後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ブーゲンビリアの花は葉っぱの集合体です

2015年06月22日 | 写真
何故か昔からブーゲンビリアの花に憧れていました。熱帯の花なので温室でしか咲きません。花を見ると熱帯の森の様子が心に浮かび癒されるのです。
その花のことを、ある時調べていたら花のように見えるのは、実は葉っぱの集合体だと知りました。先週、伊豆半島の城ケ崎の「四季の花公園」で撮って来た写真をお送りします。
以下にこの花の説明をつけます。
ブーゲンビリア(Bougainvillea)は、オシロイバナ科ブーゲンビリア属に属する熱帯性の低木で、和名はイカダカズラ(筏葛)、ココノエカズラ(九重葛)と言うそうです。
原産地は、中央アメリカ及び南アメリカの熱帯雨林で、ブーゲンビリアという名前は1768年にブラジルで木を見つけたフランス人の探検家ブーガンヴィルに由来するそうです。
実際の花は一番目の写真のように花の中央部にある小さな2つの白い部分です。色づいた花びらに見える部分は花を取り巻く葉(包葉)であり、通常3枚もしくは6枚あるそうです。









日本人と宗教とのかかわり(3)仏教とのかかわり、そしてささやかな体験

2015年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム
日本には75、000のお寺がると言われています。どんな山里に行ってもお寺があります。
江戸時代、明治、大正、そして昭和時代、そして現在に至るまで、人々は檀家としてお寺ときずながあります。仏教を信じていなくてもお墓詣りをする人は多いものです。
多くの人はお葬式があると仏式で執り行い、僧侶の読経を根気よく聞いています。
その上、日本にある仏像の数は世界一とも言います。地方に行くと巨大な観音像があちこちに立っています。高崎の大観音、大船の大仏、韮崎の観音像、牛久の大仏などなど巨大な像が青空に中に聳え立っています。
最近特に、無宗教の人々が増え、お墓さえ作らずに樹林葬や海に散骨する風習が広がって来ました。
しかし仏教が廃れたわけではありません。何せ日本には13宗56派もあり現在でも信仰を守っているのです。
何と言っても、お釈迦様の教えは深く広大です。その慈悲の心は貧しい人にも富める人にもあまねく平等に注がれるのです。
お寺と人々の絆が弱くなっても、日本では相変わらず仏教に関する本が売れているのです。般若心経の解説をした本も売れるのです。
日本人はみんな諸行無常という言葉を知っています。色即是空(しきそくぜくう)という言葉を知っています。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、・・・という平家物語の冒頭の句を知っています。
ですから日本人はこのような言葉を知っていて、時々思い出し、無意識ながらその言葉にそって行動します。日本人の仏教とのかかわりを書きだせばきりがありません。
ですから、日本の仏教の歴史や宗派の違いは末尾の参考資料にゆずり、ここでは省略します。
そして以下では、私自身の仏教とのかかわりを簡略に書いてみたいと思います。
私の父方の祖父は兵庫県の宝塚から能勢電鉄で入った山の村落のお寺の住職をしていました。それは曹洞宗の正林寺というお寺でした。その祖父は戦前に亡くなり、父の弟が後を継ぎました。その祖父の戒名は高天秀嶽大和尚といいます。
昭和11年生まれの私は毎年、夏になると一家でそのお寺に帰省し、お寺の暮らしを体験しました。
下の写真で、そのお寺の光景を示します。
お寺の暮らしが珍しい上に、お盆には施餓鬼供養という一大イベントを毎年見たのです。近隣のお寺から多くのお坊さんが集まって、本堂でお経を唱和し、そして銅鑼を鳴らしながら輪になって歩き、お経を唱えるのです。
そして叔父の住職さんと一緒に小坊主の法衣を来て、村落の一軒、一軒を回り、お盆のお経を詠んだのです。私はこうした宗教的体験をしたのです。この体験がその後の私の宗教感に深い影響を与えたのです。
現在、私はカトリックの信者です。しかしお葬式や法事で和尚さんのお経を聞くと、70年前の懐かしい光景がよみがえって来て楽しいのです。幼少の頃の楽しかった光景を思い出すのです。
一方、私は大人になってからカトリックのことを知りました。そして洗礼を受けました。この時、小さな頃にした宗教的な体験が非常に役立っていたと感じました。
洗礼を受けた後でよく次のような質問を受けます。
「私だけが洗礼を受けると先祖の魂はどうなるのですか?」
私は確信して答えます。「神様の愛は人間が想像出来ないくらい大きいのです。先祖様のことも子供のこともすべて神様に任せなさい。神様やイエス様は絶対に悪いようにはしない筈です」と。
そして、こんな質問も受けます。「洗礼を受けたら仏式のお葬式や法事には出られなくなりますか?」私の答えは簡単です。「従来通り出て下さい。欠席して親類や友人、知人の心を傷つけてはいけません」と。
私はお釈迦様を尊敬しています。玄奘三蔵法師も尊敬しています。弘法大師も大好きです。お遍路さんを尊敬しています。

今日の挿絵代わりに写真は法隆寺の写真2枚と、私の好きな鎌倉の円覚寺の風景写真を3枚です。そして六番目から九番目の写真は昔の思いで出の曹洞宗、正林寺のその後の写真です。
寺を見上げた写真や、本堂の写真や、施餓鬼供養の写真は60数年前と同じです。
これらの写真は正林寺のHP、http://www15.ocn.ne.jp/~syourin/index.html から転載させて頂きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

















===参考資料========
(1)日本の仏教
:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99#.E7.B3.BB.E8.AD.9C.E3.83.BB.E5.AE.97.E6.B4.BE
日本は統計的にみて約8470万人が仏教徒であり 、全世界で3億数千万人程度が仏教徒とされていることを考慮しても、やはり一大仏教国である。約7万5000の寺院、30万体以上あるといわれる仏像は、他の仏教国と比べても桁違いに多い。世界最古の木造寺院法隆寺があり、最古の仏典古文書も日本にある。一方、現代の日本人は特定の信仰宗教、宗教観を持っていないものが大多数であり、自らを仏教徒と強く意識する機会は少ないがブリタニカ国際年鑑の2013年度版では99%の日本人が広義の仏教徒とされている。現在の日本の仏教の概略について解説すると、文化庁が編纂している「宗教年鑑」などの統計によると、現在の日本の仏教徒の大半はいわゆる鎌倉仏教に属している。浄土宗系(浄土真宗)の宗派と日蓮宗系の宗派が特に大きな割合を占めており、大乗仏教が特に多いと言える。
以下省略。
(2)日本の仏教の宗派:一覧表、http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/bukkyou26-4.htm
以下は、http://www.geocities.jp/yasuragigogo/butsukio6.htm から抜粋しました。
①律宗 奈良時代
開祖   道宣(中国) ⇒ 鑑真(日本)
総本山  唐招提寺
寺院数  115
教え: 三蔵(経蔵、律蔵、論蔵)の中で律蔵tがもっとも大事で、身、口、意の戒律を厳しく実践すること説いている。  
②華厳宗 奈良時代
開祖   杜順(中国) ⇒ 審祥(日本)
総本山  東大寺
本尊   毘盧舎那仏(太陽を意味する)
寺院数  61
教え: 華厳経の大方広仏、時間と空間を超えた仏を説いた。「一微塵(極めて小さなもの)中に全世界が反映し、一瞬のうちに永遠の時間が含まれている。」と説き、又「一の中に他の一切を包含すると同じにその一は、他の一切の中に入る」と無尽縁起を理想としている。即ちあらゆるもの一切は、縁によって起き、宇宙の万物は無限に関係しあって、持ちつ、持たれつして生存し、存在している。
③法相宗 奈良時代
開祖  玄奘(中国) ⇒ 道昭(日本)
総本山 興福寺、薬師寺
寺院数  55
教え:万物唯識を説き、「一切の万法は、私の心から生まれたものであり、私の心を離れては一切の存在はなく、一切の万有が私の心そのものである」と説く。即ち認識を通してのみ一切万物の存在を決定する。認識作用をするものに眼、耳、鼻、舌、身、意の六識のほか未那識(マナシキ)、阿頼耶識(アラヤシキ)が万物認識の基と説き。特に未那識(自我を自我たらしめる意識)と阿頼耶識(無限大のいれもの・すべてを記録するところ・行為が記録され、煩悩の種を作るところ)が基本的な識として、修行によって未那識と阿頼耶識を自覚し、これを空にすることにより悟りを得ようとする教えである。
④真言宗 平安時代:
開祖   空海
総本山  金剛峰寺、高野山東寺を中心に約50派に分かれているといわれる。
本尊   大日如来
経典   大日経、金剛頂経
寺院数  12000
教え:「密教を修める者は、密教の戒律と大乗仏教の戒律を実践しなければならない」と説き、密教ては、仏教は、真実の仏、大日如来の教えであり、この大日如来と心身ともに一体となって修行を実践すれば、この身、このままで仏となることができる(即身成仏)と説いている。
⑤天台宗 平安時代
開祖   最澄
総本山  比叡山延暦寺 約20派に分かれている。
本尊   釈迦如来
経典   法華経
寺院数  4400
教え:すべての衆生は、仏陀になることができる
以下は鎌倉仏教の宗派に続くが、省略します。

いろいろな種類のアジサイの花の写真をお送りします

2015年06月21日 | 写真
先週の18日に伊豆半島の城ケ崎の「四季の花公園」でいろいろなアジサイが咲いていました。伊豆半島は空気が綺麗なせいか色も一段と冴えています。
写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。












戦後70年、日本が失ったもの得たもの

2015年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今年、2015年は1945年の敗戦後70年です。新聞は戦後70周年の特集記事を、そしてテレビでは太平洋戦争の特別なテレビ番組を組んでいます。
多くは悲惨な戦争の体験者の実話を紹介し、そして戦争中の残酷な写真を報道しています。
しかし現在の若者にとっては、生まれる遥か前の出来事です。関心がないとしたら、それは自然なことです。
戦前生まれ、戦後育ちの私ですらもう忘れたいのです。悲惨な話や写真はもう結構です。そのように思いつつ、やはり戦後70年のことをあれやこれやとつい考えてしまいます。
先の戦争で日本が失ったものは何でしょう?
まず300万余人の人命を失いました。そして大日本帝国の政治、社会体制を失いました。日本の美しい義理人情の伝統を失いました。失ったものは数多くあります。
得たものはアメリカ流の民主主義です。全ての人を大切にしようという基本的人権の考え方です。平和憲法も得たものの一つです。
現在の日本人はそれらをアメリカが日本へ押し付けた占領政策に過ぎないと言います。しかし戦争に敗けた日本にはそれ以外の選択肢は無かったのです。
得たものの一つは日本人の視点や考え方が広がったこともあります。
例えば戦争で命を失った人の国籍に関係なく、その悲しみに心を寄せることが出来るようになりました。
その実例が沖縄にある「平和の礎」です。戦後、50年経過してそれが出来たのです。
その碑に名前の刻んである人々の国籍と人数を下に示します。
日本、沖縄県:     149,329
   県外都道府県:   77,380
外国、米国(U.S.A):   14,009
英国(U.K):        82
台湾:            34
朝鮮民主主義人民共和国:   82
大韓民国:          365
           合計:241,281

この碑は敵国だったアメリカ兵とイギリス兵の戦死者の名前がもれなく刻んであるのです。その故にアメリカやイギリスでもこの碑のことは有名だそうです。
そして朝鮮人も台湾人も名前が刻んであります。
特に朝鮮人も日本のために特別攻撃隊の戦闘機に乗ってアメリカの艦船へ突っ込んで散華した人もいたのです。特攻隊員として出撃・散華した朝鮮人軍人は光山少尉を含め14名でした。
(大戦中は24万2341 人の朝鮮人青年が軍人・軍属として戦い、2万1千余柱が靖国神社に祀られています。)
この碑の写真をジット眺めていると戦争の悲しさが心に溢れて来ます。
そしてやっぱり戦争はしてはいけないという想いに駆られます。
皆様も写真に刻まれた日本人、アメリカ人、イギリス人の名前をご覧頂けたら嬉しく思います。





上は日本人犠牲者の名前の一部です。

上は14009人アメリカ人の犠牲者の一部です。

上は82人のイギリス人犠牲者の名前です。
この記念碑にはこのような祈りがこめられているそうです:「去る沖縄戦などで亡くなられた国内外の20万人余のすべての人々に追悼の意を表し、御霊を慰めるとともに、今日、平和を享受できる幸せと平和の尊さを再確認し、世界の恒久平和を祈念する。」
この石碑を建てた方々に敬意を表して終わりと致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

日本人と宗教とのかかわり(2)キリスト教の嫌いな人、好きな人

2015年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人と宗教のかかわりと言えば、神道、仏教、それからキリスト教の順で書くのが良いようです。しかし仏教はあまりにも深いかかわりがあるので大変難しいテーマです。
むしろキリスト教とのかかわりは軽く筆が進みます。
日本人がキリスト教を知ったのは1549年にザビエルがカトリックのキリスト教を伝えてからはじまりました。信長、秀吉時代に急に信者が30万人と増えましたが、やがて厳しい禁教の歴史が250年間続きます。いわゆる隠れキリシタンの時代です。
しかし今回は隠れキリシタンのことは一切省略します。
今回のテーマは明治6年の禁教令の廃止以後のキリスト教と日本人のかかわりについてです。
例によって、かかわりの様子を、「風景をスケッチ」するように気楽に描いて行きます。
まず公平に見回すと日本人にはキリスト教が嫌いな人が案外多いようです。内心は嫌いでも、「いいじゃないですか。日本には宗教の自由がありますから」と穏健なことを言います。
しかし明治維新以来、西洋の文化を熱心に導入してきたわりにはキリスト教の信者の数は総人口の3%を越えたことはありません。ザビエルの伝えたカトリックにいたっては0.3%と非常に少ないのです。ミッション・スクールは非常に多いのに洗礼は殆ど受けません。
正直に書けば私はカトリックの洗礼を受けてから40年以上、毎週のように教会のミサに出ています。あまり熱心な信者ではありませんが、一応信者のはしくれに座っています。
洗礼を受けてから何年間は日本にキリスト教信者が一向に増えないことを悲しく思っていました。そして増えない理由をあれやこれやと考えました。遠藤周作の本も沢山読みました。
しかし老境にいたってみると考えが変わってしまったのです。悲しく思うのは考えが浅いのです。そして何事も正解の無い原因を考えるのは全く無駄なことに気がつきました。あるがままに受け入れて平穏な心で生きて行くことが一番大切なことに気がついたのです。
確かに日本人で洗礼を受けた人の数は少ないのです。しかし日本人は明治時代以来、キリスト教の教えをいろいろな分野で深く受けているのです。キリスト教の嫌いな人でもその影響を逃れることは出来ません。
日本人ら誰でも、「汝の隣人を愛せ」という言葉を知っています。「人間はパンのみで生きては行けない」という言葉も知っています。そして聖書を読んだ人は。「全ての人間は神の前で平等で自由だ」ということを知ります。
現在、日本は人間は生まれながらにして自由で、平等だと信じています。江戸時代には皆無ではありませんが、あまり無かった考え方です。そして賢い人は欧米の民主主義は実はキリスト教を下敷きにして発達してきたことを知るのです。
その上、共産主義はキリスト教の反対の思想を整理して体系化したものなのです。ですから共産主義はキリスト教国でしか生まれなかったのです。
日本人は明治維新以来、西洋文化の導入に熱狂してきました。当然、キリスト教的な考え方が怒涛のように流れ込んだのです。
しかし今でも「耶蘇は嫌いだ!」とか「キリスト教徒は偽善的だ」と言って嫌う人がいます。
当然です。キリスト教の信者には自分の考えを他人へ押し付ける人が多いのです。困ったものです。「福音宣教」の鉄則は、まず他人を愛することです。愛せば自然に信者になります。口先だけの宣教は厳禁です。困ったものです。
教の挿絵代わりの写真は伊豆半島の「四季の花公園」の写真です。一昨日撮ったダリアです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









深い森の中の木の上に、今年もモリアオガエルが卵塊を生みました

2015年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今年も6月になったので深い森の中の樹上に産みつけられるモリアオガエルの卵塊の写真を撮りに行きました。
其処は甲斐駒岳の麓の、木内正夫さんの山荘の敷地内の林です。
一番目の写真にその森の中の道の光景を示します。
例年ですと6月下旬ですが、今年は季節が早いので6月12日に訪れました。
現地に行って見ると、毎年のように巨大な卵塊が木の高い枝に産みつけてありました。
その枝の下には木内さんが作った池があります。間もなく卵塊からオタマジャクシがこの池にポトリポトリと一匹ずつ落ちて成育するのです。足が出て、手が出て小さなモリアオガエルになると池から出て、すぐに木に登ります。高い枝から枝へと飛んで、森の中に消えて行きます。そして親になると同じ池の上の枝に戻ってきて卵塊を生みつけるのです。
木内さんの話によると山荘の東側の池の上にも数個の卵塊が産みつけられてあるそうです。
卵塊は野球のソフトボールくらいの大きさです。その塊は白い泡で、中に数百の卵がつまっています。
卵塊は必ず静止した水溜まりの上の枝に産んであります。小川や沢のような流れの上には産みません。
モリアオガエルは本州と佐渡ケ島の山奥にしか棲んでいない珍しい樹上生活のカエルです。
二番目の写真に6月12日に撮ってきたモリアオガエルの卵塊の写真を示します。
木内さんは数年前にこのモリアオガエルを飼育していました。
飛び跳ねる力が強く一回に3メートル位を飛びます。ですから樹から樹へと、猿のように飛び回って、虫を食べて大きくなります。大きくなるとガマ蛙くらい大きくなります。手足に吸盤がついていて木の葉にしがみ付きます。
深い森の高い枝に棲んで、虫などを捕食しているこのカエルを直接見ることは非常に難しいものです。
そこで木内さんが飼育していたモリアオガエルの写真を第三と第四の写真に示します。
話は変わりますが、私の山小屋はもう少し森の奥にあります。イノシシや猿や鹿やキツネが沢山棲んでいる暗い森の中です。
第5の写真に2012年6月に小屋の庭で撮ったキツネの写真を示します。そして第六の写真に今年の6月12日に撮った鹿の写真を4しめします。
モリアオガエルの棲んでいる山奥にはこのような動物たちも棲んで居ます。それえは旧石器時代や縄文時代かわ変わらぬ大自然なのです。そんな悠久の大自然が好きで時々行きます。それが私の趣味です。(終わり)











梅雨の間でもバラは美しく咲いています

2015年06月19日 | 写真
今朝は、先日京王フローラル・ガーデンで撮って来たバラの花々の写真をお送りいたします。
梅雨の鬱陶しさをしばしお忘れ下されば嬉しく思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







下の写真は同じバラ科のハマナスの花です。

日本人と宗教とのかかわり(1)神社とのかかわり

2015年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム
宗教を信じる人、信じない人、どちらでも良いと思います。宗教を信じない人は、宗教的雰囲気や風習にふれるチャンスが無かっただけなのかも知れません。
宗教は所詮、伝承と生活習慣の一部として子々孫々つたわって行くもののようです。
無宗教であろうとなかろうと日本人は神道や仏教の影響を受けて、無意識のうちにその行動規範になっています。そしてキリスト教の教えも知らず知らず取り入れているのです。
無宗教の人は科学や合理性を大切にしますが、その考え方すら神道や仏教の影響をまぬがれることは出来ません。
西洋人が日本を仏教国と呼ぶのは大体において正しい呼び方なのです。
そこで「日本人と宗教とのかかわり」と題する連載を気楽に書き進めて行こうと思います。
難しい宗教学や神学の議論は一切いたしません。土台、私自身それらを理解していないのですから書きようがありません。
むしろ日本人と宗教とのかかわりの風景を、スケッチ風に描いてみたいと思っています。気楽に読み捨てて頂ければ幸いです。
さて第一回目は神道や神社とのかかわりです。
日本人なら誰でも幼少の頃、神社の境内で遊んだ事があると思います。そこはいつ行っても清潔で、子供が遊び回っても叱られない自由な空間です。特に神主さんが住んで居ない神社は蝉取りをしようが、野球をしようが誰にも叱られません。
祭礼の日になると日頃の腕白ぶりをやめ、何事も無かったように楽しく出店を見て楽しみました。その恩返しに元旦にお賽銭を持ってお参りに行ったものです。
老年になった現在でも神社を見ると入って行ってお賽銭を上げます。幼少の頃に遊ばせてくれた恩返しのつもりです。
神社や神道は日本古来の宗教です。山や木や、偉い人がご神体として祀ってあります。家内安全や五穀豊穣を願ってお祈りします。
多くの日本人は神道の神社を遊び場にして育ったと思います。家内安全を祈った場所でした。この様な場所を持っている日本人は幸せだと思います。
このように日本人と神社や神道とのかかわりは軽やかで一見重要でないようにも見えます。
しかし神社や神道は日本民族の基底にある重要な文化の一部なのです。詳しいことは末尾の参考資料に譲って、以下では3つの神社の写真と富士山信仰の宗教的な登山の写真2枚を掲載します。
神社の写真は九州の祐徳稲荷神社と京都の賀茂別雷神社と北海道の札幌稲荷神社の写真です。
賀茂別雷神社の写真の出典は、http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005602.html です。
また富士山の宗教的登山の写真の出典は、http://www.fusokyo.org/activity.html です。
富士山を神と信じ、富士山へ登れは神のふところに抱かれて、神と自分が一体になるのです。神様が自分の体に乗り移ってくれるのです。自分の人間としての汚さを洗い流してくれるのです。「六根清浄、お山は晴天」と唱えながら杖をつき、白い装束で一列になって登るのです。
それは深い、深い宗教的な境地なのです。キリスト教でもイエス様が自分の身の中に居るという表現を使う時があります。何か勇気がいる事を行う時、自分が行うのではなくイエス様が行ってくれるのだと意識します。そうすると不思議に心配が無くなり正しい事が出来るようになるのです。
このように神と自分の合体感を得る体験はどんな宗教でも重要な事としています。その為の修業の方法がいろいろ決まっているのです。神道と仏教とが習合して修験道が出来あがりました。それも良いものです。
宗教のことをあまり知らない人は、「修業すれば人は誰でも良い人間になれる」と言います。それは半分嘘で、半分しか正しくありません。いくら修業を積んでも偉くなれない多くの人間が居ます。その一方で、修業を積んで偉くなる人もいます。
ここで重要な事は結果でなく、修業中の人間はその間だけでも善人になれる事なのです。
間違いを恐れずに書けば、いかなる悪人でも善人になれるとはこういう意味なのです。
神道にはそのように深い宗教性があるのです。写真からご想像頂けたら嬉しく思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料」==========
(1)日本にある神社の神々による分類
日本の全ての神社で祀られている神によって分類し、数の多いのからランキングを付けてた学問的研究が国学院大学の岡田教授によってなされました。
詳しくは、http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/quiz/gb01-8.htm にあります。一番多い神社は八幡さまで、続いて、伊勢神社系、菅原道真を祀る天満宮系、そして4位がお稲荷さんを祀った稲荷神社系となります。そして熊野神社系、諏訪神社系へと数が少なくなって行きます。
(2)富士山信仰の神社の説明
浅間信仰(富士浅間信仰)の核となる浅間神社は、富士山の神霊として考えられている浅間大神を祀る神社である。静岡県および山梨県を中心として全国に約1300社の(富士神社)が分布する。富士山8合目以上の大半の境内(詳細は富士山本宮浅間大社にて)とする「富士山本宮浅間大社」(静岡県富士宮市)を総本社としているが、東口本宮富士浅間神社(静岡県駿東郡小山町)や、北口本宮富士浅間神社(山梨県富士吉田市)を総本社とする考えもある。
浅間大神は、木花咲耶姫命のことだとされるのが一般的である。浅間神社の祭神がコノハナノサクヤビメとなった経緯としては、コノハナノサクヤビメの出産に関わりがあるとされ、火中出産から「火の神」とされることがある。しかし、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「水の神」とされている。しかし、いつ頃から富士山の神が木花開耶姫命とされるようになったかは明らかではない。多くの浅間神社のなかには、木花咲耶姫命の父神である大山祇神や、姉神である磐長姫命を主祭神とする浅間神社もある。浅間神社の中には、浅間造りと呼ばれる特殊な複合社殿形式を持つものもある。浅間大神は神仏習合によって、浅間大菩薩と呼ばれることもある。詳しくは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E4%BF%A1%E4%BB%B0をご覧下さい。









今年の花菖蒲の季節も終わりになりました

2015年06月16日 | 写真
7年前に茨城県の潮来あやめ祭りから買って来た庭の花菖蒲も全部咲ききってしまいました。
紫色のが8輪、そして明るい色合いのものが6輪、つぎからつぎへと咲いて楽しませてくれました。
今年の庭の花菖蒲の写真を3枚と、東村山市の北山公園の菖蒲祭りのとき撮った写真2枚をお送りをします。後は来年の6月にまた咲くまで花菖蒲とはお別れです。









地方の歴史を知れば心豊かになる(5)神奈川県相模原市の特別な歴史

2015年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム
相模原市では考古学的な遺跡が多く発掘されており、特に相模川の岸の、田名向原、塩田、谷原、東原などの地域は驚くべき考古学的史跡の宝庫なのです。
そして相模原市の遺跡からは20000年前の旧石器時代の住居跡が発見されたのです。それをもって私は相模原市は特別な旧石器時代の歴史を持っていると表題に書いたのです。
この旧石器時代の住居跡の発見を何故、特別な大発見と言う理由を簡略に以下に書きます。
日本の歴史は約16000年前の縄文時代に始まり、それ以前の旧石器時代は無かったと長い間思われていました。それが終戦直後の岩宿遺跡の発見で数万年前にさかのぼる旧石器時代の存在が証明されたのです。
それ以来急に旧石器時代の発掘研究が盛んになりましたが住居跡だけは発見されませんでした。従って石器時代では人々は定住しないで狩猟と採集の生活をしていたと考えられていたのです。
そして平成になってから、各地の自治体が行う土木工事の前に注意深い科学的な発掘調査をするようになります。その成果として日本各地から黒曜石などを用いた精巧な石器が多数出て来ました。
石器の出た地層の精密な年代調査と炭素同位体の分析から、出土した石器は4万年から縄文時代が始まる16000年前までの後期旧石器時代のものと証明されているのです。
現在、少なくとも4万年前から16000年前まで続いた後期旧跡時代が日本に存在した事実を疑う人はいません。
そして旧石器時代には人間は家も造らず、定住もしていなかったという学説が広く信じられていたのです。
しかしこの学説は間違っていたのです。少なくとも20000年前の住居跡が相模原市で発見され、相模原市の特別な歴史園に復元、公開されています。そしてその発掘の詳しい経緯は隣接する旧石器時代学習館に示してあります。
考古学を趣味としている私は何度もこの20000年前の旧石器時代の住居の復元模型を見て感動していました。
行ってみると其処は下の写真のように相模川の東側の岸辺でその向こうに丹沢連山が見えています。

ここ田名向原展示館の付近は相模川中流で、考古学的史跡が3層、4層と住居跡や古墳が集中して存在しています。下に2万年前の石器時代の住居跡を復元したものを示します。



そして上は上の層に重なってあった5000年前の縄文時代の住居を復元したものです。
この田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されたのです。
その詳細は末尾の参考資料にあります。ご興味のある方はご覧下さい。
それでは石器時代の人々はどのような生活をしていたのでしょうか?
田名向原の展示館にある絵画で人々の狩猟や採集の様子と獣皮で屋根を作った住居の前で作業している人の様子などを示します。







下は旧石器時代に人々が狩をしていた動物を示しています。

こうしてこれらの写真を見るとこの地域の約2万年の歴史が概観出来るのです。
人々の生活は縄文時代、弥生時代、古墳時代になってもほとんど変わらなかったというのが真実に近いと思います。
円形の掘っ立て小屋に住み、土器や木製の農具を使い、石器も相変わらず使っていたに違いありません。青銅器や鉄の道具は高価すぎて支配階級しか使えなかったのです。
農民の生活を考えると時代が変わってもあまり大きな変化が無いと理解するのが自然ではないでしょうか?
石器は安価で簡単に作られる道具だったに違いありません。鉄器は高価だった時代には農民は平らな石に木の柄を着けた鍬も使っていたと私個人は想像しています。
歴史は豪族や朝廷や権力者の様子を伝え、それを学校で教えますが、一般の人々を想像すると興味がつきません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:関連記事の紹介============
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2013年1月と2012年12月に次の関連した記事が掲載してあります。
「相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中」
「日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見」
「私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷」
「所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代」

五畿七道の道は7つの行政区を意味し、同時に道路の意味もある

2015年06月15日 | うんちく・小ネタ
古代のことを調べていると五畿七道という言葉がよく出て来ます。
七道というから道路のことかと思うと間違いです。それは唐の真似をした行政区のことなのです。
そして紛らわしいことにはその行政区へ行く道路の意味でしばしば使われているのです。
行政区か道路のことかは前後の文章から分かりますが紛らわしい、ことですね。
そこで、以下に、http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/touzando-m/kodaimichi2.html から抜粋した明快な説明をお送りいたします。
古代の中央集権体制である律令制は7世紀後半から10世紀半ば頃までの律令その他の法に基づいた公地公民制を基礎とする支配体制です。それは「大化の改新」後に始まり、天智朝の近江令、天武・持統朝の飛鳥浄御原令、をへて文武朝の大宝律令によって完成されました。
古代の律令国家は全国を五畿七道と呼ばれる地域に区分していました。
五畿は畿内ともいい、山城、大和、河内、和泉、摂津の諸国で、七道は東海、東山、北陸、山陽、山陰、南海、西海の諸道で、これらは地域の呼称であると同時に都からのびる道路の名称でも使われています。
下に7道の行政区の地図を示します。

大宝元年に(701)に制定された大法律令と、その後部分改修された養老律令(718)に、駅制・伝馬制の古代の交通制度が規定されています。
駅制(えきせい)
駅制は中央と地方の情報伝達のために設けられた緊急通信制度で律令制に明記された交通制度です。
駅制を使った情報伝達には、特定の使者が最終目的地まで赴く専使(せんし)方式と、文書などを駅ごとにあるいは国ごとにリレーで送っていく逓送使(ていそうし)方式がありました。8世紀頃は逓送方式が取られ、専使は、使者本人の口から文書の補足を必要な場合などに派遣されていました。しかし、逓送方式の信頼性が失われていき、9世紀後半以降は、専使方式が中心となるようになりました。駅使(えきし)の行程は、緊急の場合は一日10駅以上、普通でも一日8駅以上とされていたようです。
駅路(えきろ)
駅路は都を起点に都と地方を結ぶ路で、古代の交通制度である駅制で使用すると規定された官道です。駅路は五畿七道のうち山陽道と西海道の一部(都から大宰府)を大路、東海道・東山道の主道を中路、その他を小路と三段階にわけています。
駅家(うまや・やくか)
駅路には、30里(約16キロメートル)ごとに駅家が配置されていました。ただし山間部など駅家が置けない場合など30里という規定の距離は柔軟に変更されています。また重要な路線の駅家間距離は短くされていたりもします。(この時代の一里は約550メートルで江戸時代の一里とはことなる。)
駅家は公務旅行者に乗用馬、宿泊、休憩、食事などを提供する施設です。駅家には駅馬(えきば・はゆま)が置かれ、大路では20匹、中路では10匹、小路では5匹とされていました。
駅馬は、群と諸国の間の緊急連絡、公文書の伝達、特別の要務による官人の旅行などに用いられ、その利用にあたって使者は利用証として駅鈴(えきれい・やくりょう)を携行するきまりがありました。駅鈴は、使者の位階によって剋(きざみ)数がことなり乗用の駅馬の数が示されます。剋が多ければ利用できる馬数が多くなることになります。
駅家には駅戸(えきこ)を配置し、駅戸から駅子が出て駅馬の飼養やその他の駅務に従事します。駅戸の中から駅長を一人任命し駅家の管理にあたらせています。駅家は全体的には国司の管轄下にありました。また駅家を維持・運営するために、駅田(えきでん)を置いて駅稲を当てて財源としています。

地方の歴史を知ると心豊かになる(4)東山道武蔵路と恋ヶ窪ものがたり

2015年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム
私は何故か古い時代の道路を探して、歩くのが好きです。奈良時代、平安時代、そして江戸時代までと時代が大きく変わっても、同じ道を旅人が歩いてきたような道に憧れています。
そんな古道が隣町の国分寺市にあったのです。発掘、研究され確かに奈良時代の道路だったと判っている場所です。その東山道武蔵路の一部は国指定の史跡になっています。
JR西国分寺駅の東北に「姿見の池」があり、その周辺には鎌倉時代初期の創建と言われている東福寺や熊野神社があります。このお寺と神社に挟まれている静かな住宅街の道路が710年に武蔵国の国府が置かれた時に、大和朝廷によって官道と指定された東山道武蔵路です。
正確に言えば現在の舗装道路の下に東山道武蔵路が埋まっています。道筋も現在の舗装道路より少しずれているようです。
私は時々この「姿見の池」の岸辺を散歩し、東福寺と熊野神社に参詣します。このすぐ近くに「恋ヶ窪」という宿場町があり遊女が沢山いたそうです。「姿見の池」とは遊女たちが鏡の代わりに池に姿を映して見たのでその名前がついたのです。
近くの東福寺には遊女たちの無縁墓もあります。
源平合戦の折り、東国の武士たちはこの東山道武蔵路を南に駆け抜け、鎌倉で源頼朝の軍勢に加わったのです。その中の武将、畠山重忠と恋ヶ窪の遊女、風妻太夫との悲恋物語も「姿見の池」にある看板に詳しく書いてあります。
そして新田義貞が上野や下野の武士を集めて、この東山道武蔵路を下って鎌倉幕府を府中市の分倍河原でやぶり、鎌倉に攻め込んだのです。1333年、鎌倉幕府は新田義貞軍によって消滅したのです。
東山道武蔵路を歩いた通った人は武将たちだけではありません。この道を挟んで東西に国分寺の「僧寺」と「尼寺」があったのです。757~765年頃、壮大なお寺が完成して以来、1333年の分倍河原の合戦の折り焼け落ちるまでの500年以上の間、国分寺にお参りする人々が賑やかに通った道だったのです。
この武蔵路は710年から771年までは官道でしたが、その後は東海道の相模国から分かれる支道が官道となり、格下げされます。しかしその後の時代になっても武蔵路は北関東と東海道をつなぐ非常に重要な道路でした。鎌倉時代は多くの「鎌倉街道」の一つとして整備されていたようです。
北関東の人々が京都や大阪に行くときは山道の中山道を嫌い武蔵路経由で東海道を行く人も多かったのです。
ですからこそ恋ヶ窪という宿場町は江戸時代の前までは大変栄えた町だったので。江戸幕府になってからは甲州街道と中山道と東海道などが次第に重要になり、その結果、恋ヶ窪は静かになりました。
「恋ヶ窪」という地名は有名ではありません。東京の人も知らない人が多いのです。
この地名を知っているのは現在の國分市の市民だけでしょう。国分寺市の市役所はこの恋ヶ窪町にあるからです。
市役所を繁華なJR国分寺駅周辺ではなく町はずれの「恋ヶ窪町」に置いた先人は本当に歴史が好きな人だったに違いありません。地元の歴史を大切にする心豊かな人だったのです。
私はそういう人を偉い人として尊敬しています。昨日、恋ヶ窪町で撮って来た写真を示します。そして最後に東山道武蔵路の位置を示す図面を掲載します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

上の写真は恋ヶ窪町にある熊野神社です。

上は熊野神社にある石碑で、1486年に通った旅人が恋ヶ窪が寂びれていると詠んだ歌が刻んであります。

上は鎌倉初期に創建されたといわれている東福寺です。

上は姿見の池の木道です。

上は東山道武蔵路の発掘、調査の結果を紹介している看板です。

この図面の出典は、http://aoi-pcc.sakura.ne.jp/uwado/index.html です。
===参考資料=============
東山道武蔵路:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E9%81%93%E6%AD%A6%E8%94%B5%E8%B7%AF

7世紀に律令制が確立されるとそれに伴って行政区画の整備も行われ、いわゆる「五畿七道」が設置された。この制度により畿内以外の国々はそれぞれ所定の「道」に属し、同時にそれらの国の国府を結ぶ同名の官道が建設されることになった。
この際、武蔵国は相模国に東接する海沿いの国ではあったが、近江国を起点に美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国、陸奥国(当時はまだ出羽国はなかった)と本州の内陸国が属する東山道に属することになった。このため、道としての東山道にもこれらの国々から大きく外れたところにある武蔵国の国府を結ぶ必要が生じた。
普通官道は地理的制約から特定の国の国府を通れない場合、支道を出して対処するのが定石であり(例:東海道の甲斐国・山陽道の美作国)[2]、武蔵国の場合も上野国府と下野国府との間で本道を曲げて、上野国邑楽郡から5駅を経て武蔵国府に至るルートが設置された。以下省略。

邯鄲の夢もそろそろ店仕舞いです

2015年06月14日 | 日記・エッセイ・コラム
先週の11日の夕方から夜にかかて小屋の窓から暮れて行く林の様子をジッと眺めて過ごしました。昔は細い幹が並んだ雑木林でしたが、小屋を作ってから40年で皆大木になっています。林の中に夕闇が忍び寄って来たころに小屋に入り、薪ストーブを焚きました。
そして窓枠にビールのグラスを置き、ゆっくりとあれこれ思い出にふけっていました。
そして我が人生もそろそろ店仕舞いだなと考えていました。それはまさしく邯鄲の夢でした。
帰宅した後に趣味人倶楽部の「ノンキさん」という方から次の文章が届きました。

せっかく奇跡と偶然が、
たまたま重なりあって、
大宇宙に刹那の存在。

春夏秋冬、喜怒哀楽、
そろそろ店仕舞


「ノンキさん」は達観の境地です。幸せな老境を過ごしているのです。
私も「ノンキさん」にあやかって達観の境地に遊びたいと思います。
しかし私はカトリックの信者のはしくれです。ですから「店仕舞い」は自分の意志では出来ません。あくまでも神様がして下さることです。神様が天国によんでくれたらそれが「店仕舞い」になるのです。しかし私は「店仕舞い」の準備を早めにしています。
昔、洗礼を授けてくれたカトリック立川教会の司祭だった塚本金明神父様の説教で、「良い商人は早く店仕舞いをするものです」と話をしていたのを思い出します。
欲にかられて何時までも店を開けていてはいけない。この世のことに何時までも執着してはいけない。神様やイエス様のお声が聞こえるように静かに祈っていなさい。そんな説教だったような気がします。
その塚本金明神父さまは府中市のカトリック墓地に眠っています。時々、お墓まいりに行きます。
そんな事を何となく思いながら小屋の窓の外の林が次第に暗くなり、やがて漆黒の闇のとばりがおりるまで見ていました。林の足元を流れる小川の水音が急に大きく聞こえるようになりました。
写真には夕闇せまる雑木林の様子、薪ストーブの写真、そして漆黒の闇の写真などを示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=====
邯鄲の枕;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AF%E9%84%B2%E3%81%AE%E6%9E%95
趙の時代に「廬生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。廬生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。そして廬生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣に至る。子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮揚がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。
中国においては粟の事を「黄粱」といい、廬生が粟粥を煮ている間の物語であることから『黄粱の一炊』としても知られる。いわゆる、日本の落語や小説・漫画でいうところの夢オチの代表的な古典作品としても知られる。
同義の日本の言葉としては「邯鄲夢の枕」、「邯鄲の夢」、「一炊の夢」、「黄粱の夢」など枚挙に暇がないが、一つの物語から多くの言い回しが派生、発生したことからは、日本の文化や価値観に長い間影響を与えたことが窺い知れる。現在ではほとんどの言葉が使われる事がなくなっているが、「邯鄲の夢」は人の栄枯盛衰は所詮夢に過ぎないと、その儚さを表す言葉として知られている。









「自然の草原に自生しているように花々を育てる人の心の豊かさ」

2015年06月13日 | 写真
そこは甲斐駒岳の東側の麓の、ある別荘です。
四季折々、何時も花々の植え方が如何にも自然なのです。こちらまで心が和やかになります。
色の配置も一幅の水彩画のようになっていて、その調和が心地よいハーモニーを響かせています。
別荘の奥さんが花好きのようです。幅の広い道路の向う側の畑まで、花々を育てています。
自然の草原に花々が自生しているように植えて、手入れをしています。昨日は別荘の人は不在でしたが、道路から写真を撮らせて頂きました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。