雨続き。強い(余談ですが、台風で「強い」とか「弱い」とかは予想雨量や範囲の大小ではなく、風の強さで判断されるようです。まさに大風。)台風も週明けに近づくとの予報。「中山道」はいよいよ泊まりがけでないと無理な旅程、それも2泊3日(今度は、「下諏訪」までとなりそうだから)? ちょっとお休みして日帰りで行けるところ、ということで「奥州街道」(宇都宮~白河)を先にこなしてしまおうと。そこで、「五街道」歩きは、しばらく「奥州街道」を、ということで、その第1日目。
9月16日(金)。曇り時々小雨。かなり蒸し暑い天気。
「東武宇都宮」駅に降りたって、「日光道中」と「奥州街道(道中)」との分岐点(追分)へ。
ここが出発点(08:40)。
「日光道中」はここを左折しますが、「奥州街道」はまっすぐ東へ向かいます。宇都宮一のメインストリートで道路も広く、宇都宮の繁華街。江戸時代当時の宿場町としての面影は見当たりません。
すぐ先の歩道の右手には「高札場跡」
「伝馬町」付近。通勤、通学時とあって、人も車もたくさん。
「日光道中」との追分付近と「みずほ銀行」付近には二つの本陣があったということですが、その痕跡(案内板等)はありません。
「釜川」に架かる都(みやこ)橋。江戸時代は、太鼓橋で池上橋と呼ばれていたそうだ。
「県庁前」バス停の先の交差点を右折します。渡ってすぐ、左手の奥まったところに「史蹟 行在所向明館」の碑(08:52)。
道の正面には「オリオン通り」というアーケード街。
その道が旧奥州街道となります。左折して進みます。
オリオン通り。旧街道は宿場特有の枡形になっていて、右左折を繰り返します。(順に、右折・左折・左折・右折・左折)
ここで、「宇都宮宿」について。
日光街道および奥州街道の17番目の宿場。宇都宮城の城下町にあり、両街道の追分であったほか、国内各地を結ぶ主要道路が通る交通の要衝で、日光街道で最も賑わった宿場町と云われている。
宇都宮宿は、宇都宮城の城下町であり宇都宮大明神(二荒山神社)の門前町でもあった宇都宮が、徳川家康の命により慶長7年(1602年)に伝馬・宿駅を命ぜられた。
以来、宿場町となり人足25人と馬25頭の常備が義務付けられていた。一方で地子免許状が交付され土地税は免除となり負担軽減の措置が執られていた。
元和3年(1617年)に徳川家康が日光山に祀られ、寛永13年(1636年)に徳川家光によって現在の東照社が日光に造営され、さらに正保2年(1647年)に朝廷より東照社に宮号が宣下され日光東照宮となると、日光街道は参詣道としての重要度も急速に高まり、文政期には日光街道を参勤する大名家は41家を数え、五街道では東海道の146家に次いで多いなど通行量が増大した。
伝馬役は日光街道と奥州街道の追分である伝馬町、池上町界隈で受け持っており、宇都宮宿で最も栄え、多くの商家や問屋が店を構え、寛文10年(1670年)には本陣と脇本陣が置かれている。大黒町には木賃宿が設けられ一般旅客の宿泊所となっていたほか、挽路町や材木町には造り酒屋や遊郭などもあった。蓬莱町、大黒町、歌橋町などの界隈では七の付く日に市が立ち、たいへん賑わったと伝えられている。また、日光街道には2宿に貫目改所が設けられたが、ひとつは千住宿に、そしてもうひとつが宇都宮宿新石町に置かれていた。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宇都宮宿は南北20町(約2.2km)、東西18町58間(約2.1km)の規模で、本陣は2軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が42軒あった。宿内の家数は1219軒、人口は6,457人であった。
門前・寺社を含めた宇都宮城下では、天保15年(1844年)の記録によると、家数1,693件、人口15,500人であり、江戸初期には32町であったのが、後期には48町まで増えている。本陣は日光道中と奥州道中の追分に当たる伝馬町および池上町に1軒ずつ、脇本陣は伝馬町に1軒、それぞれ所在した。
(以上、「Wikipedia」参照)
「オリオン通り」から「日野通り」に入ります。
「日野町」。
慶長3年(1588)、蒲生秀行が宇都宮城主になったとき、蒲生氏の出身地である近江国日野(現・滋賀県蒲生郡日野町)の商人を東勝寺の跡地に住まわせたのが、町名の起こりといわれています。この町は奥州街道に面し、荒物屋・呉服屋・小間物屋などが軒を並べていました。
左側に二荒山神社参道があります。二荒山神社は延喜式内社で、下野国一宮で、宇都宮の語源となった神社です(いわれにはいくつか説あり)。
「日野通り」の突き当たりを左折し、すぐ右折して「大町通り」に入ります。
(09:10)右手に「おしどり塚」への案内碑。
奥には公園があります。
おしどり塚は鎌倉時代に無住法師の「沙石集 」によって紹介された旧跡地であり、次のような話が伝えられている。
鎌倉時代のころ、この付近を流れていた求食川(あさりがわ)で猟師が一羽の雄のおしどりを射とめ、その首を切り、身体だけを持ち帰った。
翌日、同じ場所でうずくまっている雌のおしどりを射ると、その翼の下には昨日のおしどりの首がしっかりと抱きかかえられていた。
猟師は鳥のもつ愛情に深く心を打たれ、今までの殺生を悔い、石塔を建てて供養したという。
「大町通り」の突き当たりを左折して「幸橋」へ向かいます。
(09:15)「大町通り」を振り返って望む。
「幸橋」の手前には、「橋爪氏の墓」という解説板。
それによると、お堂の中の二つの五輪塔は源頼朝が奥州の藤原氏を攻めたとき、祈願成就の御礼の生け贄として橋爪俊衡と弟秀衡の墓と伝えられているとのこと。
「田川」に架かる幸橋を渡ります。「幸橋」は、宇都宮宿の出口に当たります。
いくつかのレリーフがあり、かつての様子がうかがわれます。
幸橋遠景。 夕涼み風景。
「幸橋」を過ぎると、旧道は次の宿場「白沢宿」へ向かいます。
9月16日(金)。曇り時々小雨。かなり蒸し暑い天気。
「東武宇都宮」駅に降りたって、「日光道中」と「奥州街道(道中)」との分岐点(追分)へ。
ここが出発点(08:40)。
「日光道中」はここを左折しますが、「奥州街道」はまっすぐ東へ向かいます。宇都宮一のメインストリートで道路も広く、宇都宮の繁華街。江戸時代当時の宿場町としての面影は見当たりません。
すぐ先の歩道の右手には「高札場跡」
「伝馬町」付近。通勤、通学時とあって、人も車もたくさん。
「日光道中」との追分付近と「みずほ銀行」付近には二つの本陣があったということですが、その痕跡(案内板等)はありません。
「釜川」に架かる都(みやこ)橋。江戸時代は、太鼓橋で池上橋と呼ばれていたそうだ。
「県庁前」バス停の先の交差点を右折します。渡ってすぐ、左手の奥まったところに「史蹟 行在所向明館」の碑(08:52)。
道の正面には「オリオン通り」というアーケード街。
その道が旧奥州街道となります。左折して進みます。
オリオン通り。旧街道は宿場特有の枡形になっていて、右左折を繰り返します。(順に、右折・左折・左折・右折・左折)
ここで、「宇都宮宿」について。
日光街道および奥州街道の17番目の宿場。宇都宮城の城下町にあり、両街道の追分であったほか、国内各地を結ぶ主要道路が通る交通の要衝で、日光街道で最も賑わった宿場町と云われている。
宇都宮宿は、宇都宮城の城下町であり宇都宮大明神(二荒山神社)の門前町でもあった宇都宮が、徳川家康の命により慶長7年(1602年)に伝馬・宿駅を命ぜられた。
以来、宿場町となり人足25人と馬25頭の常備が義務付けられていた。一方で地子免許状が交付され土地税は免除となり負担軽減の措置が執られていた。
元和3年(1617年)に徳川家康が日光山に祀られ、寛永13年(1636年)に徳川家光によって現在の東照社が日光に造営され、さらに正保2年(1647年)に朝廷より東照社に宮号が宣下され日光東照宮となると、日光街道は参詣道としての重要度も急速に高まり、文政期には日光街道を参勤する大名家は41家を数え、五街道では東海道の146家に次いで多いなど通行量が増大した。
伝馬役は日光街道と奥州街道の追分である伝馬町、池上町界隈で受け持っており、宇都宮宿で最も栄え、多くの商家や問屋が店を構え、寛文10年(1670年)には本陣と脇本陣が置かれている。大黒町には木賃宿が設けられ一般旅客の宿泊所となっていたほか、挽路町や材木町には造り酒屋や遊郭などもあった。蓬莱町、大黒町、歌橋町などの界隈では七の付く日に市が立ち、たいへん賑わったと伝えられている。また、日光街道には2宿に貫目改所が設けられたが、ひとつは千住宿に、そしてもうひとつが宇都宮宿新石町に置かれていた。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宇都宮宿は南北20町(約2.2km)、東西18町58間(約2.1km)の規模で、本陣は2軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が42軒あった。宿内の家数は1219軒、人口は6,457人であった。
門前・寺社を含めた宇都宮城下では、天保15年(1844年)の記録によると、家数1,693件、人口15,500人であり、江戸初期には32町であったのが、後期には48町まで増えている。本陣は日光道中と奥州道中の追分に当たる伝馬町および池上町に1軒ずつ、脇本陣は伝馬町に1軒、それぞれ所在した。
(以上、「Wikipedia」参照)
「オリオン通り」から「日野通り」に入ります。
「日野町」。
慶長3年(1588)、蒲生秀行が宇都宮城主になったとき、蒲生氏の出身地である近江国日野(現・滋賀県蒲生郡日野町)の商人を東勝寺の跡地に住まわせたのが、町名の起こりといわれています。この町は奥州街道に面し、荒物屋・呉服屋・小間物屋などが軒を並べていました。
左側に二荒山神社参道があります。二荒山神社は延喜式内社で、下野国一宮で、宇都宮の語源となった神社です(いわれにはいくつか説あり)。
「日野通り」の突き当たりを左折し、すぐ右折して「大町通り」に入ります。
(09:10)右手に「おしどり塚」への案内碑。
奥には公園があります。
おしどり塚は鎌倉時代に無住法師の「沙石集 」によって紹介された旧跡地であり、次のような話が伝えられている。
鎌倉時代のころ、この付近を流れていた求食川(あさりがわ)で猟師が一羽の雄のおしどりを射とめ、その首を切り、身体だけを持ち帰った。
翌日、同じ場所でうずくまっている雌のおしどりを射ると、その翼の下には昨日のおしどりの首がしっかりと抱きかかえられていた。
猟師は鳥のもつ愛情に深く心を打たれ、今までの殺生を悔い、石塔を建てて供養したという。
「大町通り」の突き当たりを左折して「幸橋」へ向かいます。
(09:15)「大町通り」を振り返って望む。
「幸橋」の手前には、「橋爪氏の墓」という解説板。
それによると、お堂の中の二つの五輪塔は源頼朝が奥州の藤原氏を攻めたとき、祈願成就の御礼の生け贄として橋爪俊衡と弟秀衡の墓と伝えられているとのこと。
「田川」に架かる幸橋を渡ります。「幸橋」は、宇都宮宿の出口に当たります。
いくつかのレリーフがあり、かつての様子がうかがわれます。
幸橋遠景。 夕涼み風景。
「幸橋」を過ぎると、旧道は次の宿場「白沢宿」へ向かいます。