「天狗の鼻」基部付近。かつての隅田川はもっと東に湾曲していた。
右岸にかつての「カミソリ堤防」のモニュメント。
右手に「荒川」の土手。
上流方向を望む。大きく西へ向かう。
両岸は、高層集合住宅群。(左:北区、右:足立区)
ここで、「隅田川の渡し」について、「Wikipedia」をもとに。
注「隅田川」には江戸から明治にかけて、千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋、吾妻橋、厩橋、相生橋等が架橋されたが、「千住大橋」から上流には橋がなかった。そのため、多くの渡し場が存在した。
《上流から》
宮堀の渡し
「神谷の渡し」とも称された。現在の新神谷橋付近にあったもので、江戸期においては主に西新井大師への参拝客や荒川堤への花見客などを乗せていたようである。1924年(大正13年)6月に荒川放水路が開削されると、一帯は放水路と隅田川にはさまれて中州のように孤立した地域となったために後述する野新田の渡しと共に整備が進んだ。1962年(昭和37年)10月に新神谷橋の架設工事が着工され, 1965年(昭和40年)10月に片側車線が開通することになり、宮堀の渡しはその役目を終え、昭和35年の冬に廃止された。北区の宮堀児童遊園内に案内板が設置され、王子神谷駅付近の北本通り沿いの「産業考古学探索路」碑においても記載が残る。
野新田(やしんでん)の渡し
「馬場の渡し」とも称された。現在の新田橋付近にあったもので、主に現在の足立区付近の農産物を江戸市中に運ぶ農業渡船として使われていたようである。荒川放水路開削時に中州状に孤立した付近一帯の交通路として前述の宮堀の渡しと共に整備された。付近は俗に「野新田の原」と呼ばれ桜草の名所であったという。1941年(昭和16年)の新田橋架橋によって廃止された。
六阿弥陀の渡し
六阿弥陀詣をして霊場を巡る際に必ず使う必要があったため、この名で呼ばれた。付近の地名から「豊島の渡し」とも称された。現在の豊島橋の上流200 mほどの隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」[2]とよばれる場所にあった。1925年(大正14年)の豊島橋架橋によって廃止された。
梶原の渡し
「船宮の渡し」とも称された。足立郡江北村(現在の足立区宮城付近)から、堀船(現在の北区堀船4丁目)にあった下野紡績工場へと通う女工たちの通勤用に、両岸の有志によって1908年(明治41年)に作られたという記録が残る。当初の運賃は大人一銭、子供五厘、荷車一銭五厘、自転車一銭。駒込の市場への出荷の車を、戦争の頃は足立の軍需工場へ通う人々を、戦後は梶原銀座への買い物客らを、何往復もして運んだ渡しだったが、交通路の発展に伴い1961年(昭和36年)に廃止された。北区の白山堀公園奥に案内板が設置されている。
小台の渡し
「尾久の渡し」とも称された。現在の小台橋付近にあったもので、江戸時代より江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わっていた。西新井大師や六阿弥陀のひとつである沼田の恵明寺に詣でる人々も多く利用した。江戸期は両岸の農民が半月交代の当番制で渡していたという。明治期以降は東京府が運営していたが、交通量の増大に伴い1933年(昭和8年)に小台橋が架橋され、後に廃止された。小台橋のたもとに案内板が設置されている。
熊野の渡し
現在の尾久橋付近にあったもので、大正中期から昭和にかけて利用されていた。下流の尾竹橋や上流の小台橋が開通した後は徐々に利用客が減少したものの、1950年(昭和25年)3月まで利用された。尾久橋のたもとに案内板が設置されている。
新渡し
現在の尾竹橋の上流200 mほどの位置にあり、荒川区町屋五丁目と六丁目の境付近から、足立区千住桜木町を結んでいた。東側にあった後述される尾竹の渡しに対し、新たに設けられたので新渡しと称したという。明治後期に整備され、1934年(昭和9年)の尾竹橋架橋後に廃止された。渡し跡付近に案内板が設置されている。「新渡し」の名は都営バス王45系統の停留場名に未だに残されており、2006年に新設されたコミュニティバスはるかぜ宮03系統にも、都営バスと同位置のバス停名に「新渡し」の名が使用された。
尾竹の渡し
現在の尾竹橋の下流300 mほどの位置にあった。付近に「富士見屋」「柳屋」「大黒屋」という 三軒の茶屋があったため「お茶屋の渡し」とも称されたという。また「尾竹」の名も「お竹」という茶屋の看板娘から名付けられたと伝わっている。天保年間(1840年 - )に開設され、昭和9年の尾竹橋架橋後もしばらく運行されていた記録が残る。千住、西新井大師方面へ向かう交通路として重要な役割を果たした。付近の尾竹橋公園入口に案内板が設置されている。
一本松の渡し
現在の上水千住水管橋付近にあった渡し。京成電鉄隅田川橋梁の上流100 mほどの位置にあたる。千住と町屋を結んでいた生活道路であったという。いつごろ廃止されたのかは不明。上水千住水管橋そばに案内板が設置されている。名は付近の庚申塚にあった大きな松の木に因むといわれる。この松は元禄6年に町屋村と三河島村との境に植えられたと伝えられ、後に戦災で枯死したものの、一本松グリーンスポットという小公園に現在2代目の松が植えられている。なお、近くを通る都営バス草41系統の停留所名として「一本松」の名が残っている。
現在では東京都北区志茂にある日本化薬東京工場と、対岸の足立区新田にある日本化薬東京を結ぶ従業員専用の渡船のみが存在する。
(「Googleマップ」より)
赤い線が航路。(「歴史的農業環境システム」より)
当方の写真にも。右が北区、左が足立区にある工場。
・・・
振り返ると、「五色桜大橋」が。
北区豊島団地。
川沿いに遊歩道が続きます。
右岸(北区側)も遊歩道。
超高層集合住宅。「アクアテラカームスクエア」。
日なたぼっこ。
こちら側にも。川への階段。
「新豊橋」。
3月5日。暦の上では「啓蟄(けいちつ)」。二十四節季の第3。「啓」は「開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意味(虫偏で17画)用例:「蟄居」。「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意。
「雨水」《雪から雨に変わり、氷が溶けて水になる、という意》(15日前)→「啓蟄」→「春分」(15日後)とだんだんと春らしい陽気になっていきます。