おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「向島百花園」梅まつり・2月8日(土)。月影。緑萼梅。冬至梅。八重寒紅・・・。福寿草。

2025-02-11 20:01:16 | 向島百花園

向島百花園で「梅まつり」が始まったので、2月8日(土)に訪問しました。風は冷たいですが、快晴。

「白加賀」「紅千鳥」などは大木などは、まだ咲いてはいませんが、早咲きの鉢植えなどけっこう咲いていました。

「月影」。

※水戸「偕楽園」内にあるウメの中でも、花の形、香り、色などが優れているウメを「水戸の六名木」と呼んでいますが、その一つに「月影」。

人出もそこそこ。外国人もチラホラ。

 緑萼梅。

梅は通常、萼(ガク)の部分が赤いものなのですが、この梅は緑色をしているのが特徴です。中国が原産地で、日中友好の品として中国から各地に寄贈されているようです。

「とうじばい」。

冬至梅 

野梅性の早咲き品種で白花の花梅の代表格です。花は白の中輪花で一重咲きです。
開花期が12月中旬~2月中旬と早く、冬至のころに咲くのが名前の由来です。お正月用の梅として使用されています。
枝が細く、鉢植えや盆栽に向きます。

「唐梅」。

紅色の花弁に赤い筋が入り、花弁先端がぼかしとなる中輪八重咲き種。開花は2月上旬。

「八重寒紅」。

野梅系の中では最も赤い種類で、1月中旬には開花する早咲き。中輪八重咲き種で、花弁は波うつ。

「八重野梅」。

早春に花を咲かせる八重野梅。花びらが何重にも重なり華やかな印象です。開花すると花とともに良い香りを楽しむことができます。枝が細かく出るので樹形を作りやすく、盆栽に適しています。

これらの梅はほぼ満開でした。

福寿草。

「江戸の福寿草売り」。

江戸時代、福寿草は新春を祝う縁起物として人気がありました。天秤棒を担いで福寿草の鉢を販売する様子は四季の風物詩として多くの浮世絵に描かれています。

花言葉は永久の幸福、思い出、幸福を招く、祝福。

ただし、毒草。

フクジュソウは全草が有毒で、その毒成分は強心配糖体のシマリンとアドニンで、飲食すると嘔吐、呼吸困難になり心不全に至る危険性があります。 薬用としての利用は禁物です。(「」HPより)

地植えでも咲いています。

スイセンも花開く。

ふりそでやなぎ。これから、という感じ。

・花芽は、最初は赤い皮に包まれているが 早春、白い毛に包まれた部分が出てくる。この様子がとても美しい。

 さらにそのあと、猫柳そっくりのもじゃもじゃが出てくる。  おもしろい♪

・柳の葉っぱがたくさん垂れた姿を 「振袖姿」にたとえた、とのこと。

 また、1657(明暦3)年の  「明暦の大火(別名:振袖火事)」で 火元とされた、本郷の本妙寺というお寺があるが、そ の本妙寺に植えられていた本種を、新たに命名する際に「振袖火事」の名から「振袖柳」とした、との説もある。

(この項「」HPより)

          「スカイツリー」。

広場では、大道芸が行われていました。それらは次回。

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「横浜市営地下鉄・仲町台駅」~「相鉄線・三ツ境駅」。その5。都岡(つおか)辻。帷子川・「御殿橋」。階段を上がる旧道。矢指(やさし)一里塚跡。矢指市民の森。(「中原街道」をゆく。第4日目。)

2025-02-10 20:18:15 | 中原街道

やっと下り坂に。

 「都岡(つおか)辻」バス停。

?? 「米国車両保管施設」。

           ホットロッダーかアメ車好き以外立入禁止。アメ車が展示されています。

その手前には「水道道プロムナード 帷子(かたびら)川ルート」。

「帷子川」に架かる「御殿橋」。

旧中原街道の一部である『御殿橋』は、東海道の裏街道にかかる橋として、歴史的な価値を持ったものである。道は虎ノ門に通じ、古くは、徳川家康が江戸入場のとき(天正18年=1590年)に、この橋を通行したといわれています。
 家康は、その後この橋を改修し、鷹狩りや民情視察などでよく利用したとのこと。
 また、江戸時代初期(慶長18年=1613年)に家康が相州高座郡の中原御殿(平塚市)へ行く途中、この付近でお茶をたてたので、このあたりを「御殿丸」という字がついたという。橋の名称も徳川家康にちなんでつけられたものである。

「帷子川」。

安藤広重「帷子橋と帷子川」。

帷子川は旭区若葉台に源を発しています。中堀川、今井川などの支流を合わせ、相鉄線に沿って流れます。横浜駅西口付近で石崎川、新田間川、派新田間川に分派し、横浜港に注いでいます。昭和33年、台風22号(狩野川台風)が流域に大災害をもたらしました。これを契機に本格的な河川改修工事が始められました。横浜市の事業区間は、中堀川合流点より上流の6.17kmです。
 現在、帷子川は年超過確率1/6.3の規模の降雨に対応できるよう河川改修を実施中で、下川井町周辺まで改修が完了しています。また、河川敷空間(中堀川合流点~鶴舞橋、延長600m)を有効に利用し、地形や自然、水の流れなどの渓谷風景が生かされた親水公園を整備しました。工事は昭和58年度に着手され、昭和63年度に完成しました。この親水公園は市民の皆さんが、水辺に親しめるよう「水と緑と歴史のプロムナード事業」の一環として整備しました。(「横浜市」HPより)

※現在の横浜市保土ケ谷区天王町一帯は片方が山で、片方が田畑であったため、かつては「かたひら」と呼ばれていた。その地を流れていたので「かたびらかわ」と呼ぶようになったともされているが、名称の由来については諸説ある。

※「帷子」=帷子は裏地のない1枚の着物のこと。装束をつけるときに汗取り(下着)として着たり、夏に身につける着物として用いられた。

「保土ヶ谷バイパス」が見えてきます。

くぐると、左手に急な階段が。

「平塚の中原から江戸の虎ノ門に通じる旧街道 1590年家康が江戸入城の時に利用した。」と記されてある。

急な階段で、当方、疲れ気味なので、少し回り道をして旧道に入ります。

旧道は階段を上ったあと、この地点まで上がってきます。

旧道に復帰。

右手に「一里塚跡(矢指(やさし)の一里塚)」碑。

旧中原街道の一里塚があったところです。中山の宮下(現緑区中山町)へ一里、桜株(現大和市上和田)へ一里です。

左手、眼下を望む。

旧道は丘陵の端を進んでいく。この辺りの標高は、80m程。この付近もけっこう起伏があるところのようです。

展望台にある案内図。

「史跡 岩船不動尊」。

先に進みます。カーブの様子など、旧道らしい道筋。横浜市のマンホール。

「矢指市民の森」まで来ましたが、たまたま休憩中のタクシー運転手に声をかけたら、OKしてくれたので、「三ツ境駅」までタクシーで。

まだまだ先はあったのですが、今回はここまで。

         ↓が旧道。                           (「今昔マップ」より)

「三ツ境駅」。

        遠く西の方に丹沢山塊が見えます。一番左が「大山」?

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「横浜市営地下鉄・仲町台駅」~「相鉄線・三ツ境駅」。その4。相変わらず、上り下りの坂道が続く。「よこはま動物園ズーラシア」。(「中原街道」をゆく。第4日目。)

2025-02-09 18:23:23 | 中原街道

2段階の上り坂に。右手に「は」という大きな看板。

歯医者さん? 「はま寿司」の看板でした。

先が見えないので、下りかと思うと、それが・・・

いったん下った先に、はるか高い上り坂が見えてきます。

けっこう疲れる道筋です。オートマの車だと何の苦もなさそうですが、マニュアル車だとけっこうギアの切り替えが大変かも知れません。

雪国のように積雪があったら、路面凍結でも大変な事態になりそうなくらい、車が連なっています。

「中堀川プロムナード」。

雨水排水路として使われていた中堀川を下水道整備に伴い、せせらぎが流れる水と緑が豊かなプロムナードとして再生したもの。中原街道が起点で左手下に続きます。

↓がこの付近。                                 (「今昔マップ」より)

中原街道は、ほぼ直線道路のため、丘陵地帯と谷戸(谷筋)とを上ったり、下ったりする道筋になっている。

※千葉の「東金御成街道」(津田沼~東金)も、ほぼ直線で造った道なので、丘と谷と交互につながり、上り下りの連続で腰を痛めました。

地元の方も自転車は大変そう。電動アシスト自転車でないと、上りは大変。下りは今度はスピードが出て・・・。

青年が中原街道を自転車で制覇しようというのでしょうか、必死にペダルをこいでいます。数は少ないようですが。

「よこはま動物園ズーラシア」。

「生命の共生・自然との調和」

「生命の共生・自然との調和」をメインテーマに掲げるよこはま動物園ズーラシア。

この「ズーラシア(ZOORASIA)」という愛称は、動物園(ZOO)と広大な自然をイメージしたユーラシア(EURASIA)の合成語で、平成8年(1996年)秋に市民公募で選ばれました。

生息環境展示や世界の気候帯・地域別にゾーニングすることにより、世界旅行ができる動物園として植物や自然環境について楽しく学べます。

 

      

園長から皆様へ 村田 浩一

よこはま動物園(ズーラシア)は、世界中の野生動物を、展示、飼育、繁殖させている国内でも最大級の動物園です。

絶滅寸前の希少種の野生復帰や、そのための研究にも積極的に取り組んでいます。

野生動物を展示飼育する目的と意義は、野生動物の生態や行動を身近に学んでもらうこと、目の前にいる野生動物が暮らすことのできる地球環境の豊かさを知ってもらうこと、命の大切さを再認識してもらうこと、そしてヒトと野生動物が共存できる世界の大切さを理解してもらうことです。また、動物を観察することで自分たちの生活-ライフスタイルを見つめ直し、新たな生き方の発見につながることにも期待しています。

ズーラシアは、環境教育と野生動物保全と動物学研究とリクリエーション(ライフスタイルの再創造)を目的として一般公開されている生き生きとした『総合地球環境ミュージアム』とも言えます。

私たちが心から望んでいるのは、ズーラシアで遊び、楽しみ、そして感動する中で、ズーラシアが皆さまに伝えたい目的や意義を知らず知らずの内に学び身につけてもらうことです。

どうぞ、ズーラシアで動物たちとの出会いを大いに楽しんで下さい。私たちも、皆さんが動物園で楽しみながら学べるよう、精一杯のお手伝いをしたいと思っています。

ズーラシアへのご来園をお待ちしています! 

(この項「よこはま動物園ズーラシア」HPより)

上り坂。

「神奈川県立横浜旭陵高等学校」。

          この左手前に旧道が残っていたようです。

振り返って望む。上り下りが激しい。

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「横浜市営地下鉄・仲町台駅」~「相鉄線・三ツ境駅」。その3。リハビリも一段落。落合橋・鶴見川。JR横浜線。長坂・長坂谷(ながさかだに)公園。(「中原街道」をゆく。第4日目。)

2025-02-08 20:27:53 | 中原街道

昨日、7日で「東部地域病院」での診察を終えました。

「手術しなくてよかったですね。ホオー、そこまで手が動かせるようになったんですね。ここまで回復出来たのは、リハビリを行っているからですね。今日で診療は終わります。リハビリはもう少し続けてもいいかもしれません。」

「たいへん助かりました。有り難うございました。・・・」

11月21日に大けがをして、2ヶ月半。リハビリは今月末までは通うことにします。

※3月1日から利用している路線バスの料金が値上げされるそうです。タイミングよすぎ!

ということで、3ヶ月続いた病院通いも、もうじき終わりに。

職場をはじめ、知人・友人の皆さんに、心配やらご迷惑をおかけしました。お詫びするとともに、厚く御礼申し上げます。

・・・

さて、「中原街道」歩きの報告。その3。

「緑産業道路」との合流へ。 

                      右折して進みます。この道が「中原街道」になります。

「地蔵尊前」バス停。広い幹線道路になる。

けっこうはやっているおそば屋さんのようです。

           「蕎麦処 味奈登庵」。

向かいには大きなタヌキ。「不用品引き取り」

「箱根」の大型スクリーン。「仙石原のすすき」。

「鶴見川」下流方向。

           上流方向。

この先、長い上り坂が見えてきます。 

「落合橋」土手沿いに遊歩道。

「落合橋」バス停。

「中山橋」。JR横浜線に架かる陸橋。

眼下に横浜線の線路。

「中山交差点」。

左手に旧道が短く残っています。

       

旧道を振り返る。

長い坂「長坂」を上り始めます。

振り返るとけっこう上ってきました。町並みが遙か彼方に。けっこう😇しんどい!

この辺りが一番高いところ? イヤ、まだまだ上りが。

「遊水池」。

上がって来た坂道を振り返る。

車はひっきりなしに続く。

頂上付近に「長坂谷(ながさかだに)公園」。

「長坂谷」という名が谷戸の地形を連想させるが、公園は丘の上の立地で周囲に視界が開けている。・・・「長坂谷公園」となる以前は「長坂スポーツランド」として利用されていたが、芝生広場や遊具類などを拡充し、2001年(平成13年)に「長坂谷公園」となり、翌2002年(平成14年)に全面開園となったものという。公園は中原街道の東側に位置し、公園東側は緑区上山の町が近く、南側は旭区との区境に接している。・・・。広い敷地の中にテニスコートや野球場などを配した「運動公園」だが、草はらの広場や大型の遊具類も設置されており、子ども連れで訪れてのんびりと過ごすのにもよいところだ。

ここで小休止。

「境」バス停。ここからしばらく下り坂。

「長坂」信号。

通りの向こうの森は、「四季の森公園」

県立四季の森公園は、里山の風景が残る風致公園です。
早春、キブシの花が咲くと、ナノハナ、サクラ、ヤブデマリが次々と開き、夏にはホタルやトンボ等の虫たちが姿を見せ、秋は紅葉が園内を美しく彩ります。その名のとおり、一年を通して四季を楽しめます。

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「横浜市営地下鉄・仲町台駅」~「相鉄線・三つ境駅」。その2。佐江戸町へ向かう下り坂。バスの便の減少。飛び出し坊や。佐江戸町。「戸・砥」の考察。(「中原街道」をゆく。第4日目。)

2025-02-06 19:00:00 | 中原街道

下り坂。かなりの急坂。

といっても、緩い上り、下り坂はあります。

道のわきに小さな祠。

「滝ケ谷戸」バス停。坂の多い街ですが、バスの本数は極めて少ない。

車などの便のない、お年寄りは気の毒な感じ。

バス停にやってきた老女。「減らされる一方よ。ホント困っちゃうわ。横浜市は何をやってんのかね」。

久々の「飛び出し坊や」風の看板。自作? 小さく、やさしい顔立ち。

東海道歩きの時には滋賀県付近からゴールの京都まで、たくさん見かけましたが、関東では珍しい。

※飛び出し坊やは、1973年に滋賀県東近江市にある「久田工芸」にて誕生しました。もともと地元の看板屋さんだった久田工芸が社会福祉協議会より「急増している子どもの飛び出し事故を防ぐ看板を作ってほしい」と依頼を受けたことがきっかけでした。

1973年に誕生した飛び出し坊や。2023年で生誕50周年です。

閑話休題。

「佐江戸町」に入ります。

「山王前」の信号で右の道を進みます。 

                                           マンションに「佐江戸」の地名が。

 

                                 「佐江戸」交差点。

※この付近の標高は11.8m(「今昔マップ」による)なので、40mほど下ってきたことになります。

「恩田川」が「鶴見川」に合流する「佐江戸」は交通の要衝であった。鎌倉時代には武蔵国都筑郡佐江土郷と呼ばれた。戦国時代猿渡内匠助小机城(今の港北区小机町)の支城として佐江戸城を築いたとされる。猿渡氏は大國魂神社の神主家であった。隣の川和町でも川和城が築かれており、重要な地であったことが分かる。この頃は北条氏尭の領地であり、記録には北条氏尭が百姓に、今後は人夫役などを全て免除するとしたとある。

江戸時代以降は都筑郡佐江戸村であった。1671年継立場を巡って中山村と対立。幕府は当村であると判断を下した。江戸後期には神奈川宿の助郷役となった。1889年市町村制によって都筑郡都田村大字佐江戸に変更。1934年1月町制が施行されたことに伴い都筑郡川和町大字佐江戸に改称。1939年4月、横浜市港北区に編入され、大字佐江戸の地に佐江戸町を新設。小麦を中心とした農業が盛んだったが、やがて都市向けの野菜を栽培する近郊農業が盛んになる。1956年池辺町と境界変更があった。1969年10月、横浜市の分区に伴い、緑区に編入。1994年11月、港北区・緑区の再編に伴い新設された都筑区に編入。(「Wikipedia」より)

※1 佐江戸の由来には、「もともとは西土だったが、徳川入国以来、ひだり江戸に当たるので、左江戸と書き、のちに佐江戸となった」という言い伝えや、「村の外から病や悪いものが入らぬよう道祖神(サエノカミ)を祭った所をサエドということからこの地をサエドと呼び、佐江戸という漢字を当てた」という説などがあります。(「no+e とうーむゅらす」HPより)

※2 この北西、恩田川・鶴見川沿いに「青砥」という地名があります。「青砥」は東京にもあります。

東京都葛飾区青戸(京成電鉄の「青砥駅」は「青砥藤綱」にあやかったもので、地名は「戸」。

「戸」は、「津」と同意で、船運に関わる地名。中川(古利根川)に面しています。この佐江戸の「戸」も「鶴見川」に関わり、船運に関わる地名と考えられます。江戸時代になって「江戸」という字を当てはめたもののようです。

「佐江戸」バス停。 

  丘陵の東南の端、「中原街道」沿いに、町が形成されている。              「今昔マップ」より) 

s

 →が中原街道。○青砥という地名があります。              (「同上」より)

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「横浜市営地下鉄・仲町台駅」~「相鉄線・三つ境駅」。その1。アップダウンの続く道。東方(ひがしかた)農業専用地区。標高は、50M。星谷(ほしがや)。(「中原街道」をゆく。第4日目。)

2025-02-05 19:35:14 | 中原街道

きんかん。 

さて、「中原街道」歩きも4日目。2月2日が雪模様になるかもしれない、という予報でしたので、2月1日(土)に。

晴れ。帰る頃に曇り空になってきました。

街道歩きも、旧道はほとんど不明な箇所が多く、現中原街道をひたすら歩く、という状態になりつつあります。

今でも幹線道路なので、車の行き来が激しい中、起伏の激しい横浜の丘陵地帯を上がったり、下りたりの一日です。

横浜市営地下鉄「仲町台駅」。

いったん広い通りに出ます。

新横浜元石川線(しんよこはまもといしかわせん)。この広い道路の中央分離帯には、高圧電線塔、高木が植えられています。

「桜並木」バス停。「桜並木」は、ここの地名のようです。

周辺案内図。↑の先を左折し、「中原街道(県道45号線)」に復帰します。

※図の上は、南、下が北。

「港北ニュータウン」方向。旧道?

中原街道(旧道)は、港北ニュータウンの造成により失われているようです。

この先、アップダウンの続く道になる。

右手には畑などが。

左手(東)方向を望む。(都筑区桜並木)

「東方(ひがしかた)農業専用地区」。

向かい側には「JA横浜」「新鮮野菜直売所」があります。

新道と合流します。

             横浜市営バス停「東方原(ひがしかたはら)」。

                                       (「今昔マップ」より)

○が合流地点。かつては旧道のみがあった。標高は、50mと記されている。

本格的なアップダウンが始まります。

「星谷(ほしがや)」交差点。標高:25m。

振り返る。道はほぼ直線ですが・・・

左手を望む。ここまでも急坂。

遙か東はどの辺りなのか? 横浜の地理にはまったく明るくないので。

中原街道は尾根の際(それもアップダウンの激しい)を進むようです。

(「同上」より)

星谷には、まとまった集落があったようです。

「関戸」バス停。ここから下りに。

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立春。2月3日。飛び梅・菅原道真。春一番・キャンディーズ。春告鳥・ウグイス・メジロ。雪解け・一茶。旧正月・春節。

2025-02-03 19:14:24 | 二十四節気

                 一重寒紅(ひとえかんこう)

昨日の節分。東京地方は昼頃まで小雨、雪こそ降りませんでしたが、寒い一日でした。日本海側を中心に、しばらくは「立春寒波」が襲ってくるようです。

それでも、これから先、寒の戻りはあっても、「冬来りなば春遠からじ」あるいは「冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかず、みず、冬の秋とかえれることを。」とあるように、春の到来、ぬくもりを感じる日も増えてきそうです。
 
そういえば、次第に日が落ちる時間が遅くなってきたような。残照。

西の空。

     けやき。東の空。

そういえば、今日、都立の中高一貫校の入試がありました。塾で鍛えた? 小学生が頑張っての受験です。

旧暦では、一年のはじまりは立春からと考えられていました。「二十四節気」も立春から始まります。そのため、節分や八十八夜など、季節の節目の行事は立春を起点として定められています。梅の花が咲き始め、徐々に暖かくなり、春の兆しがところどころで見られます

※旧暦の1月1日(元旦)・春節は、1月29日でした。具体的には、2025年の旧正月は1月29日から始まります。この日を農暦の1月1日とするため、毎年日付が変わるのが特徴です。

中国では毎年、日本でいう「旧正月」=「春節」の前後7日間ほどが連休になります。2025年の連休期間は、春節前日の1月28日から2月4日までの8日間です。

春節は、特に中国文化圏において非常に重要な祝祭であり、家族の団らんや先祖への感謝を強調する機会です。春節は「春の節目」を意味し、冬が終わり春の到来を祝うことから発展した行事です。旧正月は家族の絆や伝統を重んじ、地域ごとの特有の風習が色濃く反映されるため、各地で異なる独自の祝い方が見られます。例えば、赤い装飾や花火、獅子舞などが一般的に行われ、これらは悪霊を追い払い、幸運を呼び込むためのものとされています。

延べ90億人が移動するとされる中国の「春節。中国国内はもとより、海外へ旅行に出かけます。コロナ禍以前、2016(平成28)年の春節期間の中国人海外旅行者数は600万人とも言われ、日本では中国人旅行客による「爆買い」という言葉が生まれました。2025年も多くの中国人観光客が来日すると予想されます。

「七十二侯」では三分割して

・初侯 2月3日〜2月7日頃 東風解凍 はるかぜこおりをとく

暖かい春の風が、冬の間張りつめていた氷を解かし始める頃。

春先に東から吹いてくる風を「東風」といいます。東風は「こち」とも読みます。

「東風」というと、菅原道真の歌を想起します。道真が太宰府に左遷されたとき、邸の梅の花に別れを惜しんで詠んだと伝わっています。道真は学問の神様として「天神様(天満宮)」として崇められています。

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ(『大鏡』)

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな(『拾遺和歌集』)
 
※飛梅伝説
梅を愛した菅原道真が左遷で都(京都)から太宰府に送られる際、上記の歌を詠んだところ、梅が道真を慕い、一晩で飛んできたというもの。
 
菅原道真は平安時代に活躍した貴族・政治家・学者。醍醐天皇の時代に右大臣まで出世したが、その才能を恐れた左大臣たちに濡れ衣を着させられたあげく、罪人となり、太宰府という地方行政機関で謹慎し、そのまま都(京都)に戻ることなく生涯を遂げる。

その後、道真が亡くなった後、都(京都)では次々と不幸な出来事が起こり始める。疫病が流行ったり、清涼殿に雷が落ちたり、道真の左遷に関わったとされる者たちが次々と亡くなった。当時の人々は「これは道真公の祟りだ」「道真公の怨霊だ」と考えるようになり、畏怖の対象とされるように。

そこで、「菅原道真公の怒りを鎮めるためにお祀りしよう」ということになり、雷を落としたことから「雷神」、「天神」と信じられるようになった。

道真が亡くなった場所にお墓をつくり、そのお墓を祀っているのが現在の太宰府天満宮(福岡)。左遷されたまま都に戻れなかった道真を鎮魂するという意味で祀っているのが北野天満宮(京都)。

時が経ち、人々の記憶から道真の祟りや怨霊のイメージが薄れる一方で、道真は京都で高名な学者だったことも知られており、左遷後も自分の運命を受け入れて勤めに集中したといわれている。山の頂上に登って7日間篭りながら、自分を陥れた者たちへの恨みではなく「世の幸せと自分の無実を訴えるために祈り続けた」というエピソードも広まる。

そのため「恐ろしい祟りの神」から、少しづつ「学問の神」としての信仰へと変わっていった。

また、「天神とは菅原道真公のことである」という教えが広まり、「天神」=「菅原道真公」=「学問の神」という考え方が一般的になった。

(この項、「・なぜ菅原道真公は学問の神様に。亀戸天神社の禰宜(ねぎ)である大鳥居さんにお話をお聞きすることができました」参照)

「春一番」も、春の到来を告げる風。

春一番は、その年の立春から春分(今年は3月20日)までの間の最初に吹く、強い南風です。風を生ぬるく感じるほど、気温が上昇するのも、春一番の特徴です。
 
「春一番」というと、キャンディーズの歌声が浮かんできます。
 
               (「youtube」より)
                
 
穂口雄右作詞・作曲
 
雪が溶けて川になって 流れてゆきます
つくしの子がはずかしげに 顔を出します
もうすぐ春ですね ちょっと気取ってみませんか
風が吹いて暖かさを 運んで来ました
どこかの子が隣りの子を 迎えに来ました
もうすぐ春ですね 彼を誘ってみませんか
泣いてばかりいたって 幸福(しあわせ)は来ないから
重いコート脱いで 出かけませんか
もうすぐ春ですね 恋をしてみませんか
 
 
・次侯 2月7日〜2月12日頃 黄鶯睍睆 うぐいすなく

「ホーホケキョ」と、ウグイスが馴染みのある美しい鳴き声で、春の到来を告げる頃。ウグイスには「春告鳥」という異名があります。その年初めて鳴くことを「初音(はつね)」といいます。

『源氏物語』初音の巻に明石の君から姫君に寄せた歌があります。

年月を松にひかれて経る人に今日鴬の初音聞かせよ

  長い年月、姫君の成長を待ち続けている私に、今日はせめて鶯の初音を聞かせてください(お便りを下さい)。

※その年に初めて聞く「夏告鳥」=ホトトギスの鳴き声は、「忍音(しのびね)」。

江戸時代には、鳴き声から「法、法華経」と聞きなされ、「経読鳥(きょうよみどり)」という異名もつけられました。

ところで、「梅に鶯」という言い方がありますが、「梅にウグイスが来る」ということではありません。梅は春の訪れを告げるように咲き、ウグイスは春の訪れを告げる鳥として共に親しまれました。この二者は待ちわびた春の訪れを告げる理想的な取り合わせなのです。そこで、万葉の昔から「梅に鶯」の組み合わせを歌に込めました。

: 梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林に鴬鳴くも

: 春されば木末隠りて鴬ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に

: 鴬の音聞くなへに梅の花我家の園に咲きて散る見ゆ

: 我がやどの梅の下枝に遊びつつ鴬鳴くも散らまく惜しみ

ウグイスは鳴き声は聞こえるが、姿を見せることはない鳥なのです。

※ところが、一昨年春、都県境歩きの時にウグイスの姿を見ました。

川崎市麻生区片平。

「ホーホケキョ」とさわやかな声が響いてきます。見上げると、

。ウグイスの姿が。

よく見ると、電線にとまっています。姿を見せない、といわれるウグイスが?

しばらく見ていると、たしかに「ホーホケキョ」「ホーホケキョ」とさえずっています。

都会のウグイスは電線にも、とまるのでしょうか。

        しばらくさえずった後、飛び去っていきました。

※実際、梅の花の蜜に寄ってくるのは、メジロです。「向島百花園」でたくさん梅の花にとまっているのを見たことがあります。

2019年2月。鶯色をした小鳥がたくさん集まっています。メジロ。 

鶯は、ふみなどにもめでたきものにつくり、聲よりはじめてさまかたちも、さばかりあてにうつくしき程よりは、九重のうちになかぬぞいとわろき。人の「さなんある」といひしを、さしもあらじと思ひしに、十年ばかりさぶらひて、ききしに、まことにさらに音せざりき。さるは、竹ちかき紅梅も、いとよくかよひぬべきたよりなりかし。まかでてきけば、あやしき家の見所もなき梅の木などには、かしがましきまでぞなく。よるなかぬもいぎたなき心地すれども、今はいかがせん。夏・秋の末まで老いごゑに鳴きて、「むしくひ」など、ようもあらぬ者は、名を付けかへていふぞ、くちをしくくすしき心地する。それもただ、雀などのやうに常にある鳥ならば、さもおぼゆまじ。春なくゆゑこそはあらめ。「年たちかへる」など、をかしきことに、歌にも文にもつくるなるは。なほ春のうちならましかば、いかにをかしからまし。

(『枕草子』「鳥は」より)

あらたまの 年たちかへる 朝より 待たるるものは 鶯の声  素性法師

春を告げるものには、鳥のほか、魚などもあります。たとえば「春告魚(はるつげうお)」はニシン(地方によっては、メバルなど)。

昔、ニシンは春になると産卵のため大量に浜へ押し寄せることから、“春告魚”と呼ばれていました。

・末侯 2月13日〜2月17日頃 魚上氷 うおこおりをいずる

春の暖かさで湖や川の氷が割れ、氷下で泳いでいた魚が氷の上に跳ね上がる頃。

春になって、積もっていた雪が解(と)け始めることが「雪解(ゆきどけ)」。
雪解は、特に北国の人たちにとっては、たいへん待ち遠しいものです。

雪解というと、小林一茶の句が。

雪とけて村一ぱいの子ども哉(かな)

50歳で永住を覚悟し故郷・信濃国柏原(現在の長野県信濃町)に帰ってきた時の句。
 
暦の上では春を迎えていても、雪国ではまだまだ寒い日が続く。
しかし、降り積もった雪が少しずつ解けはじめて、ようやく春の気配を感じることができる日がやってくる。冬の間、じっと家の中で過ごしていた子どもたちがいっせいに飛び出し、今までどこにこんなにたくさんの子どもがいたのか、と。
 
のもの
野菜

蕗の薹(ふきのとう)。

             (「向島百花園」にて)

雪解けの土の中から顔を出す春の訪れを告げる山菜です。独特の香りとほろ苦さが春の息吹を感じさせ、冬の間にこわばっていた体を目覚めさせてくれます。冬眠から目覚めた熊は、最初に蕗の薹を食べるという話もあります。

そして二十四節気の2番目が「雨水」。2月18日(火)です。
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「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その7。「勝田(かちだ)橋」。坂を上っていく旧道。関屋住宅(国指定重要文化財)。「港北ニュータウン」。「仲町台駅」。(「中原街道」をゆく。第3日目。)

2025-02-02 21:01:19 | 中原街道

中原街道。

右の旧道に入ります。

「勝田(かちだ)橋」。

上流方向。

下流方向。向こうの橋は、新道の橋。

右の坂を上っていくのが旧道のようです。

が、新道の方を進みます。

  新道に合流する旧道?

右手奥に関家住宅表門(長屋門)が見えてきます。

        

関屋住宅(国指定重要文化財)

関家は『新編武蔵風土記稿』にも載る旧家で、もと後北条家に仕えた地侍と伝え、江戸時代には代々名主を勤めたといいます。小高い丘陵に挟まれた袋状の谷戸の中腹に屋敷を構え、主屋を中心として南に表門(長屋門)、東西に土蔵・書院を配し、右後方の小高みに墓地や鎮守があります。・・・東日本で最古の一つに数えられる貴重な民家です。(「解説版より)

都筑区勝田町にのこる関家住宅は、建築当初から市内にある古民家として唯一、国の重要文化財に指定されている建造物です。関家は、戦国時代に小田原北条氏の家臣だったという伝承をもち、江戸時代の初めから勝田村の名主を務めました。江戸後期には代官職も兼務し、屋号「おだいかん」を号しています。関東地方でも最古級と考えられる主屋の建築は17世紀前半にさかのぼり、書院は18世紀前半、表門は19世紀中頃に建てられました。

関東地方で最古とみられる主屋(重文)のほかに、書院・表門が残されており、山林や畑地を含む屋敷構えもほぼ旧状を止めている。多摩丘陵における格式ある農家の構えを知ることができる。

  

(この項、「横浜市」HPより)

※敷地の北側を旧中原街道が通っている。

関家山林、畑地。

右の高台に神社、住宅などが建ち並ぶ。

住宅地内を旧道が進んでいた。ニュータウン建設で消滅?

来た道(新道)を振り返る。

右手に「港北ニュータウン」が大きく広がる。

      

  歩道橋より北東方向を望む。

          通りは「中原街道・新道」。

「中原街道」は突き当りを右折し、さらに左折して旧道へ進む。

.

(「今昔マップ」より)○が港北ニュータウン。↓が旧道。途中、旧道が消失している。

今回は、ここまで。横浜市地下鉄「仲町台駅」を目指します。

駅までの「プロムナード仲町台」。

「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。

終点の「あざみ野駅」から東急田園都市線に乗り換え、「半蔵門線」経由で戻ります。

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「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その6。「第三京浜」。「鎌田堂」。旧道。のちめ谷戸。のちめ不動尊。(「中原街道」をゆく。第3日目。)

2025-02-01 21:08:18 | 中原街道

リハビリ通院も今は週1回。だんだん動くようになってくるのが、我が身にひしひしと感じます。

さて、中原街道の旅の報告も6回目。次回で一段落の予定。

緩やかな上り坂。

左手は畑や森。

「第三京浜」のトンネルを抜けます。

トンネルの左手奥に「鎌田堂」。

「横浜市仕切弁」。

上部に横浜市水道局の噴水のマーク。市章と水の字をデザインした仕切り弁の蓋。

右手に旧道が続きます。

                             (現在)弓状の道が旧道。

                             (1880年代)「旧道」が顕著に。街道沿いに家並み。

新道の交差点。「のちめ谷戸」。この付近は、丘陵地帯になっている。

谷戸

丘陵地浸食されて形成された状の地形である。また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。(や、やと)・谷津やつ)・谷地(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれ、多摩丘陵三浦丘陵狭山丘陵房総丘陵武蔵野台地下総台地といった関東丘陵地・台地の縁辺部が、長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形。

旧道を進みます。来た道を振り返る。

旧家? 立派な長い塀。

「のちめ不動尊」。

この不動尊は今から約130年前の文久2年 (1864)、のちめの住人が八王子からお不動様を背負ってこの地に祀り、七世代にわたり地域の守り神として護持されて来ました。昔は山の上に鎮座されていましたが、天災の為現在の場所に安置さ れました。この間数回の改築補修がなされましたが、平成元年暮れに二〆・城山講中全員の発意により再建することになりました。

※「のちめ」=「二〆」。

新道に合流。

「宮の下」バス停。

                  右手に「山田(やまた)神社」。※山田は「やまだ」ではなく、「やまた」。

横浜市のマンホール。

デザインはベイブリッジ。4羽の鳥・「ユリカモメ」? 「YOKOHAMA」の文字と、「OSUI」の文字。

農家の軒先に「新鮮野菜直売」。

キャベツが400円と表示されていたので、買って帰ろうか、と。大きな丸ごとなので、諦めました。

「中川中学校」グランド脇に「馬頭観音」。塔婆が供えられている。

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「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その5。千年(ちとせ)交差点・切通し。「橘樹官衙遺跡群」。野川橋・矢上川。野川くぬぎ坂。(「中原街道」をゆく。第3日目)。

2025-01-30 21:18:02 | 中原街道

道路案内に「茅ヶ崎」の地名が。「武蔵新城駅→」。

「千年(ちとせ)交差点」。

右斜めに続く上り坂を進みます。新道は、切通しになっていますが、旧道は坂道になっています。

 

住宅街を進みます。

大きなお屋敷。

新道に合流します。

 「橘樹官衙入口」信号。

「影向寺バス停」付近の案内板には、

「橘樹官衙遺跡群」

※「官衙(かんが)」役所、官庁。

史跡 橘樹官衙遺跡群は、多摩川から2.6㎞西方に広がる40~42mの多摩丘陵上に所在しています。多摩川右岸に広がる低地部との比高高は約30mあり眺望にすぐれた場所に立地しています。橘樹官衙遺跡群は古代武蔵国に置かれた21郡の一つ・橘樹郡の役所跡である橘樹郡家跡(ぐうけ)と古代寺院跡が発見されている影向寺遺跡から構成されています。郡家と古代寺院が隣接して営まれたことが判明し710世紀における地方官衛の成立から廃絶までを知ることができる全国的にも貴重な遺跡であることが評価され、平成27年(2014310日に川崎市初の国史跡に指定されました。・・

平成27年3月に本市初の国史跡に指定された史跡橘樹官衙遺跡群に、令和6年5月18日(土)、「橘樹歴史公園」がオープンしました。
 橘樹歴史公園の地中には、飛鳥時代の役所の倉庫跡4棟が保存されており、その大きさや質感などに触れ、古代橘樹を体感してもらえるよう、1棟は全体を、3棟は柱の一部を復元しています。飛鳥時代の倉庫の復元は「全国初」の取組であり、古代史ファン注目の歴史スポットの誕生と言えます。
 橘樹の丘の上に立ち、全国で初めて復元した飛鳥時代の倉庫を仰ぎ見ると、古代橘樹郡の力の大きさや、1,300年以上前にこの地で働き、暮らしていた人々の息吹が感じられるとともに、古代橘樹の雰囲気や現代まで続く本市の歴史を体感できる施設です。

(この項「」HPより)

向こうの森の方向か?

先に進みます。

新道の方を進み、間違いに気づき、戻ります。

野川橋で矢上川を越します。

「野川くぬぎ坂」バス停。

緩やかな坂を上っていきます。

坂の多い地区。「谷戸」。

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「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その4。「泉沢寺と門前市」・世田谷ボロ市。井田堀。武蔵中原駅。川崎市高津区。巌川(いわがわ)橋。(「中原街道」をゆく。第3日目)。

2025-01-28 20:46:04 | 中原街道

「泉沢寺と門前市」。  

室町末期、世田谷からここに泉沢寺を移した吉良氏は税を免除して居住を促し、また門前市を開き、この地の繁栄を図った。夏の泉沢寺の市は冬の世田谷ボロ市と並び広く知られていた。

※世田谷ボロ市

毎年1月15・16日、12月15・16日の4日間、世田谷駅と上町駅の間で開催されている「世田谷ボロ市」。開催日には約20万人以上が訪れるという、東京を代表する伝統のイベント 。

ボロ市の始まりは、遠く安土桃山時代まで遡ります。当時関東地方を支配していた小田原城主北条氏政は、天正6年(1578年)世田谷新宿に楽市を開きました。楽市とは市場税を一切免除して自由な行商販売を認められた市です。当時は毎月一の日と六の日に6回開いていたので、六斎市(ろくさいいち)とも呼ばれていました。その後、北条氏は豊臣秀吉に滅ぼされ、徳川家康が江戸に幕府を開き、世田谷城が廃止されると、世田谷新宿が城下町としての存在意義を失い急速に衰えていきました。六斎市は自然消滅して姿を変え、何時のころからか年に1回、年の暮れに開かれる歳の市(市町)になっていきました。明治の世になって新暦が使われてから正月15日に開かれ、やがて12月15日・16日の両日、正月にも15日・16日の両日開かれるようになり現在に至ってます。

戦国時代に楽市として世田谷新宿に開かれた市は、徳川時代になって市町(いちまち)という名のもとに歳の市として開かれていましたが、明治20年代になって古着やボロ布の扱いが主流となっていき、いつしか農機具や正月用品が主だった「歳の市」は、その実態に合わせて「ボロ市」と呼ばれるようになりました。正式な名称となったのは第二次世界大戦後からですが、既に明治の終わり頃には世田谷の「ボロ市」が定着していました。

東京都世田谷区世田谷1丁目「ボロ市通り」とその周辺 「世田谷線」世田谷駅・上町駅、徒歩3分

(この項、「世田谷区」HPより)

「街道と地蔵尊」。

中原街道沿いに多く残る石仏、石碑は、特に細道や用水支流との交差点に目立つ。ここは、井田堀と交わるところ。この地蔵尊は歳の市や地元の祭の拠り所として大切な存在であった。

かつて、横には二ヶ領用水が流れており、「井田堀」として親しまれていたという。建立の目的は、「用水に落ちて亡くなった子の供養のため」「街道で行き倒れた旅人のため」など様々な言い伝えが残っている。付近にもいくつかの石像が残っている。

路上には、「井田堀」の絵柄。

JR南武線「武蔵中原駅」。左に行くと、「等々力緑地」。

先に進みます。 バス停「中原」。

「中原街道」の「中原」はここの地名には由来しません。

中原街道もしくは橘樹郡中原町の名称から採っている。既に省線長崎本線中原駅(なかばる-)が存在するため、省線と連絡運輸を行う南武鉄道側が配慮して、旧国名である「武蔵」を冠称した。なお、中原町の前身である中原村が成立する前には、駅周辺に「中原」と言う地名は存在しなかった。

広い農地が残っている。

ここから「川崎市高津区」。

この手前は、「中原区」。

「巌川(いわがわ)橋」。

「江川せせらぎ遊歩道」。

元二ヶ領用水支川である江川を整備して作られた遊歩道。 巌川橋近くは桜並木になっていて、桜の時期は楽しませてくれる。

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「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その3。「小杉駅と供養塔」。寺子屋三左蔵。小杉十字路・府中街道。二ヶ領用水。(「中原街道」をゆく。第3日目)。

2025-01-27 20:33:16 | 中原街道

街道沿いには「供養塔」などが保存されています。「小杉駅と供養塔」。

川崎宿より50年遅れて小杉もまた宿駅に指定された。供養塔にも稲毛領小杉駅とある。台座の「東江戸、西中原」は街道が平塚の中原と江戸を結ぶ道であることを示している。

 

「寺子屋三左蔵」との看板が。

「三左蔵」が残る「小杉御殿町」は、江戸の昔、徳川家康公の鷹狩りの御殿があったことからその名前が付いています。隣には陣屋があり、今でも「小杉陣屋町」と呼ばれています。当時はまだ東海道が整備されておらず、この「小杉御殿」を経由する「中原街道」が、上方への主要な幹線道路でした。御殿のあった小杉は、東西を行き来する人々のための宿場町として、大いに栄えていたと言われています。

その当時から質屋や呉服屋を営んでいた小林家には、江戸時代の土蔵が二棟、今でも残されていました。一棟は衣装蔵、もう一棟は味噌蔵であったものと思われます。300年余りの間には、何度かの改修が施されていますが、その梁や基礎、壁などは当時のままに現存しています。土蔵の中の気温は、夏は涼しく、冬は暖かく保たれ、所蔵品は黴たり腐ったりすることなく、現代まで大切に残されていました。

今回、傷みがひどかった基礎や柱の一部を補修し、新たに階段やトイレ、キッチンなどを取り付けました。寺社建築専門の棟梁を数ヶ月にわたって招き、可能な限り釘を使わず、組木だけで建てられた当時の建築仕様を現代に再現しました。所有者である小林家の当主が代々「三左衛門(さんざえもん)」を名乗っていたことから、この蔵を「三左(さんざ)蔵」と名付け、皆様に公開することとしました。 300年を超えて呼吸し続ける木の温もりと、そこに流れるゆったりとした時間と空気を、ぜひ感じて頂ければと思っています。

プロデュース / 小林かおり

(この項「」HPより)

左手奥にある建物がそうだったようです。立ち寄れなくて残念!

「庚申塔と大師道」。

この庚申塔は「見ざる聞かざる言わざる」で知られる庚申信仰の最盛期、江戸時代のもの。道標を兼ね東江戸道、西大山道、南大師道と彫られている。昔はここから大師へ向かった。

「小杉十字路」。府中街道との交差点。

中原街道が府中街道と交差するこの場所は、明治後期から大正時代、特に賑わった。乗り合い馬車の停留所、料理屋、旅館、劇場、鉱泉宿、床屋、医院、郵便局などが集まっていた。

「神地(こうじ)橋」で「二ヶ領用水」を越します。

      

二ヶ領用水(にかりょうようすい)

多摩川などを水源とし、神奈川県川崎市多摩区(上河原堰・宿河原堰)から川崎市幸区までを流れる、全長約32km(宿河原の支流を含む)の神奈川県下で最も古い人工用水路である。2020年令和2年)3月10日に国の登録記念物に登録された

関ヶ原の戦いの3年前にあたる1597年慶長2年)に測量が始まり、14年の歳月をかけて完成。二ヶ領用水の名は、江戸時代の川崎領と稲毛領にまたがって流れていたことに由来する。農業用水として多摩川から水を引いて造られ、かつては近隣の農業を支えた二ヶ領用水だが、時が流れて現在の沿川は宅地化が進んでおり、工業用水などに用いられるとともに、近隣住民の憩いの場としても親しまれている。

(この項「Wikipedia」より)

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「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その2。「GATE SQUARE 小杉陣屋町」。原家旧住宅表門(陣屋門)。「旧名主家と長屋門」。石橋醤油店。枡形。(「中原街道」をゆく。第3日目)。

2025-01-26 20:14:18 | 中原街道

「多摩川」下流方向。

               中洲の先付近に「丸子の渡し」があった。

上流方向。「東急目黒線」。

川崎市側の河川敷。

           右手に「丸子の渡し」跡の案内板があるようです。

斜め右に進むのが「中原街道」。

       「中原街道」。この道は、かつての「中原街道」道。

「中原街道」案内板。

中世以前から相模国と武蔵国をつなぐ要路であった中原街道は、徳川家康の江戸城入城にも使われました。

立派なお屋敷の門。

「GATE SQUARE 小杉陣屋町」。

 

徳川家康が初めて江戸に入った天正18(1590)年、まだ東海道は整備されておらず、家康は平塚からほぼ直線で江戸に向かうこの道を通った。江戸時代の初め、江戸に通じる主要街道として使われたこの道も、東海道が整うと徐々にそれまでの賑わいを失っていく。しかし、その後も沿線の物資や農産物輸送などに欠かせない大切な道として、中原街道は人々の生活に深い関わりを持ち続けてきた。

原家旧住宅表門(陣屋門)

この敷地には、原家の旧母屋がありました。明治24年から22年の歳月をかけて大正2年二完成した旧母屋は、明治を代表する近代和風建築の一つとして、現在川崎市立日本民家園に移築・復原し、平成13年には篠重要歴史記念物に指定されました。

総欅造りの「薬医門」と呼ばれる様式で、特に親柱・扉板・彫刻懸魚などの装飾部分には、欅の巨木から製材した材料がふんだんんい使われています。親柱の基礎には安山岩と思われる切石を用い、屋根は切妻造り・波形の桟瓦を用いた瓦葺きで、江戸時代からの主要街道である中原街道に面し、由緒ある小杉の街の歴史を物語る佇まいが特徴です。

道沿いには随所に史跡と案内図が設置されています。

「旧名主家と長屋門」。

江戸時代この辺りの名主の代表格だった安藤家。代官から賜った長屋門が今に残る。門の内側にある高札のほか、この旧家二は古文書、絵図など貴重な歴史資料が多く残されている。

  幕越しに。

緑の目隠し幕で囲まれ、中をうかがうことはできません。広い敷地が整地されています。

隙間から。

長屋門には3 枚の高札が掲げられている。どれも「太政官布告」である。 分かりやすく文を変えて紹介すると、1つは、幕府が大政奉還をした翌年のもので国民に布告した「定」である。

1. 人たるものは、五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の道を正しくすべき事
1. 妻や夫をなくした者、幼くて親のない者、老いて子をなくした者、病によって不具になった者を、あわれむべき事
1. 人を殺し、家を焼き、財を盗むなどの悪業あるまじき事

慶応4 年3 月 太政官

また、次のような「定」もある。

「みだりに武士も平民も本国を脱走するようなことは、かたく止められている。万一脱国の者があり、不法の所業を いたした節は、上にたつ者の落度である。脱走の者を抱え、不法の事が生まれ、厄難、災害などにたちいった場合は、その主人が法を破った罪となるべき事」

慶応4 年3 月 太政官

これら2 枚の高札の出た慶応4(1868)年3 月、安藤右衛門は綱島の名主飯田助大夫とともに江戸攻撃の官軍が二子に陣を構えている陣所に呼び出され「官軍につくか幕府につくか、態度をはっきりせよ」と、迫られている。
長い間、幕府と深いつながりを持っていた人々にとっては、まさに大きな動乱の時であった。 残り1 枚の高札は、明治3(1870)のもので、「大勢で徒党を組み、上をはばからぬ所業を行えば、たとえ如何ほど道理至極でも、御取りわけなりがたい。発頭 人は申すに及ばず、同類の者まで厳重にとがめる」というものだ。 これらの高札は、西明寺参道前の街道の右横に立てられたといわれる。 幕末から維新へ、時代の大きな転換期の動揺がひしひしと伝わる思いである。 この小杉宿を通る人々や村人は、この高札を息をのんで見ていたに違いない。

(この項、「」HPより)

「小杉陣屋町」信号。

明治3年創業の石橋醤油店。

十字路を更に先へ進むと(タマガーデンの先)右側に、昭和50年くらいまで高い煙突があった。「石橋醤油店」という看板の原家がある。

この家は明治3(1870)年から、農業をしながら醤油造りを始めた。大正12(1923)年から専業となり、キッコー「文山」のラベルを貼り、昭和26(1951)年まで製造していた。
昔は街道を利用して天秤棒に桶をさげて、東京方面からも買いに来る人が沢山いた。昭和8(1933)年頃には、トラックを使って運搬するほど盛んだった。
毎年、冬になると新潟から醤油造りの職人が4・5 人来て、大変活気があったという。
東京から「こやし」を運んで帰る農家の人々や、付近の人達も買いに来ていた。
当時、ほとんどの農家でも醤油を自家製で造っていたが、塩からくて美味しくないので「文山」と混ぜて味を良くして美味しくしたり種として使っていた。
平成25 年7 月まで醸造工場の建物があり、明治から昭和にかけての醤油造りの一端を見学出来たが、解体され、駐車場や2階建て住宅(4棟8軒)に変わってしまった。商標「文山」のある蔵はそのま ま保存されている。

            

(「同上」HPより)

※「新小杉開発株式会社」HPでは、歴史に詳しい地元の方によって、武蔵小杉の歴史を写真入りで詳細に記述しています。これまで、この地域にまったく無縁であった当方には大変参考になり、たびたび引用させていただきました。深くお礼・感謝申し上げます。

 

枡形。左折し、右折する。

直線化する道路が途中まで完成。(「同上」より)

 けっこう道が狭く、車も多い。

この付近の今昔。

(現在)枡形が現在も存在。

(1880年代)

(「同上」HPより)

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「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その1。丸子橋。丸子の渡し。旧橋の親柱。武蔵小杉・タワーマンション群。(「中原街道」をゆく。第3日目)。

2025-01-25 15:50:53 | 中原街道

今回は、「多摩川駅」まで、都営三田線・東急目黒線「海老名」行きの電車で向かいました。

1月18日(土)。晴れ。けっこう風が冷たく寒い一日です。

「桜とあじさいの町 たまがわ」。

「多摩川」土手に出ます。

対岸遠くに真白の富士山が(↓)。

丸子橋。

丸子橋は、丸子の渡しがあった場所からおよそ200メートル上流に中原街道の新橋として、1934年(昭和9年)に完成した。完成当時は片側一車線道路の橋で、その後、老朽化と交通量増大に対応するため、東京都と川崎市が共同で架け替え事業に着手し、2000年平成12年)5月に片側2車線の新しい橋への架け替えが完成した。これが現在の丸子橋である。

2002年(平成14年)に丸子橋北詰付近にアザラシのタマちゃんが出現し、マスコミで取り上げられ、見物客も訪れ賑わった。

様々なテレビドラマ等のロケ地としてよく使用される。丸子の渡しに通じていた中原街道旧道の坂道部分は桜坂と名付けられ(大田区田園調布本町)、歌謡曲にも取り上げられて桜の名所となっている。

丸子の渡し

古代から多摩川のこの地に丸子の渡しと呼ばれる渡し舟が存在した。武蔵国荏原郡橘樹郡との境界を多摩川が流れ、この地点が両郡の交通接点だった。古代の東海道もこの渡しで通過することとなった(771年以降)。府中市史によると承和2年(835年)には既に運航されていたとの記述がある

東京方面への唯一の交通機関だったが、悪天候の日には運航中止となるため、1884年(明治17年)から橋の建設のための運動が行われた

その後、架橋により丸子の渡しは1934年(昭和9年)12月に廃止された。2006年に地域住民により「丸子の渡し復活協議会」が結成され、2014年から年に一度「丸子の渡し」を再現するイベントが開催されている

(この項「Wikipedia」参照)

※今の中原街道は多摩川の堤防で切れているが、大正8(1919)年までの街道は川岸の渡船場、そして対岸の東京と結ばれていた。
丸子の渡しの渡船の権利は、大正15(1926)年に道路法が改正されるまで、対岸の下沼部村と上丸子村、そして大貫重兵衛の3者が持っていた。そして利益を分けあっていた(10日間ずつ管理していた)。
江戸時代には、渡船の権利は東京の下沼部村と上丸子村の3人が持っていた。上丸子村の3人は、二子村の大貫市郎兵衛に渡船の権利を55両で譲渡したので、下沼部村と大貫市郎兵衛の2者が渡船の権利を持つことになった。
宝暦10(1760)年、上丸子村は「市郎兵衛が持っている権利を上丸子村に譲れ」と訴えた。その結果、市郎兵衛の権利の半分を上丸子村に譲ることになった(下沼部村と上丸子村と大貫市郎兵衛の3者となる)。
多摩川の水かさが増すと、渡船の料金が高くなるようになっていた。
普通の深さ(1.5m)より更に1.5m水かさが増すと「渡し止め」になり、船は動かなくなった。
渡船は4月から10月までの時期に行い、水枯れの10月から3月までの間は、仮橋を架けていた。仮橋は長さ70m、幅は1.8mの木橋だった。しかし砂利採集船の往来が激しくなると、橋を架けることができなくなった。
渡船は2隻あり、船頭が1~2人乗船していた。船の上には厚板が敷きつめられ、人が乗るとつかまる所がなかった。
荷車は、船の高さに合わせた船着場から乗せた。馬力(馬車)を乗せる時は、馬が暴れだして危険なことがよくあったという。
「丸子の渡し」は昭和9(1934)年12月に廃止になるまで(丸子橋の開通)、東京-中原(平塚市中原)を結ぶ唯一の交通機関だった。
昭和初期には東京五反田・三軒茶屋方面に、田畑の肥料として人糞を集め運ぶ街道として栄えた。中原街道のことを「こやし街道」と呼んだほど、沢山の肥桶を運ぶ車が通行していた。
夜明け前の早朝から家を出て愛宕下に昼頃着き、帰りは夕方暗くなってからだったという。急坂が多く、帰りは人糞を荷車に積んでいるので、かなり苦労したという。

           

(この項「」HPより)

 旧橋の親柱。

この付近の今昔。

                             (現在)対岸・左端に少し見えるのが「中原街道」。

河川敷が広く整備されていて、渡し場の痕跡はない。

                             (1880年代)「旧中原街道」は渡し場をはさみ、直線で西に進む。

さて、「丸子橋」を渡り、対岸へ。

     左に見えるタワーマンション群は、武蔵小杉駅付近。新旧の「中原街道」は、橋を渡ったあと、右に曲がっていきます。

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向島百花園。尾長。山鳩。山梨・「やまなし」・宮沢賢治。

2025-01-23 20:13:03 | 向島百花園

周囲がすっかり刈られ、歌碑などがはっきり目立つようになっています。

 

              「初代河竹新七追善しのぶ塚」。

隅田川よ二面よと歌舞伎にも浄瑠璃にも世にもてはやさるる荵売は、安永四とせ中村座の春狂言に初代中村仲蔵が勤め、前の河竹新七の作なり。そが正本を、ある人より贈られて久しゅう秘蔵せしは、名を嗣ぐ者の幸せと悦びしが、この度ここに埋みて、昔忍ぶの墳と名づけその故よし記しつくるは、隅田川の流れ絶えず伝えて、二面の二つなき功績を、後の世に遺さんとてのわざになんありける。
 明治十三年三月

            

園内には尾長など鳥の姿が目立ちます。

山鳩。奥にも尾長?

尾長がたくさん集まって、先を争うように、実をついばんでいます。奥の木。

 

何の実をついばんでいるのか? 「山梨(やまなし)」の実です。

山梨(やまなし)

山梨の実。

山地の中腹や谷などに生育する。日本のものは本来の自生ではなく、古くに植栽されたものという説もある。4月に白い花を咲かせ、夏から秋にかけて黄色い実が熟す。現在果樹として出回っている梨のもととなった品種とされるが、本種の実は酸っぱくて食用には向かない

※和ナシは甘くてジューシーでとっても美味しいですが、 その原種がヤマナシです。実は硬くてしぶくて・・・「あんまりおいしくない・・」とわざわざ中国から持ってきて育てた人は、 がっかりしたかもしれない・・・なんだか訳アリ樹木。
しかしこの木から今の和ナシを見出したのは人。 人のすごさも教えてくれるのがヤマナシなのです!二十世紀ナシなどは突然変異で生まれたそうです。
これはすべての樹木に言えるわけで、 まずいという木でも、 「あれ?うまい!」ってことが起こりうるという宝探しのような出来事なのです。

(この項「」HPより)

 

「やまなし」といえば、宮沢賢治の童話「やまなし」を思い出します。

「やまなし」宮沢賢治

小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈げんとうです。

一、五月

 二ひきかにの子供らが青じろい水の底で話していました。
『クラムボンはわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『クラムボンはねてわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
 上の方や横の方は、青くくらくはがねのように見えます。そのなめらかな天井てんじょうを、つぶつぶ暗いあわが流れて行きます。
『クラムボンはわらっていたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』
 つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽっぽっぽっとつづけて五六つぶ泡をきました。それはゆれながら水銀のように光ってななめに上の方へのぼって行きました。
 つうと銀のいろの腹をひるがえして、一疋の魚が頭の上を過ぎて行きました。
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
『クラムボンは死んでしまったよ………。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本のあしの中の二本を、弟の平べったい頭にのせながらいました。
『わからない。』
 魚がまたツウともどって下流のほうへ行きました。
『クラムボンはわらったよ。』
『わらった。』
 にわかにパッと明るくなり、日光の黄金きんゆめのように水の中に降って来ました。
 波から来る光のあみが、底の白いいわの上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。泡や小さなごみからはまっすぐなかげの棒が、斜めに水の中にならんで立ちました。
 魚がこんどはそこら中の黄金きんの光をまるっきりくちゃくちゃにしておまけに自分は鉄いろに変に底びかりして、また上流かみの方へのぼりました。
『お魚はなぜああ行ったり来たりするの。』
 弟の蟹がまぶしそうにを動かしながらたずねました。
『何か悪いことをしてるんだよとってるんだよ。』
『とってるの。』
『うん。』
 そのお魚がまた上流かみから戻って来ました。今度はゆっくり落ちついて、ひれもも動かさずただ水にだけ流されながらお口をのように円くしてやって来ました。その影は黒くしずかに底の光の網の上をすべりました。
『お魚は……。』
 その時です。にわかに天井に白い泡がたって、青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾てっぽうだまのようなものが、いきなり飛込とびこんで来ました。
 兄さんの蟹ははっきりとその青いもののさきがコンパスのように黒くとがっているのも見ました。と思ううちに、魚の白い腹がぎらっと光って一ぺんひるがえり、上の方へのぼったようでしたが、それっきりもう青いものも魚のかたちも見えず光の黄金きんの網はゆらゆらゆれ、泡はつぶつぶ流れました。
 二疋はまるで声も出ず居すくまってしまいました。
 お父さんの蟹が出て来ました。
『どうしたい。ぶるぶるふるえているじゃないか。』
『お父さん、いまおかしなものが来たよ。』
『どんなもんだ。』
『青くてね、光るんだよ。はじがこんなに黒く尖ってるの。それが来たらお魚が上へのぼって行ったよ。』
『そいつの眼が赤かったかい。』
『わからない。』
『ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。かわせみと云うんだ。大丈夫だいじょうぶだ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから。』
『お父さん、お魚はどこへ行ったの。』
『魚かい。魚はこわい所へ行った』
『こわいよ、お父さん。』
『いいいい、大丈夫だ。心配するな。そら、かばの花が流れて来た。ごらん、きれいだろう。』
 泡と一緒いっしょに、白い樺の花びらが天井をたくさんすべって来ました。
『こわいよ、お父さん。』弟の蟹も云いました。
 光の網はゆらゆら、のびたりちぢんだり、花びらの影はしずかに砂をすべりました。

二、十二月

 蟹の子供らはもうよほど大きくなり、底の景色も夏から秋の間にすっかり変りました。
 白いやわらかな円石まるいしもころがって来、小さなきりの形の水晶すいしょうの粒や、金雲母きんうんものかけらもながれて来てとまりました。
 そのつめたい水の底まで、ラムネのびんの月光がいっぱいにすきとおり天井では波が青じろい火を、燃したり消したりしているよう、あたりはしんとして、ただいかにも遠くからというように、その波の音がひびいて来るだけです。
 蟹の子供らは、あんまり月が明るく水がきれいなのでねむらないで外に出て、しばらくだまって泡をはいて天上の方を見ていました。
『やっぱりぼくの泡は大きいね。』
『兄さん、わざと大きく吐いてるんだい。僕だってわざとならもっと大きく吐けるよ。』
『吐いてごらん。おや、たったそれきりだろう。いいかい、兄さんが吐くから見ておいで。そら、ね、大きいだろう。』
『大きかないや、おんなじだい。』
『近くだから自分のが大きく見えるんだよ。そんなら一緒に吐いてみよう。いいかい、そら。』
『やっぱり僕の方大きいよ。』
『本当かい。じゃ、も一つはくよ。』
『だめだい、そんなにのびあがっては。』
 またお父さんの蟹が出て来ました。
『もうねろねろ。おそいぞ、あしたイサドへ連れて行かんぞ。』
『お父さん、僕たちの泡どっち大きいの』
『それは兄さんの方だろう』
『そうじゃないよ、僕の方大きいんだよ』弟の蟹は泣きそうになりました。
 そのとき、トブン。
 黒い円い大きなものが、天井から落ちてずうっとしずんで又上へのぼって行きました。キラキラッと黄金きんのぶちがひかりました。
『かわせみだ』子供らの蟹はくびをすくめて云いました。
 お父さんの蟹は、遠めがねのような両方の眼をあらん限り延ばして、よくよく見てから云いました。
『そうじゃない、あれはやまなしだ、流れて行くぞ、ついて行って見よう、ああいいにおいだな』
 なるほど、そこらの月あかりの水の中は、やまなしのいい匂いでいっぱいでした。
 三疋はぼかぼか流れて行くやまなしのあとを追いました。
 その横あるきと、底の黒い三つの影法師かげぼうしが、合せて六つおどるようにして、やまなしの円い影を追いました。
 間もなく水はサラサラ鳴り、天井の波はいよいよ青いほのおをあげ、やまなしは横になって木のえだにひっかかってとまり、その上には月光のにじがもかもか集まりました。
『どうだ、やっぱりやまなしだよ、よく熟している、いい匂いだろう。』
『おいしそうだね、お父さん』
『待て待て、もう二日ばかり待つとね、こいつは下へしずんで来る、それからひとりでにおいしいお酒ができるから、さあ、もう帰ってよう、おいで』
 親子の蟹は三疋自分の穴に帰って行きます。
 波はいよいよ青じろい焔をゆらゆらとあげました、それは又金剛石こんごうせきの粉をはいているようでした。

        *
 私の幻燈はこれでおしまいであります。

                                                    (「青空文庫」より)

オノマトペがふんだんに用いられ、素敵なお話になっています。

※「やまなし」は宮沢賢治の短編童話1923年大正12年)4月8日の『岩手毎日新聞』に掲載された。賢治の数少ない生前発表童話の一つであり、「雪渡り」についで発表された

 

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