「松山」交差点の先で国道293号線は右手にカーブしていきますが、旧道(奥州街道)はそのまままっすぐ「弥五郎」坂を上って行きます。
左手、用水路の向こうには田んぼが広がります。
(10:06)その分かれる手前、右の角にある自動車整備工場の前に新旧2体の大黒天の像があり、古い方の台座には明治時代の測量に採用された水準点があり、「不(に似た記号)」の記号が刻んであります。これは、日光街道沿いにも何ヶ所か残っていて、実際に見ることができます(「草加宿」、「幸手宿」などで)。
旧道に入って左手の畑に石仏、石碑が並んでいます。
右側には「奥州街道」の標識が立っています。
(10:11)その先右側に石段があり、上り口に「早乙女古戦場」の標柱と説明板が立っています。石段を登ると、鞘堂が建っていて、鞘堂の中には供養塔(五輪塔)が納まっているそうですが、省略。
古戦場
天文18年(1549)、那須氏、喜連川塩谷500余騎と宇都宮尚綱率いる宇都宮軍2000余騎とが戦った古戦場で、激戦の末宇都宮軍は喜連川軍の鮎瀬弥五郎実光に背後から大将の尚綱が射たれ退散したといわれています。
坂の途中から来た道を振り返って望む。
正面左手の小高い丘一帯が古戦場跡。
古戦場の先、右手には「早乙女坂温泉」。けっこう来客が多そう。
「セブンハンドレッドクラブ」入口が頂上で、そこから下り坂になります。
(10:19)峠から少し下ると、右側に古道の入口が見えてきます。左の道へ行くと「河東碧梧桐句碑」があると案内板の地図に記されています。どちらに進んでも先で一緒になる、と。
史跡 奥州街道(古道) さくら市指定(平成17年2月9日指定)
慶長6(1601)年徳川幕府は全国支配のため、江戸と各地を結ぶ五街道の整備を始めた。奥州街道は、慶長9(1604)年、東山道(関街道)に代わり正街道となり、奥州の諸大名の参勤交代や、奥州と江戸を結ぶ、文物交流の中心的役割を果たした。奥州街道は、日本橋から宇都宮宿までは日光街道と重複し、宇都宮宿から分岐して白河へ向かう。さくら市には、奥州街道のほか、会津中街道、会津西街道、原街道の結節点となり、交通の要衝地として栄えた氏家宿と、喜連川公方の城下町でもあり、また、あゆの寿司で全国的に名を馳せた喜連川宿があった。この古道は、たびたび山腹が崩壊するなど、難所の一つであったため、明治13(1880)年迂回路が開削されたことにより、往時の姿をとどめている。
古道は少し上ったあとすぐ下り坂になります。足元は舗装された道ですが、倒木があったり、苔むした箇所があるなど荒廃しているようで、ほとんど人が通らないようすです。
時折、鳥の飛び立つ音やガサガサ物音がしたり、もちろん誰との会わない山道。熊でも出てきたらどうしよう、この先、道はあるのか、と少々不安な気分。
しばらく下って行くと右手に「高塩背山の墓入口と」書かれた説明板が立っていて、その脇に細く草深い山道があります。
歌人 高塩背山 明治15(1882)年~昭和31(1956)年
さくら市を代表する歌人、高塩背山は本名を高塩正庸。代々喜連川神社の神職を勤める家に生まれ、教員を勤めた時期もあったが、生涯の大方を祖父伝来の神職をまっとうした。
24歳の頃から作歌を志し、一時、尾上紫舟に師事して、歌と書の指導を受けた。才能を開花させてからは、郷土の自然を題材に、暖かい人間性を秘めた清明な歌を終生作り続けた。
中央歌壇への投稿を通じ、若山牧水と交友が生まれ、明治43年には牧水の「創作」に参加、主軸歌人の一人として活躍をした。長く続く親交の中で、牧水は3度、喜連川の背山をたずね、酒と短歌を交えたひとときを過ごしている。その時牧水が詠んだ歌は背山の歌と並び喜連川神社に歌碑として建っている。
代表歌集「狭間」「移りゆく自然」にあるように、郷土の風景を慈しみ74歳で没した歌人は、永眠の地を愛した喜連川の街並みが見える高台にしたかったのではないだろうか。
山上より町を
我が街を埋めつくして流れゐる
朝の濃霧を丘の上ゆ見つ
うち渡す峡間の町の夕けむり
若葉の上にたなびきながるる
草むらに覆われてしまった「道標」。
「高塩背山」の墓入口を過ぎると前方が開けてきます。ほっと一安心。人家が見えてきたら、「古道」も終わり。
(10:34)その右手の丘に庚申塔等が建っています。
小さな集落に入って「旧道」はそのまままっすぐ進むようです(「旧道」は消滅している感じです)。「桜並木」という道しるべを頼りに、たんぼ道へ。遠くに「県道(新道)」沿いの桜並木。
「荒川」土手を目指して歩いていると、彼岸花(曼珠沙華)が咲き誇っています。秋たけなわ。
遠くに見えるのが「喜連川スカイタワー」。「東京スカイツリー」よりも前にできたそうです。
ただし、2011年の「東日本大震災」によって敷地の一部が崩落したほか、塔内のエレベーター制御盤、空調設備が全損した。震災以降、お丸山公園(喜連川城城址)全体が立入禁止となっていましたが、かねてからタワーは採算性の低い施設であったため復旧を断念。シャトルエレベーターとともに営業廃止が決定しました。ただしタワーには防災無線や電波塔が設置されていることから塔体そのものは存置されるようです。
道はじきに「荒川」土手に突き当たるので、右折して「連城橋」を渡ります。「連城橋」を渡る手前、右手の信号の前に寛延元年(1748))建立の道標が建っています。「右 江戸道 左 下妻道」と刻まれています。「下妻道」は、荒川沿いに真直ぐ行く道。
「荒川」は、埼玉県、東京都を通り東京湾に注ぐ「荒川」とはもちろん違います。
この「荒川」は、栃木県北東部を流れる那珂川水系の一級河川。
栃木県塩谷郡塩谷町大字上寺島の高原山系釈迦ヶ岳に源を発し南東へ流れる。矢板市の南端を東に流れ、さくら市喜連川および葛城の境界部で八方ヶ原に源を発する内川を合わせ、那須烏山市では大きく左右に蛇行しながら南東に流れ、芳賀郡市貝町の北東辺を翳めて那須烏山市向田にて江川を合わせると、次いで同所および下境の境界部にて那珂川に合流する。
(以上、「Wikipedia」参照)
(10:57)「連城橋」を渡ると「喜連川宿」に入ります。