おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「JR・五反田駅」~「東急多摩川線・沼部駅」。その4。勝海舟。洗足軒。鳳凰閣(旧清明文庫)。墓所。(「中原街道」をゆく。第2日目)

2025-01-19 18:50:17 | 中原街道

「勝海舟別邸(洗足軒)跡」解説板。

勝海舟(1823~99)の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。
 鳥羽・伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。
 その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。
 その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。明治二十四年(1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。

   池のもに 月影清き今宵しも
            うき世の塵の跡だにもなし

 晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。

   うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
            秋はにしきを織りいだすらむ

 明治三十二年(1899年)七十七歳で没しましたが、『富士を見ながら土に入りたい』との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。
 石塔の『海舟』の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。
              平成十一年三月

  勝海舟没後百年を記念して 公益社団法人 洗足風致協会

勝海舟と洗足軒 

                  旧清明文庫

昭和3年に、財団法人清明会が、海舟の墓所や別荘「洗足軒」の保存、海舟に関する図書の収録・閲覧・講義の開催を目的として清明文庫を開設しました。洗足軒は、昭和2年には、現在の勝海舟記念館(旧清明文庫)の西側、この前庭の付近へ移築されました。戦後、洗足軒は原因不明の火災により焼失してしまいました。海舟ゆかりの洗足池で、大田区は、国登録有形文化財の旧清明文庫を保存・活用した「勝海舟記念館」を整備し、海舟の想いと値域の歴史を未来に伝えてまいります。

旧清明文庫

大田区立勝海舟記念館は、国登録有形文化財である旧清明文庫を活用し、令和元年9月7日(土曜日)に開館しました。
海舟の功績や大田区との縁を紹介するとともに、海舟の想いと地域の歴史を伝える記念館です。

記念館入口。 

清明文庫の建物

 

この建物は昭和3(1928)年に竣工し、外観正面中央部のネオ・ゴシックスタイルの柱型4本が特徴的で、内部はアールデコ調の造作が施されている折衷様式の建築です。

左右対称にデザインされ、正面中央はネオゴシックスタイルの柱型が4本屋根まで延びている。間窓や内部のドアなどには、アール・デコ調の植物をモチーフにしたと思われる幾何学文様の格子が入れられ、中央ホール右手にある階段の木製手摺部分にもアール・デコ調の彫物が施されている。床の幾何学文様のモザイクタイル、腰高に貼られているクリンカータイルもよく保存されている。平面はほとんど、もとのままであり、一部建具の入れ替えはあるものの、全てのタイプの建具が残されており、昭和初期(1920年代後半~30年代)の会館建築の一つとして、貴重な建造物である。

  勝海舟胸像。

(「」より)

幼名および通称麟太郎(りんたろう)。義邦(よしくに)。明治維新後は安芳(やすよし)と改名。これは幕末に武家官位である「安房守(あわのかみ)」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。海舟はで、佐久間象山直筆の書「海舟書屋」からとったものだが、「海舟」という号は本来誰のものであったかは分からないという。氏族としては物部氏を称し、氏姓+諱の組み合わせで物部義邦[3]物部安芳[4]という署名や蔵書印も残している。

曽祖父は視覚障害を持ち新潟の農民に生まれ、江戸に出て米山検校となる。祖父はその九男男谷平蔵。父は男谷平蔵の三男、旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は勝元良(甚三郎)の娘信。幕末剣客男谷信友(精一郎)は血縁上は又従兄で、信友が海舟の伯父に当たる男谷思孝(彦四郎)の婿養子に入ったことから系図上は従兄に当たる[5]家紋は丸に剣花菱

10代のころから島田虎之助に入門し剣術を学び直心影流剣術免許皆伝となる。16歳で家督を継ぎ、弘化2年(1845年)から永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は参議海軍卿枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。

李鴻章を始めとするの政治家を高く評価し、明治6年(1873年)には不和だった福沢諭吉(福澤諭吉)らの明六社へ参加、興亜会亜細亜協会)を支援。また足尾銅山鉱毒事件田中正造とも交友があり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。

文政6年(1823年)、江戸本所亀沢町[注釈 1]の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した[注釈 2]

曽祖父・銀一は、越後国三島郡長鳥村[注釈 3]の貧農の家に生まれた盲人であったが、江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得て、朝廷より盲官の最高位検校を買官し「米山検校」を名乗った。銀一は三男の平蔵に御家人・男谷(おだに)家の株を買い与えた[注釈 4]。銀一の孫で男谷平蔵の末子が海舟の父・勝小吉であり、小吉は三男であったため、男谷家から勝家に婿養子に出された。勝家は小普請組という無役で小身の旗本である。勝家は天正3年(1575年)以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父に当たる命雅(のぶまさ)が宝暦2年(1752年)に累進して旗本の列に加わったもので、古参の幕臣であった。

幼少時の文政12年(1829年)、男谷の親類・阿茶の局の紹介で江戸幕府11代将軍徳川家斉の孫・初之丞(家斉の嫡男で後の12代将軍徳川家慶の五男、後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されている。一橋家の家臣として出世する可能性もあったが、慶昌が天保9年(1838年)に早世したためその望みは消えることとなる。同年、父の隠居で家督を相続[7]

生家の男谷家で7歳まで過ごした後は、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らした。

「両国小学校」脇の公園に「勝海舟の生誕の地の碑」。由来碑。

 勝海舟は幼名を麟太郎といい、文政6年(1823)1月13日この地・男谷精一郎邸内で生まれた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦海臨丸艦長として太平洋を横断渡米した。
 慶応4年(1868)3月13日、高輪薩摩邸において、大統督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
 明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去、行年77歳であった。墓は、洗足池畔に建立されている。
平成元年 墨田区 (幕府講武所剣術師範役元男谷邸跡)

「勝海舟揺籃の地」の碑。江東橋を少し南に下った建設会社入り口にある。
揺籃とは幼児期のこと。この辺りが当時の勝家屋敷でした。勝の生誕の地である男谷家を出た勝家はその後→天野右吉の敷地→山口鉄五郎の敷地と引越し、その後に移り住んだのがここ。旗本・岡野孫一郎の敷地です。3回目の引越し先で、4度目のお屋敷の跡。なお、40歳代頃の銅像が、隅田川河畔の墨田区役所にあります。

「国道15号線」と「日比谷通り」の合流点にある「三菱自動車工業」本社ビルのところには、

「江戸城開城 西郷南洲・勝海舟會見之地」碑。

「田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内」

 この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。

勝夫妻の墓所。

「勝海舟夫妻の墓」解説板。

・・・維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩。書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。洗足池やその周辺の風光を愛し、明治32年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。・・・

そこから洗足池を望む。

足下の歩道には、「勝海舟記念館」の絵柄が。

「中原街道」を「洗足池」からさらに先に進みます。

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「JR・五反田駅」~「東急多摩川線・沼部駅」。その3。「洗足池」。日蓮上人袈裟掛けの松・御松庵/妙福寺。(「中原街道」をゆく。第2日目)

2025-01-18 19:34:00 | 中原街道

2カ所の病院への「労災」の手続きも終わり、あとはリハビリに専念するのみ、と。

さて、

「洗足池」。初めて訪れました。

               思ったよりも、けっこう大きな池。

東京都大田区南千束の洗足池公園内にあるである。東京都指定名勝。

園内にはホタルの自生化に取り組む水生植物園、厳島神社が鎮座する弁天島、池月橋など見どころも多い。サクラ(桜)が群生する「桜広場」「桜川」も人気が高い。

湧水池であり、流れ込むはないが、付近一帯には農家が作物の洗い場として利用していた大小の湧水が多くあり、用水路を通して池に流れ込んでいた。洗足池の主要水源となる湧水は4か所あったとされ、現在は清水窪弁財天(大田区北千束1-26。東京の名湧水57選の一つ)の湧水が残っている。今も水量が豊富で、浸透管を用いて洗足池に流れている。

この地域の古い地名は「千束」(せんぞく)であって、その名は平安時代末期の文献にも見られる。由来としては仏教用語千僧供料(せんそうくりょう)の寺領免田であって、千束の貢租(税)から免除されていたとする説や、「大池」(洗足池の別称)を水源として灌漑に利用されたので稲千束分の税が免ぜられていたとする説などがある。

のちに、身延山久遠寺から常陸湯治に向かう途中の日蓮上人が、池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となった。

(歌川広重「名所江戸百景」より)

かつては、池のほとりに勝海舟晩年の邸宅「洗足軒」があったが戦災で焼失。現在は勝夫妻の墓が残り、大田区の文化財に指定されている。

幕末、勝は江戸総攻撃中止と江戸城無血開城を西郷隆盛に直談判するため、官軍薩摩勢が本陣をおいた池上本門寺へ向かう途中、洗足池のほとりで休息した。明治維新後、池の風光明媚を愛した勝が移住し、西郷もここを訪ねて勝と歓談したと言う。勝夫妻の墓の隣に「西郷隆盛留魂碑」が建つ。これは、西郷が西南役に倒れた後、当時の東京府南葛飾郡の浄光院境内に勝が自費で建てたもの。1913年大正2年)に荒川放水路開鑿に伴い、当地に移建された。

2019年令和元年)9月7日、洗足軒隣接地に勝海舟記念館が開館した。

(この項、「Wikipedia」参照)

                             (現在)周囲は、すっかり高級住宅街になっている。

                                            (1880年代)「洗足池」の脇を中原街道が続く。

       「御松庵」と記されている。

勝海舟晩年の邸宅「洗足軒」解説板。

現在は、右手の「大森六中」敷地内になっている。

その手前に、

日蓮上人袈裟掛けの松 由来」案内板。

弘安5年(1282)日蓮聖人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍らの松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから、この松を袈裟掛けの松と称することとなり、また千束池を洗足池とも称せられるようになったといわれる。天保期(1830~1843)の「嘉陵紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝四面におおい長さ幹囲み三合がかり、高さ五丈あり」程であったと記されている。なお、現在ある松は3代目であると伝えられる。                                                                       

 「妙福寺」山門。

当寺院は、もともとは洗足池の池畔にあった鎌倉時代に創建された「御松庵」という庵に由来する。

「御松庵」。

洗足池の 畔に昔から松が植わっていたことは確かなようで、江戸時代の浮世絵師、初代歌川広重の『名所江戸百景』のなかでは「千束の池袈裟懸松」、江戸近郊の地誌である『江戸名所図会』には「千束池袈裟掛松」として描かれました。現在でも妙福寺には、その風景を想像させる松が植わっており、名勝としての歴史的な景観を構成しています。

静寂な雰囲気の境内。

洗足池。

境内から。

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「JR・五反田駅」~「東急多摩川線・沼部駅」。その2。日の入りが、しだいに遅く。「平塚橋交差点」。「平塚の碑」。旧道。立会川。「さいかち坂」。東急大井町線「旗の台駅」。(「中原街道」をゆく。第2日目)

2025-01-16 19:41:14 | 中原街道

冬至から一ヶ月程過ぎました。日の入りがだんだん遅くなって、5時過ぎでもまだ明るい。

西の空。

        北の空。

寒さはいよいよ本格的になりそうですが、帰途が楽になってきます。

・・・さて、「中原街道」をゆく、第2日目その2。

現中原街道に合流します。「平塚橋交差点」。

その先、右手の「バーミアン」の階段に「平塚の碑」案内板。

 

今から約九百年前の平安時代、出羽(現東北地方)で力をふるっていた清原氏の争いごとを 源義家がおさえようとした「後三年の役 」での ことです。兄の義家を助けるために京都からか けつけた新羅三郎(源義光)の活躍もあって、 戦いは無事におちつきました。「ご苦労であった。 わしも間もなくしたら京へ戻るが、おまえはひ と足先に帰って休むがよい」 義家の言葉に安心した新羅三郎は兵隊を引き 連れ、出羽から京都へと戻ろうとしていました。 「もうそろそろ日が沈むころじゃ。夜道を進んで いくのは危ないのう。よし、このあたりで野宿 することにしよう」。新羅三郎はこの平塚のあた りで兵隊たちを止め、一晩休むことにしました。 みんなが寝静まり、聞こえてくるのはスズム シとコオロギの鳴き声だけになりました。する と突然、盗賊とうぞく たちがあらわれて、眠っている新 羅三郎や兵隊たちに次々とおそいかかってきた のです。盗賊たちに立ち向かうこともできず、 多くの兵隊たちはその場で命をおとしてしまい ました。 これをあわれんだ村人たちは、亡くなった人 たちを葬り、広さ十坪(約33m2 )ほどの塚を築いたということです。 ほかにも、昔、このあたりに住んでいた「ひ らつか組」という野盗を、直江山城守が退治し て彼らの武器と一緒に埋めたのが「平塚」だと いう説もあります。

【平塚の碑】 この塚は次第に忘れ去られ、いつしかなくなってしまいましたが、太平洋戦争のあと、この あたりをほりおこしたところ、よろいやかぶと、刀剣などの残片がたくさん見つかりました。 同じころ、近くに住む人たちがたびたび不吉なことにあうので、伝説を知る人の間で「塚が失 われたことによるたたりではないか」といわれるようになり、昭和二十七年(1952)に平塚 の碑が建てられました。昭和三十三年(1958)からは、毎年五月に慰霊祭が行われています。

 

現中原街道を進みます。

「旗の台一丁目石造庚申供養塔」。

古くから旧中原街道に面して建てられていた庚申供養塔である。高さ92㎝、幅38㎝の、安山岩でできた板碑型のものである。
 寛文5年(1665)に、旧中延村の庚申講中によって造立されたもので、区内に残存する五〇基余の庚申塔の中では三番目に古いものである。
 供養塔の中央に、「南無妙法蓮華経」の髭題目が彫られ、7名の施主名が書き連ねられている。その中に、旧中延村村民に多い鏑木・石井等の姓があるところから、当村民が建てたことは明らかである。旧中延村は、村民のほとんどが日蓮宗の檀徒であったため、七字題目を彫った供養塔が造立されたものと思われる。
 本塔は、日蓮宗系の髭題目が彫られた庚申塔としては珍らしく、発表されているものとしては最古のものである。日蓮宗の影響か、三猿・日月の無いのが特色である。向かって右上部に欠損があるが、保存状態は良好である。
 全村日蓮宗といわれる旧中延村に、日蓮宗の僧が指導したと思われる庚申講があったことを示す資料として貴重である。

その先の角には、

「中原街道高札場跡」。

高札場は札場(フダバ)ともいい、江戸時代に高札が掲示された場所をいう。高札とは法度(法令 禁令)などを板札に墨書きしたもので町辻、橋詰など多くの人々の目にふれる場所に設置されここ中原街道は江戸から相模国中原へ向かう主要な道路であった。当敷地は芳根氏で徳川時代から大正時代まで俗称を《札場》と呼ばれていた。なお同所には東京都認定天然記念物の大欅(樹齢約400年)が昭和41年まであった。

「昭和大病院前交差点」から旧道は左に曲がって進む。

 遠くに「昭和大病院」。

 

                                                                 (1880年代)かぎ型の道が旧道。   (現在)旧道が残る。

 

「立会川」暗渠部分か? 公園・緑道になっています。

現中原街道方向を望む。

「昭和大学通り」。「旗の台駅」への商店街。

「さいかち坂」を上がっていきます。 

途中の風景。「香蘭女学校 中等科・高等科」。

中原街道が立会川と交さする荏原新橋付近から、大井町線ガードまでを登る坂で、大正時代までは右手に清水山、左手に亀の子島(山)の崖と崖にはさまれ、樹木と雑草のしげる、昼なお暗い坂であったといわれる。名称の由来は、坂の右手に「さいかち原」があったとも、両側にさいかちの木があったとも伝えられている。近年までの坂の登り口(旗の台駅の入口側)にさいかちの木が残っていた。

「東急大井町線」ガード。左手に「旗の台駅」。

「ふれあいロード」。

「環状7号線長原陸橋」をくぐります。

                           「南千束」。

この先しばらく進むと、右手に「洗足池」が広がります。

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「JR五反田駅」~「東急多摩川線「沼部駅」。その1。成人式。「目黒川」。TOCビル。「中原口信号」旧中原街道。「子別れ地蔵」。「旧中原街道供養塔群」。(「中原街道」をゆく。第2日目)

2025-01-15 20:15:26 | 中原街道

「中原街道」歩き第2日目。

1月13日(祝)。快晴。

孫が成人式。晴れてよかった! 風は強く冷たいが。中学時代の友人と連れ立って出かけた。背広姿も様になってきたか?

というわけで、当方、寒風の中をJR「五反田駅」から東急多摩川線「沼部駅」まで。

途中、洗足池と「勝海舟記念館」で時間をとってしまい、「丸子橋」の手前まででした。

五反田駅前の案内図。

「大崎橋」。

「目黒川」。 

東京都世田谷区三宿の東仲橋付近で北沢川烏山川が合流して目黒川となり南東へ流れ、品川区の天王洲アイル駅付近で東京湾に注ぐ。河口付近では古くは「品川」(しながわ)といい、古代から中世まで武蔵国品川湊があった。品が行き交っていたであったことから、地名「品川」の起こりとされる。

1957年(昭和32年)には、台風22号による集中豪雨で氾濫が発生したことがある

(この項「Wikipedia」参照)

右手の大きなビルは、「TOCビル」。

TOCビル

東京都品川区西五反田7丁目に位置する、商業施設コンベンションセンター等の複合施設である。TOCとは「東京卸売センター(Tokyo Oroshiuri Center)」の略称である。

星製薬工場跡地に建設された地下3階地上13階の建造物で、落成当時は日本最大の容積率であった。事務所・ショールームとして貸し出されている部分、飲食店舗や小売店舗群、展示ホール、貸し会議室等からなる。

「中原口信号」。

「国道1号線(第2京浜)」と交差。右手に「中原街道」

右手の道に進む。

高速道路下を抜け、旧中原街道に入ります。

細い上り坂の道。

 

上りきった先の右手角に「子別れ地蔵」。

享保12年(1727)に建てられた「子別れ地蔵」と呼ばれた地蔵菩薩です。ここは、かつて桐ヶ谷の火葬場に続く道筋で、子に先立たれた親がその亡骸を見送った場所といわれております。

その先、左手には、

「旧中原街道供養塔群」。

 ここの供養塔群は、かつては、現在地から北方約一〇メートル、旧中原街道と碑文谷道の交差点付近にあったが、昭和三十八年(一九六三)の区画整理の際、現在の場所に移された。
 ここには四基の供養塔があり、四基とも、安山岩でできている。
(1)中央の大きい石造地蔵菩薩供養塔は、丸彫地蔵菩薩立像で、像身ーニ五・〇、総高一九ニ・〇センチメートルに及ぶ。造立年代は明らかではないが、台石に刻まれている一七ヵ村の村名や形態からみて、江戸中期と考えられる。
(2)右手には、寒念仏供養のため延享三年(一七四六)に造られた、像身五六・〇センチメートルの石造地蔵菩薩供養塔があり、舟型光背地蔵菩薩半肉彫立像で、右手に錫杖、左手に宝珠を持っている。
(3)右手奥の石造馬頭観世音供養塔は、舟型光背馬頭観世音半肉彫立像で、像高が九六・〇センチメートル。元文元年(一七三六)の造立で、右手は上方が輪宝、下方が矢、左手は上方が棒状のもの、下方は欠損していて不明、中央の手は合掌している。江戸中期に、戸越本村の馬を農耕や運送に利用していた村民が、馬持講を組織していたことを示している。
(4)前記三基が供養塔であるのに対し、左手前にある舟型光背聖観世音菩薩半肉彫立像は、石造墓碑であり、正面に「妙法珠妙躰霊」の銘文がある。貞享年間(一六八四~八七)に建てられたもので、像高は八六・〇センチメートルある。上方に妙法とあるので、日蓮宗の檀徒であることが分かる。この墓碑がいつ供養塔群の中に入ったのか明らかではないが、他の場所から移されたものと推定される。
 これらが造立された江戸中期以降の、庶民の信仰の状況を示すものとして貴重である。

 「旧中原街道」の標示。

右手奥に「星薬科大学」。

 「旧中原街道供養塔群(二)」。

旧中原街道は江戸虎ノ門より相模国平塚に至る道路で、かつては東海道に並行した脇街道として旅行者や物資の輸送にりようされた。本供養塔群は旧戸越村地内の旧中原街道に沿った所に六基存在する。・・・これらの供養塔群は、旧街道時代の状態がよく遺され、江戸期の街道の面影を伝えるものとして、また戸越村・桐ヶ谷村の民間信仰を今に伝える民俗資料としてその価値が高い。

この付近は、道路拡張予定地。

旧道も大きく変化するのでは?

来た道を振り返る。

この付近の今昔。

                                   (現在)現中原街道の1本北西側の道が旧中原街道。

                             (1880年代)農村地帯となっている。

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「虎ノ門駅」~「五反田駅」。その5。英 一蝶(はなぶさ いっちょう).。二本榎。高輪消防署。「柘榴坂」。JR五反田駅。(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-13 13:34:18 | 中原街道

英 一蝶(はなぶさ いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日1724年2月7日))は、日本江戸時代中期(元禄期)の画家芸人俳号は「暁雲(ぎょううん)」「狂雲堂(きょううんだう)」「夕寥(せきりょう)」。

元禄11年(1698年)、今度は生類憐れみの令に対する違反(後述)により、三宅島流罪となった

乏しい画材を駆使しての創作活動であったが、江戸の風俗を活き活きと描いたり、島民の求めに応じて描いたりした多数の縁起絵などが残されている。一蝶はいつも江戸の方角へ机を向け、創作活動をしていたと伝わり、そこから「北窓翁」の雅号が生まれた。この時期の風俗画は、推定も含め『四季日待図巻』『吉原風俗図巻』『布晒舞図』『松風村雨図』の4点確認されている。画材こそ良質とはいえないが、江戸を偲び、我が身を省みて心情を託して描かれた作品群は、一蝶の代表作の一部として知られる。この時期に描かれた作品を特に島一蝶と呼ぶ。島一蝶は、一蝶を支援した御用船主の梅田藤右衛門がいた新島には16点が伝わり、御蔵島にも絵馬や『鍾馗図』が残る。一方、三宅島には『七福神図』一幅のみ、これは火山噴火や火災で失われたほか、江戸での島一蝶人気を受けて、島を訪れた富山の売薬行商人が買い漁り、持ち出されたためである。

島では、絵を売った収入で居宅を購入して「家持ち流人」となって商いも営み、島役人ともうまく付き合い、流人としてはゆとりのある暮らしをしていた。世話をしてくれていた名主の娘との間に、子を成している。また、配流中の元禄15年(1702年)に、随筆『朝清水記(あさしみずき)』を記す。

宝永6年(1709年)、将軍徳川綱吉の死去による将軍代替わりの大赦によって許され、12年ぶりに江戸へ帰る。このころから英一蝶と名乗り、深川宜雲寺に住まい、市井の風俗を描く人気絵師として数々の大作を手がけた。また、吉原での芸人活動も続けていたらしく、豪商の奈良屋茂左衛門紀伊國屋文左衛門らとの交遊の話が伝わる。

江戸に帰った一蝶が、島流し以前に自身が描いた四季絵を見せられて、喜び懐かしんで書いた一文が『浮世絵類考』に収録されている。「此道(岩佐又兵衛菱川師宣などによる画)予が学ぶ所にあらずといへども 若かりし時あだしあだ浪のよるべにまよひ 時雨朝がへりのまばゆきもいとはざるころほひ 岩佐菱川が上にたゝん事を思ひては」。自らもそういう浮世絵のような風俗画を描いたと述懐しており、この文からは岩佐・菱川両者の作品群に対する一蝶の意識を感じられる。

享保9年(1724年)、死去。享年73。戒名は英受院一蝶日意居士。東京都港区高輪二丁目の承教寺顕乗院に墓所があり、大正13年(1924年)2月には東京府知事によって史跡に指定された。辞世は「まぎらはず浮世の業の色どりも有とて月の薄墨の空」。

「没後300年記念 英一蝶 ―風流才子、浮き世を写す―」がサントリー美術館で開催。英一蝶の過去最大規模の回顧展

江戸時代の絵師・英一蝶(はなぶさいっちょう・1652~1724)の大規模回顧展が東京・六本木のサントリー美術館で開催。会期は9月18日~11月10日。 

この付近は、「高輪台」という高台にあたります。

※高輪の地名は、高い所にある、まっすぐな道という意味の高縄手道が略されたものとも、岬を意味する高鼻というのがなまったものといわれる。

右奥に「二本榎」。     

 二本榎の由来

 その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高輪手(たかなわて)」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
 誰いうことなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
 それがそのまま「二本榎」(にほんえのき)という地名になって続き、榎が枯れた後でもt地名だけは残りました。
 戦後、地番変更で高輪4丁目などと地名は変わりましたが、「榎」は幾度となく植樹・移植が行われ、町の人々の大切な象徴となっています。

 平成17年(2005年)12月

 通りを挟んだ向かい側にあるのが、「高輪消防署」。

庁舎は昭和8年(1933年)に完成し、現在、「東京都選定歴史的建造物」に指定されています。現役の消防署として活躍中。
 正面の円筒形の3階部分の上に、灯台のような火の見櫓が立っています。正面入口には「署防消輪高」と右側から書かれていました。

 どこかで見たことがあるような建築物。「(関東大)震災復興小学校・公園探索」で訪ねた、旧「台東区立小島小学校」や旧「中央区立京華小学校」などの構造とよく似ています。昭和の初期、ほぼ同じ頃に建てられた建て物であることが分かります。

注: 旧「小島小学校」校舎。半円柱状(丸い搭状)の外観。

屋上は完全な円形で、物見塔(火の見櫓?)のよう。

旧「京華小学校」校舎。曲線に特徴

  

 

その先に、

「味の素グループ高輪研修センター」の表門?
 ここには、があるようです。

 「柘榴坂」。


    
                            「柘榴坂」。 (ざくろざか)

 坂名の起源は伝わっていない。ざくろの木があったためか、江戸時代はカギ形に曲り、明治に直進して新坂と呼んだ。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

↓の部分がカギ形になっている。この後、改修したと思われる。「東海道」(現在の「第一京浜」)のすぐ東には東京湾が広がっていた。海岸線を通る直線は、新橋からの鉄道線路。

実は、この手前で右折し、「国道1号線」に進むべきでしたが、そのまま進んでしまいました。

「物流博物館」。ここで気づきバックしましたが、

左折して長い下り坂を「五反野駅」方向に歩きます。

                              (現在)歩いた道は旧鎌倉街道のようです。

東五反田付近をウロウロ。

                              (1880年代)高輪台付近に集落があります。

集落沿いの道が「中原街道」か?

駅前の大通り。

「JR五反田駅」。

今回は、ここまで。

 

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虎ノ門駅」~「五反田駅」。その4。風邪も抜けきらず。中原街道歩きも滞りがち。高輪皇族邸。「二本榎の碑」。(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-12 18:32:12 | 中原街道

風邪がなかなか直りきらず、咳が・・・。ということで外出もままならず、少し気分が落ち込んでいる昨今。

怪我の方は順調に回復。次回の通院で地域病院での診察は終了。レントゲン写真を見ながら、「順調な回復です。無理に手術しなくてよかったようですね。」

リハビリ病院の通院は、まだ続けなければなりませんが。右手を使っての食事や洗髪など苦労しなくなりました。

右腕は上下運動は何とか、回復。水平に動かすのはまだまだきつい! 「まだ万歳三唱は難しい、と思うが」とはリハビリ病院の院長の見立て。

ということで、「中原街道」歩きの初日の報告も滞りがちになってしまいます。

・・・

「二本榎通り」を進みます。右にこんもりと木に囲まれたお屋敷が。

高輪皇族邸(たかなわこうぞくてい)。

高輪皇族邸(たかなわこうぞくてい)は、東京都港区高輪にある皇室関連施設。高輪御殿は熊本藩細川家の下屋敷跡地の一部で、1891年(明治24年)、明治天皇第六皇女・常宮昌子内親王と第七皇女・周宮房子内親王の住まいに定められ、1913年(大正2年)から1924年(大正13)までは皇太子裕仁親王の東宮御所だった。戦前は「高輪御殿」と通称された。1931年昭和6年)から2004年平成16年)までは高松宮宣仁親王宣仁親王妃喜久子の住まいだった。2020年令和2年)3月31日から2022年(令和4年)4月12日までは上皇上皇后の仮住まいとして使用され、『仙洞仮御所(せんとうかりごしょ)』という名称だった。

上皇上皇后が赤坂の仙洞御所に遷御した後の高輪皇族邸は、これまでの赤坂東邸に代わる皇族共用の殿邸として、御仮寓や親睦会、葬儀などの会場として使用される方針としている

(この項「Wikipedia」参照)

この通りは、丘陵地帯(高輪台)の南東端に当たり、通りの左側はかなり急傾斜となっています。

「保安寺」への階段。急な下り坂になっています。

  左手には「高輪中学校・高等学校」、「東海大学 品川キャンパス」などが続く。

右手は住宅地。

「二本榎の碑」と解説板。

二本榎の碑について
 その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿 の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
 誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
 それがそのまま「二本榎」(にほえのき)という地名となって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
 戦後、地番変更で高輪 何丁目などと地名が変りましたが、昭和四十二年に町内の黄梅院 の境内に夫婦の榎を植樹し、石碑を立ててこの「二本榎」の町名をいつまでも忘れないようにしました。
 平成二年、「碑」をこの場所に移しましたが、二本の榎は黄梅院に大切に育てられています。
この「碑」はこの町の住民にとって大切な象徴となっております
高輪二本榎町会

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「虎ノ門駅」~「五反田駅」。番外編。坂歩き。「魚籃坂」。「伊皿子坂」。「聖坂」。「幽霊坂」。「潮見坂」。「蛇坂」。「安全寺坂」(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-10 18:55:12 | 中原街道

坂道歩きの記録。再掲。

旧高松宮邸(高輪皇族邸)の手前、左手の都営高輪一丁目アパートの入口付近にかなり摩滅した「大石良雄等自刃ノ跡」の碑。自刃の地(「熊本藩・細川家下屋敷」)は、この一番奥にあるらしい。特に説明文もなく建てられています。



 元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細川家の下屋敷において赤穂浪士の大石良雄(大石内蔵助)ほか16人が切腹しました。三田の伊予松山藩屋敷跡(現:イタリア大使館)には大石主税ら十士切腹の地があります。大石父子の切腹は、ほぼ同時刻であったといわれています。浪士たちは、江戸高輪の泉岳寺に葬られています。

 突き当たりの十字路、右手が「伊皿子坂」。左手が「魚籃坂」。

      (いさらござか)

 明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも、いいさらふ(意味不明)の変化ともいう。

「魚籃坂」 (ぎょらんざか)。
 
 坂の中腹に魚籃観音を安置した寺(注:魚籃寺)があるため名づけられた。
 注:「魚籃」は、びく(魚を入れる籠)のこと。

 こちらの坂が「旧伊皿子坂」。

 「魚籃坂」を少し進み、右手にある「ピーコックストア」の先を右に曲がり、広い道(「聖坂」)に出て、しばらく進むと、左手の下り坂が「幽霊坂」。

      (ゆうれいざか)

 坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが、有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く7か所ほどもある。

 お寺の塀越しに「東京タワー」。

 しばらく行くと、右手に「亀塚公園」。
                           公園の土塀づくりもこの地域の雰囲気にマッチしています。
 
「三田の坂めぐり案内図」。

     
               「聖坂」。「区立三田中学校」の前。(ひじりざか)

 古代中世の通行路で商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所であったためという。竹芝の坂と呼んだという説もある。

 「普連土学園」の脇を左に折れると、「潮見坂」。 (しおみざか)

            
 坂上から芝浦の海辺一帯を見渡し、潮の干満を知ることができたためこの名がつけられた。

今は海は見えないが、かつては。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。○付近にあった坂が「潮見坂」。Y字型のところが「札の辻」。「潮見坂」は、「高輪台」の北東のはずれに当たり、きっと品川湾(東京湾)も手近に見えたに違いない。

 普連土学園の脇をカギ型に曲がると、「蛇坂」。西に向かう下り坂です。

     振り返って望む。

 (へびざか)

 付近の藪から蛇が出ることがあったためと想像されている。

 来た道を戻って、北に向かい、細い道を進みます。左手の崖下は、寺町。

    
                                    斜面には菜の花が。
 
 右に折れて、すぐ左に折れると、「安全寺坂」の標識。

一気に下って行きます。 (あんぜんじざか)

 坂の西に江戸時代はじめ安全寺があった。誤って安珍坂、安楽寺坂、安泉寺坂などとも書かれたことがあった。

    
 坂を下りきると、正面は慶應大学。

振り返って望む。

 以上、「品川」から「三田」までの坂巡りでした。

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虎ノ門駅」~「五反田駅」。その3。「聖坂」。「ちぃまっぷ」。「蟻鱒鳶ル(ありますとんびる)」。「伊皿子坂」。「魚籃坂」。「歯科医学教育発祥之地」碑。(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-09 20:20:38 | 中原街道

けっこう長い上り道が続きます。国道から1本、西側の道になります。  

「ちぃまっぷ」。

聖坂。

古代・中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。

振り返り、坂下を望む。

 「亀塚公園」。 

亀塚の名称の由来は複数伝えられている。

  • 円墳状の盛り土が存在することによるもの。但し、昭和46年に実施した港区教育委員会と慶應義塾大学文学部との合同調査では副葬品も含めて何も見つかっておらず、古墳であったとは判断できない。
  • 竹芝伝説の竹柴の衛士の宅地にあった酒壷の下に住んだ霊亀を土地の人が神にまつったものであるとされるもの。

縄文時代の住居跡が発掘されている。

円墳上部には登ることができ、かつてはそこから360度の方角で東京全体を展望できたが(昭和30年代までは房総半島を視認することが出来たとのこと)、現在は御田八幡神社側に樹木が生い茂り遠望は望めない。華頂宮邸時代の外壁はそのまま存在し、公園を取り囲んでおり独特の雰囲気を醸し出している。

(この項、「Wikipedia」より)

※坂の途中、左に「蟻鱒鳶ル(ありますとんびる)」という奇抜なビルがありますが、見逃し。

港区旧町名由来板。  

「伊皿子」交差点。左の坂が「伊皿子坂」正面が「二本榎通り、右が「魚籃坂」。

「歯科医学教育発祥之地」碑。

伊皿子交差点付近(三田四丁目18番地)に高山歯科医学院東京歯科大学の前身)が存在した。同所には「歯科医学教育発祥之地」が東京歯科大学によって設置されている。

「伊良子坂」。

泉岳寺から上り坂に入り、頂上で魚籃坂に繋がる。江戸時代には、この坂から江戸湾が一望に見渡せた。付近には高輪皇族邸(旧高松宮邸)がある。

およそ1600年頃に、来日した人が当地に帰化し、当時の外国人の呼称「エビス」「イベス」から自らを「伊皿子」(いびす)と名乗ったという。この帰化人の名が「伊皿子」という町名の由来とされる。明国人「伊皿子」の墓所は高輪浄土真宗本願寺派正源寺にある。

この坂を左に下り、国道1号線に出ます。

  

日本橋方向。再び坂を上がります。

途中、左に「泉岳寺」。赤穂浪士と主君のお墓があります。

「周辺開発状況」。変貌著しい。 

 西に下る魚籃坂。

魚籃坂(ぎょらんざか)

港区三田四丁目と高輪一丁目の境に存在するである。なお、魚籃坂の「籃」は「くさかんむり」ではなく「たけかんむり」である。また「魚籃(ぎょらん)」とは魚を入れる籠すなわち「魚籠(びく)」のことである。「魚らん坂」とも表記される。

魚籃坂下交差点から登り、頂上から伊皿子坂に至る(すなわち麻布側からの登りが魚籃坂、頂上から海側に降りる坂が伊皿子坂である)。

名称の由来

坂の中腹に魚籃寺が存在することから付けられた。

※この付近の坂は、以前歩いたことがあります。

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虎ノ門駅」~「五反田駅」。その2。赤羽橋・渋谷川・古川。慶應大学東門。「聖坂」。(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-06 19:09:40 | 中原街道

今日の東京地方、久々の雨模様。

「びっくり屋」。地元の買い物客が。

「赤羽橋」にさしかかります。

  

下の流れは、渋谷川・古川          「旧赤羽橋」親柱。

渋谷川→古川。

この付近の今昔。

                             1880年代。上に「古川」。

                             現在。古川は首都高の橋脚下。

慶応大学並びの菓子屋。

慶応大東門。

                 

その先で、国道から離れ、「聖坂」を上がっていきます。                             

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1月5日。「小寒」。寒波が日本列島を覆うようですが。♪おおさむこさむ 山から小僧が泣いてきた。春の七草・七草粥。寒仕込み。

2025-01-05 19:50:15 | 世間世界

朝晩はぐっと冷え込み、少しずつ寒さも極まってきているように思います。

寒は別名「寒中・寒の内」ともいい、武道や芸事の「寒稽古」や「寒中水泳」なども寒に行われます。

今日は、二十四節気の「小寒」。

「小寒」の一つ前の節気は「冬至」(12月22日)、一つ後の節気は「大寒」(1月20日)。

この日から「節分」(2月4日頃の「立春の前日)までの約30日間を「寒(かん)」または「寒中」「寒の内」という。この日は「寒の入り(かんのいり)」ともいい、寒さの始まりを意味する。ただし、実際にはすでに寒さの厳しい時期である。

江戸時代の暦の解説書『暦便覧』では「冬至より一陽起こる故に陰気に逆らふ故、益々冷える也」と説明している。この日から「寒中見舞い」を出し始める。

おおさむこさむ
山から小僧が泣いてきた

※この「泣いてきた」の歌詞については、「やってきた」、「飛んできた」など、微妙に異なる歌われ方が存在するようです。

また、お天気用語では、「大寒」、「小寒」は、「だいかん」「しょうかん」と読みます。

関東地方。「小寒」とは裏腹の、暖かく晴れた日が続きます。明日は雨のようですが。

初候 1月5日〜1月9日頃

芹乃栄 せりすなわちさかう

芹が生え始める頃。芹は春の七草のひとつで、冷たい水辺で育ちます。一箇所から競り合って生えていることから、芹(セリ)という名前になりました。

次候 1月10日〜1月14日頃

水泉動 しみずあたたかをふくむ

地中で凍った泉の水が溶け、動き始める頃。まだまだ空気は冷たく、寒い時期ですが、春に向けて少しずつ動き出しています。

末候 1月15日〜1月19日頃

雉始雊 きじはじめてなく

雉が鳴き始める頃。雄が雌への求愛のしるしとして「ケーンケーン」と甲高い声で鳴きます。足の裏で震動を敏感に察知することができ、数秒早く地震を知らせることができます。

のもの

蝋梅ろうばい

寒さに強く、花の少ない冬に咲く貴重な花です。甘い香りが特徴的で、ろう細工のような花びらと、梅に似ていることから蝋梅という名前になりました。

柊ひいらぎ

葉の鋭いトゲによって、邪気を払う木とされています。しかし、鋭いトゲは老樹になると、トゲをなくし丸い葉になってしまいます。

河豚ふぐ

この時期の河豚は、産卵前で脂がのっています。刺身で食べる場合は「てっさ」と呼ばれ、普通の魚よりも弾力があり噛み切れないため、薄く切り、ポン酢につけて食べるのが一般的です。

野菜

七草粥ななくさがゆ

1月7日は人日の節句で七草粥の日でもあります。お正月のご馳走を食べたあと、この七草のお粥は体に沁みます。ぜひ、七日の朝には七草を刻み、お粥をつくって食しましょう。

             (「向島百花園」にて)

 『せり・なずな ごぎょう・はこべら・ほとけのざ すずな・すずしろ はるのななくさ』

1月11日(木)は、「鏡開き」。

次の写真は、3年前の1月6日。けっこうな雪模様に。

午後4時過ぎの「スカイツリー」のようすをまとめて。

   

    

        

本格的な寒さが今年は? さらに雪は・・・。

東京地方。今日、明日は、雨。しかし、寒中らしい寒さが続かず、火曜以降は、日本海側の雪に対して、乾いた晴れ間が続きそうです。 

大学入試、高校入試も始まる時期。受験生にとっても「試練の冬」がやってくる頃になり、・・・とは言うのも以前の話。

今は、前年の10月頃から、指定校推薦、公募などと大学入試の形態も様変わり。

もうすでに行き先が決まっている学生も多いようです。

「試練の冬」は、中学受験を控える小学6年生にこそ当てはまる? 

ところで、

※日本の最低気温:1902年(明治35年)1月25日、北海道上川地方旭川市で観測した「-41.0℃」。

※世界の最低気温:2010年(平成22年)8月10日、南極大陸の東部のドームA付近で観測した「-93.2℃」。

※日本の最高気温:2018年7月23日(埼玉県熊谷市)と2020年8月17日(静岡県浜松市)で観測した「41.1℃」。

温暖化の影響も大いにある昨今です。

当方としては「寒仕込み」ということに興味が。そこで、

冬場に造る酒はうまい

日本酒で「寒仕込み」という言葉をよく聞く。「寒造り」とも呼び、冬場の寒い時期に仕込むのが、日本酒伝統の製法である。

なぜ、冬場に仕込むのか? 

まずは、原料である米が秋に収穫されることと関係している。米がとれてからでないと、酒造りはできないからだ。

そして、寒い時期だと雑菌が繁殖しにくいこと挙げられる。日本酒の仕込みは、温度管理がとても重要なのだ。低温だと、余計な雑菌の繁殖を抑え、お酒をつくる微生物が、よい働きをしてくれるのである。冬場の低い気温の中で、もろみをゆっくりと時間をかけて発酵させると、きめ細やかで良質な酒に仕上ると言われ、昔は「寒酒」と呼ばれた。

日本酒はそもそも、四季醸造といって、1年中造られるものだった。ただ、暑い時期だと急速に発酵してしまい、発酵途中のもろみが腐ってしまう難点も。

寒仕込みは、江戸時代に最も酒造技術が進んでいたといわれる伊丹(兵庫)で確立されたという。江戸幕府も、寒造り以外の醸造を禁止し、寒仕込みが清酒造りの主流となっていったという。

閑散期の冬場の収入源として、農家が出稼ぎで杜氏になり、日本各地に“杜氏集団”ができるようになっていったのも、寒仕込みと関係している。福岡では「芥屋(けや)杜氏」などが有名で、いまだに冬場限定で酒造りに携わる蔵人がいる。

現代では、空調設備が整った酒蔵では、1年中酒造りをする「四季醸造」が一般化している。冬場が「旬」だった酒が、今や四季を通して、楽しめるようになったのである。

(この項、「」HPより)

   (いずみ市大原にて)。 

今夜は「寒仕込み」の旨いお酒を飲むことにしましょうか。

次は「大寒」(1月20日)。

※二十四節気は、「立春」から始まり「大寒」で終わります。      

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「虎ノ門駅」~「五反田駅」。その2。踏んだり蹴ったり。泣きっ面に蜂。「TORAMONHILES」「AZABUDAIHILLS」。芝地区旧町名由来板。東京タワー。野田岩。(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-04 18:55:10 | 中原街道

踏んだり蹴ったり。泣きっ面に蜂。

今度は、暮れの30日からインフルに。3日まで外出禁止。家でもジッと。

地下鉄の新駅をつくるための大工事中。

 「TORANOMONHILLS」。

芝地区旧町名由来板

西久保巴町 愛宕山の西北麓に位置する町域です。慶長13年(1608)に天徳寺門前、および元禄年間(1688~1699)に下谷町と車坂町の代地となり、西久保新下谷町、西久保車坂町と唱えました。明治5年(1872)、浜田藩松平右近将監屋敷、西久保新下谷町、西久保車坂町、天徳寺地、同門前町および幕士の屋敷を合併して、新たに西久保巴町となりました。町名は、町内が南は神谷町境に延び、東は北西に屈曲し巴の形に似ていることに由来します。

葺手町 西久保巴町と西久保城山町とに挟まれ、西方は赤坂区および麻布区に接しています。むかしは幸橋門外の二葉町の続きにありましたが、元禄4年(1691)用地に召し上げられ、西久保の土取り場に代地を与えられました。土取場とは土木用の土砂を取り崩した場いい、葺手町と城山町の間の道を入った崖下にありました。町名の由来は明らかではありませんが、町の状況から屋根職人の人が多く居住した町と推測されます。 

西久保城山町 西久保通りから葺手町と神谷町との境の道路に入ると、左手に西久保城山町があります。もとは、葺手町の土岐邸から町内にかけてを俗に城山と呼び、むかし、熊谷次郎直実、あるいは太田道灌が城塞を築いたという伝承があります。明治5年(1872)に池田甲斐守、小堀大膳、大久保隼人等諸幕士の屋敷を合併して、新たに西久保城山町としました。

その後の変容は驚くべきものがあります。

「キッチンDADA」。ビル街にあります。クラッシックなたたづまい

 「西島眼鏡店」。大正時代から営業している、とか。お店を開けていたご主人と立ち話。   

八百屋さんがあります。「芝八百宗商店」

  高層ビルが乱立する中で、街道筋には昔からのお店などがあります。

z年末年始で人通りも少ない。外国人の姿が目につきます。

坂の階段の脇にはエスカレーターが。

「AZABUDAIHILLS」。

  車の量も格段に少ない。

       「東京タワー」が目に入ってきます。 

ユニークな建物「ノアビル」。

 「野田岩」。

一度、立ち寄ったことがあります。歴史を感じさせる雰囲気のある店構え。美味でした。

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自転車で転倒!大けがをして41日。そして、「中原街道」歩きを始めます。

2024-12-29 19:38:34 | 中原街道

右肩が思うように上がらない、使えない年末になるとは思いもよりませんでした。

が、12月28日(土)。快晴。久々に街道歩きを再開。

初日は、足馴らしで虎ノ門駅か五反田駅まで。

今回からは、「中原街道」。

江戸虎ノ門を起点として三田・馬込を通り、丸子で多摩川を渡り、佐江戸・瀬谷・用田を経て、さらに相模川を越え、平塚の中原で東海道につながるこの道は、「相州街道」「お酢街道」「江戸間道」などと呼ばれていた。ずっと後、小杉あたりでは下肥を積んだ荷車が頻繁に往来したので「こやし街道」などともよばれていました。

 徳川家康が江戸に入った1590(天正18年)には、まだ東海道は整備されておらず、家康は平塚からほぼ直線で江戸に向かうこの道を通ったのです。二代将軍秀忠が中原御殿と同じように小杉に御殿を建てたのは1608年(慶長13年)。家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍が鷹狩りなどの際、この御殿で休息し、さらに街道を通る西国の大名なども利用していたようです。

 やがて東海道が整備されると、大名行列などの多くがそちらを通るようになり、中原街道は脇往還となり、以前の賑わいを失いました。しかし、その後も沿線の物資や農産物の輸送などに欠かせない重要な道として、人々の生活に深い関わりを持ち続けてきました。

(この項「」HPより)

起点の「虎ノ門」へ。

「虎ノ門」交差点。左の建物は、「文科省」。

この付近の今昔

                                                                                                                                        

(現在)びっしり沿道には高層ビル。東南に愛宕山。       (1880年代)虎ノ門は、外濠(城内外の境目)に当たる。

歩き始めましたが、ビルの谷間を歩くことに。こういう高層ビル街を歩くことはないので、首が痛くなります。右腕も・・・                              

「金比羅宮」。丸亀藩主が四国讃岐の金比羅様を藩邸内に勧請した。 

  南方向を望む。高層ビル街。

西方向(溜池)を望む。周辺は、新しい地下鉄駅県設のため、工事中。

愛宕山方向。

ビルの窓ガラスが乱反射したような写真に。

「かしんとゆだんが事故を生む そのいっしゅんが大事だよ・・・」

我が大けがを暗示するかのような標語に一礼。

ということで、「五反田駅」まで歩くことに。この続きは、年明けに。

皆さん、良いお年を。(「北十間川・福神橋」より)

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自転車で転倒!大けがをして38日。そして、「年賀状終い」。巳年。プリントゴッコ。

2024-12-26 18:45:46 | 大けがリハビリ記

今年の元旦。年賀状。

「さて、私も馬齢を重ねて80歳となり、そろそろ「終活」を意識する年齢に差しかかりました。 人生の節目ということで、年賀状によるご挨拶は本年を限りに最後とさせて頂きたく存じます。 ・・・」

というハガキだけでなく、

そして、今年、高校時代の親友が亡くなって、奥さんから喪中はがきを受け取る時節になりました。

という小生も、去年で年賀状終い。

いっときは、100枚以上を出していた時期も。「旧年中はお世話になりました」「今年もよろしく」「お元気ですか。お会いしたいものです」という文面がかえって懐かしくなります。

そういえば、来年の干支は何のか? 年賀状に押すイラストで気づくこともなくなるか。

※2025年の干支は、「巳(ミ)」。 ヘビは脱皮しながら成長するため、「生命」や「再生」の象徴とされています。 現在でも全国各地でヘビを崇める風習が残っており、ヘビは金運にも恵まれるという言い伝えがあります。

※おのれつかず「己」、すでに半ば「已」、みいっぱい「巳」。

「伊豆島の大蛇全3ヶ所の東側」(蓮田市黒浜)。「元荒川」歩きのとき。

※この付近が、蓮田市とさいたま市岩槻区の境界線になります。

集落内の1軒に1人が夕方(3時頃)集まり、御神酒で清め「家内安全・五穀豊穣」も祈りながら作られ、「上顎」・「下顎」・「胴体」を別々に作ります。胴体は細く作りますが、これは何でも悪いことは食べてしまうようにとの願いが込められています。
胴体の巻き方は、注連縄と同じ「左巻き」に撚って作られています。藁で全長約2メートルに作り上げられた大蛇は、「破竹(はちく)」と呼ばれる竹に刺し、現在は3ヶ所に立てられています(東岩槻方面への新たな道路の完成によるため)。以前は、大蛇と共に榛名神社のお札(家内安全・五穀豊穣)を辻札として立てていたようです。これは春祈祷行事も兼ねていたものと思われます。

かつて、向いの笹山地区でも実施されていましたが、現在は行われていません。

「伊豆島の大蛇全3ヶ所の北側」。

(この項、「蓮田市」HPより)

へびうり。

        面白い奇妙な姿かたち・色あい。(「向島百花園」にて) 

 

ここで、年賀状のつぶやき編。但し、前年の年賀状のたわごと。

懐かしいね、先輩達も。手書きから干支のはんこでセッセと書いては、出していたんだから。

そういえば、何ていったけ? 昔、一枚一枚、俺たちの先輩たちを挟んでシュッパって光線を浴びさせて、やっていたよね。

たしか「プリントゴッコ」とかいったんじゃなかったっけ。

理想科学工業がかつて販売していた家庭用簡易孔版印刷機である。1977年(昭和52年)から2008年(平成20年)まで販売された。

透明フィルムカバーを跳ね上げ、専用インクを乗せた上で製版時と同様にプリンターの枠側内部に取り付け、印刷台に印刷用紙を乗せて圧着することでインクがマスターの樹脂溶解部分から紙に転写される、って「Wikipedia」では解説されているけど。

一瞬目がくらんだよね、いきなり先輩達の身体が焼き付けられるんだから。

懐かしいよね、その後はPCでやるようになって、いつしか無くなった。

今度は背中から押し込められて、すぐに完成品さ。住所も手書きでなくなるし。

でも、ここの爺さんは、住所だけは手書きで書いているよね、変なポリシー、こだわりがあるよね。

さてと、こうして元旦から一年間、この家にやっかいになっていたけど、そろそろお役御免かな。

そうそう、俺たちを参考にしながら、年賀状を書く風習だからね。

シュレッダーにかけられて粉々に。

・・・

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自転車で転倒!大けがをして36日。ようやく「お食い初め」。そして、「久留里線」。

2024-12-25 18:24:00 | 大けがリハビリ記

リハビリも順調? 右手でお箸を持って食事ができるようになりました。「お食い初め」。

お食い初めとは、生後100日を記念して行われるお祝い。お食い初めは古くは平安時代から行われている歴史のある伝統行事で、一生食べることに困らないように、と赤ちゃんの健やかな成長を願います。

お食い初めでは初めて箸を使ってお魚を食べます。実際に赤ちゃんが使って食べるわけではありませんが、初めて箸を使ってお魚を食べさせる真似をすることから「箸揃え」「箸祝い」「真魚始め」(まなはじめ)と呼ばれる場合もあります。

赤ちゃんが数か月間無事に成長してきたことを家族でお祝いし、感謝するという意味合いは変わりません。一生に一度きりのお祝い。

『吾妻鏡』には、源実朝が生後百十日目にお食い初めをしたという記述も残っています。初めて箸を使うので「箸揃え」「箸初め」「箸立て」とも呼ばれていました。そして、室町時代に書かれた『河海抄〔かかいしょう〕』に「冷泉天皇の生後百日後に御餅を供す」と記されており、この風習が「食い初め」と呼ばれるようになったそうです。

お祝い膳は、日本古来の献立「一汁三菜」が基本とされてきました。鯛など尾頭(おかしら)つきの魚と、赤飯、吸い物、煮物、香の物が献立となります。また、生後100日前後は、早い子ですと乳歯が生え始めることから、「歯固めの石」を用意し、丈夫な歯が生えるようにという願いを込めます。

喜寿を過ぎての二度目のお食い初めも乙なものです。

しかし、筋肉は確実に弱くなっていました。どこまで肩が上がるようになるのか。リハビリに励むしかないようです。

そして、JR久留里線。

久留里駅 - 上総亀山駅について2024年(令和6年)10月21日に行われた第5回検討会議で最終的な結論として「自動車中心の交通体系への移行することで利便性が高まる」との報告書が出され、同年11月27日、JR東日本は同区間の鉄道を廃止して「バス等を中心とした新たな交通体系へのモードチェンジを図ることが必要」とする方針を表明した。廃止時期や代替となるバスのルート・運行主体などは君津市と協議を進めるとしている。

木更津駅から上総亀山駅までの路線。その途中駅・「久留里駅」から終点の「上総亀山駅」までが廃線に。以前から出ていた話がいよいよ本格的になってきたようです。そこで、再掲。

久留里駅に停車中の列車。

「上総亀山」方向。

8月19日(土)に行われた「亀山音楽祭」のポスター。

車内風景。お客さんはぐっと少なく。

女子高生が一人。

久留里から3つ目が終点の「上総亀山」。乗客が少なくなる区間となる。

しかし、夏休みのせいか、キャンプに向かう子ども達や若者が乗っています。

                   

          

小櫃川?

           

       

耕作を放棄した(せざるを得ない)土地?

田畑に混じって、・・・

「平山」。

渓谷美。

列車の窓に当たる。

民家が遠くにポツンと。

「上総松丘」。

間もなく終点「上総亀山駅」。

      

「上総亀山」。

駅前広場のようす。

キャンプにいく子ども達と指導者。迎えの車に乗り込みます。他のお客さんも迎えの車に。当方は、このまま、折り返しとなる列車に乗り、木更津へ戻ることに。

行き止まりの線路。

           JR外房線「大原」までつなぐ計画が頓挫。

       

※上総亀山駅周辺には観光資源がないのでしょうか? けっしてそんなことはないようですが。

            

房総半島のほぼ中央部に位置する君津市の旧亀山中学校と隣接する坂畑小学校の2校を利用したキャンプ場です。
広々とした校庭、また校舎や体育館もご利用いただけます。ノスタルジーあふれる教室は全てがフォトスポット!動画の撮影等でもご利用ください。

(「CAMPiece君津」HPより)

       

亀山湖は1980年(昭和55年)に完成した亀山ダムによりできた人造湖です。房総半島の奥座敷として、緑豊かな大自然に囲まれ、千葉県下一の湖を有する観光地です。

四季折々の良さを感じながらのレジャーがおすすめです。都心からわずかに70分ちょっととは思えない大自然に訪れる多くの観光客が魅了されます。特に関東で一番遅いといわれる絶景紅葉にはシーズン中10万人近くの方が、色とりどりの紅葉を楽しみにいらっしゃいます。是非房総かめやまへ遊びにいらっしゃってください。

注:二箇所とも車を利用するように紹介されているのが、残念!

車の免許を返上したため、車で来ることも出来ず、諦めるしかない。残念!

こうしてタッチ・アンド・ゴーということで、折り返しの列車に乗って戻ることになります。

廃線後、交通弱者の移動手段など多くの課題があるようです。渓谷のすばらしさをどう残すか、など大いに議論して欲しいものですが。

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久々の「向島百花園」。すっかり冬模様。

2024-12-23 20:44:41 | 向島百花園

大けが後、久々の「百花園」。すっかり冬模様。

  門前の楓。

すっかり冬模様。 

                          ススキも刈り取られ、冬支度の松。

 菊も残りの秋を惜しむかのように。

  山茶花。

南天。

                       楓。 

早咲きの桜も。

 

「冬至」の日の百花園でした。何とかスマホで写真も撮れました。

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