(11:27)「十条富士塚」。富士山を模した塚。
都内にはいくつかあります。ここの他には、品川富士(品川神社境内)、千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社境内)、下谷坂本富士(小野照崎神社境内)、江古田富士(茅原浅間神社境内)、高松富士(富士浅間神社境内)などが有名。かつて江東区にある富士塚を探訪したことがあります。
富士山信仰
それぞれの地域ごとに「富士講」をつくり、先達に引き連れられ、実際に富士山登山をすることもあります。また、地域の神社の一角に、富士山を模して築山したものに登って、富士山信仰のよすがにします。出来る限り富士山にある溶岩や岩・石などを敷き詰めたり、置いたりします。
また、砂走りや大沢崩れなどを模し、お中道巡り、1合目から頂上までを順路のようにつくります。それぞれの講ごとに「碑」を建てたりします。
不思議と猿の親子の石像があるのも特徴です。富士山と猿との関係はどういうことなのでしょうか。現在の富士山には、野生の猿は生息していないはずですが。「庚申」信仰と関係があるのかもしれません。
小さな山を築いてそれらを置くのですから、実に込み入っています。それはそれでおもしろく、風情があります。
写真は、亀戸駅から東南、「浅間神社」のもの。
けっこう車の行き来が激しい。
(11:39)「環七」を越してしばらく進むと、JRの高架線が右手に近づき、左手には「八幡山児童公園」。ゆるやかな下り坂・「清水坂」です。
清水坂(しみずざか)
十条の台地から稲付の低地に下る岩槻街道(旧日光御成道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。切り通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので、清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられて、その跡に児童公園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった。
※ここまでの坂道案内資料は、「」HPを参照しました。
振り返って望む。
旧稲付村に入ります。村の中央には「一里塚」があった、とのこと。拡幅工事中で明るく開けた道になります。
しばらく進むと、赤羽駅西口に到着。東口に抜けたところで、昼食休憩。高架に沿って進み、宝幢院(ほうどういん)のところを右折します。
(12:25)門前の道標。
元文5年(1740)建立。道標には、「東 川口善光寺道 日光岩付道」「西 西国冨士道 板橋道」「南 江戸道」と刻まれています。
「宝幢院前の道標」
・・・板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でした。・・・日光・岩槻道は、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場を経て幸手宿で日光街道と合流する道筋です。・・・板橋道は、西国へと向かう中山道や八王子から富士山北麓の登山口に向かう富士道へ通じていました。
この地が交通の要であったことがわかります。
右折した先が「岩淵宿」。「仙臺橋」親柱。
「岩淵宿」は荒川(入間川)の渡しを控えて賑わった宿場。川口宿と合宿で、月の内16日~晦日まで問屋業務を勤めました。現在はその遺構は特にないようです。
「赤羽岩淵駅」バス停。
(12:35)問屋場跡(といやばあと)」碑(↓)。
小山酒造の先に、「岩槻街道岩淵宿問屋場跡之碑」と刻まれた石碑がマンションの植え込みの中にあります。ここを過ぎると、新河岸川と荒川に架かる新荒川大橋があり、東京都から埼玉県・川口へと移ります。
「小山酒造」の看板。
世界有数の大都市東京。その23区で唯一100年以上清酒を製造し続ける酒蔵が私たち小山酒造株式会社です。
その歴史は、初代 小山新七が酒造に適した湧水を発見して以来(明治11年創業)、百余年になります。
代表銘柄「丸眞正宗」(マルシンマサムネ)の由来は、先代が「商いは正直こそが基本である」と“まるまる本物”の意味を込め、そして“名刀正宗”になぞらえ、キレの良い後味という意味を込めました。 小山酒造の企業理念と酒質の特徴を表す銘柄名となっております。
(HPより)
新荒川大橋。
「新河岸川」と「荒川」との堤。桜の季節は最高。
1880年代のようす。 現在のようす。
下の○が追分。上の○が渡し場付近。
橋の途中で振り返ると、「富士山」が(↓)。
上流にはJR線の鉄橋。
(12:49)川口側の土手に腰を下ろし、しばし休憩。
都内にはいくつかあります。ここの他には、品川富士(品川神社境内)、千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社境内)、下谷坂本富士(小野照崎神社境内)、江古田富士(茅原浅間神社境内)、高松富士(富士浅間神社境内)などが有名。かつて江東区にある富士塚を探訪したことがあります。
富士山信仰
それぞれの地域ごとに「富士講」をつくり、先達に引き連れられ、実際に富士山登山をすることもあります。また、地域の神社の一角に、富士山を模して築山したものに登って、富士山信仰のよすがにします。出来る限り富士山にある溶岩や岩・石などを敷き詰めたり、置いたりします。
また、砂走りや大沢崩れなどを模し、お中道巡り、1合目から頂上までを順路のようにつくります。それぞれの講ごとに「碑」を建てたりします。
不思議と猿の親子の石像があるのも特徴です。富士山と猿との関係はどういうことなのでしょうか。現在の富士山には、野生の猿は生息していないはずですが。「庚申」信仰と関係があるのかもしれません。
小さな山を築いてそれらを置くのですから、実に込み入っています。それはそれでおもしろく、風情があります。
写真は、亀戸駅から東南、「浅間神社」のもの。
けっこう車の行き来が激しい。
(11:39)「環七」を越してしばらく進むと、JRの高架線が右手に近づき、左手には「八幡山児童公園」。ゆるやかな下り坂・「清水坂」です。
清水坂(しみずざか)
十条の台地から稲付の低地に下る岩槻街道(旧日光御成道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。切り通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので、清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられて、その跡に児童公園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった。
※ここまでの坂道案内資料は、「」HPを参照しました。
振り返って望む。
旧稲付村に入ります。村の中央には「一里塚」があった、とのこと。拡幅工事中で明るく開けた道になります。
しばらく進むと、赤羽駅西口に到着。東口に抜けたところで、昼食休憩。高架に沿って進み、宝幢院(ほうどういん)のところを右折します。
(12:25)門前の道標。
元文5年(1740)建立。道標には、「東 川口善光寺道 日光岩付道」「西 西国冨士道 板橋道」「南 江戸道」と刻まれています。
「宝幢院前の道標」
・・・板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でした。・・・日光・岩槻道は、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場を経て幸手宿で日光街道と合流する道筋です。・・・板橋道は、西国へと向かう中山道や八王子から富士山北麓の登山口に向かう富士道へ通じていました。
この地が交通の要であったことがわかります。
右折した先が「岩淵宿」。「仙臺橋」親柱。
「岩淵宿」は荒川(入間川)の渡しを控えて賑わった宿場。川口宿と合宿で、月の内16日~晦日まで問屋業務を勤めました。現在はその遺構は特にないようです。
「赤羽岩淵駅」バス停。
(12:35)問屋場跡(といやばあと)」碑(↓)。
小山酒造の先に、「岩槻街道岩淵宿問屋場跡之碑」と刻まれた石碑がマンションの植え込みの中にあります。ここを過ぎると、新河岸川と荒川に架かる新荒川大橋があり、東京都から埼玉県・川口へと移ります。
「小山酒造」の看板。
世界有数の大都市東京。その23区で唯一100年以上清酒を製造し続ける酒蔵が私たち小山酒造株式会社です。
その歴史は、初代 小山新七が酒造に適した湧水を発見して以来(明治11年創業)、百余年になります。
代表銘柄「丸眞正宗」(マルシンマサムネ)の由来は、先代が「商いは正直こそが基本である」と“まるまる本物”の意味を込め、そして“名刀正宗”になぞらえ、キレの良い後味という意味を込めました。 小山酒造の企業理念と酒質の特徴を表す銘柄名となっております。
(HPより)
新荒川大橋。
「新河岸川」と「荒川」との堤。桜の季節は最高。
1880年代のようす。 現在のようす。
下の○が追分。上の○が渡し場付近。
橋の途中で振り返ると、「富士山」が(↓)。
上流にはJR線の鉄橋。
(12:49)川口側の土手に腰を下ろし、しばし休憩。