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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その4。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-19 18:50:51 | 奥州街道
 (12:58) 「鍋掛十文字」交差点を渡ると、「鍋掛宿」の中心になります。その前に、角のコンビニで小休止。

「鍋掛交差点」を渡った所に清川地蔵尊があります。

       「清川地蔵」は子育て地蔵として地元民の信仰が厚く、毎年4月24日の祭礼には集落の女性全員が集まり、念仏を唱える行事が行われているそうです。

宿場らしい雰囲気はほとんどなく、ひっそりとした街並み。  

 左手が小さな広場になっていて、解説板や芭蕉の句碑があります。奥は、八坂神社の祠。
    
 写真右の解説版には、「白澤宿」で見た「奥州街道白澤宿の会」と「奥州街道膝栗毛の会」による奥州街道の旅程表が掲載されています。

 奥州街道 鍋掛宿より各宿の里程
 江戸   江 四拾壱里八町参拾四間
 宇都宮宿 江 拾壱里五町拾四間
 ・・・
 鍋掛宿与利

 越堀宿  江    八町四拾八間
 芦野宿  江 弐里弐拾町参拾間半
 白坂宿  江 五里弐拾五町五間半
 白河宿  江 七里弐拾弐間五間半

 奥州道中・白河宿より宇都宮宿迄、弐拾壱里(八拾六キロ)余りを膝栗毛によって踏破した記念に、この高札を掲げる。
    平成参年(一九九一)拾壱月参日

 句碑の説明板には「鍋掛宿」の解説と奥州道分間延絵図(鍋掛宿部分)も併せて記載されています。
    

芭蕉の句碑
 芭蕉が元禄2年(1689)3月(旧暦)「奥の細道」行に旅立ち、黒羽より高久に向う道すがら4月16日、手綱をとる馬子の願いにより作り与えた句を碑にしたものである。

   野を横に 馬牽(ひ)きむけよ ほとゝぎす

 この句は、どのあたりでつくられたかは明らかではないが、余瀬より蜂巣を過ぎると野間までは広き原野が続いていたので、この間につくられたものと思われる。
 その昔行われていた那須野の狩りを想い起こし「私も武将になったつもりで、いばって命令してみようか」という心境で詠んだものである。
 句碑の建立は、文化5年(1808)10月に、当時鍋掛宿の俳人菊池某外数名によるものと思われる。
 平成5年(1993)3月、街道景観形成事業により、ここに建て替えられた。
                                                黒磯市教育委員会(注:黒磯市は現在、那須塩原市となっている)

鍋掛宿
 鍋掛宿は、江戸時代の五街道の一つ奥州街道の宿場として栄えた集落であり、最盛期には、戸数も百余戸を数え、旅籠、茶屋、その他多くの商家などで賑わったという。
 江戸時代初期の正保3年(1646年)以後は幕府直轄地天領として明治まで治められた。

 本陣1、脇本陣1、旅籠23、総戸数100余戸。鍋掛宿は、奥州街道の難所の一つと言われた那珂川の手前にあり、川留めの時など、大いに賑わったという。
 鍋掛宿は那珂川対岸の堀越と2宿で1宿の機能を果たしていました。
 鍋掛の名の由来は、那珂川の川留めにより旅人が溢れ、宿住民が総出で鍋を出し、炊き出しを行なったことから、らしい。
 那珂川は、幕府にとって天然の防御ラインで、鍋掛は天領でした。

「初市神」。

 八坂神社の隣にある正観寺の山門脇に樹齢250年とされる、大きなシダレザクラがあります。門前には蔵造りを模した「鍋掛消防小屋」があります。この建物が宿場をイメージした唯一のもののようです。

                             

かなり古そうな道標で、判読不能。

ここで「鍋掛宿」もおしまい。

(13:08)右に入る道が旧道ですが、左折してすぐ県道に戻ることに。

県道側から旧道を望む。

 そのまま県道を突っ切ると、右手に大きな馬頭観音石碑や道祖神が並んでいます。この道が旧道らしく、川べりに下りて向こう側に渡ったようですが、現在は通行不能。


 (13:13)「那珂川」に架けられた「昭明橋」を渡ります。
    

眼下は切り立ったようすで、天然の要塞という印象。
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大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その3。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-15 19:07:22 | 奥州街道
 (11:10)しばらく進み、「市野沢」交差点の先、左手に「高野槙(コウヤマキ)」の大きな木が見えてきます。かなり目立つ樹木です。近づくと古木の雰囲気が。樹齢約400年ということは、江戸時代初期から奥州街道を行き交う人々を見続けてきたというわけです。

    

与一の里おおたわら名木
 名  称  小滝のコウヤマキ(一本)
 所 在 地   小滝1103-3 主要地方道 大田原・芦野線(旧奥州街道)沿い
 目  通   3.1メートル
 樹  高  17.0メートル
 推定樹齢  400年
     平成三年三月二十六日 大田原市 

コウヤマキ 1本 天然記念物(昭和36年3月22日指定)
  樹   高  30メートル
  目通り周囲  3.15メートル
  推定樹齢   約400年
 スギ科「コウヤマキ」紀州高野山に多きをもって名づけられる。江戸五街道の一つ奥州道中三マキの一と称せらる。

 二つの解説板で、樹高がかなり異なっていますが。

         振り返って望む。

 かつては世界中に広く分布していましたが、現在は、日本と韓国済州島にだけ残存している樹木らしい。

路傍の石仏。

相変わらず単調な道のりですが、周囲には田園風景が広がり、道沿いには秋の花が咲いて、自然と足取りもはかどります。
     

 (11:23)「市野沢郵便局」の手前、右手に「弘法大師の句碑」といっても、江戸時代につくられたと言う句? その隣にある句碑がよかった!
     「気に入らぬ 風もあろうが 糸柳 大正五年入学生 七十歳記念」

(11:26)相の川に架かる「高野橋」を渡ります。

左手にポツンと「麻疹地蔵堂」。
 昔、この地域で麻疹が流行し、多くの幼児が亡くなりました。そのことを哀れんで地蔵を納めた、といいます。

「練貫(ねりぬき)」十字路(交差点)。

(11:46)その先、左手に「永代常夜燈」や「十九夜塔」などが建っています。その脇には新しい道標もあります。
    

振り返って望む。

    

 緩やかにアップダウンする道。周囲は畑? 道は小さく切り崩したところを進みます。前途の様子がよく分からないよう道。周囲は小高い丘。はたしてどうなっているでしょうか?
行き交う人もまったくいません。

(11:52)しばらく行くと、左手に「明治天皇駐輦記念碑」。

 この先もこんな感じで進みます。かつてはもっと上り下りが激しかった道のようです。
    

 白鳥の飛来する「羽田沼」への案内板。

(12:03)「那須塩原市」となります。

前方に「なべかけまつり」の幟。

鍋掛公民館 なべかけまつり 
《開催日》平成28年 11月6日(日曜日) 《会場》鍋掛公民館グランド 《時間》午前9時から午後2時まで
《内容》農産物の直売、牛乳試飲、餅つき実演販売、なべかけ鍋と手打ちうどんの販売、地元商工会出店、お楽しみ抽選会、バルーンマジック、おさるのしんちゃん、ステージ発表(児童のコーラス・和太鼓、フラダンス、大正琴、ウクレレ演奏、カラオケ大会)など。

 (HPより)

集落(「鍋掛宿」)はまだまだ遠そう。

ここにも石仏。

鍋掛の集落に入っていきます。奥から子ども達の声。

                  (12:29)手入れの行き届いた庭先。
    

 「樋沢神社」をいつしか通り過ぎてしまいます。そこには、「八幡太郎義家愛馬の蹄跡」の岩、「葛籠(つづら)石」という大きな石があるそうです。その先には、

「樋沢の不動明王像(お不動様)」解説板。

 平成26年3月に建てられたものですが、建てた団体が「鍋掛地域車座談義運営委員会」というのが面白い。

「伝説の大うなぎ 樋沢の大沼」。

朽ち果てたラブホテル「不夜城」。

 (12:45)左手に「鍋掛の一里塚」の標識があり、石段を上った、右のところに一里塚があります。階段は「鍋掛神社」の参道にもなっています。

    

 階段を登る前の石垣のところに山栗がたくさん落ちていたので、少し栗拾いをしました。

                   

市指定文化財 鍋掛の一里塚(史跡)
 江戸時代、全国の主要な街道に日本橋を基点として一里毎にその目印として築かれた塚で、ここ鍋掛愛宕峠の塚は奥州街道41番目のもので、江戸より41里(約160キロメートル)の距離を示す塚である。(鍋掛宿誌)
 当時の旅人の目印として、そして休憩地として親しまれていたそうである。
 『野間の大野家文書』には、慶長9年甲辰(1604)に築かれたという記録が残っている。
 もとは、ここより約11メートルほど東側にあったが、道路の拡張工事等により現在地に移された(平成6年3月)
 また、かつては街道の南側にも塚があったが、現在では残っていない。
     昭和44年1月1日指定
                           那須塩原市教育委員会

    
     一里塚より「奥州街道」を見下ろす。                   南側のようす。
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大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その2。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-14 23:26:49 | 奥州街道

 「蛇」の「尾」と書いて「さび」とは読むことは難しい。いわれは何でしょうか?

蛇尾川
 栃木県那須塩原市の大佐飛山地に源を発する支流、大蛇尾川と小蛇尾川が山地を抜けた地点で合流して蛇尾川となり、那須塩原市を南東に流れ、扇状地で熊川を合わせる。大田原市片府田で白倉山を水源とし那須塩原市塩原温泉郷より流れてくる箒川に合流する。
 大蛇尾川と小蛇尾川の合流地点より下流側の中流域は、扇状地那須野が原中央を伏流水として流れる水無川となっている。川岸には土手が築かれ、一面の河原が広がり、橋もかかっているものの、その川底には水が流れていない、もしくは水量の少ない流れがまばらに出現するような枯れ川の光景が十数キロに渡って連続する。一方で大雨の際にはこの河原に大量の水が流れ、過去には洪水による被害を幾度も起こしたという河川が出現する。
 一説によれば、「さび」という川の名はアイヌ語の「サッ・ピ・ナイ」(渇いた小石河原の川)に由来するという。この流域は川沿いでありながら水利の便が悪く、かつては不毛の荒野であった時期が長く続いた。
 伏流した流れは扇状地の扇端にあたる大田原市郊外で再び地表に流れ出る。扇端の湧水地帯には、天然記念物のミヤコタナゴやイトヨが生息する。
                                                       (以上、「Wikipedia」参照)

 ここに記されているのは、「水無川」にちなんだアイヌ語語源説。東北地方ならともかく、関東エリアという地域的にはちょっと異なるような気がします。

雨天続きのせいか、水流はありました。

「大田原宿」方向を望む。左手が「大田原城址」、右手が「大田原神社」。

解説板。

 「サビ」とは栃木県の方言で、斎日のこと。祭日を決めて神様に身を清めてもらう行事を行った清流を流れる川の意味である。
 ただ、蛇尾川は「水無川」、「暴れ川」という相反するイメージが強い。これが「蛇尾」という文字の由来であるという説もある。

 ここでは、「斎日」という行事から来ている、としています。また、「蛇尾」という文字の由来を説明しています。水無だったり、増水するとたちまち氾濫するということから「蛇」の「尾」というイメージ。音よりも漢字書きが先行するとは思えませんが、「蛇尾」=「ジャビ」が音韻変化して「サビ」になったとも考えられます。はたして?

 「蛇尾橋」を渡り、左手に向かいます。緩い坂を上り、右にカーブすると、その先は約5㎞のほぼ直線の道になります。

    
                        沿道には、立派なおうちが並んでいます。

 (10:34)左手にある「瀬尾家」は平家の末裔らしく、居館(中田原城)跡という石柱などが2つ塀の前に立っています。
    

平家之豪族瀬尾家居館跡(中田原城)
 古来9世紀前半 當地より西に 200間の地に 瀬尾家居館跡 瀬尾家宮跡 居館跡の回りに十社の神々の鎮座の跡が見られる     
                              平成21年10月吉日  瀬尾家本家 41代當主 隆志書

東山道 旧奥州街道
 北 陸奥の国へ・出羽の国へ 南 奈良の国へ

 天喜5年(1057)源義家が勅令を蒙り父頼義とともに奥羽領国として下向の途次、 秋葉山瀬尾(せのお)神社(市杵島姫神)當家は平家であるため脇名、秋葉神社に滞陣して戦勝を祈り、東山道を通り當地に向  豊臣秀吉、天正18年8月(1590)奥州鎮定のとき、脇名秋葉神社で那須資晴の子藤王丸が会見し、この道を通り當地に向う

門前には句碑。「かさねとはやえなでしこのななるべし 曽良」。

門内には、芭蕉の句碑。
                        「野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす はせを」
 「奥の細道」」中の一句。

 是より殺生石に行く。 館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、 「短冊 得させよ」とこふ。 やさしき事を望侍るものかなと、

 野を横に 馬牽ひきむけよ ほとゝぎす

殺生石は温泉の出る山陰にあり。 石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。(『奥の細道』)

 ここに出てくる「殺生石(せっっしょうせき)」は、那須町の那須湯本温泉付近にある溶岩。

 殺生石は那須岳の丘陵が湯本温泉街にせまる斜面の湯川にそったところにあります。大昔、中国やインドで悪行をつくした「九尾の狐」伝説にまつわる史跡です。狐が化身したといれる大きな岩の周辺では、今なお独特な硫黄の香りが漂っています。
 また、俳人松尾芭蕉もこの地を訪れ「奥の細道」には、「殺生石は温泉の出づる山陰にあり。 石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ 真砂の色の見えぬほど重なり死す。」と書き、次の句を詠んでいます。

石の香や 夏草赤く 露あつし

※殺生石は「おくのほそ道の風景地」の一群をなすものとして、平成26年3月18日“国の名勝”に指定されました。(以上「那須町」公式HPより)
                    (写真は、「Wikipedia」より)

来た道を振り返って望む。

「与一みそ 岩上商店」。  

沿道には秋の草花が咲き誇っています。

 左手にある、大きな「富士電機大田原工場」を過ぎてしばらく進むと、「中田原の一里塚」があります(10:45)。
    

大田原市指定史跡 一里塚一基(昭和36年3月22日指定)
 中田原の一里塚は、奥州道中沿い、大田原宿と次の鍋掛宿との間にあります。
 江戸幕府は慶長6年(1601)、奥州道中をはじめとする主要街道の整備に着手し、さらに同9年(1604)には江戸日本橋を起点として街道の両側に一里(約4㎞)毎の印として、塚を全国に造らせました。これが一里塚で、5間(約9m)四方の方形に築かれ、塚の上には榎や松が植えられました。
 この一里塚も当初は道の両側にありましたが、南側の方は宅地建設の際に取り壊されました。北側は半分切り取られた形で残っていましたが、道路拡幅の際、平成12年(2000)に約1.5m後方に移築されました。
                                            大田原市教育委員会

現在の街道の茶屋、コンビニ・セブンイレブンの敷地脇にあります。 

まっすぐに伸びた道を歩きます。

 しばらく進んだ「市野沢小入口」交差点の角には「道標」と「聖徳太子顕彰碑」などの石柱が置かれています。
    

史跡 道標 (昭和60年5月15日指定)
 道標は、路の方向を示すもので木や石で作る。この道標は、江戸街道の一つである奥州道中(街道)から棚倉街道への小滝入口分岐点、追分に建てられたものである。棚倉地方では日光道または、江戸道と呼び奥州道中大田原宿を経由して江戸・日光方面に向う捷路として重要な街道であった。
 寛永6年(1629)8月「紫衣事件」によって江戸幕府の怒りをかい、僧沢庵宗彭と玉室宗珀が流人として流刑の地羽州上山と奥州棚倉への途中、この追分口まで一緒に護送されてきたが、沢庵は奥州路、玉室は棚倉路を北へ次のような決別の詩を作り袂を分かった歴史的な地点である。
     沢 庵
 天、南北に分かれ両鳧(ふ)(二羽のかも)飛ぶ、何れの日にか旧捿(旧巣)翼を双べて帰らん。常無く只此(かく)の如し、世上の禽(とり)も枢機(向を変える機)有り

     玉 室
 草鞋(そうあい)竹丈、雲と与(とも)に飛ぶ、旧院何れの時か手を把って帰らん 永遠く山長く猶信を絶つ(さらに音信も絶えた)。別離今日己に機を忘る(枢機も忘れた)と詩んだ。

 この道標は市内でも最も古いもので重要な文化財である。左面、之より左奥殊通(奥州道)  右面、之より右たなくら(棚倉道) 


 ここにある「紫衣(しえ)事件」とは?

紫衣事件(しえじけん)
 江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とされる。後水尾天皇はこの事件をきっかけに幕府に何の相談もなく退位を決意したとも考えられており、朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立であった。

 紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
 これに対し、慶長18年(1613年)、江戸幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらに慶長20年(1615年)には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。

 一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(禁中並公家諸法度・第16条)

 このように、幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
 幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
 寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。

 この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している。

 その後、寛永9年(1632年)、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは許された。配流された僧のうち、沢庵は徳川家光の帰依を受けたことで家光に近侍し、寺法旧復を訴えた。寛永18年、事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法旧復が家光より正式に申し渡され、幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣も戻されている。
                                                          (以上、「Wikipedia」参照。)

    

 「お気軽にお寄り下さい 黒羽刑務所」との看板が目につきます。「刑務所作業製品展示場」の看板です。
「キャピック」という小物から家具までの手作り製品を展示販売しているらしいです。

 (HPより)

「棚倉街道」。
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大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その1。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-12 23:09:34 | 奥州街道

 相変わらず不順な天気が続きます。10月10日体育の日。運動日和(らしい)。久々に予報では曇り時々晴。湿度も高くなさそう。
 そこで、「奥州街道」3日目。前回の地点「大田原」の「神明交差点」までやってきました。JR在来線で「西那須野」駅に9時前に到着。駅前ロータリーから市営バスに乗って、と。料金は200円。「末広二丁目」バス停。
 ところが、このバス。市内をぐるぐる循環するバス。右に行き、左に行き、まっすぐ行きと、まさに大きな通りをぐるぐる回ります。「日赤病院」へ、「工業団地」へ向かい、「市役所」に停まり、・・・、なかなか目的地に着きません。「東武」とかバイパスの大きなテナントが軒を並べる道を通るなど、言ってみれば「市内巡り」。
 ということで、乗っていた数人の方もすっかり途中下車し、一人、やっと目的地に着きました。

 スタートは9時50分を過ぎたところ。これでは、約22㎞先、「芦野宿」の「芦野仲町」のバス《15時58分 「黒田原駅」行き》に乗れるかしら? 少し不安なまま、出発です。間に合わなければ最終の16時58分発でもいいか、と。

 天気は、思ったよりも雲が多く、時折、雨の心配をしそうな雲行き。でも、晴れ間も出て、1日、何とか持ちました。暑くなく、寒くなく、涼風も吹いて、飲み水もペットボトル1個で済んだほど。ただあまり寄り道をせず、ひたすら歩いた感じです。約32.000歩。前回(第2日目)が約40.000歩でしたから、時間にして1時間ほど少ない歩きでした。
 日曜のせいか、車はかなり行き交いますが、ほとんど誰とも会わず、挨拶や会話した人は5,6人という静かな旅です。

街中にはきれいな用水が目につきます。

閑散とした街のようす。

左手に「薬師堂」。この付近で、道は桝形になっています。

「大田原宿下町」道標。

 「裁判所」の向かい側・右手に「本陣・問屋・高札場跡」と記された案内板があると聞いていましたが、気がつかず通り過ぎてしまいました。左手にある「大田原信用金庫」の前には、那須与一の銅像が建っています。ここは、那須与一のゆかりの土地らしいです。

                             

那須 与一
 嘉応元年(1169年)? - 文治5年8月8日(1189年9月19日)?)
 治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わり、源義経に従軍。元暦2年(1185年)の屋島の戦いで、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とす逸話が有名。
 この銅像もそれにあやかったもののようです。弓の腕を上げようと修行を積み過ぎた為、左右で腕の長さが変わってしまったと伝えられている、とか。

 矢ごろすこし遠かりければ、海へ一段ばかりうち入れたれども、猶扇のあはひ七段ばかりはあるらむとこそ見えたりけれ。ころは二月十八日の酉刻ばかりの事なるに、をりふし北風はげしくて、磯うつ浪もたかかりけり。舟はゆりあげゆりすゑただよへば、扇もくしに定まらずひらめいたり。おきには平家舟を一面にならべて見物す。陸には源氏くつばみをならべて是を見る。いづれもいづれも晴ならずといふ事ぞなき。
与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現宇都宮、那須の温泉(ゆぜん)大明神、願くはあの扇のまんなか射させてたばせ給へ。これを射そんずるものならば、弓きり折り自害して、人に二たび面をむかふべからず。いま一度本国へむかへんとおぼしめさば、この矢はづさせ給ふな」と、心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹きよはり、扇も射よげにぞなったりける。
 与一鏑をとてつがひ、よっぴいてひやうとはなつ。小兵といふぢやう十二束三ぶせ、弓はつよし、浦ひびく程ながなりして、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひふっとぞ射きったる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ散ッたりける。夕日のかがやいたるに、みな紅の扇の日いだしたるが、白浪のうへにただよひ、うきぬしづみぬゆられければ、奥には平家ふなばたをたたいて感じたり、陸には源氏、箙をたたいてどよめきけり。
                                                                       (『平家物語』より)

      (写真は、「Wikipedia」より。)

古いおうちと新しいおうちと。 

 (10:02)「金燈籠」交差点には大きな金属製の燈籠。「金燈籠ポケット公園」となっています。また、公園内には『奥の細道』の序文と那須野のくだりが刻まれた石碑と、『旧奥州道中 大田原宿』の石柱も立っています。

    

金燈籠
 町人文化ノ華ガ咲キ誇ッタ文化文政ノ頃 ココ大田原宿ハ江戸ノ文化ヲ奥州ヘ伝エル旅人ト ミチノクノ産物ヲ江戸ヘ送ル商人ノ行キ交ウ宿場トシテ栄エタ
 タマタマ文政2年(1819)10月ニ「町内安全」ノ祈リヲコメテ建立サレタノガ金燈籠デアリ モノ堅イ人達ニヨッテ欠カサズ点サレ 旅人ヤ町人ノ目安トナリ心ノ安ラギトナッタ常夜燈デモアッタ
 コノ燈籠ハ鹿沼ノ技工ガ鋳タ由デアリ 本体基部ニハ當時ノ町内有志及ビ世話人38氏ガ鋳名サレテイル貴重ナ文化財デアッタガ 太平洋戦争末期ニ供出シ ソノ姿ヲ消シタノハ残念ナコトデアッタ
 ソノ後 昭和30年7月 町内有志ニヨリ三斗小屋宿カラ金燈籠ヲ譲リウケ 百人講ノ盡力ニヨリ復元サレタコトハ 先人の意ヲ継グ自然ノ情トシテ高ク評価サレルトコロデアッタ
 然シナガラ時代ノ推移ニ伴ウ車ノ激増ニヨリ 金燈籠ハソノ安住ノ地ヲ失イ 十字路ノ片隅ニ放置状態ニアッタノヲ昭和53年8月ニ黒磯市ヘ返還ニナッタモノデアル
 折シモ金燈籠建設委員会ガ結成サレ 金燈籠再建ノ計画ヲ発表シタトコロ 上町内有志ヲ中心トスル各位ノ深イ理解ニヨッテ再建デキタノハ何ヨリモ幸イナコトデアル
 ココニ「上町 江戸 白川」ト刻マレタ台石ニ往時ヲ偲ビ 祖先ノ息吹キヲ感ジトリナガラ 建設用地提供者並ビニ別記協力者一同ニ感謝スルト共ニ 上町「金燈籠」ガ末永ク伝エラレルコトヲ望ムモノデアル
                                   昭和54年8月吉日 金燈籠建設委員会

 台座は往時のもので、文政2年(1819年)に造られたもので、西側に「江戸」、そして東側に「白川」と大きく彫られてあり、道標を兼ねたものでした。また、この交差点は塩原道との追分でもありました。


    

奥の細道 元禄2年
 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ。馬の口とらへて老いを迎ふる者は日日旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの頃よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず。

那須野 芭蕉
 那須の黒羽といふ所に知る人あれば、これより野越にかかりて、直道を行かんとす。遥かに一村を見かけて行くに、雨降り日暮るる。農夫の家に一夜を借りて、明くればまた野中を行く。そこに野飼ひの馬あり。草刈るをのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬにはあらず。「いかがすべきや。されどもこの野は縦横にわかれて、うひうひしき旅人の道踏みたがへん、あやしう侍れば、この馬のとどまる所にて馬を返し給へ」と、貸し侍りぬ。小さき者ふたり、馬の跡したひて走る。独りは小姫にて、名をかさねといふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、

かさねとは八重撫子の名なるべし 曽良

 やがて人里に至れば、あたひを鞍つぼに結び付けて馬を返しぬ。

                                  昭和53年5月 里ノ僧採文シテ野夫コレヲ建ツ


 左手にある江戸時代創業の「那須屋」はモダンな建物になっています。その先の交差点を左折します。さらに元旅籠屋の「上州屋」で現在「ホテルみつや」の角を右折します。城下町らしく七曲がりのようになっています。

    
   「大田原宿 寺町」道標。                       (10:10)行く先を望む。 

 その先も枡形になっています。大田原宿もそろそろ外れになります。
    

大田原
 大田原の町は、戦国時代に、那須家の家臣、大田原資清が大田原城を築城し、現在の市街地の基礎がつくられた、といいます。
 江戸時代の天保14年(1843年)には、宿内人口1,420人、戸数245軒で、本陣2、脇本陣1、旅籠42の賑やかな宿場でした。往時を偲ぶ史跡はほとんどなさそうです。

    
                              石蔵造りの倉庫。
  
                        昔の佇まいをのこした建物。
    

左手には「竜泉寺」。

さらに「大田原神社」。 「奥州道中大田原宿大久保木戸跡」碑。

 (10:18)突き当たりの道を左折して「蛇尾(さび)川」を渡ります。正面の高台が「大田原城城址」・龍城公園。
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氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿。その6。(「奥州街道」をゆく。第2日目。)

2016-10-04 18:58:50 | 奥州街道
 かつては橋の手前を左に曲がって川を渡ったようですが、今はこのまま道を急ぎます。橋の上流には観光用のやな場が見えます。釣り人もチラホラ。「佐久山観光やな」という施設のようです。
(TV TokyoHPより) 
 梁漁(やなりょう)とは、川の中に足場を組み、木や竹ですのこ状の台を作った梁(やな)という構造物を設置し、上流から泳いできた魚がかかるのを待つ漁法である。アイヌ語ではウライと呼ばれる。
 すのこは上流側に傾いて設置され、上流側では水中にあり、川下側では水上にある。川の水はすのこを通って流れるが、上流から泳いできた魚はすのこの上に打ち上げられる(強制陥穽)。観光やなでは、梁場に自由に出入りができ、打ち上げられた魚は自由に捕まえることができるが、真ん中にある生簀に入れ、持ち帰ることはできない。また、有料で捕まえた鮎を持ち帰ったり、料理してもらえる梁もある。秋に産卵のために川を下るアユなどには効果的な漁法である。
 やなとは、梁漁(やなりょう)を売り物にした食事処である。観光やなともいう。
 梁に入って鮎を捕まえて楽しむことが出来たり、食事ができる。料理は主に鮎料理だが、やなに上がったアナゴやウナギを出すやなもある。基本的には河川にやなを設置し行われるが、生簀や人工川を設けて行う施設もある。
 通常は6月下旬〜10月末、場所によっては4月下旬〜11月末までである。開催時期には釣り解禁日や禁漁日が関係する場合があるため、その地域の漁業協同組合によって異なる。

那珂川水系にある「やな」

大瀬観光やな - 栃木県芳賀郡茂木町
矢沢のやな - 栃木県那須烏山市
観光やな・ひのきや - 栃木県那須烏山市
舟戸観光やな - 栃木県那須烏山市
高瀬観光やな - 栃木県那須郡那珂川町
黒羽観光やな - 栃木県大田原市
余一やな - 栃木県大田原市
那須塩原観光やな - 栃木県那須塩原市
一ツ石観光やな(荒川) - 栃木県那須烏山市
森田城やな(荒川) - 栃木県那須烏山市
高瀬観光やな(荒川) - 栃木県那須烏山市
ゆりがねのやな(武茂川) - 栃木県那須郡那珂川町
馬頭観光やな(武茂川) - 栃木県那須郡那珂川町
佐久山観光やな(箒川) - 栃木県大田原市
松原やな(箒川) - 栃木県大田原市
箒川観光やな (箒川)- 栃木県矢板市
                                      (以上「Wikipedia」参照)
 「那珂川」水系には、けっこうあります。

 しばらく釣りの様子を眺めていました。さて出発! 道路際には草花が。


(15:09)左手の路傍に馬頭観音等が建っています。

この地は「那須与一」の地。「与一卵」。 

ほぼ直線の道が続きます。

古い屋敷門のあるおうち。


 (15:19)そのすぐ先で小さな橋を渡りますが、小川を覗くと清流に水草が揺らいでいます。どこかで見た風景。そう、旧中山道・熊谷宿に入る手前に同じような水草がそよぐ清流がありました。
 世界で唯一存在するる「ムサシトミヨ」という「トゲウオ科」に属する淡水魚の生息地でした。、
(熊谷にて)。

「ムサシトミヨ」。

 この川は同じ「トゲウオ科」に属する「イトヨ」の生息地のようです。
「イトヨ」。

 この魚の種類は、「イトヨ」と「トミヨ」の二種があって、春季河口より川を遡って産卵し、幼魚は海に下って育つ習性をもっています。石川、山形、新潟の各県に生息しており、大きさは約3センチメートル余りで、本市のイトヨは幼魚・成魚ともにこの河川中に常時生息するという封土的特異性があるので珍しいといわれています。4月~5月の産卵期になるとオスは鮮紅色となり、動作が活発になります。このころ、流れのゆるやかな泥土質の場所や水生植物の根茎部にチクワ型の巣をつくり、産卵が終わると巣の片方に蓋をしてオスは外的を監視して目は燐光を放ち、背の三本刺を倒立させて巣のまわりを警戒します。地元では、”とげ魚”と呼ばれ親しまれています

                             (「大田原市観光協会」公式HPより。写真も。)

 次第に西日が強くなってくる中、旧道は延々続きます。
    

右手が開けてきます。

交差点のところに『那須与之墓』という道標が立っています。

 「親園」という集落に入っていきます。
    

 しばらく進むと、右手に国井宅の見事な赤マツ。
    
【与一の里名木選】
 名    称  国井宅の赤マツ(一本)
 目通り周囲  1.7メートル
 樹    高  7.0メートル
 推 定 樹 齢  約200年
 選 定 理 由  古木

     平成3年12月19日 大田原市
 その先、左手に「湯殿神社」。

 その入口付近に「鞘堂」があって、「浦蘆(ほろ)碑」という石碑が納められています。 
    

蒲慮碑 史跡(昭和36年3月22日指定)
 文化9年(1812)10月那須野に一隊の兵士が刀を荷い槍をうち立て行進する蜃気楼が現れた。たまたまここを通った甲州の高津義克という行脚僧が目撃し、この光景を記した。それが蒲慮碑原文である。のちに石に刻んで建立したのがこの碑である。
 土地の者は蜃気楼のことを「ホロ」と呼んでいた。当時親園地区は八木沢村と呼ばれ、代官・山口鉄五郎の支配下にあり、代官の出張陣屋が設けられていた。山口鉄五郎は水路を開消し新田を開発するなど農村の振興につとめ領民から深く親しまれていた。人見伝蔵は著者「那須野蜃気楼・蒲慮碑考」の中で、中国の書「中庸」の中には「政治は蒲や慮のようなもの」という一文があり、碑文はこの山口鉄五郎の善政を蜃気楼の蒲慮に結び付けたものとしている。
 原文は奉書に隷書体で一行13字、13行に書かれている。この碑文には楷書で本文159文字が刻まれている。

斜め向かいには立派な門構えの目のおうち。

 その屋敷門の左の内側に「祠」のようなものが置かれ、「町初(まちはじめ)碑」が納められています。
    

町初碑 史跡(昭和43年2月15日指定)
 碑は、高さ55センチメートル、周囲93センチメートルの自然石で、表面に「此町初寛永四卯(ひのえ)年」、裏面に「国井与左衛門」と刻されている。
 この碑は三代徳川将軍家光の寛永年間(1624~1644)に奥州街道筋に八木沢が開かれ、それを記念しての建立であろう。国井与左衛門はこの地の名主役をつとめ、代々与左衛門を名乗った。
 寛永4年(1627)は「丁(ひのと)卯」であることから本碑は後年の建立と思われる。この寛永4年を奥州道中の開通の年とみる向きもあるが、そうではなく、これはあくまで町初めの年である。いずれにしても町初めの年を石に刻し、その起源を明らかにしている点、歴史的価値は高いものである。

この碑の先で、「百村(もむら)川」に架かる「筋違橋」を渡ると、

 ここから大田原宿入口まで約3㎞に及ぶ直線道路。
    

 この間「百村川」の川べりをひたすら歩きます。「百村川」から離れて、やがて左にカーブすると、街中に入って行きます。

「大田原宿」入口。

「神明町交差点」に。

 ここを右折すると大田原宿に入って行きますが、今回はここまで。

 さて、帰りはどうするか? 「末広2丁目」バス停の時刻表を見ると、早くも終バスが出た後。これからJR「西那須野」駅まで小一時間歩くしかないか。ふと左手にビジネスホテル。タクシーを頼むことにします。
 フロントの方、「目の前がタクシー会社の車庫ですよ」とすぐ呼んでくれました。助かりました! 「西那須野」駅まで1.450円。在来線で帰って来たので、金額的にはまあまあです(路線バスだと「那須塩原」駅に向かい、バス代は200円ですが、新幹線で帰ることになったら? )。 
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氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿。その5。(「奥州街道」をゆく。第2日目。)

2016-10-03 23:12:41 | 奥州街道

 (14:02)左から来る県道48号に合流し、これから先は県道48号線として進みます。
    
                       道ばたには秋の草花が咲き誇っています。

 しばらく進むと右手に「JA農産物販売所」。県道から分かれて、信号を斜め左に入って行きます(実際はもう少し手前で左に行く道が旧道)。


(14:36)直進して進むと前坂の交差点で、さっき分かれた県道48号線に突き当たります。
                    

 そのまま、県道を横断して細い下り坂を直進するのが旧街道で、 細い坂道を下って行くと左に「観音堂」があり、その先の枡形を左折すると、さきほどの県道と合流して「佐久山宿」の中心部へ向かいます。

佐久山宿(さくやまじゅく)
 奥州街道(奥州道中)の21番目の宿駅(宿場町)。現在の栃木県大田原市佐久山。
 佐久山宿は、江戸時代、かつて佐久山城があった土地が奥州街道(奥州道中)喜連川宿の次の宿駅として整備された宿場町で、下野国那須郡にあった。天保14年(1843年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、佐久山宿は家数121軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒、人口473人であった。佐久山宿本陣は井上家や村上家が勤めた。
 喜連川宿から奥州道中を北に向かうとつるが坂を通り曽根田に至る。曽根田では江川を橋で渡っていた。この川の手前岸には、明治天皇が行幸した際に使用された休憩所の碑が立っている。対岸に着いた後、さらに北上すると福原道(ふくはらのみち)を分岐する追分を経て佐久山宿へと着く。
 佐久山は下野国の名家のひとつである那須氏発祥の地である。那須資隆の子である那須泰隆がこの地に佐久山城を築城して住まい、はじめて佐久山氏を名乗った。永禄年間には福原資孝が佐久山城攻めて落城させ、その後元禄年間は子孫の福原氏子孫の福原資倍が佐久山城を修復して入城、以後、城下町の機能を併せ持つ宿場となる。

 (14:46)左手からの県道に合流して、すぐ左手に屋敷門を持つ立派なおうちがあります。門の右脇に『運用膏』と書かれた古い看板があります。かつては戊辰戦争の時に傷薬として評判になったそうです。
    

「県道」に沿って続く宿場。かつての面影はありません。

 心なしか空き地が目立ちます。そういうところに大きな記念碑が建てられています。
     

「豊道春海翁生誕之地碑」・「豊道春海翁顕彰事業」
 大田原市では、市出身の偉人の顕彰事業を実施しております。
 豊道春海翁は、この地佐久山出身で、明治から昭和にかけての日本を代表する書家であります。大田原名誉市民第1号であり、文化功労者にも選ばれた春海翁の功績を称え、これを後世に伝えるため、没後40年の節目の年に顕彰碑を建立しました。

                    平成22年2月24日 大田原市

 軒の低い商店。「地酒天鷹」。

 碑のすぐ先、右側に「大田原市消防団」の建物があり、 隣には公衆便所。街道筋を意識した建物。その右側に「旧奥州道中 佐久山宿 下町」の石柱が建っています。
                      

安政2年(1855)創業の「小島屋」菓子店。名物は与一力餅最中や勘兵衛饅頭。

 ガソリンスタンド脇を左折した奥の裏山が「佐久山城址」になりますが、省略。

新旧混じった家並み。

郵便局の手前には先ほどと同じような記念碑「村上英俊翁生誕之地碑」。

    

「村上英俊翁顕彰事業」
 村上英俊翁は、この地佐久山出身で、日本で初めてフランス語を修め何冊もの辞典を刊行するなど、幕末期から明治期にかけて活躍した学者です。1885(明治18)年には、日本にフランス学を創始した功績により、フランス大統領からジョン・ヌール・シュヴァリエ勲章が授与されました。これらを後世に伝えるため、日仏交流150周年に合わせて顕彰碑を建立しました。

 また、この地が本陣跡だと言われていますが、現在は広い空き地になっていて、特に説明板等もありません。

 (14:58)じきに「佐久山宿」は終わりになり、鈎の手になって右にカーブしながら坂を下ります。
    
                                                宿内を振り返って望む。


 坂の途中の正浄寺には芭蕉の『花の陰 謡に似たる 旅寝哉  芭蕉翁』という句碑があるようです。
 この句は、『笈の小文』の旅の途中、吉野にて詠んだもの。花はもちろん、桜。この句碑のように、芭蕉の句碑は詠まれた所などとは関係なく、後生になってその地域の俳人たちの発願によって建てられたものが多い。

 (15:02)しばらく進み、「箒川」に架かる「岩井橋」を渡ります。
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氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿。その4。(「奥州街道」をゆく。第2日目。)

2016-10-01 21:28:41 | 奥州街道

 (11:46)「内川」を渡ると、ゆるい上り坂になります。右手にはいつ頃出来たのか、新しく大きな石像の「双体道祖神」が建っています。そばでは作業員が黙々と草刈り。


 ここから長い「つるが坂」(漢字だとどう表記するのでしょうか? )を上って行きます。右手には、「フィオーレ喜連川」入口の案内板がちらほら。そばには馬頭観音? のようなもの。
       

 かなり日差しが強く蒸し暑くなってきて、木陰や涼風を求めて道路を右に行ったり、左に行ったり。車はほとんど通りません。足元には栗が散乱しています。見上げると、栗の木が続いています。孫たちに見せようと、少し拾ってみます。
                                                   

やがて歩道が無くなり、車に気をつけながらの上り坂。

(12:21)左手が開けてきて、遠くに集落も見えはじめます。

やっと坂の頂上に。振り返って望む。

その後は下り坂になり、下り終えた所で県道25号線と合流します。

周囲の田園風景の中、広々とした道を進みます。

               秋空。時々澄み渡って。

足元の収穫後の畑には種用なのか大きな? 

 (12:42)左手に大きな長屋門が見えてきます。
    

 ここまででけっこうくたびれました。途中には寄るところ、なし! コンビニも自販機もなし! 向かい側にある「上江川郵便局」の階段に座っておにぎりを食べながら休憩します。

 (12:59)この先の「下河戸」交差点を右折していきます。ここまで歩いている人にはまったく会わず、信号のところで初めて親子に出会いました。


 (13:03)信号を右折するとすぐ右側に、「天皇御小休之際御膳水」の碑と「双体道祖神」(建立時期はさっきのものと同じ? )が建っています。


   この先も東京近郊では失われつつある「里山」らしい田園風景の中、旧道歩きが続きます。
    

 (13:12)右手に「源氏ボタルの里」の案内。

 道が丘の脇を通るゆるい上り坂になり(ここにも栗が道ばたに)、次第に集落に近づきます。


「きつれ川きらきら幼稚園」。

 (13:20)その先、右側の公園奥に「明治天皇御休輦之處」の碑が建っています。
    

 ほとんど利用者がいないのか、荒れ果てた印象。かつてはGateボール場でもあったのか、大きな白線が引かれてあった。ちょっと足を踏み入れるのも躊躇。

 すぐ隣は老人ホーム「にこんきつれ荘」。

 周囲には家が建ち並ぶようになります。
    
                                   「きをつけて ←佐久山 喜連川→」。

 (13:41)「大田原市」に入る手前、民家の庭に一里塚があるとのことでしたが、注意していても見つからず、「さくら市」と「大田原市」の市境に来てしまいました。
    

その途中にあった小さな野仏。「ほほえみの仏」。

「与一の里名木選 つつじ」。

 (14:02)「大田原」市内にはゴルフ場施設がたくさん。そういえば、「宇都宮線」行き帰りの電車でもゴルファーをよく見かけます。案内表示がびっしり。



 向かいのコンビニで小休止。蒸し暑さがだんだんとこたえてきます。
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氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿。その3。(「奥州街道」をゆく。第2日目。)

2016-09-30 21:44:25 | 奥州街道

いよいよ喜連川宿(城下町)に入って行きます。

 「喜連川」は、古くは「狐川」と称していました。そういう関係でしょうか? 「きつねの嫁入り」というイベントのポスターが随所に。
                

 (「フィオーレ喜連川」HPより)


 「狐の嫁入り」は、お天気雨のことを指しているのかとばかり思いましたが、それだけではなくて、・・・

 夜間の山野に怪火(狐火)が連なって見えるものを「狐の嫁入り」と呼ぶ。
 昭和中期頃までは、結婚式においては結婚先に嫁いでゆく嫁が夕刻に提灯行列で迎えられるのが普通であり、連なる怪火の様子が松明を連ねた婚礼行列の様子に似ているため、またはキツネが婚礼のために灯す提灯と見なされたためにこう呼ばれたものと考えられている。遠くから見ると灯りが見えるが、近づくと見えなくなってしまい、あたかもキツネに化かされたようなため、などの説がある。徳島県では、こうした怪火を嫁入りではなくキツネの葬式とし、死者の出る予兆としている。
 これらの怪火の正体については、実際の灯を誤って見たか、異常屈折の光を錯覚したものとも考えられている。また戦前「虫送り」といって、農作物を病害から守るため、田植えの後に松明を灯して田の畦道を歩き回る行事があり、虫送りの灯を見誤ったとする可能性も示唆されていている。

 天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼ぶ。
 天気雨をこう呼ぶのは、晴れていても雨が降るという嘘のような状態を、何かに化かされているような感覚を感じて呼んだものと考えられており、かつてキツネには妖怪のような不思議な力があるといわれていたことから、キツネの仕業と見なして「狐の嫁入り」と呼んだともいう。ほかにも、山のふもとは晴れていても山の上ばかり雨が降る天気雨が多いことから、山の上を行くキツネの行列を人目につかせないようにするため、キツネが雨を降らせると考えられたとも、日照りに雨がふるという異様さを呼んだともいう。

                                         (以上、「Wikipedia」参照。ただし、要約)

 なるほど! 興味深い話がありました。今年は10月23日(日)だとか。さて、どれくらいの新郎新婦の方々が応募してくるのでしょうか? こちらの方がもっと興味深い。

「案内図」。県道沿いの静かな街並み。

(11:11)街道から左折して路地を行くと「武家屋敷跡」にある「御用堀」。
                         

                              落ち着いたたたずまいのおうちが並んでいます。
     

「解説板」。

御用堀
 本町の河川を概観すると県北部山岳地域と関東平野の接点にあるため一般に奥が浅く流れも急でしかも水量に乏しい。この御用堀は水源を県北部高原山系に発し塩谷町、氏家町を流れて町内早乙女、小入、野辺山に至るこの辺の荒川から分流する用水を運ぶ御用堀である。璉光院下及び辻畑等の水田23、5ヘクタールに灌ぎ、その上150余戸の用水となる農耕に欠することのできない水、各戸の日常生活、防火用水とも言われ、その昔、沿岸の人達は米を研ぎ、歯を磨き、顔を洗った清流であった。今は昔の物語である。時代の流れとともに河川は汚れ、昔日の面影さらになく、昔の人々の郷愁をさそう御用堀である。今も河は静かに流れる。

                                 昭和60年度喜連川商工会むらおこし事業

現在は清流が戻り、鯉がたくさん泳いでいます。

観光案内所。大正モダンな建物。

 右手、「かぶらぎ時計店」(隣の店は閉店?)の建物は往時の旅籠屋「山田屋徳平」だった家。横から見ると往時のようす。



 (11:18)左手奥に見えるのが再現された「喜連川城大手門」。門の奥の高台には「スカイタワー」。
    

 「大手門」からすぐ先、右側に「街の駅本陣」の看板が出ている所がかつての喜連川本陣跡。現在は大正時代の警察署を「カフェレストラン 蔵ヶ崎」として利用しています。ここにも水が湧き出ていて、飲むことができます。
    

街の駅「本陣」について
 喜連川宿は奥州街道十宿の内①白沢宿②氏家宿に次ぐ第三の宿で、本陣・脇本陣・旅籠茶屋が軒を連ね、喜連川足利氏〔格式十万石実高壱万石〕の城下町も兼ね殷賑(いんしん)を極めた。
 本陣とは、参勤交代の大名や公用の幕府の役人が定宿とした高級旅籠で問屋を兼ねる所が多かった。当宿には、奥羽・越後・下野の三十七大名が三月から六月にかけて投宿している。
 当宿の本陣は、江戸中期には郡司十左衛門、斎藤仁右衛門等が経営したが、後期には当街の駅所在地で上野太郎平が経営に当った。
 明治になり本陣跡には警察署、郵便局、銀行が開設された。当「街の駅」舎は大正15年に建築された喜連川警察署の建物で、大正期の警察庁舎で現存するものは全国に数か所しかないという貴重な建造物である。

「観光案内図」。

 ここで「喜連川宿」について

喜連川宿(きつれがわじゅく)
 奥州街道(奥州道中)の20番目の宿駅(宿場町)。現在の栃木県さくら市喜連川。
 江戸時代、喜連川城の城下に奥州街道(奥州道中)氏家宿の次の宿駅として整備された宿場町で、下野国塩谷郡にあった。1843年(天保14年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、喜連川宿は家数290軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19軒、人口1,198人であった。
 氏家宿本陣は上野家、脇本陣は永井家が担っていた。
 氏家宿から北に向かうと一里塚を通り弥五郎坂(やごろうざか)を下る。弥五郎坂はかつて早乙女坂(さおとめざか)ないし五月女坂(そうとめざか)と呼ばれていたが、戦国時代にこの坂で宇都宮氏当主宇都宮尚綱が那須氏家臣の鮎瀬弥五郎の矢を受けて戦死、のち鮎瀬弥五郎が尚綱を供養して五輪塔を建立したことから、弥五郎坂と呼ばれるようになったという。この五輪塔は今弥五郎殿(やごろうでん)と呼ばれ、弥五郎坂の頂上部に建っている。
 弥五郎坂を下ると道祖神、羽黒社を過ぎ、下妻道(しもつまのみち)との追分を左折すると喜連川宿に入る。宿内には龍光寺、薬師堂、喜連川神社、専念寺などの寺社が建ち、また宿内道側に一里塚があった。宿の北端の奥州道中筋は鉤状となっており、これが宿の内外を分けていた。
                                                                  (以上、「Wikipedia」参照。)

人通りも少なく、車もほとんど通らない閑寂な街並み。

「紙屋」という和菓子屋さん。

左手のおうちからJAZZの調べと子ども達の歓声。「はやき風」というカフェ? 何やら大人と子どもでそれぞれ作品を製作中です。
                       

 「ささや」という呉服屋さん。裏手に蔵がある古そうなお店。
    

 (11:33)「たかしお薬局」の先、「台町交差点」の手前を右に下りる細道を行きます。この道が「旧奥州街道」となります。宿場出入口特有の「鈎の手」になっています。

「宿内」を振り返って望む。左が「たかしお薬局」。

「台町交差点」。その手前の細い道を右折。

 (11:38)下った突き当りを左折して「内川」の土手に出て、「金竜橋」を渡って行きます。

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氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿。その2。(「奥州街道」をゆく。第2日目。)

2016-09-29 23:10:29 | 奥州街道

 「松山」交差点の先で国道293号線は右手にカーブしていきますが、旧道(奥州街道)はそのまままっすぐ「弥五郎」坂を上って行きます。


左手、用水路の向こうには田んぼが広がります。

 (10:06)その分かれる手前、右の角にある自動車整備工場の前に新旧2体の大黒天の像があり、古い方の台座には明治時代の測量に採用された水準点があり、「不(に似た記号)」の記号が刻んであります。これは、日光街道沿いにも何ヶ所か残っていて、実際に見ることができます(「草加宿」、「幸手宿」などで)。


旧道に入って左手の畑に石仏、石碑が並んでいます。

右側には「奥州街道」の標識が立っています。

 (10:11)その先右側に石段があり、上り口に「早乙女古戦場」の標柱と説明板が立っています。石段を登ると、鞘堂が建っていて、鞘堂の中には供養塔(五輪塔)が納まっているそうですが、省略。
    

古戦場
 天文18年(1549)、那須氏、喜連川塩谷500余騎と宇都宮尚綱率いる宇都宮軍2000余騎とが戦った古戦場で、激戦の末宇都宮軍は喜連川軍の鮎瀬弥五郎実光に背後から大将の尚綱が射たれ退散したといわれています。

坂の途中から来た道を振り返って望む。

正面左手の小高い丘一帯が古戦場跡。

古戦場の先、右手には「早乙女坂温泉」。けっこう来客が多そう。

「セブンハンドレッドクラブ」入口が頂上で、そこから下り坂になります。

 (10:19)峠から少し下ると、右側に古道の入口が見えてきます。左の道へ行くと「河東碧梧桐句碑」があると案内板の地図に記されています。どちらに進んでも先で一緒になる、と。
                     

史跡 奥州街道(古道) さくら市指定(平成17年2月9日指定)
 慶長6(1601)年徳川幕府は全国支配のため、江戸と各地を結ぶ五街道の整備を始めた。奥州街道は、慶長9(1604)年、東山道(関街道)に代わり正街道となり、奥州の諸大名の参勤交代や、奥州と江戸を結ぶ、文物交流の中心的役割を果たした。奥州街道は、日本橋から宇都宮宿までは日光街道と重複し、宇都宮宿から分岐して白河へ向かう。さくら市には、奥州街道のほか、会津中街道、会津西街道、原街道の結節点となり、交通の要衝地として栄えた氏家宿と、喜連川公方の城下町でもあり、また、あゆの寿司で全国的に名を馳せた喜連川宿があった。この古道は、たびたび山腹が崩壊するなど、難所の一つであったため、明治13(1880)年迂回路が開削されたことにより、往時の姿をとどめている。

 古道は少し上ったあとすぐ下り坂になります。足元は舗装された道ですが、倒木があったり、苔むした箇所があるなど荒廃しているようで、ほとんど人が通らないようすです。
    

 時折、鳥の飛び立つ音やガサガサ物音がしたり、もちろん誰との会わない山道。熊でも出てきたらどうしよう、この先、道はあるのか、と少々不安な気分。
    

 しばらく下って行くと右手に「高塩背山の墓入口と」書かれた説明板が立っていて、その脇に細く草深い山道があります。
                           

歌人 高塩背山 明治15(1882)年~昭和31(1956)年
 さくら市を代表する歌人、高塩背山は本名を高塩正庸。代々喜連川神社の神職を勤める家に生まれ、教員を勤めた時期もあったが、生涯の大方を祖父伝来の神職をまっとうした。
 24歳の頃から作歌を志し、一時、尾上紫舟に師事して、歌と書の指導を受けた。才能を開花させてからは、郷土の自然を題材に、暖かい人間性を秘めた清明な歌を終生作り続けた。
 中央歌壇への投稿を通じ、若山牧水と交友が生まれ、明治43年には牧水の「創作」に参加、主軸歌人の一人として活躍をした。長く続く親交の中で、牧水は3度、喜連川の背山をたずね、酒と短歌を交えたひとときを過ごしている。その時牧水が詠んだ歌は背山の歌と並び喜連川神社に歌碑として建っている。
 代表歌集「狭間」「移りゆく自然」にあるように、郷土の風景を慈しみ74歳で没した歌人は、永眠の地を愛した喜連川の街並みが見える高台にしたかったのではないだろうか。
  山上より町を
   我が街を埋めつくして流れゐる
   朝の濃霧を丘の上ゆ見つ
   うち渡す峡間の町の夕けむり
   若葉の上にたなびきながるる


草むらに覆われてしまった「道標」。

「高塩背山」の墓入口を過ぎると前方が開けてきます。ほっと一安心。人家が見えてきたら、「古道」も終わり。
    

(10:34)その右手の丘に庚申塔等が建っています。

 小さな集落に入って「旧道」はそのまままっすぐ進むようです(「旧道」は消滅している感じです)。「桜並木」という道しるべを頼りに、たんぼ道へ。遠くに「県道(新道)」沿いの桜並木。
    

 「荒川」土手を目指して歩いていると、彼岸花(曼珠沙華)が咲き誇っています。秋たけなわ。
    
                               遠くに見えるのが「喜連川スカイタワー」。「東京スカイツリー」よりも前にできたそうです。
 
 ただし、2011年の「東日本大震災」によって敷地の一部が崩落したほか、塔内のエレベーター制御盤、空調設備が全損した。震災以降、お丸山公園(喜連川城城址)全体が立入禁止となっていましたが、かねてからタワーは採算性の低い施設であったため復旧を断念。シャトルエレベーターとともに営業廃止が決定しました。ただしタワーには防災無線や電波塔が設置されていることから塔体そのものは存置されるようです。
                          
                     
 道はじきに「荒川」土手に突き当たるので、右折して「連城橋」を渡ります。「連城橋」を渡る手前、右手の信号の前に寛延元年(1748))建立の道標が建っています。「右 江戸道 左 下妻道」と刻まれています。「下妻道」は、荒川沿いに真直ぐ行く道。
    

 「荒川」は、埼玉県、東京都を通り東京湾に注ぐ「荒川」とはもちろん違います。
 
 この「荒川」は、栃木県北東部を流れる那珂川水系の一級河川。
 栃木県塩谷郡塩谷町大字上寺島の高原山系釈迦ヶ岳に源を発し南東へ流れる。矢板市の南端を東に流れ、さくら市喜連川および葛城の境界部で八方ヶ原に源を発する内川を合わせ、那須烏山市では大きく左右に蛇行しながら南東に流れ、芳賀郡市貝町の北東辺を翳めて那須烏山市向田にて江川を合わせると、次いで同所および下境の境界部にて那珂川に合流する。
    
                                               (以上、「Wikipedia」参照)

 (10:57)「連城橋」を渡ると「喜連川宿」に入ります。
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氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿。その1。(「奥州街道」をゆく。第2日目。)

2016-09-27 22:24:53 | 奥州街道
 うっとうしい雨ばかり、久々に晴れ間が広がった、9月25日(日)。「奥州街道」の2日目。
 事前の天気の予想は曇りのち雨でしたが、一日中、晴れ。しかし、実に蒸し暑い一日でした。
 8:40少し前にJR「氏家」駅に到着。そこから旧道まで戻って左折。

 その前に「氏家宿」の解説を。

氏家宿
 奥州街道(奥州道中)の19番目の宿駅(宿場町)。現在の栃木県さくら市氏家。
 氏家宿は、江戸時代に奥州街道(奥州道中)下野国塩谷郡にあった宿場町で、白沢宿の次の宿駅である。天保14年(1843年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、氏家宿は家数235軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒、人口879人であった。 氏家宿本陣は平石家、脇本陣は伝馬屋が担っていた。
 江戸時代、氏家宿南傍の鬼怒川東岸にあった阿久津河岸(あくつかし)は、主に東北地方で獲れた米ほか特産物を鬼怒川の水運を利用して江戸に送るための集積地となり、このため氏家宿の旅籠もたいへんな活況を呈したと云われている。氏家には会津西道、会津北道、原方道、水戸道が開通し、交通の要衝地となった。江戸の常盤津の歌人等も多く氏家に移住したといい、江戸末期には卯の花連(うのはなれん)と呼ばれる俳句会が生まれた。その歌集には、水戸道を通って10里ほどの太平洋沿岸村落から氏家宿に四季折々に海魚が大量に運び込まれ、鶏卵や川魚、塩辛等しか食せない山路にしては珍しく海魚を食すことが出来たことが書かれており、このような宿場は氏家宿以北、仙台や酒田に至るまで無かったと云われている。
 現在、氏家宿は栃木県さくら市にあり、市域には東京から栃木県を経て東北地方を結ぶ国道4号および鉄路JR宇都宮線(東北本線)が通るが、JR氏家駅が宿の西側に置かれ周辺の市街地化とともに宿並は廃れたものの、主要国道の経路が氏家市街地から反れている為、喧騒からは隔離された比較的静かな装いを呈している。

本陣  平石六右衛門
脇本陣 伝馬屋
旅籠 ほてい屋市兵衛
休所 うすいや秀八
旅籠 石井孫兵衛

                                  (以上、「Wikipedia」参照)

旧道沿いのおうち。

 「上町交差点」で「奥州街道」は右に折れていきます 。その先、沿道の左手には見応えのあるおうちが二軒並んでいます。手前が、「村上家」、その隣が「瀧澤家」のお屋敷です。(08:55)

    

 左の屋敷:桜野村の名主の家で、道に面した門は「分間延絵図」にも描かれた近世の門です。
 右の屋敷:明治の豪商。豪壮な長屋門のある「瀧澤家」。

 今日は休館日で鐡竹堂の外観しか見られず。
    

栃木県指定有形文化財建造物(平成10年1月16日指定)
           瀧澤家住宅(鐡竹堂・蔵屋敷・長屋門) 
 瀧澤家住宅は旧奥州街道に面して、伝統的な板塀を巡らし、堂々たる長屋門を開くなど、屋敷構えは今なお旧家の面影を留めている。
 瀧澤家は、明治になって紡績等の事業で財をなした旧家であり、明治期の当主であった瀧澤喜平治は貴族院議員などを歴任し、第四十一銀行の設立や那須野が原の開拓にも尽力した人物として知られる。指定の3棟は、明治25年(1892)10月23日に氏家町で陸軍大演習が行われた時、喜平治宅が明治天皇の休息所に充てられた際、新築あるいは増築されたものと考えられている。

○鐡竹堂(南北6.5間×東西7間)
 鐡竹堂は明治天皇の休息所として使用された建物で喜平治の雅号「鐡竹」にちなんで名付けられた。平屋建ての入母屋造りで北側の庭園に対して4室をL字型に並べ、東側正面に車寄せを張り出している。北西の6畳間が主室で、床、違い棚、付書院を完備し、金地の、襖絵素木の格天井とするなど、天皇の御座所にふさわしい造りとなっている。休息のために揃えた調度品とともに当時のままの姿で残されている。

○蔵座敷(桁行4.5間×梁間4間)
 蔵座敷は、総2階建、切妻瓦葺の伝統的な土蔵の屋根のほぼ中央に洋風の望楼を乗せた特徴のある建物である。望楼は方形造銅板平葺、四面に装飾的な上部半円状の扉を開き、周囲には洋風唐草模様の鉄柵を巡らしている。洋風望楼は、明治初期洋風建築の大きな特徴の一つであり、この地方においても、明治期の旧奥州街道沿いに同様な洋風望楼を乗せた建物が幾つか存在していたといわれるが、現存するのはこの建物だけである。
 この洋風望楼部分は明治20年の建造当初のものではないことが内部構造から判明しており、明治25年の行幸が増築のきっかけになった可能性が高い。

○長屋門(桁行8.5間×梁間2.5間)
 長屋門は、入母屋造、桟瓦葺で左右を小部屋とし、中央部を門とする典型的な長屋門形式である。門は内寄りに門柱を立てて両開きの扉を吊り、東側に通用門(潜門)を開く。正面1階には出窓形式の武者窓を背面2階に格子戸を設けている。
 地方に残る長屋門の中でも最大級のこの長屋門は建築年代を確定する資料は残されていないが、門の飾り金具にはすべて菊花が用いられていることや部材の腐食度から見て、鐡竹堂と同時期の建築と推定できる。

                                     栃木県教育委員会・さくら市教育委員会

奥に見えるのが「蔵座敷」。洋風の望楼がユニーク。

    
                            広い敷地が続く。

 (09:02)少し進んだ左側の田圃の脇に、十九夜塔や二十三夜塔等が4基あります。
         

その先、左側にも石仏が。

沿道には門構えの立派なお屋敷。

 (09:25)しばらく進むと、「桜野交差点」で「国道239号線」と合流します。田園地帯が広がります。
    

            実りの秋。

直線道路をひたすら歩く。

 (09:50)国道に合流して30分程進んだ「松山交差点」の手前右側のおうちの民家の門前に、一里塚の標柱と解説板があります。
    

奥州街道一里塚(史跡)
 近世になると江戸を中心にして諸街道が整備され、宿場や一里塚などが設けられた。一里塚は主要街道の一里ごとに目印として両側に塚を築き、榎や松などを植えた。奥州街道は日光街道と宇都宮で分岐して白河までを指し、これらの街道にも一里塚が設けられた。
 氏家地内には堂原地蔵堂南側と挟間田の二か所あったが、堂原一里塚は明治以降消滅した。挟間田の一里塚も北側は破壊され、南側に一基が現存するだけになった。
 延宝6年(1678)の宿並絵図によると、この地点は、奥州街道の北側は下松山村、南側は狭間田新田村で、一里塚は両村の宿並中央部に一基ずつ明記されている。江戸日本橋を起点として32里目にあたる一里塚である。
 奥州街道の一里塚は現存例が少なく、氏家地内唯一の一里塚として確認できるものである。

                           氏家町教育委員会

注:「氏家町」は喜連川町と合併して「さくら市」になっています。

庭の盛り土の上に祠があります。

そこから来た道を振り返って望む。

「松山」交差点角にある建物? 

金魚池。
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宇都宮宿~白澤宿~氏家宿。その5。(「奥州街道」をゆく。第1日目。)

2016-09-24 20:20:40 | 奥州街道

 この道に入ると、とたんに周囲が田んぼが広がり、人家がぽつぽつある、農道のような道になります。

(14:46)「お伊勢の森」。田んぼの中にある小さな森。

お伊勢の森・奥州街道
 お伊勢の森神明宮は、遠く村の発生とともに祀られたのであろう。旧奥州街道を少し離れた所に四角四面に石を積んだ石塚があり、その中に伊勢神宮の内宮・外宮その他の末社を勧請したのが祀られていた。あたり一面が森をなしていたことから、俗に「お伊勢の森」と言った。ここに詣でることにより、同じご利益があり、いくつかの霊験談が伝説化されて残っている。
 すぐ前の道が昔からあった古道で、東は古宿(現古町)、西は将軍地蔵~阿久津へと通じている。徳川幕府が開かれるとともに氏家村にも宿場や伝馬の制が敷かれるようになり、氏家宿ができた。・・・

直線の道が続きます。

すぐ前方にJRの踏切があります。

JR宇都宮線の電車が通過中。

踏切には「旧奥州街道踏切」と記されています。

「氏家」駅方向。

 のどかなたんぼ道。
    
                                  晴れていれば奥日光の山並みが見えそうですが。

       一面、大豆畑。

(15:01)住宅街にさしかかって正面のT字路を左折。

 その右の角に奥州街道道標や馬頭観音等が建っています。
    

解説板はかすれて判読不能。道標もほとんど判読できません。
 道標には「右 江戸海道」「左 水戸 かさま 下だて 下づま」と記されているようです。
 ここは「氏家宿」の南端でもあり、奥州街道は鉤の手に曲がり、木戸番所が設けられていました。

「氏家宿」内のようす。

「道標」等がある角を振り返って望む。

 宿内には古くてりっぱなおうちがあります。
    
                                      「伝馬町」という表示。

    

                       


15:13)しばらく進んだ右側に「寛方・タゴール平和公園」があります。

荒井寛方(あらいかんぽう・1878~1945)はここに生まれ、日本画家をめざして巣立ちました。仏画を志した寛方は原三渓やアジアで初めてノーベル文学賞を受賞した詩聖タゴールの知遇を受け、日本画の教授として渡印しました。その間、アジャンタ壁画模写の難事業を成し遂げ、多くの人々と交わり、日印文化交流の架け橋となりました。
 この公園は、荒井寛方の業績を顕彰するとともに、寛方とインドのノーベル賞詩人で思想家のタゴールの友情を記念して作られた公園です。園内にはタゴールが寛方に贈った惜別の詩を刻んだモニュメント、寛方の代表作を陶板画にして飾ったギャラリー、茶室やせせらぎ配した庭園などが設けられています。

    

                    

「氏家仲町」。「108」で「東野」。 

「穀町」。

 今回は、ここまで。JR「氏家」駅に向かいます。 

途中にあった居酒屋さん。看板に「かえるの塩焼」?!  

駅の近くにはしゃれたレストラン?
    

参番館」。「氏家オープンダイニング、ダイニングバー」・・・。                                         
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宇都宮宿~白澤宿~氏家宿。その4。(「奥州街道」をゆく。第1日目。)

2016-09-23 20:30:47 | 奥州街道
 「白澤宿」の中心部は350㍍ほどで終わって「枡形」(西の出入口)になってしまいます。
 それほど大きな集落ではありませんが、何だかもったいないほどの町並みです。宇都宮の繁華街から歩いてもわずか3~4時間で着くところなのですが、まだ街道情緒を残す建物などが残っています。


 新しいおうちも目立ちますが、敷地は街道筋らしく、間口が狭く奥行きが長い。これまでの東海道など街道歩きでしばしば見てきたようすと変わりません。


(12:28)正面が枡形(鈎の手)になります。

 その突き当たりには「澤姫」という地酒を造っている「井上清吉商店」。「真・地酒宣言」。杉玉もしっかり。
    

宿内を振り返って望む。左奥から来ます。

 (12:30)右折し、しばらくして渡る橋が「九郷半橋」。
    

 この先が道を間違ったところ。案内板でもあったならば(もしかしたら見逃したのかもしれませんが)と悔いても後の祭り。
 宿場を出ると、広い道が西(左)にカーブしていきます。目の前のまっすぐな道はちょっと細くて何だか心許ない。つい広々とした道路の方へ向かってしまいました。
 先達の案内書を見ると、「しばらく行くと、鬼怒川の土手に出る」という風にあります。そのうち出会うだろうと歩いて行きました。いっこうに「鬼怒川」にぶつからない。
 変だと思ったときはすでにかなり来てしまった! 「白澤宿」を出たら、そのまま先ほどの道を北に向かわなければならなかったのです。そのため、「白澤の一里塚跡」記念碑にも遭わないはず。路線バスの行き先が「白沢河原」とあったのを思い出しました。その道の先に終点があったわけです。・・・

向こうに見える山は「笠松山」?

(12:41)土地改良工事のモニュメント? ユニーク!

 (13:09)ひたすら歩いてやっと「鬼怒川」に架かる「阿久津大橋」のたもとに着きました。右手から来る道が鬼怒川の土手道。
    

 土砂降りの雨に遭わなかったのがせめてもの慰め。車以外はまったく誰にも会わない車道を歩いてきたのでした。「鬼怒川渡し場」跡の標識も見ずじまい。
 この先もまた大変! 「阿久津大橋」を行かなければならないのですが、車道のみ。歩行者用の道はなく、端にある白線だけが頼り。
 車はどんどん飛ばして来るし、大きな車でも来たときには冷や冷やもの。何しろ人がこんな橋の上を渡っているなどと運転手は思いもしないはず。お互いに冷や冷や。
 後ろから刎ねられたらたまったものじゃないと反対車線の方に行こうとしても車の列は途切れない。危険極まりない歩き。

         

(13:13)橋の真ん中付近で「さくら市」になります。

下流側。 

河原を見下ろすと、鮎釣りの人がそこかしこに。

下流。河原の様子からけっこう幅が広い川です。

 橋を渡って突き当たりを左折して行きます。(13:27)途中、「浮島地蔵」「船玉神社」の案内表示があります。「鬼怒川」べりにあるようですが、雨が降ってきそうで、省略。この道が旧道かどうか定かではなく、ちょっと不安に。

 右手に蕎麦畑が広がり、その先に食堂があったので、道を聞きがてらビールと地元のうどんを食し、ゆっくり休憩。

「勝山食堂」さん。親切に教えてくれました。

 (14:20)そのすぐ先、右手に「将軍地蔵」。
    

将軍地蔵
 源義家が奥州に進軍したとき鬼怒川釜ヶ淵の悪蛇のため進めません。秀円法師の祈りで将軍地蔵が出現して悪蛇を退散させたので、勝山城を守護する寺院として堂原に将軍山地蔵院満願寺を建てました。
 室町時代のころ、ここから日光山へ修行にいったお坊さんが意地悪山伏に素麺を無理やり食べさせられて気絶しました。別のお坊さんが来て日光中の素麺を食べ尽くしたので山伏は降参しました。お坊さんは将軍地蔵の姿となりお坊さんを連れて勝山に帰りました。これから「そうめん地蔵」伝説が生まれ、日光責め・強飯式が起こったと言われています。戦国時代に那須勢が攻めてきて焼き打ちをしたので満願寺は焼けてしまいました。
 江戸時代には再建されて堂原地蔵堂となり奥州街道の道中安全に利益があるので有名となり、遠く秋田・会津の商人たちから奉納された石灯籠などが残されています。
  

 境内には古くて大きなイチョウがあります。推定樹齢約600年、樹高28.2㍍、目通周囲4.9㍍。
    
           堂原の公孫樹(天然記念物)

 本来の旧道はこの先工場の敷地内でなくなってしまっているらしいので、そのまま進んで、「ベイシア」への入口を右折していきます。
(14;28)

 道路をはさんで左手は「さくら市ミュージアム」「勝山城址公園」となっています。

 「スーパーベイシア」の駐車場に沿って左に行くと、上下線片側2車線、中央分離帯もがっちり設置された「国道4号線」にぶつかってしまいます。
 旧道はそのまま向こう側につながっていきますが、信号機がなく、車はひっきりなしに通過するので、ここも危険極まりありません(「阿久津大橋」よりも危険! )。
 遠く左には信号のある交差点、南には横断歩道橋。そこで、横断歩道橋を行くことにします。

「スーパーベイシア」正面。

 (14:36)歩道橋から望む。
    
 「那須塩原」方面。                        「宇都宮」方面。
 
国道4号線の距離表示「東京まで124㎞」ポスト。

正面の道から、

この道へ。
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宇都宮宿~白沢宿~氏家宿。その3。(「奥州街道」をゆく。第1日目。)

2016-09-21 21:23:22 | 奥州街道
 (11:40)前方に「ここから白沢宿内」の案内表示が見えてきます。が大事なヒント。

                   
 横断歩道橋のある分岐点になりますが、左にカーブする道路の方が広く、車もそちらへ。ついその道を行ってしまう場合もありそう。正解は右に少しカーブしている道が白沢宿への道。

 (11:50)しばらく進むと、右手に四阿風の休憩施設。ここで、こちらも小休止。
「ここは江戸より30里」という説明。
 右奥の建物の周囲には「立ち入り禁止」のロープが張ってあります。いったい何があったのか?

大きな石塔「勝善神」。

 路傍に建てられている「馬頭観音」が馬の安全や健康を祈ったり、死んだ馬の冥福を祈ったりするものであるのに対して、
勝善神は、主として馬産地において名馬の誕生を祈願する意味の強い信仰であるようです。
 「勝善」や「ショウデン」も蒼前〔ソウゼン〕がなまったものといわれています。
 「日光道中」でも「宇都宮宿」を出た先に、大きな「勝善神」碑がありました。

長い下り坂になります。

 (12:14)ゆるやかな下り坂の途中、左手に「やげん坂」の解説板があります。

    
やげん坂
 この坂は、漢方の薬種をくだく舟形の器具(薬研やげん)に坂の形が大変似ているところから、「やげん坂」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。
 また慶長14年(1609)白沢として町割ができる以前からここには海道の道しるべとして夫婦の大きな榎があった由緒あるところです。                       河内町

「やげん坂」を振り返って望む。

(12:15)前方に公衆トイレのような建物。

 近づいてみると、江戸時代の公衆便所でした。残念ながらトタン板で囲まれていて、様子はうかがえません。


その代わり、当時の絵が。

 なかなかユニークな紹介。この後も「白沢宿」に対する地元の熱意を感じさせるものがいくつも。 



 落ち着いた町並みが続きます。それぞれのおうちにはかつての屋号などが掲げられています。
    
        「碇屋」。                                「樋口屋」。    

 (12:20)「白沢宿」という交差点を左に折れると、「白沢宿」の中心部。側溝には豊かに水が流れ、水車も設置されるなど、情緒ある町並みが現れます。
    

「住吉屋」。
                     連子格子のある旅籠屋らしい雰囲気を残しています。。

「本陣・宇加地家」。

奥には江戸末期の本陣の建物が見えます。

 その前には、「白沢宿」解説板などが立っています。旧型の郵便ポストも。


    

白沢宿
 奥州街道(奥州道中)の18番目の宿駅(宿場町)。現在の栃木県宇都宮市の北東部、白沢町白沢宿。
 白沢宿(白澤宿)は、江戸時代に奥州街道(奥州道中)下野国河内郡にあった宿場町で、宇都宮宿の次の宿駅。江戸から丁度30里余に位置する。
 天保14年(1843年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、白沢宿は家数71軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠13軒、人口369人であった。
 白沢宿本陣は宇加地家、脇本陣は福田家が拝命していた。白沢宿の名物として鬼怒川の鮎と白沢の牛蒡(牛房:ごぼう)が知られていた。当時、稚児ヶ坂の中程に茶屋があり、四季を問わず牛房汁を出していたと言われている[1]。
 宇都宮宿から白沢街道(旧奥州道中)を歩くと稚児ヶ坂(ちごがさか、ちがさか)を登り切った宝木台地の北東端付近に白沢地蔵堂(しらさわじぞうどう)が、またこの宝木台地を下る薬研坂(やげんざか)を下りて左折した宿内には村社白髭神社(しらひげじんじゃ)が、また宿の北端には薬師堂(やくしどう)が建つ。坂上の白沢地蔵堂は鎌倉時代に源頼朝の命を受けて一族で奥州に下向した伊沢家景が旅中に病死した実子の亡骸を葬って祀ったのが起源、また、白髭神社は白髪神社とも書き白沢宿の名前の起源とも云われるが、不詳である。
 薬師堂は宇加地家墓所に併設する。奥州道中は薬師堂の辻口で右折し宿外に出て九郷半川および西鬼怒川(にしきぬがわ)を渡って白沢の一里塚(しらさわのいちりづか)に至る。この一里塚は江戸より30番目、30里に当たる塚で当時は鬼怒川の河原にあったが、度々の水害で破壊され痕跡が残っておらず、現在は白沢河原に白沢各自治会によって記念碑が建てられている。
 現在、白沢宿は東京から栃木県を経て東北地方を結ぶ国道4号のルートから外れており、白沢宿を通る旧奥州街道沿道には鬼怒川から取水された用水が両側を流れ、その用水には水車が設けられ、沿道の民家には屋号が掲げられているなど、江戸期の静かな風情を髣髴させる宿並みとなっている。
(以上、「Wikipedia」参照)

 上に出てくる「白沢の一里塚」記念碑は、道を間違えてしまい、行きそびれたので紹介します。



私たちの地域には「白澤の一里塚の碑」があります。
奥州街道白澤宿の会では、江戸時代に多くの人たちが利用した一里塚の歴史を構成に伝えるため、会員と地元白沢河原、白沢甲部、白沢南の各自会の皆さんの協力を得て、ここに白澤の一里塚の碑を建立しました。
 設置場所は、白沢河原自治会内、奥州街道、鬼怒川と西鬼怒川の間、関東バス白沢河原バス停に隣接しています。
 一里塚は旅人が目的地へ到達するまでの目標と、馬や駕籠の賃銭の支払いの目安に、江戸幕府によって慶長9年(1604年)に設置されました。
 江戸・日本橋を起点にして奥州街道はじめ五街道の両側に一里毎に設けられた塚は、一般に9メートル四方で、この上に榎が植えられました。
 これは、一里塚であることの目的と旅人の日除けの役割を果たしました。
 古文書には、白澤の一里塚は日本橋から30番目で、かつては鬼怒川の河原にあったため、たびたび洪水で壊れてしまったと記されています。
 近年、白澤七福神めぐりに県内外よりウォーキングを楽しむ方が増えています。
 皆さんも是非「白澤七福神めぐり」に合わせて、白沢の一里塚にお立ち寄りください。

                                       (地域情報紙かわち 第15号)

※右の「解説板」
ここは江戸より三十里

 江戸江    参拾里 四町 弐拾間
 宇都宮宿江  弐里弐拾八町

白澤宿 与利

 氏家宿江   壱里半
 喜連川宿江  参里 拾八町
 佐久山宿江  六里 拾弐町 参拾六間
 大田原宿江  八里 壱町  拾七間
 ・・・(中略)
 白河宿江   拾八里参拾四町 拾九間半 (69。6㎞)

 奥州道中白河宿より、宇都宮宿迄弐拾壱里余りを、膝栗毛によって踏破した記念にこの高札を掲げる。 

 平成参年(一九九一)拾壱月四日
   奥州街道白澤宿の会
   奥州街道膝栗毛の会
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宇都宮宿~白沢宿~氏家宿。その2。(「奥州街道」をゆく。その第1日目。)

2016-09-20 21:01:24 | 奥州街道
 (09:25)「幸橋」を渡ったとたん、前方にすばらしい景観が目の前に広がります。近代的ビル(ホテル)を借景にし、風格のある存在感を示す「旧篠原家住宅」。国の重要文化財に指定されています。

    
 篠原家は奥州街道口の豪商で、江戸時代から第二次世界大戦までは醤油醸造業・肥料商をを営んでいた。明治28年(1895)に建てられたこの店蔵は、店舗と住居部分を一体化した蔵造りになっている。市内の店蔵の中で、改造がほとんどせれておらず、かつ、石蔵を伴って残されているものは数少ない。
 住宅の一階部分の両側には、暑さ約8㎝の大谷石が貼ってあり、この店蔵の特色になっている。帳場の奥に約45㎝角のケヤキの大黒柱がある。これは二階の大広間(20畳敷き)の床柱を兼ね、さらに棟木まで延びており、建築的に大変珍しいものである。全体的には装飾性は少ないが、よい材料を贅沢に使っており、美しく豪華に造られている。なお石蔵3棟のうち最も古いものは、嘉永4年(1851)に建てられたものである。

    

 ここを左折して「県道125号線」を北東に進みます。「新幹線」の高架の手前で右への分岐がありますが、そのまま直進して「新幹線」の高架下を抜けます。この県道は、「白沢街道」と銘打たれています。

 両側には立派な門構えや大谷石を用いた蔵造りのあるお屋敷が続いています。(09:53)

    

    

「巨峰直売します」。 

 先達によると、沿道には「松並木」名残りの松が一本立っているとのことでしたが、県道の拡幅整備工事のためでしょうか、見当たりません。すでに切り倒されたようです。
 また、この付近には、「根来塚」「土堂原地蔵」といった「宇都宮藩」、「旧奥州街道」にまつわる史跡があるとのことでしたが、沿道には案内表示もなく、そのまま見過ごしてしまいました。この先の「旧奥州街道」。「一里塚」、「鬼怒川渡船場」跡など、近年の道路整備、沿道の住宅整備などで失われてしまったもの(ところ)が多いようです。先達の記録を参考にして歩き回りましたが、空振り! に。

 「白沢宿」内以外は、ほとんど案内表示も見当たらず、旧道歩きは迷いやすくなっています。

松の木があった(らしい)地点から振り返って望む。

しばらく進むと「地蔵前」というバス停。(10:25)
 この付近に「土堂原地蔵尊」があるのかと思って「栃木銀行」裏など探してみましたが、見当たりませんでした。はてさて?

 その先辺りから「海道」という名称が出てきます。

 「海道」という漢字は、文字通り「海」沿いの大道で、「東海道」はそれに当てはまりますが、「海」沿いではない、その他の大道も「・・・海道」と記していたようで、「五街道」が定まった後でも、「奥州街道(道中)」は、奥州「海道」と称しましたが、享保元年(1716)、江戸幕府は東海道以外は「海道」ではないとして、公式的には「奥州道中」となりました。しかし、「日光」や「甲州」と同じように「街道」と表記する(言う)こともあったようです。
 また、それまでと同様に「海道」と記すことや町名として「海道」と称した地もあったようです。(そういえば、日光道中・「小山宿」の先の道沿いの小さな公園の名が「海道公園」とありました。)

           (10:41)

 県道(「白沢街道」)を北上し、「下川俣町」交差点で「国道119線」の高架下をくぐると、周囲が開けてきます。
今にも降ってきそうな厚く黒い雲。

足元には「ツユクサ」。

 しばらくして「海道町」に入ります。

「おとり鮎」。鮎の友釣りのための? 後に「鬼怒川」を渡ったときに、たくさんの釣り人を見かけました。


 沿道には桜あるいは杉などの並木が現れはじめます。
       

ナシ狩り。

「海道小学校」案内板。

(10:58)「馬頭尊」。

「下野菓心庵 高林堂」付近の並木。車の通りも少なく、天気さえよければ快適な散歩道。
    

「海道端霊園」。

田園風景が広がります。すでに稲刈りも終わったところも。

道はゆるい上り坂にさしかかります。(11:24)「稚ヶ坂」バス停。

 約800年前の建久二年、伊沢家景が初代奥州惣奉行に任命され、妻子や家臣を連れ陸奥国へ向かったが、子の菊丸が発病し奥州街道「奥州道中」の稚児ヶ坂(現在の王子板紙㈱日光工場近く)で病状が悪化し亡くなった。街道脇に葬って供養されたが、里人はこれを哀れみ、誰言うことなく、この坂を稚ヶ坂と呼ぶようになった。
 今も面影を残す稚ヶ坂に沿う西側歩道には大木となった桜並木がある。悲話と共に満開の桜並木の景観は住民と通行者の心を癒してくれる、私たちのロマンチックポイントとして大切に保存していかなけばならない。
 (以上、「稚ヶ坂(ちがさか)第一自治会」HPより)

   桜並木。

坂の上、右手に稚児を祀った「地蔵堂」? 

(11:30)振り返って望む。

 坂上の左に広がる工場は「王子マテリア日光工場」。主に段ボール原紙を製造しています。

坂上から10分ほど進むと、「白沢宿」入口になります。
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宇都宮宿~白沢宿~氏家宿。その1。(「奥州街道」をゆく。その第1日目。)

2016-09-19 20:37:08 | 奥州街道
 雨続き。強い(余談ですが、台風で「強い」とか「弱い」とかは予想雨量や範囲の大小ではなく、風の強さで判断されるようです。まさに大風。)台風も週明けに近づくとの予報。「中山道」はいよいよ泊まりがけでないと無理な旅程、それも2泊3日(今度は、「下諏訪」までとなりそうだから)? ちょっとお休みして日帰りで行けるところ、ということで「奥州街道」(宇都宮~白河)を先にこなしてしまおうと。そこで、「五街道」歩きは、しばらく「奥州街道」を、ということで、その第1日目。

 9月16日(金)。曇り時々小雨。かなり蒸し暑い天気。
 「東武宇都宮」駅に降りたって、「日光道中」と「奥州街道(道中)」との分岐点(追分)へ。
ここが出発点(08:40)。
 「日光道中」はここを左折しますが、「奥州街道」はまっすぐ東へ向かいます。宇都宮一のメインストリートで道路も広く、宇都宮の繁華街。江戸時代当時の宿場町としての面影は見当たりません。

すぐ先の歩道の右手には「高札場跡」

「伝馬町」付近。通勤、通学時とあって、人も車もたくさん。

 「日光道中」との追分付近と「みずほ銀行」付近には二つの本陣があったということですが、その痕跡(案内板等)はありません。  


    
   「釜川」に架かる都(みやこ)橋。江戸時代は、太鼓橋で池上橋と呼ばれていたそうだ。

 「県庁前」バス停の先の交差点を右折します。渡ってすぐ、左手の奥まったところに「史蹟 行在所向明館」の碑(08:52)。
    

道の正面には「オリオン通り」というアーケード街。

 その道が旧奥州街道となります。左折して進みます。   
    
   オリオン通り。旧街道は宿場特有の枡形になっていて、右左折を繰り返します。(順に、右折・左折・左折・右折・左折)

 ここで、「宇都宮宿」について。
 日光街道および奥州街道の17番目の宿場。宇都宮城の城下町にあり、両街道の追分であったほか、国内各地を結ぶ主要道路が通る交通の要衝で、日光街道で最も賑わった宿場町と云われている。
 宇都宮宿は、宇都宮城の城下町であり宇都宮大明神(二荒山神社)の門前町でもあった宇都宮が、徳川家康の命により慶長7年(1602年)に伝馬・宿駅を命ぜられた。
 以来、宿場町となり人足25人と馬25頭の常備が義務付けられていた。一方で地子免許状が交付され土地税は免除となり負担軽減の措置が執られていた。
 元和3年(1617年)に徳川家康が日光山に祀られ、寛永13年(1636年)に徳川家光によって現在の東照社が日光に造営され、さらに正保2年(1647年)に朝廷より東照社に宮号が宣下され日光東照宮となると、日光街道は参詣道としての重要度も急速に高まり、文政期には日光街道を参勤する大名家は41家を数え、五街道では東海道の146家に次いで多いなど通行量が増大した。
 伝馬役は日光街道と奥州街道の追分である伝馬町、池上町界隈で受け持っており、宇都宮宿で最も栄え、多くの商家や問屋が店を構え、寛文10年(1670年)には本陣と脇本陣が置かれている。大黒町には木賃宿が設けられ一般旅客の宿泊所となっていたほか、挽路町や材木町には造り酒屋や遊郭などもあった。蓬莱町、大黒町、歌橋町などの界隈では七の付く日に市が立ち、たいへん賑わったと伝えられている。また、日光街道には2宿に貫目改所が設けられたが、ひとつは千住宿に、そしてもうひとつが宇都宮宿新石町に置かれていた。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宇都宮宿は南北20町(約2.2km)、東西18町58間(約2.1km)の規模で、本陣は2軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が42軒あった。宿内の家数は1219軒、人口は6,457人であった。
 門前・寺社を含めた宇都宮城下では、天保15年(1844年)の記録によると、家数1,693件、人口15,500人であり、江戸初期には32町であったのが、後期には48町まで増えている。本陣は日光道中と奥州道中の追分に当たる伝馬町および池上町に1軒ずつ、脇本陣は伝馬町に1軒、それぞれ所在した。
                                            (以上、「Wikipedia」参照)

「オリオン通り」から「日野通り」に入ります。

「日野町」。
 慶長3年(1588)、蒲生秀行が宇都宮城主になったとき、蒲生氏の出身地である近江国日野(現・滋賀県蒲生郡日野町)の商人を東勝寺の跡地に住まわせたのが、町名の起こりといわれています。この町は奥州街道に面し、荒物屋・呉服屋・小間物屋などが軒を並べていました。 

 左側に二荒山神社参道があります。二荒山神社は延喜式内社で、下野国一宮で、宇都宮の語源となった神社です(いわれにはいくつか説あり)。

 「日野通り」の突き当たりを左折し、すぐ右折して「大町通り」に入ります。
    

(09:10)右手に「おしどり塚」への案内碑。

 奥には公園があります。
    

 おしどり塚は鎌倉時代に無住法師の「沙石集 」によって紹介された旧跡地であり、次のような話が伝えられている。
 鎌倉時代のころ、この付近を流れていた求食川(あさりがわ)で猟師が一羽の雄のおしどりを射とめ、その首を切り、身体だけを持ち帰った。
 翌日、同じ場所でうずくまっている雌のおしどりを射ると、その翼の下には昨日のおしどりの首がしっかりと抱きかかえられていた。
 猟師は鳥のもつ愛情に深く心を打たれ、今までの殺生を悔い、石塔を建てて供養したという。

 「大町通り」の突き当たりを左折して「幸橋」へ向かいます。
(09:15)「大町通り」を振り返って望む。 

「幸橋」の手前には、「橋爪氏の墓」という解説板。
 それによると、お堂の中の二つの五輪塔は源頼朝が奥州の藤原氏を攻めたとき、祈願成就の御礼の生け贄として橋爪俊衡と弟秀衡の墓と伝えられているとのこと。

 「田川」に架かる幸橋を渡ります。「幸橋」は、宇都宮宿の出口に当たります。
    

 いくつかのレリーフがあり、かつての様子がうかがわれます。
    
        幸橋遠景。                           夕涼み風景。

 「幸橋」を過ぎると、旧道は次の宿場「白沢宿」へ向かいます。
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