後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

山林の中に小屋を作り自然と遊ぶ趣味の始め方(3)小屋を作り近隣へ挨拶へ行く

2015年04月12日 | 日記・エッセイ・コラム
@小屋の位置と庭の造り方の関係を考え楽しく作る!
前回のような手順で公道のある山林を100坪から1000坪の広さで購入したとすます。その後どのように小屋を作るかは各人各様で良いのです。
今回は小屋の作り方と庭の造り方の一つの例を示そうと思います。近所に山荘を自分で作った木内正夫さんの山荘の作り方です。
彼とは平成4年以来のお付き合いです。小屋の構造、配置と庭の小川と池の様子が訪れる人の心を和ませます。
東側に谷川、そしてなだらかな日当たりの良い斜面、それに続く1000坪ほどの雑木林の平地に家が建っています。まずプレハブの生活用の母屋を作ったそうです。母屋のそばに3階立ての見晴らしの良い小部屋を作りパソコン専用の部屋にしました。
その次が母屋から数メートル離して木工の趣味の広い部屋を鉄筋コンクリートで自作しました。この部屋の2階は広い夏用の寝室と鉢植え用の屋上にしました。
母屋の2階と趣味の部屋の2階をつなぐアーチ形の天空にかかる橋を作りました。
この橋を渡るときの爽快感が素晴らしいのですが、渡り切ったところにはガラス張りの小部屋があり陽が明るく射し込んでいます。夕日を見ながらビールを飲む部屋だそうです。
小部屋の右手奥には種々の草花を育てる鉢植え用の広い屋上が広がっています。
谷川へ続く斜面には水芭蕉を植えた池と谷川の向こう側には大き池を作り魚が放してあります。
木内さんは始めのプレハブの母屋以外は全てご自分で少しずつ作ってきたそうです。
しかし自分で作れない人は専門んも建築会社に頼むのが便利です。土地を買った不動産業者さんから現地の会社を数社紹介して貰い見積もりを取って依頼します。このとき自分の希望の部屋の配置や屋根の形や外装の色などを話し、丁寧に相談に乗ってくれる建業業者を選びます。
さて小屋が出来たら管理組合を作ったり、近隣の農家に挨拶に行きましょう。勿論、近隣の農家に挨拶は土地を購入した時点で早めに行くのが賢明です。
@周囲の人々へ呼びかけて管理組合をつくろう!
近隣の別荘へ呼びかけて管理組合をつくります。
そして毎年の懇親会へは地元の村長さんか区長さんを招待します。組合の仕事は車道の修理と別荘地内の草刈です。私どもの組合は順調に続き、お陰で車が四季を通して上がれるようになりました。地元の人々も友好的です。
@近所の農家に挨拶に行こう!
山小屋は1973年の暮れに完成しました。翌年の早春の頃に初めて妻に娘、息子の一家4人で山林の東側で乳牛牧場をしているIさん一家へ挨拶に行きました。
小屋のそばの清流の向う岸を登れば一面の白樺林。その下草を分けて道なき林を進むと牧草地があり、二十頭以上の乳牛のいる牧舎がありました。その牧場のIさん一家へ挨拶をしました。挨拶をすると牧場主が子供達へ、「うちの牛は皆おとなしいから近くに行って見ても良いよ」と言います。小学6年と4年の子供たちが歓声を上げて牛のそばへ走って行ったものです。
翌朝、牛乳を一升瓶2本に入れて届けてくれたのは牧場のお婆さん。「今絞ったばかりだから温かいよ。でも生の牛乳は必ず沸騰させてから飲んでください」
その後I牧場には随分世話になった。絞りたての牛乳の他にも色々珍しい食べ物も貰った。取れたての竹の子、白菜、豆餅、甘い赤飯など縁側でご馳走になったのも懐かしい。何時行っても一家はニコニコして歓迎くれる。
その他、牧場より少し登ったところのH養鶏場の一家とも親しくなりました。普通の卵の3倍くらい大きい卵を何度も貰って朝食の卵料理にしたものです。養鶏場のおばさんは花が好きで庭一面に色々な花が咲いていました。
山林の中に小屋を作るときには必ず近所の農家へ挨拶に行くのが良いと思います。地元の人々は実に親切で山小屋へ行く楽しみも大きくなるのです。
牧場主の一家と養鶏場の一家へ歩いて行く道が無くて、挨拶に行ったのは小屋の完成した後でした。しかし小屋を作る前に挨拶に行くのが礼儀であったと反省していいます。
以下にこの甲斐駒岳の麓の山小屋の近隣に咲く春の花々の写真をお送りします。(終わり)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)













山林の中に小屋を作り自然と遊ぶ趣味の始め方(2)山林の魅力と土地の買い方

2015年04月11日 | 日記・エッセイ・コラム
自分が何故、100坪や200坪の山林を買って小屋を建てようとしているのでしょうか?行動を起こす前に何度も自問自答して深く考えた方が良いと思います。
まず決定的なことは人里離れた雑木林が本当に好きであることです。そして普通の別荘地と山林はいろいろな点で非常に違います。山林の中の小屋に泊まることは厳しい生活なのです。山林が本当に好きでなければ初めから止めた方がよいのです。
@山林の魅力
山林には特別の魅力があります。小屋に達するまでの道が楽しいいのです。林を見ているだけで楽しいのです。都会では見ることの出来ないモリアオガエルが産卵にやって来ます。
山林の買い方を説明する前に写真を数枚示します。

上の写真は私の小屋へ行く途中の田園風景です。この様な風景の中をドライブするのが楽しいのです。

上は人里から離れ山林へわけ入ったときの道です。雑木林の中を走るのも楽しいものです。

上は小屋の窓から見える木々です。眺めているだけで楽しくなります。

上は隣の木内さんの山荘の庭の木に産みつけられたモリアオガエルの卵塊です。

上は親のモリアオガエルです。
山林の中の小屋には他にもいろいろな魅力がありますが、先を急いで山林の買い方に進みましょう。
@山林の値段と買う時の注意事項
まず現地の不動産屋さんを2、3ケ所訪問します。
山梨県の北杜市の山林は大体坪あたり1万円前後です。もっと安いところもありますが、車の入れる道が無かったりします。
未整地の雑木林なら坪4000円から5000円が相場のようです。従って100万円の予算があれば100坪くらいは買えるわけです。ただ注意すべきことは、坪1万円で100坪といっても半分は大きい石がゴロゴロしていて宅地にはならないとか、半分が急傾斜で平地は半分ということが多いのです。しかし宅地に使えない部分は自分好みの庭に出来ます。これが小屋作りの半分の楽しみになる場合が多いのです。
未整地の雑木林が坪4000円という場合は1000坪、2000坪とまとめて売っています。交渉で200坪でも売ってくれる場合もあります。
都会地で宅地を売り出すときは、土地は区画され4隅には境界石が入れてあります。しかし山林ではそんなものは有りません。都会の宅地とは異なる独特の問題が山積しています。その問題点を以下に示します。
(1)山林、雑木林の真の所有者を探すこと、(これが分からないことが少なくありません)
(2)市役所や村役場へ行き購入後、山小屋を建てて良いか否か相談する。  (法務局出張所へ所有者変更の登記をして地目を山林から宅地へ変更して良いか?)
(3)建てた後、不動産税は幾らになるか関係役所で調べておく。
(4)購入予定地まで車が入れる公道が有るか否か?
   (一年の半分は車通行不可能でも公道である必要がある)
(5)周りの山林の持ち主から人間だけ通うれる道を作る許可をとっておく。
  (車の入れない季節は徒歩で小屋まで行くので)
(6)山林の下の里の人々へ色々聞いてみる。
 (従来、村人はその山林をどのように使ってきたか?山崩れや鉄砲水が有ったか否か?)
(7)購入する山林の4隅へ売主合意の上で境界石を入れる。
  (境界が分からず小屋を建てあとで自分の土地でないことに気がつく)
兎にも角にも山林を買うことは大いなるアドベンチャーです。運不運も関係します。少なくとも雑木林が好きでなければ止めた方が良いです
お薦めする一番良い方法は信用出来る現地の不動産業者を探してそこから山林を購入する方法です。どうしても2、3度は現地へ行き数軒の不動産業の社長と直接話合う必要があります。
こちらの家族構成や購入する目的や予算の範囲などを礼儀正しく聞いて、すぐに適切な物件を案内してくれる社長ならかなり信用して良いです。こちらの話もろくに聞かず自分の売りたい物件を無理に勧めるような社長は止めましょう。
山林は所有権者とは別に村人が薪を取ったり茸を取ったりして来ました。そこには公道として馬車道があったのです。現在は消えて分からなくなっていても公道はいつでも誰でも通行して良い道です。車の上がれる幅は十分あるものです。こんな歴史的な諸々の山林事情は東京や横浜の不動産業者には分かりません。
山林とは村人の共有財産でもあり入会権もあります。村人と円満に話し合うことも大切なのです。(続く)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

山林の中に小屋を作り自然と遊ぶ趣味の始め方(1)最適の場所の条件とは?

2015年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム
何度も書いていますが私は山林の中の小屋へ行って自然と遊ぶ趣味を1974年から41年間も続けています。それほど心が躍るような面白さはありませんが、楽しさが奥深く、気がついたらもう41年もたっています。最近は老齢化で行く頻度も毎月1回くらいに減りましたが、昨年は25回ほど行きました。小屋の中を掃除したり、薪ストーブを焚いたり、庭に流れる小川を掃除したりするのが何故か楽しいのです。庭にはバーベキュー用の焚火の出来る炉もあります。小川の畔でヒグラシ蝉の鳴き声を聞きながらビールを飲んでいると夢幻の境地に遊んでいるように感じます。そして夕陽を眺めながら山林のなかを散歩します。猿の群れが不思議そうにこちらを見ています。
このような趣味を始めてみたいとお考えの方々の為に、「山林の中に小屋を作り自然と遊ぶ趣味の始め方」という連載記事を書いていきたいと思います。
その第一回は場所の選定方法と山林の買い方です。
この趣味を何十年も続ける為には場所の選定が一番重要です。
(1)場所は自宅から2時間から3時間で行ける範囲にする。
毎月、2,3度行くためには片道3時間が限度です。小屋に着いてから4時間くらいは遊びたくなるものです。車なら高速道路が使えれば片道150Km以内なら良い場所です。列車でも行けて下車駅から徒歩40以内なら良い場所です。車と鉄道の両方が使えれば便利です。
(2)場所は風景の良い所にします。何十年も通っていると風景は非常に重要になってきます。下に私の小屋の近くから見える甲斐駒岳と八ヶ岳の写真をしめします。



小屋は山林の中に作りますから小屋の窓からの風景は良くないのが普通です。しかし数分散歩すると視界が開け、甲斐駒岳と八ヶ岳のような美しい風景が見えないと心が暗くなってしまいます。
(3)小屋のすぐ脇を年中水の涸れない清流が流れている場所を選定します。清流ですから沸かせば飲めます。そして電動ポンプで風呂桶に汲めば文字通り野天風呂が楽しめます。燃料はプロパンボンベを小型トラックで運び上げ使います。
下に私の小屋の前を流れる清流の写真と、その流れを小屋の中から撮った写真を示します。



(4)どんな悪路でも車が小屋まで上がれる道路がある場所を選定すべきです。
山林の中の小屋には電気、ガス、水道がついていないのが普通です。炊事道具は家電製品を車に積んで運び上げる必要があります。飲料水も自宅から持参します。泊まる場合には食料品やビールも運ばなければいけません。ですから車が低速でも必ず小屋まで上がれる必要があるのです。
(5)小屋を建てる場所は現地の農家から500m以上離れていることが重要です。小屋で自由な気分になり自然と遊ぶには隣の農家と離れていた方が良いのです。
しかし農家の人々と仲良くすることも重要なのです。
さて以上のような条件の場所が見つかればその山林を買います。その買い方は次回に書くことにして、以下に山林の中の小屋の写真を数例しめします。





以上で「山林の中の小屋」のイメージがご理解できたと存じます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)








すっかり新緑の季節になりました

2015年04月09日 | 写真
さきほど武蔵野公園を少しだけ散歩してきました。木々はすっかり新緑でみずみずしい葉を茂らせています。
足もとを見ると小さな草花がいろいろと咲いています。春の日が足早に流れて行きます。それにしても櫻の散るのもあっという間でした。
新緑の樹木と季節の草花の写真をお送りいたします。









幸多き瑞穂の国になるために(2)平和を祈り、個人の尊厳を守る

2015年04月09日 | 日記・エッセイ・コラム

(上の写真の出典は、http://ameblo.jp/tabicamera/image-10312895880-10225461396.htmlです)
将来の日本にとって一番重要なことは平和を守ることです。その為には平和を祈り、賢い外交政策と過不足無い軍備をそなえておくことが常に要求されます。
しかし幸多き瑞穂の国になるためにはもう一つ大切なことがあると私は思います。それは日本の政治を良くして個人の尊厳を守る社会にすることです。
今日は天皇陛下と皇后陛下のパラオのペリリュー島訪問のニュースを取り上げながらこの平和と個人の尊厳の問題を考えてみたいと思います。
上の写真はパラオの風景写真です。この様に平和で美しい南海の島で日本軍とアメリカ軍が1944年9月15日から1944年11月25日まで死闘をくりひろげ日本軍が玉砕したのです。
日本軍の戦死は10,695人で捕虜は202でした。一方アメリカ軍の 戦死は 1,794人で負傷は 8,010人でした。
このペリリュー島へ慰霊の為に天皇陛下と皇后陛下が昨日パラオの首都に到着し大統領主催の晩さん会に出席しました。
下の写真は昨夜、天皇陛下と皇后陛下が宿泊した巡視艇、「あきしま」の航海中の写真です。

さて今回の天皇陛下と皇后陛下のペリリュー島訪問の私の感想を述べたいと思います。
先の大戦で兵士たちは天皇陛下バンザイと叫んで戦死するように教育を受けました。ですから戦後に昭和天皇と現在の天皇は先の大戦の犠牲になった300万人余の霊魂の鎮魂のためにいろいろな場所へ行きました。特に沖縄には天皇自らの堅い意向で現在の天皇陛下が慰霊にいきました。そして昭和天皇と現在の天皇は常に平和を祈ってきたのです。日本の若い人々はこの慰霊と鎮魂の旅が将来の平和に固く結びつくようにするのが大切な務めと私は信じています。
そして日本が個人の尊厳を守る文化国家になって貰いたいのです。今回のペリリュー島訪問は天皇陛下の強い個人的な意志で実現したと報じられています。戦前の昭和天皇の個人的な意志が軍部に踏みにじられた歴史を思うと日本も良い国になったと嬉しく感じます。
それだけではありません。最近は出生や学歴によって個人が差別されることが少なくなりました。都会暮らしと田舎暮らしを差別しません。老人や身体障害者も差別されません。そういう意味では個人の尊厳が守られるような国になって来たのです。喜ばしいことです。
しかし個人の尊厳を守るということを、もっと徹底した国になって貰いたいのです。
それは戦死した敵の慰霊を行い、遺族の悲しみを想い浮かべることです。
ペリリュー島では日本軍の10,695人が死に、アメリカ軍の1,794人が戦死し8,010人が傷を負ったのです。
数は少なくてもアメリカ軍の1,794人の戦死者も日本軍の戦死者も個人的な視点に立てばその悲しみは全く同じです。個人と故人の尊厳を守るということは犠牲になった日本人もアメりか人もパラオの人もまったく同じに鎮魂の祈りを捧げることではないでしょうか?
アメリカは戦勝国で日本は敗戦国だから戦勝国の死者の冥福を祈る必要が無いと考えてたらそれは個人の尊厳より国家を重視したことになりませんか?
このように書くと欧米も同じだと言う人が必ず出て来ます。欧米のすることでも悪いことは悪いことです。流石に最近は欧米人もそのことに気がついて「ノルマンデー上陸記念日」には敵国だったドイツも招待し、敵味方双方の犠牲者の鎮魂を祈るようになったのです。
日本の若い人々が常に平和を祈り、敵味方双方の犠牲者の鎮魂を祈るようになってくれることを願っています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

幸多き瑞穂の国になるために(1)日中不再戦の誓いの泰山木

2015年04月08日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日、駄文を書いてはブログやFace Bookに投稿しています。そうしたら、若い人にも良い内容なので高校生の娘にも読ませていますというコメントを頂きました。
これには大変困ってしまいました。私は戦中、戦後育ちの高齢者が共感するような内容のものばかり書いていたからです。そのコメント以来、数週間考えました。そしてこの日本をもっと幸せな国にするために何をしたら良いかを、気楽に連載形式で書いてみようと決心しました。
これからの若い人々の幸多きことを祈りつつ書き進めたいと思います。
今日は中国と今以上に仲良くしましょうという考えを書きます。それが日本の平和の為に非常に重要だからです。終わりに説明しますが、勿論、軍備も必要です。
さて数日前に近所の公園に櫻を見に行きました。下の写真のように美しく咲いていました。

この美しい櫻花の下に日中不再戦の誓いの碑があるのです。

写真が不鮮明ですが、文章の趣旨は昭和12年(1937年)7月7日の北京郊外の盧溝橋事件で戦争が始まりやがて太平洋戦争に拡大し大きな悲劇が起きました。そこで盧溝橋事件の30周年の昭和42年7月7日に日中不再戦の誓いのタイサンボクを一本植えたと書いてあるのです。

上の写真の左端にそのタイサン木が写っています。その木の前に碑もあります。
高校の教科書にも載っているそうですが日中戦争での中国人の犠牲者は1000万人以上と言われています。
勿論、日本の兵隊さんたちも約45万人くらいが犠牲になりました。
この膨大な死者の悲劇と遺族の悲しみを想い、心を寄せ同情を惜しみなくそそげば自然に日中不再戦の誓いになるのではないでしょうか。この碑は日本人の美しい人情の発露なのです。
これからの若い日本人は「絶対に戦争をしない」という誓いを固くしたほうが良いと信じています。
しかし一方で軍備も怠ってはいけないと思います。人間は天使のようにもなれますが、悪魔のようにもなれる存在なのです。自分が天使になったり悪魔になったりします。悪魔になった人々の多い他の国が日本に攻め込んで来たら断固戦う準備だけはしておくことが平和の為に肝要なのです。
軍備の大きさは近隣国との友好関係が確立していれば小さくすることも可能なのです。
さて終わりに蛇足を書いておきます。今日ご紹介した看板は日中友好協会が作ったものです。
ところが日中友好協会には自民党のつくったものと共産党のつくったものが同じ名前で並存しているのです。今日ご紹介した碑は多分、共産党の日中友好協会が出したものと想像できます。私は共産党は好きではありませんが良いものは良いと公言することを信条としています。日中不再戦の誓いと充分な軍備がこの瑞穂の国の平和と安全を保障すると私は信じています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

陽賜里(ひだまり)工房 恒例春のお花見会へのご案内

2015年04月07日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県、北杜市の甲斐駒の麓にある陽賜里工房ガーデンの春の公開と花見が例年通り開催されます。桜が満開になる頃です。庭でコーヒーをゆっくり飲んで寛ごうという企画です。ホストは原田聖也さんという男性とその母上です。

日時:4月10日(金)、11日(土)、そして12日(日)の3日間、
ところ:山梨県北杜市武川町山高 3567-556の陽賜里工房ガーデンです。
雨が降っても屋根があるから大丈夫です。
連絡先:原田聖也さん、携帯電話:090-4170-0370 E-Mail:t-taraku@t-net.ne.jp
このオープンガーデンには私も家内と一緒に数回参加しています。3年前の春のオープンガーデンの報告記事を以下に掲載いたします。ご参考になれば幸いです。
===花の園の中の喫茶店・・陽賜里工房というコーヒー店===
戦後に学生時代を過ごした方々にとっては喫茶店という言葉は懐かしいと思います。名曲喫茶とか純喫茶とか歌声喫茶とかいう名前で、コーヒーの香りとともに文化的な場所でした。当時、コーヒーは高価な飲みものだったのです。
それから幾星霜、不思議な喫茶店へ行ってきました。陽賜里工房という名前で、春と秋の2回しか開店しません。
春の花々、秋の花々に囲まれたコーヒー店です。店主は原田聖也さんという男性で、コーヒーの修業を重ね、特別のコーヒー豆焙煎工場のものを仕入れて使っています。食品衛生法を勉強をし、飲食店開業の資格も取りました。
この喫茶店は北杜市の真原桜並木のはずれにある花の園です。庭全体がなだらかな南向きの斜面になっていて満開の桜の木が2本、ピンクのユキヤナギ、水仙、ヒトリシズカ、イカリソウなどに囲まれて店主手造りの店があります。
花園の一番高い所にはロマンチックなデザインの木造の家があり店主が寝泊まりする場所になっています。お客は勝手に花の園を歩きまわり、花々を鑑賞します。そして花疲れしたら洒落た店に入って香り高いコーヒーを頂きます。
コーヒーを飲む場所には女主人が居て、優しく話し相手になってくれます。店の主人のお母さんです。上品な日本語を使う方です。花の園の作り方などのよもやま話です。私がカトリックの話をしましたら、ご自分の信仰のバプテスト教会の話を静かにして下さいました。亡くなったご主人はその教会の牧師さんで、ご自分も宣教活動をしながら幼稚園の園長さんもしていたそうです。兎に角、折り目正しい一生を過ごした方なのでお話をしていてもスッキリとした印象です。下にこの花の園の中の喫茶店の写真をお送り致します。





良い人は花鳥風月を愛し、政治を論じない

2015年04月07日 | 日記・エッセイ・コラム
インターネットをいろいろ見ていますと花々の写真、野鳥の写真や美しい風景写真が沢山出ています。
そして政治的な議論や国際関係を議論した文章が非常に少ないのです。
日本の憲法改正や軍備増強に関する議論も少ないのです。何故でしょうか。
それで考えてみると、高尚な人は花鳥風月を愛し、政治を論じないという伝統的な文化が日本に流れているようです。
政治とは所詮、人間と人間の欲のぶつかり合いなのです。下らない人間の欲からの解放こそが高尚な人生なのです。
ですから良い人間は政治を論じません。経済活動に関する議論もしません。国際関係にも関心がありません。ましてや戦争には興味がありません。
平和を愛し、花鳥風月を静かに眺めて人生を楽しむのです。
このような人を良い人と言います。善い人です。
このような人との一問一答を下に書いてみます。
(1)憲法改正は必要でしょうか?
答え:必要ないと思います。韓国人も中国人も平和を愛する人が多いから戦争にならないと信じています。彼らの善意を信じることが平和を守る一番良い方法と思います。
(2)尖閣諸島に中国軍が上陸したら、どうしますか?
そんなことはありえないと思います。中国との友好関係を築いておくことが一番重要です。
(3)原子力発電は今後も続けた方が良いでしょうか?
原子力発電は止めても良いと思います。その方が子供の安全のために良いと思います。日本の経済発展はこれ以上、必要ないのです。「足るを知る」という気持ちで毎日を過ごせば静かに花鳥風月を楽しめます。
(4)日本では男女平等でなく女性は偉くなれませんが、このことをどのように考えますか?
偉くなるという考えが心を貧しくするのです。その気持ちの少ないのが女性なのです。女性は豊かな心の持ち主として尊敬すべきです。
第一、母親の子供に対する純真な愛は男には真似の出来ない素晴らしいものです。それで良いのです。
(5)どうして花鳥風月だけを愛して、他の事に関心が無いのですか?
他の雑々しい政治や国際関係に心をとらわれると人間は本当の幸福が分からなくなるのです。花鳥風月を愛し、家族を愛していれば充分なのです。
さて日本は仏教国です。上の5つの質問をお釈迦様にしたと仮定してみましょう。
それぞれの答えはあなた自身で書けると思います。
それはさておき、自戒の念を込めて、下に昨日撮った桜花のや山吹の花の写真をお送りします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。後藤和弘(藤山杜人)









季節は早くも新緑の候になりました

2015年04月06日 | 写真
櫻の花を10日ほど追っていましたら何時の間にか新緑の侯になっていました。近所の雑木林のクヌギやコナラやケヤキの枝に新緑の葉が茂りすっかり初夏のような風景です。
今日はこの新緑をテーマにして写真を撮りに行きました。写真に電線や電柱の写らない所まで車を走らせました。そうしたら清瀬の金山緑地公園と埼玉県の所沢の農村に来てしまいました。一番初めの写真が所沢の農地の雑木林です。新緑の頃と紅葉の頃に毎年、必ず写真を撮りに行く場所です。
続く4枚の写真は金山緑地公園を散歩しながら撮った写真です。
それにしても季節の移り変わりは早いものですね。









往く春を惜しみつつ、韓国の日本非難を静かに受け入れる

2015年04月06日 | 日記・エッセイ・コラム
櫻も散り始め、春が過ぎ去ろうとしています。昨日の復活祭も終わり何か春が終わったような気分です。この春も毎年と同じよう桜が美しく咲いている所に、あちこち車を走らせて写真を撮ってきました。今年は小金井公園の夜桜の写真も撮りました。そして何と言っても青梅の梅岩寺の2本の枝垂れ櫻は圧巻でした。毎年、見るのですが毎回感動します。今年は曇り日でしたが肉眼で見るとそれも良いものでした。その写真を下に示します。

この櫻の季節に私は日韓関係の記事を何回か掲載しました。
そうしたら韓国が朝鮮併合や強制連行のことをいつまでも恨みに思い、日本へ謝罪と補償金を要求するのは不条理ですというコメントを沢山頂きました。
そして400年も前の豊臣秀吉の朝鮮侵略まで持ち出して日本を非難するのは許せないというコメントを頂きました。
その上、歴史的にみると中国は朝鮮を何度も侵略してきたのに韓国は中国を非難しないのは片手落ちだというコメントも頂きました。
これらのコメントに対して今日は私の考え方をきちんとお答えしたいと思います。
どんな民族でも最も最近受けた屈辱とその屈辱の大きさと深さによって当然復讐をしようとします。復讐は神がするから人間はしてはいけないと教えても、それは無力です。
韓国の歴史において一番最近受けた深い屈辱は朝鮮併合です。中国の侵略によって受けた屈辱はそれ以前の昔のことでした。朝鮮動乱で中国共産党軍がソウルまでなだれ込んだのは北朝鮮を助けるための短期間の出来事でした。
いろいろ考えると韓国人がいつまでも日本へ謝罪と補償を繰り返し求めるのは、それだけ朝鮮併合の屈辱が大きく深かったという証左とも考えられます。
それは人間の不条理です。その不条理を日本の運命と静かに受け入れて、心を騒がせないようにするのが日本民族の賢さと叡智ではないでしょうか?
このように書くとすぐに賠償金は払ったのにまたお金を払うのですかと聞く人がいます。
払える金額なら少し払えば良いのです。しかしお金だけで解決はしません。
ドイツの大統領だったヴァイツゼッカーさんの以下の態度をとるのが良いのです。
・・・・われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。・・・
このように書くと国際政治は甘くないから日本も韓国を執拗に非難する必要があると主張する人がいます。しかし感情的な非難合戦は国際外交では軽蔑されるだけです。諸外国は客観的に日本や韓国の善悪を冷静に計算します。それが外交の冷厳さなのです。
日本の朝鮮併合の屈辱は他の外国人にも容易に理解できます。ですから韓国に味方になります。それも日本の運命です。誤解しないで下さい。朝鮮併合をした当時の日本の権力者が悪いと言ってはいません。彼等は日本の将来のために併合したのです。愛国者だったのです。誰も彼等を非難する資格はありません。それが人類の歴史の一齣に過ぎなかったのです。
韓国が日本を非難しても反発する必要が無いのです。
このように書くと朝鮮を近代化したのは日本人です。韓国人はその恩義を忘れている非道い人間だと言う人がいます。私は祈りながら書きます。恩義を押し売りしないほうが良いのですと。
いくら謝罪しても韓国の非難は止まらないでしょう。それが日本民族の運命として叡智でもって対応するほかないのです。誰にも、私にも、解決方法は分かりません。
こんなことを書きながら今年の春も過ぎて行きます。桜が散って新しい季節がくるのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

今日は復活祭・・・イースターエッグとイースターバニーは春の風物詩

2015年04月05日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は復活祭です。キリスト教の信仰で一番重要な祭日です。私はクリスマスより重要だと考えていますが、日本ではクリスマスほど広く知られていません。
理由は簡単です。クリスマスはイエス様が生まれた誕生日ですから分かりやすいのです。誕生日は子供でも理解できます。
しかし復活祭の意味は不思議です。日本人には理解し難いのです。十字架にかけられ一度死んでしまったイエス様が生き返った日を記念して祈る春の祭日なのです。
死んだ人がまた生き返るなどという話は理解出来ません。
十字架上で死に、よみの国へ行ったイエス様がもう一度生き返り、弟子たちと話をして、それから天上に登って神の右の座に着いたのです。
そしてこの世の終わりにイエス様はもう一度、この世に来て、最後の審判を行うのです。
そのとき死者の肉体は復活して永遠の命を得るのです。
以上のことを信じている人をキリスト教徒と言います。私も信じています。
この話の中で一番重要なことは十字架上で死んだイエス様がもう一度復活して生き返る場面です。その喜ばしい事実を祝うのが今日の復活祭です。ですから信徒同志は、「復活祭、おめでとうございます」と挨拶を交わします。
この復活祭にはイースターエッグ(卵)とイースターバニー(兎)がつきものです。
復活祭の風物詩であるイースター・エッグは東方教会・西方教会を問わず極めて古い時期からの習慣でしたが、イースター・バニーは西方教会のみにみられる習慣です。それは16世紀から17世紀にかけて定着したものであると言われています。
卵を飾る習わしは、キリスト教および復活祭よりもかなり古くから存在しました。
卵とウサギは、古来より豊壌のシンボルだったようです。
ユダヤ教の過ぎ越しの祭の正餐では、塩水で味付けをした固ゆで卵が、エルサレムでの新しい命と信仰のシンボルとして食べられるそうです。
一方、イースターバニーは、初はドイツのルーテル教徒から広がったもので、野ウサギが裁判官の役を演じて復活祭の季節の始めに、子どもたちが良い子だったか反抗的なふるまいだったかを評価していたそうです。
裁判官ですから、イースター・バニーは、しばしば服を着た姿で表現されます。
他の伝承によれば、このウサギは、カラフルな卵やキャンディ、ときにはおもちゃをバスケットに入れて子どもたちの家に届けるそうです。祝日の前夜に子どもたちに贈り物を届けるという点では、イースター・バニーはサンタクロースに似ているのです。
まあ、いろいろな理由づけはありますが、要するに母親が子供達を喜ばすためにしたことに違いありません。幸せな家庭は春のお祭りにふさわしいのです。
したにイースターエッグとイースターバニーの写真を示します。出典はそれぞれ、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%B0 と、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%8B%E3%83%BC です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





地域限定の春の美味しいものー下仁田ねぎの苗

2015年04月04日 | うんちく・小ネタ
終戦の前後に家内は群馬県の山里の下仁田町に疎開していました。その縁で私も何度か下仁田を訪ねたことがあります。
上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。現在は下仁田市になっていますが昔の日本そのままのような町のたたずまいです。
横山美知彦さんは家内が疎開した時の小学校で同級生でした。
その横山さんがときどき山里に暮らす四季折々の随筆や写真を送って下さいます。
====横山美知彦著、「下仁田ねぎ」の苗========
   春の彼岸の頃になると「下仁田ねぎ」の苗が15cmほどに成長する。本来の収穫は、初冬の霜の降りる11月の下旬になるのだが、春の若い苗も捨てがたい美味さがある。
 農家では一年がかりで苗を育てて春の終わりにその苗を、一旦掘り起し肥料を充分に与えた別の畑地に人の手により植え替えるのだ。だが苗を作らない農家の為に種を多めに蒔き譲り分けるのだが、その一部がスーパーや近所の一般の家庭に「ねぎみそ」や「油炒め」にと販売される。これが柔らかくて実にうまいのだ。これは僅かな期間の地元の楽しみで、遠方への出荷はしていない。
 特に「油炒め」は全体が柔らかく、春の気配を満喫出来る米飯の友になり、酒飲みには堪えられない肴なのだ。
「つくし」「たらの芽」「蕗の薹」「わらび」「山みつば」「ぜんまい」「こごみ」等は春の味覚でどれも捨てがたいが、この「ねぎ苗」はそれらとそん色ない春の味と毎年楽しみにしているひとつである。
(終わり)
櫻の咲く下仁田ねぎの畑の2枚の写真は横山さんから送って頂いた写真です。



韓国の多くのお寺の看板に豊臣秀吉の暴挙が書いてある!

2015年04月04日 | 日記・エッセイ・コラム
1910年から1945年までの35年間、朝鮮半島全域は日本の領土でした。この日本の領土であったことは冷厳な歴史的事実です。
そして豊臣豊臣秀吉の2度にわたる朝鮮出兵もまぎれもない歴史的な事実です。もう400年以上のことだからと日本人は笑ってすませていますが、現在の韓国人はその歴史的事実をもって日本人が好きになれないのです。
その理由は、韓国のほとんど全てのお寺の看板に豊臣秀吉の暴挙が書いてあるからです。このことを日本人が知らないのです。以下は私が体験した事実です。
@秀吉がほとんだ全ての寺を焼き尽くした!
1985年に韓国金属学会の大会へ招待され、浦項製鉄所も見学しました。その前後に観光旅行もしました。同行してくれたのは製鉄所の技師のHさんでした。
3枚の写真にある佛国寺をはじめ、慶州周辺の古寺を数ヶ所回ったのです。
山全体に僧堂が散在し、中心に大きな瓦屋根の大雄伝という扁額がある本堂が建っているのが韓国のお寺の風景です。そのような山が数峰連なり、慶州の町を取り囲んでいます。大雄殿の瓦屋根の稜線の中心が少し低くなった曲線を描いているのが韓国のお寺の特徴です。この瓦屋根の稜線の曲線なんとも言えない宗教的な雰囲気をかもし出しています。
しかし、私の訪ねた全ての寺の山門の脇に、立派な真鍮製の看板があり、韓国文字でなにやら書いてあるのです。良く見ると、秀吉という漢字が何回も出ています。
同行したH技師へ聞くと日本びいきの彼は「秀吉さんの朝鮮成敗の折に、この寺は完全に焼失されたと書いてあるのです」と言うのです。「でも今日見た全部の寺に看板がありましたよ?」、「そうです。秀吉さんは朝鮮全土の寺を全て焼いたのです」
そんなことを私は知らなかったのです。戦争中に国民学校で秀吉は朝鮮に征き、加藤清正が虎退治をしたと習っただけでした。全ての寺を焼き尽くしたとは聞いたことが無かったのです。日本人の多くは、韓国で秀吉が、このように書かれているとは知らないと思います。韓国人だけが知っているのです。家内は英語ガイドのツアーに参加したのですが、この説明に申し訳なくていたたまれない思いをしたそうです。
昔の戦争ではお寺は兵士達の宿泊所だったのです。秀吉の時代でも敵地のお寺は焼くのが当然な時代でした。それにしてもお釈迦さまを祀る寺を焼くという暴挙は無信心の極みですね。戦争は人間を悪魔にするのです。
秀吉が朝鮮全土の寺を焼いたという看板がある事実に日本人は注目すべきと思います。下に韓国の世界遺産の仏国寺の写真を3枚示します。
世界遺産、韓国の仏国寺の3枚の写真の出典:http://www.i-treasury.net/korea03.html(終わり)





日韓関係、日中関係の奥深さ(4)日本の陶磁器作りは朝鮮が教えた

2015年04月04日 | 日記・エッセイ・コラム
日本と朝鮮の関係はいろいろな時代に深い関係が重層的に続いていたのです。現在、日韓両国のマスコミが騒いでいる諸問題はそのほんの一例に過ぎないのです。マスコミの騒ぎを離れて歴史的に日韓関係を考えてみましょう。
すると秀吉の朝鮮出兵によって連行されて来た朝鮮の陶工たちが日本文化へ与えた影響程大きなものが無いと思います。芸術に高品質な焼き物は外国へ輸出され、江戸幕府の経済を支えたのです。それは焼き物の歴史における爆発的な技術革新でした。
この先進的な朝鮮の磁器生産技術の導入に関しては、数多くの本が出版され、研究論文も多いのです。
(1)は1616年に、陶祖 李参平が有田にて日本初の磁器の焼成に成功したということです。そして長崎出島のオランダ連合東インド会社などにより、東南アジアやヨーロッパ各地へ輸出され、有田焼の本格的輸出の時代が来たのです。日本の工芸品として、初めての世界市場へ本格的な輸出時代が構築されたのです。
(2)は日本で尊重されている李朝の陶磁器の簡略なご紹介です。有田焼と並んで朝鮮で作られた磁器との関係を考える上で参考になると思います。
(3)専修大学 樋口淳氏による「高麗・朝鮮陶磁と日本人」と題する研究論文のご紹介です。・・・韓半島を侵略した西南諸藩の大名たちは、折からの茶陶の隆盛に注目し、多くの陶工を意図的に連れ帰った。その結果、萩、上野、高取、薩摩などの今日でも日本を代表する名窯が生まれた。なかでも鍋島直茂に従った李参平(金ヶ江参兵衛)は、磁土を発見し日本に初めて白磁の技術をもたらしたとされる。・・・という記述にご注目下さい。
(4)は日本へ連行された朝鮮人達の構成と彼等の悲しみが描かれています。
さて以上の4件の資料をご覧頂くと朝鮮の陶工たちが日本と文化と経済へ与えた影響が非常に甚大だったことがご理解出来たと思います。それは焼き物の歴史における爆発的な技術革新でした。
ですから日本人にとって朝鮮の陶工たちは非常に有難い存在だったのです。
しかしその一方で連行されて来た朝鮮の人々にとっては大きな悲劇でした。その事情は参考資料の(4)「故郷忘じがたく候―九州の朝鮮陶工たち」―につぶさ描かれています。
日本と朝鮮の関係は良い意味でも深く、悲劇的な意味でも深いのです。悲しい思いをした朝鮮の陶工立ちへ強い同情の心を寄せるべきではないでしょうか?陶工達でなく連行されて来た数多くの人々へ心を寄り添えるようにしたいと思います。
以下の写真に伊万里焼の写真と有田焼に関する地図を示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===============
(1)「日本磁器誕生・有田焼創業400年」より抜粋しました。
朝鮮の陶工たちが陶磁器作りの技法を教えた。
•1610年代
朝鮮から連れて来られた陶工たちによって、有田で日本初の磁器が誕生。(1616年に、陶祖 李参平が有田にて日本初の磁器の焼成に成功したとの伝)
•1640年代
中国では明朝から清朝へと王朝が変わり、国内が混乱。有田では初代柿右衛門による色絵技法が確立し、発展飛躍の礎となる。
•1659年~1757年
長崎出島のオランダ連合東インド会社などにより、東南アジアやヨーロッパ各地へ輸出が始まる。有田焼の本格的輸出の時代。日本の工芸品として、初めての世界市場本格的輸出時代を構築。
有田磁器が伊万里焼と呼ばれるわけ?
有田の磁器は、江戸時代には、一般的に伊万里焼と呼ばれていました。現在では、通常伊万里市で生産されるやきものを伊万里焼と称していますが、当時は、佐賀県や長崎県で生産された磁器は、すべて伊万里焼だったのです。つまり、伊万里焼とは、肥前磁器の総称ということができます。これは陶器も同様です。どこで作られようが、肥前の陶器はすべて唐津焼だったのです。
では、なぜ有田の磁器が伊万里焼になったのでしょうか?これについては“伊万里の港から船で全国へと積み出されたから”とする説明が一般的です。同様に、陶器は“唐津の港から船で積み出されたため”とされています。
(2)李朝白磁とは?:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%9C%9D%E7%99%BD%E7%A3%81 をご覧下さい。
李朝の陶磁器は、初期には粉青沙器が主流だったが、17世紀以後は白磁に変わった。中国の元、明の白磁の影響を受けたものだが、17世紀には色が青味がかり、李朝末期には濁った白色に変わった。李朝では、磁器の製造は官窯でである工匠が行っていた。以下省略。
(3)専修大学 樋口淳「高麗・朝鮮陶磁と日本人」:http://www.isc.senshu-u.ac.jp/~thb0309/EastAsia/KoraiJapan01.pdf より抜粋。
16世紀も末さしかかって問題とされるのは、壬辰倭乱、日本で言う文禄・慶長の役と、
それに伴う朝鮮陶工の渡来である。韓半島を侵略した西南諸藩の大名たちは、折からの茶陶の隆盛に注目し、多くの陶工を意図的に連れ帰った。その結果、萩、上野、高取、薩摩などの今日でも日本を代表する名窯が生まれた。なかでも鍋島直茂に従った李参平(金ヶ江参兵衛)は、磁土を発見し日本に初めて白磁の技術をもたらしたとされる。
その一方で、安土・桃山時代にはじまった高麗茶碗の隆盛は、江戸時代に入っても衰えをみせなかった。対馬藩を窓口として釜山の倭館に注文がたえず、韓国や日本の陶工が韓国の土や釉薬を用いて多くの注文茶碗を焼いた。以下省略。
(4)日本へ連行された朝鮮人達の構成
「故郷忘じがたく候―九州の朝鮮陶工たち」―http://www.yoyokaku.com/sub7-66.htmより。
日本軍が朝鮮の人々を捕えてくる目的はいろいろあったそうだが、その第一は、大多数の日本の農民が軍夫として朝鮮に渡り、残された田畑が荒れるのを恐れ、その耕作の労働力にあてるためといわれている。
窯場で働く女性たちも描かれている
 第二は国内ばかりでなく、国外へ売る商品(奴隷)としてである。
 第三は、朝鮮の進んだ文化技術をもつ人を捕え、各大名は自領でその技術者を使役し財貨を貯えようとした。 
 文禄二年、鍋島加賀守など、朝鮮侵略軍の先兵をつとめる大名へ朝鮮の捕われ人のなかから「細工仕者、縫官、手のきき候女」がいたときは、献上するよう秀吉みずから朱印状を出し、命じている。このため多くの朝鮮陶工たちが、日本へ強制的に連行される原因にもなったといわれている。           
 このときの異国の陶工たちの手によって、日本の「やきもの」は画期的な飛躍をみせた。とくに我が国で初めて磁器を焼いた陶工は、鍋島勝茂(佐賀)の家老多久長門守によって捕えられ連れられてきた李三平であることは、あまりにも有名な話である。秀吉の朝鮮出兵は、なにも日本にもたらすことはなかったが、日本の陶磁器の歴史にだけは大きな貢献をしたということで、「やきもの戦争」という異名をつけて呼ばれるほどである。
 この朝鮮の陶工たちを連れて来た大名は、どういうわけか九州の大名に多い。以下省略。