪れた教会は入場料を一切とりません。
五島列島の人々は不便な生活ながら仏教で言う、「足るを知り、全てに感謝」という人生を送っているに違いないと思い帰って来ました。
そして昨日の「遥かな五島列島への旅」(2)に対してFace Bookの会員の2人の方から以下のようなコメントを頂きました。
・・・・・矢野 信保 さんからのコメント:
私は、今から55年前に上五島の小さな中学校に教師として赴任しました。地域には、水道がなく、電気も夕方から午後10時までしか送電されませんでした。2年目にやっと診療所に医師が赴任してきました。食事はカンコロめし(麦と乾燥サツマ芋が主のごはん)、でも地域の方たちの温かさはわすれられません。今も、その頃の生徒たち(といっても、もう67才)とのつきあいは、つづいています。五島の方たちのお幸せを祈っています。
・・・・・三岳 陽子 さんからのコメント:
主人の仕事で上五島 上五島の有川に32年前に住んでいました。私の免許は 九州本土の大村試験場で取りました。病院がなく ストアの品物が長崎からくるのですが 船賃がついてて高く 新聞は台風が来たら配達できずに後からまとめて配達してました。しかし島の方は親切で助かりました。海が綺麗で島の方には本当にありがとうございました。・・・・
さてこのようなコメントを見ると私が「島の人々は心が豊かだ」と感じたことは正しかったと思います。

少し視野を広げて全国の過疎地のことを考えてみましょう。
昨年の総務省の推計では人口減少で消滅する市町村は523ヶ所あるといいます。そしてそれらは数多くの限界集落をかかえていると言われています。
しかし大自然の中に独りで、あるいは一家族で住んでいる人の勇気と心の豊かさをもっともっと大切にするべきではないでしょうか?限界集落などという差別用語を発明した人は偉い社会学者です。この様な言葉が、住んでいる人々の心を傷つけないことを祈っています。いや大自然の中に住んでいる人々は達観しているのです。都会の人々は過疎地だ限界集落だと騒がないで静かにしているにべきです。
704年創建の沖神嶋神社と明治41年に造られた野首教会が存在していた野崎島も人が住まなくなりました。それも自然の摂理です。下に五島列島の風景写真を示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

五島列島では入り江が奥深く静かな湖のようになっていて、その岸辺にこのような集落がたくさんあります。

少し裏山に上るとあちこちに仏教式の墓地があり菜の花が咲いていました。キリシタン墓地は数が多くありませんでした。

集落のあるところには小型の漁船が係留してあり、近い海で魚をとっているようです

そしてキリシタン集落の中には明治時代に造られた天主堂があります。五島列島では集落ごとに仏教の集落、神道の集落、カトリックの集落と分かれているそうです。

マグノリア、ヒヤシンス、ユキヤナギ、ビオラの季節もあっという間に過ぎ去りました

2015年04月14日 | 写真
ここ数日、冷たい雨が降って寒い日が続いています。3月中旬のような天候です。そこでその頃の京王フローラルガーデンの花々を思い出し写真を見て楽しんでいます。皆さまへもお送りいたしますので花々の写真をお楽しみ下さい。









遥かな五島列島への旅(2)過疎化しつつある離島の悲しみと喜び

2015年04月14日 | 日記・エッセイ・コラム
過疎化しつつある離島の悲しみとは親子の別離の悲しみです。子供は中学校や高校を出ると島を離れてしまうのです。めったに島に帰って来ません。残された祖父、祖母、父、母、兄弟姉妹は毎日去った人のことを思い出しています。
そして残った人々も毎日の生活のつらさに耐えています。それは過疎化しつつある離島の宿命です。
しかし何故7万人もの人々が五島列島に暮らしているのでしょうか?そこには都会には無い深い喜びがあるからです。九州本土から船で3時間もあると全く独立した小さな国のようです。そこには本土には無い自由さがあります。質素な生活ですが、緑豊かな山々や蒼い海に囲まれた文字通り楽園のような所に住んでいるという喜びが胸を打つのです。それがあるからこそ多くの人々が住んでいるのです。
それはそれとして離島の生活を考えてみましょう。以下は産経ニュース:http://www.sankei.com/politics/news/140723/plt1407230026-n1.html(編集委員 宮本雅史)からの抜粋です。
長崎県・五島列島での生活は他の離島と同様、不便さを伴う。
 運転免許を取得するには本土の長崎県大村市に行かなければならない。高い運賃を支払って大村まで行くのです。
大学入試センター試験だって、福江島(五島市)で受けられるようになったのは平成21年からで、それまでは、船に乗って長崎大(長崎市)まで受けに行ったのです。天候の問題があるから、4、5日前に行くので、受験生の負担は大変大きかったのです。
五島の人々にとって九州本土は遠い存在になっているのです。
航空料金も高く福岡までの場合で島民向けの割引料金でも1万2850円です。早割料金の福岡・東京間とそんなに変わらないのです。
船便も長崎まで3時間以上で料金も飛行機とあまり変わらないのです。
こんな状態ですから島にはコンビニもファストフードの店もありません。家電や家具の量販店も回転スシもありません。
島の人々はめったに島を出ないで物価高の島内で不便をしのいで生活をしているのです。
生まれたときから離島というハンディを背負って生きているのです。
このような生活なので若者がどんどん島を出て行くのです。そしてそこには家族の別離の悲しみがあるのです。
 五島列島は、西海国立公園に代表される自然景観や遣唐使の寄港地だった歴史、世界遺産登録を目指している「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成するカトリック教会など、観光資源が多いのです。しかし観光客は減り続けているのです。五島列島には140の島がありますが、有人の島は18島だけだそうです。そして無人島になっていく島もあるのです。その例は北端にある野崎島が一例です。
野崎島の無人島化と沖神嶋神社と野首教会
「沖神嶋(おきのこうじま)神社」は西暦704年に建立されています。
この島のカトリックの歴史は、それに比べると千年以上も違います。
江戸から明治になり、やっと信教の自由を得たとカトリック教徒が新天地を求めたやってきたのです。
しかし1300年も続いてきた島の神社を守ってきた神主さんのご夫婦も寄る年波に勝てず、何十年間も日課としていた神社への参拝ができなくなり、2001年の11月に島を離れることになりました。
野首教会とその内部
無人島に残った野首教会は、今も手入れされているので、美しくて立派な教会なのです。予約しておくと中にも入れます。
野首の地は1716年、捕鯨で財を成した小値賀島の豪商・小田家が開拓をしたことにはじまりますが、ここには長いあいだ人は住み着かなかったようです。平地が少なく急な斜面ばかりで、住むには不便な土地だったのです。
その後、1797年に五島藩が大村藩に対し、領民を土地開拓民として移住させるよう要請しました。大村藩主はこれを快諾し、外海地方から100人あまりが五島へ移住することになります。そのほとんどが潜伏キリシタンだったといわれています。彼らに開拓地が与えられたことが知れ渡るとさらに移住者は増え、最終的には3,000人を超える人々が五島に渡ったと伝えられています。
このうちの2家族が下五島を経由して野崎島に渡り、野首の地に住み着いたのが野首集落のはじまりだといわれています。
 このように野崎島は、隠れキリシタンが渡ってきた島で野首教会は明治41年に、たった17世帯でお金を出しあって建てた天主堂です。3食、食べるところを2食に減らして、お金をためて建てたといいます。 この教会は鉄川与助という教会造りに生涯をささげた五島出身の棟梁が初めて手がけたレンガ造りの教会です。
しかし2011年には完全に無人島になり、現在は教会だけが野崎島を守っているのです。
下に野首天主堂の3枚の写真と現在の野崎港と野生鹿の繁殖した現在の野崎島の写真を示します。3枚の写真の出典は、http://www1.odn.ne.jp/tomas/nokubi.htmです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

これら3枚の写真は野首天主堂の現在の写真です。





上は現在の野崎港の様子です。

上は野生の鹿が多数棲んでいる様子です。

五島列島とはこんな風景の島々です

2015年04月13日 | 写真
五島列島は長崎県の140の島からなる島々です。長崎港から西へ100キロメートル位も離れています。その140のうち18の島に人が住んでいます。
上五島の中通島と若松島、下五島の福江島が一番大きく盆地もあり美味しい五島米が採れます。和牛の飼育もさかんで松坂牛や神戸牛になる子牛を多数出荷しています。盆地以外は険しい山地で海岸線の大部分は断崖になっています。しかし所によっては白い砂浜がありエメラルドグリーンの美しい水が広がっています。
そのような風景写真をお送りします。

上は福江島の南端の大瀬崎の灯台です。

福江島の高浜ビーチです。

五島列島の大部分の海岸の断崖の様子を示す風景写真です。

上五島の矢堅目の巨大な岩で出来た三角形の島です。

上五島で泊まったホテル・マリゲリータの窓から見た夕陽です。

五島列島の島々の間を走る海上タクシーです。2日目に福江島の奥浦港から上五島の郷ノ首港まで90分乗りました。途中、キリシタン殉教の地のキリシタン洞窟・ハリノメンドを案内して上陸させてくれました。
五島列島とは伊豆半島を南北半分に切って2つの島にしたような急峻な地形のかなり大きな島です。漁業が主で五島米が少し採れ、和牛の飼育とジャガイモの生産をしています。近代工業が皆無なので経済的には余裕の無い地域です。県立高校まではありますが、その後の大学は島外へ行き入学します。若者の少ない典型的な過疎の問題を抱えています。
しかし自然はあくまでも美しく、あちこちの集落にはレンガ造りや白亜の教会が建っていて一種独特な地方文化を持っています。
写真の風景をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。