久々に京急「三崎口駅」へ。今回、三崎港から油壺湾まで、という予定でした。
が、炎天下のため道半ばで挫折した、そのレポートです。
「油壺・入江のみち」。
三崎漁港から油壺まで、西海岸線づたいに入江と丘陵地帯を歩く、というコースをたどるつもりでした。
ところが、出来るだけ海岸へ近づこうと県道から左に折れ、上り坂・下り坂を行ったり、戻ったりで、・・・。
暑さに負け、でした。
レンタサイクルに乗って三崎港付近を走っているカップル。けっこう上り坂を青息吐息で必死にこいでいるケースも見かけました。
真夏にチャレンジするコースではなかった、です。
たくさんの観光客がバスから降ります。「みさきまぐろきっぷ」を手にした老若男女の方々。
何年か前にじじばば達とその周遊券で三崎・城ヶ島巡りをしました。
「うらり」。
帰りに寄って、干物セットを買いました。
「三崎館本店」。
三崎港を目の前にする割烹旅館。増改築されているが、関東大震災後に建てられた和風の建物。
日本ではじめての「まぐろかぶと焼」をはじめ、三崎ならではのまぐろ料理の数々を、暖かいおもてなしにかえて、伝統を受け継ぐ三崎館本店
ここでは四季を通じ、最良の素材を最善の味で味わっていただき、心と体の休息と美味しさの究極を、ご提供しております。
心地よい潮の香りと波音に添えて、他では味わえない本物の味を心ゆくまでお楽しみ下さい。
(「三崎館本店」HPより)
※その建物の前を一列・等間隔で歩く、じじばば一行。
魚市場。
右手の高台は、「歌舞島(かぶじま)公園」。
「歌舞島」の名前の由来は、この地で源頼朝に歌舞宴楽を披露したことから、一説には、三浦義村の招きで当地を訪れた将軍藤原頼経が来迎(極楽から仏を迎える)の儀を行い、読経歌舞を催したところからその名が伝えられたともいわれています。
この歌舞島は、別名「兜島」ともいい、かつては離れ島でしたが、地殻の隆起によって現在のように海岸に突出した陸つづきの小丘になりました。
海岸側には「二町谷公園」。
「歌舞島」方向を望む。
「浜諸磯」方向を望む。
※二町谷埋め立て地(「二町谷公園」付近)には、ホテルや商業施設などの建設が予定されているようです。
小さな入江脇から道路に戻って進みます。
その先、二町谷(ふたまちや)道路脇の小岬の崖の表面に波の模様の地層が幾層も見ることができます。これは漣痕(波調層)といい、神奈川県の天然記念物に指定されています。
漣痕=漣(さざなみ)の痕跡。「リップルマーク」ともいう。
※現在では波や風の影響で作られたものではなく,地層の変形によってできたものとされています。
珍しい地形です。
見事な景観。
海岸のようす。
「白秋文学コース 二町谷」。
寂しさに浜へ出てみれば波ばかり
うねりくねれりあきらめられず
大正2年(1913)1月、白秋が死を決意してこの浜を彷徨したときの一首です。
不盡の山れいろうとしてひさかたの
天の一方におはしけるかも
三崎に転居し新生を期し、この浜に再び立ったときの歌で、この二つの歌から哀傷の苦悩と新生への息吹との対照的な境地を知ることができます。
一心に遊ぶ子どもの声すなり
赤きとまやの秋の夕ぐれ
白秋の向ヶ崎時代と、二町谷時代を対照すると点景の描写に大きな相違があることも判ります。当時この浜で行われた三崎の消防組の出初式を観て「消防整列」という詩壇の反響を呼んだ詩も作っています。
岬の方向。