おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「デモクラシーは仁義である」(岡田憲治)角川新書

2016-09-14 21:32:01 | 読書無限
 このところ、全国的な秋雨前線、台風の余波で、東京地方も雨続き、ときにはバケツをひっくり返したような豪雨も。北海道や岩手では台風によって大きな被害を受け、ままならぬ様相。
 「中山道」歩きも出来ず、「奥州街道(宇都宮~白河)」にも行けず、・・・。読書三昧の日々、といっては、今も悪戦苦闘を余儀なくされている災害地の方々に申し訳ないが。

 今回は、ちょっと矛先を変えて。

 ところで、「仁義」とは? 

 「仁」、「義」は儒教(創始者:孔子、孟子)でいうところの五常(仁、義、礼、智、信)の徳性の二つ。
 なかでも「仁」は最も最高の徳目。『論語』では、さまざまな説明がなされているが、「己れの欲せざるところ、これを人に施すなかれ」がよく知られている。すなわち、「仁」とは、思いやりの心。
 もともと「仁(ジン)」という漢字は、イ(人・にんべん))と二(に)から成り立っていて、「二人の人間が信頼し合う。隣人愛。思いやり」等の原義がある。

 一方、義とは正しい筋道に則り、利欲にとらわれず、なすべきことをすること。
 この「義」という漢字は、「羊」と「我」から成り立っている。「戈」という字は「矛」と同じで、武器として用いられる《ホコ》を表す象形文字。これに、ギザギザした刃を付けた象形文字が「我」の原義。
 上に付く「羊」という字は、《ヒツジ》を正面から見た様子で、動物を表す漢字では、唯一、完全な左右対称(シンメトリー)になっていて、美しいものをも意味する。(ちなみに、「羊」+「大」で、「美」という漢字になる)。
 「義」は、「羊」《美しい》と「我」(ぎざぎさで形状が整っている刃)の字義が統合されて、「きちんとしていて、傍目から見て美しい」ということから、正しい筋道というのが、漢字の原義。
 このことから、「人として当然のこと。人道的に筋道が通って理に適っている」という意味となった。
 「仁」「義」は本来、儒教道徳で最も重んじられる根本理念なわけです。

 この「仁」と「義」とが合わさり、「仁義」という一語になると、「仁義なき戦い」などでおなじみのやくざの世界での「仁義」になる。
 そして、それには二つの意味があるようだ。
 その一つは、彼ら特有の倫理観に基づいた、「ヤクザとして踏み行うべき道」、「ヤクザ社会における義理、人情」のこと。
 もう一つは、初対面の挨拶として行う特定の儀礼様式のことで、「仁義をきる」というもの。面識のない相手方に対し、独特の言い廻しで先ず自己の姓名所属団体等を披瀝した上、用向きを述べるしぐさ。
 
 はたしてこの筆者は、どういう根拠で「デモクラシーは仁義である」と啖呵を切ったのか、あるいは、幾分、後ろめたさも加わって話しかけてきたのか。それは読んでのお楽しみ。
 しかし、やくざ世界でも今や仁義が廃れ(たらしい)、かたぎの世界でもすでに「仁」「義」が地に墜ちて、幾ばくぞ。
 政治の貧困、無知蒙昧。ただ小学校の学級会で学んだ「多数決」を金科玉条の如く「民主主義」とは「多数決」と我が物顔で己の我を通して快哉と叫ぶ御仁たちに任せる「代議制」とははたして何であるのか。結果、「デモクラシー」はもう死語になってしまったのか。

 が、政治の世界にすでに「仁」「義」はとっくに廃れてしまっているのをただただ嘆くだけでいいのか、冷やかかなまなざしで見てていいのか。

 手垢にまみれた「デモクラシー」でも、「暮らし」を営む国民への一抹の淡い期待を持って。
 足許を昏くする何者かに対して、そして自分自身の足許のおぼつかなさの正体、そこへの筆者の忸怩たる思いが、読者に対してこんなやり方で「仁義」を切ったのだろうか。
 
コメント
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