おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

銚子電鉄・本銚子駅~JR成田線・椎柴駅。その4。銚子と醤油。高瀬船。紀州と房州。(利根川を歩く。第9回目。番外編。)

2021-12-06 18:51:15 | 利根川を歩く

                    下総国醤油醸造図(「千葉県教育委員会」HPより)             

「銚子と醤油」についてここでまとめてみます。

野田・銚子の醤油・流山のみりん
 野田のキッコーマン・キノエネや銚子のヤマサ・ヒゲタなどは、日本を代表する醤油メーカーです。 千葉県の醤油は、全国生産量の33.6%(1995年)を占め、第1位です。醤油は小麦と大豆を麹菌(こうじきん)で発酵させ、塩水で仕込んで作ります。また流山はみりんの産地として知られますが、みりんは餅米と米麹・焼酎を仕込んで作ります。どちらも麹菌の力で、時間をかけて醸し出される発酵調味料です。

 醤油は江戸時代のはじめころに富農や名主層、近江商人、紀州の出身者などによって関東各地で作り始められましたが、次第に独自の濃口醤油へと発展し、江戸への出荷を伸ばしていきました。醸造家は関西からの下り醤油に対抗するため造醤油仲間を結成し、江戸の問屋との交渉や、原料の塩の購入などを共同で行いながら、品質の向上を図りました。そして文化・文政期に江戸前の調理が発達すると、江戸人の好みは濃口醤油へと急速に傾き、関東の醤油がすっかり江戸市場を押さえることになったのです。その製造の中心が、野田と銚子でした。

 一方、みりんは今でこそ料理のかくし味として、主に調味料として使用されていますが、当初は、甘い酒として飲用されていました。そばつゆなどの料理に使われるようになったのは江戸中期以降、今のようにさまざまな料理に用いられるようになったのは、明治も後期のことです。酒の醸造が盛んだった流山では、秋元家と堀切家の二醸造家できれいに澄んだ「白みりん」の醸造に成功し、それまで主流だった関西系の赤みりんを圧倒して特産として知られるようになりました。

 野田・銚子が醤油の、流山がみりんの産地として名を馳せるようになったのは、利根川や江戸川に接し、物資の輸送に便利だったからに他なりません。穀物や塩などの原料の集荷にも、江戸等への出荷にも、当時は水運が不可欠でした。例えば野田から江戸まで、高瀬船で順風ならば8時間で着きました。高瀬船は日本でも最大級の大型輸送船です。利根川中流域や江戸川の浅瀬に対応できるように、独特な構造によって軽く、しなやかに作られていました。

 明治30年代より利根川下流域の都市が鉄道で結ばれ、船による輸送は次第に鉄道に、さらにトラックへと遷っていきます。特に関東大震災の復興に使用するコンクリートの材料として江戸川の川砂を大量に掘削したことは、江戸川と利根川の流れを変え、水運に大きな打撃を与えました。

 しかしその後も醤油は確実に販路を拡げ、世界各地に進出し、現在に至っています。流山でのみりんの生産も、引き続き行われています。

(この項、「千葉県教育委員会」HPより)。

※「高瀬船」近世以降に普及した大型の帆船「利根川の高瀬船」。(「Wikipedia」参照)

余談:「高瀬舟」といえば、森鴎外の有名な作品。

高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。京都の罪人が流刑を申し渡さ れると、罪人は、高瀬舟にのせられて、大阪へ回された。

弟殺しの罪で島送りにされる喜助という罪人の護送を命ぜられた同心・羽田庄兵衛は、喜助がいかにも楽しそうなようすに見えるのを不思議に思い、そのわけを聞いてみる。

喜助は、弟と二人暮しだった。しかし、弟は病気で働けなくなってしまった。喜助が家に帰ると、布団につっぷした弟のまわりは、血だらけだった。弟は、自分が直りそうもない病気だから、早く死んで兄を楽にしてやりたかったのだ。だから、のどを切って死のうとしたが、刃が刺さったままになってしまった、必死に抜いてくれと頼むので、しかたなく抜いてしまい、弟は、死んでしまう。近所の者に目撃された喜助は捕まり、この高瀬舟に乗せられたというのだ。・・・

この小説は「安楽死」を巡る論争に一石を投じた作品です。今も安楽死を巡ってはさまざまな議論があります。特に老々介護の末に連れ合いを死なせてしまうこと(事件)があとを絶ちません。そのときの当事者の思いがけっして他人事ではない世の中になっています。                                                                                                                                                                                                                                           

(閑話休題)さて、                      

「銚子と醤油」の歴史は、

 元和2年(1616)、銚子の豪農、第3代田中玄蕃が、摂津西宮の酒造家、真宜九郎右衛門の勧めで、銚子で醤油の醸造を始めました。これがヒゲタ醤油の創業で、関東で最古の醤油業と言われています。
 当時の醤油は、大豆が主体の「味噌溜まり」のようなものであったそうです。

元禄10年(1697)第5代田中玄蕃が原料に小麦を配合するなどして製法を改良し、現在のこいくち醤油の醸造法を確立したとされています。このこいくち醤油が、江戸っ子に好まれ、一大消費地江戸で、次第に「地回り醤油」が上方からの「下りもの」を凌駕していきました。その時期は明和7年(1770)頃からと言われています。

 ヤマサ醤油を創業した初代濱口儀兵衛は、醤油発祥の地である紀州湯浅(和歌山県湯浅町)の隣りの広村(現広川町)の出身です。初代濱口儀兵衛が紀州から銚子に渡り、ヤマサ醤油を創業したのは正保2年(1645)のことです。
 新しい漁労法で大成功をおさめて銚子外川港を作った紀州出身の崎山次郎右衛門という人物に刺激されて銚子で醤油醸造を始めたのではないかといわれています。
 濱口家の家長は代々、紀州広村にある本家と銚子を行き来していました。
 そのため、濱口家の屋号は「広屋」と言いました。

元治元年(1864)の「最上醤油」には、野田のキッコーマン、キハク、ジョウジュウと並んで、銚子のヤマサ、ヒゲタ、ヤマジュウ、ジガミサの7銘柄が指定されています。ヒゲタ醤油とヤマサ醤油のロゴマークに「上」の字が含まれているのは、この「最上醤油」の称号を得たことを表しています。

銚子は、良質の大豆(常陸など)や小麦(下総、武蔵など)、塩(行徳)など醤油の原料が、江戸川と利根川の水運を利用して手に入れることができ、さらに、つくった製品を江戸市中に運ぶことができるなど、しょうゆ醸造業発達の要因がそろっていた、といえます。

(この項、「―銚子の醤油の歴史(江戸の食文化19)https://wheatbaku.exblog.jp―」より) 

「銚子醤油仲間」(「Wikipedia」より)

 

(「Wikipedia」より)

ヒゲタ醤油は、例えるなら、銚子を母に、江戸を父に育てられてまいりました。
銚子は黒潮と親潮が沖合で交わり、温暖多湿で夏冬の気温差が比較的少ないといわれています。
この気候条件が醤油づくりに欠かせない麹菌・酵母など微生物の生育に適しており、醤油醸造に大きな便宜をもたらしました。
また、大消費地である江戸への製品の運搬や、原料調達に利根川の水運が大いに活躍しました。
江戸は全国からの出稼ぎの街であり、いろいろな食文化が混ざり合った結果、「安く、早く、美味い」甘辛い味が好まれるようになりました。そのため今日のような関東醤油が開発されたといえます。
寿司、てんぷら、うなぎ、蕎麦等の代表的な江戸の味の発展と銚子の地理的な特徴によって、ヒゲタ醤油は発展を遂げたのです。

銚子から江戸へ運ばれ、そこで多くの人の口に受け入れられたヒゲタは、1937年(昭和12年)には野田醤油株式会社(現キッコーマン株式会社)と資本提携を、1966年(昭和41年)には同社と販売委託契約を結びました。

キッコーマングループが世界規模で事業を展開している中、ヒゲタ醤油は「キッコーマングループ内での国内和風調味料の製造」をドメインとして、業務用・加工用の分野を中心に開発と製造に注力し、キッコーマン社の強力な販売網で、今日、全国のお客様にご愛顧いただいております。

この項、「」HPより)

ヤマサ醤油も紹介しないと、

 

上記にもあるように紀州と房州とは黒潮の流れと密接な関連があり、醤油だけでなく、銚子の発展には、イワシなどの漁法や港湾建設などでも紀州の漁民の貢献は大きなものがあるようです。なかには出漁中に行き着き、そのまま定住したという者も多くいた、と。地名でも「白浜」、「勝浦」など共通するものがあります。

※茨城県土浦も醤油造りが盛んで、知人が醸造販売していたお醤油を何回かいただいたことがありますが、今は廃業してしまい、その建物を貸倉庫として改造、管理運営しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする