「山名」。
遠くに赤城山。
「五感の力を失わない為に出来る事は 意識的に日常生活 体を動かす このコロナ禍の時期 腕をふるって健康作り」
「毎日描いて十五年 うれしい出来事悲しい出来事 花、野菜、果物と恵みを感じる 今年喜寿を迎え コロナに負けず頑張ろう」
榛名山。
赤城山。
「東京農大二高」グランド。
・・・部活動でも、野球、ラグビーや陸上競技の強豪校としても知られ、過去幾度かの全国大会出場経験があるほか、プロ選手も多数輩出している。8つの部活動が強化部に指定されている。
- ラグビー部は過去に24回もの全国大会に出場している。
- 野球部は、過去数度甲子園出場があり、プロ野球選手も複数輩出している。近年は甲子園から遠ざかっていたが、2009年に15年ぶりの夏の甲子園出場を決めた。なお、1985年の第67回大会出場時には元広島カープの竹下元章の息子が出場していて竹下は息子の応援に駆け付けるために8月12日に羽田発伊丹行日本航空123便に搭乗し、その墜落事故で犠牲となった。
- 吹奏楽部も有名で、学校も力を入れている部活であり、全日本吹奏楽連盟主催の全日本マーチングフェスティバル(現:マーチングコンテスト)にも第一回大会より現在まで連続出場している。プロの演奏家も輩出している。
- 応援団は、東京農大全学応援団の技法を継承している常備の応援団である。青山ほとりが有名で、高校野球や駅伝、ラグビーの応援スタンドで見られる。
※「青山ほとり」=「大根踊り」。
(「Wikipedia」より)
「烏川・佐野橋」。
新幹線高架。
まもなく高崎駅に。
この先で、「マンナンライフ」仕様の電車に。
「コンニャク」といえば、「マンナンライフの蒟蒻畑」。
コンニャク芋から精製した水溶性食物繊維のグルコマンナンに、ぶどうやリンゴなどの果汁で味付けしたこんにゃくを「蒟蒻畑」という名称で販売している。1992年発売。
沿線に本社・工場がありましたが、車窓からの写真撮影が間に合わず。ここで遭遇。
本社。(富岡市富岡)。
TVでおなじみのCMより。
こうして「高崎駅」に戻ってきました。
コンコースに「上野三碑」のモニュメントがありました。
中央に最も大きい「多胡碑」。
多胡碑は、奈良時代初めの和銅[わどう]4(711)年に上野国の14番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑です。
建郡に際しては、「羊[ひつじ]」という渡来人[とらいじん]とおもわれる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になったようです。碑を建てたのも、この「羊」であると考えられ、碑の後段には当時の政府首脳の名を挙げて権威付けをはかっています。
多胡郡の範囲は、現在の高崎市山名町から吉井町一帯で、かつて緑野屯倉[みどののみやけ]や佐野屯倉[さののみやけ]というヤマト政権の直轄地が設置されていた領域と重なります。そのため、当時は先進的な渡来系技術が導入され、窯業[ようぎょう]、布生産、石材や木材の産出などが盛んな手工業地域になっていました。
このことから、多胡郡建郡は当時の政府による生産拠点のとりまとめと、それに伴う郡の区割りの見直しが目的であったと考えられます。
碑身[ひしん]に笠石[かさいし]をのせる形状や楷書体[かいしょたい]の文字には、当時最先端の中国文化の影響がみられますが、一方で18世紀以降に多胡碑の拓本が朝鮮通信使を通して中国に渡り、その書風が評価され、後世の日本の書家にも影響を与えました。このように、多胡碑は東アジアの文化交流の様子を示す重要な資料です。
左に「山上碑」。
山上碑は飛鳥時代の681年に建てられたもので、完全な形で残っているものとしては日本最古の石碑です。石をあまり加工しないで使っており、朝鮮半島の新羅[しらぎ]の石碑(6世紀)に類似しています。
碑文には、放光寺[ほうこうじ]の長利[ちょうり]という名の僧が母のために石碑を建てたことと、長利の母方、父方双方の系譜が記されています。長利の母である黒売刀自[くろめとじ]は、ヤマト政権の直轄地である佐野三家[さののみやけ](屯倉[みやけ])の管理者であった健守命[たけもりのみこと]の子孫で、父である大児臣[おおごのおみ]は、赤城山南麓の豪族とみられる新川臣[にいかわのおみ]の子孫です。
前橋市総社町にある山王廃寺[さんのうはいじ]から「放光寺」の文字を刻んだ瓦が出土しているため、長利が勤めた放光寺は山王廃寺であると推定されています。放光寺が東国有数の大寺院であったことや、仏教が当時の先進的な思想であったことから、長利はかなりの知識人であったと思われます。
こうしたことから、長利は母である黒売刀自を供養するとともに、上野国の有力豪族の子孫であり、大寺院の僧でもある自らの存在を後世に伝えるために碑を建てたと考えられます。
碑文は、すべて漢字で書かれていますが、日本語の語順で読むことができます。現在につながる日本独自の漢字の使用法が確認できる非常に貴重な史料です。
このように、山上碑からは、ユーラシア大陸から伝わった漢字文化と仏教信仰が日本の古代社会に根付いていく様子をうかがい知ることができます。
右に「金井沢碑」。
金井沢碑は、奈良時代前半の726(神亀[じんき]3)年に三家氏[みやけし]を名乗る豪族が、先祖の供養と一族の繁栄を祈って建てた石碑です。三家氏は、佐野三家[さののみやけ]を管理し、山上碑[やまのうえひ]を建てた豪族の子孫であると考えられます。
碑文には、三家氏を中心とした9人の名前が記されています。碑を建てたのは三家子□(□は欠字)という人物で、上野国群馬郡下賛郷高田里[こうずけのくにくるまのこおりしもさぬのさとたかだのこざと](現在の高崎市上佐野町・下佐野町周辺か)に住んでいたようです。続いて、三家子□の妻と娘[物部君[もののべのきみ]氏に嫁ぐ]、孫3人の名前が登場します(グループ1)。この6人ほか、同族とみられる三家毛人[みやけのえみし]・知万呂[ちまろ]の兄弟と礒部君身麻呂[いそべのきみみまろ]の3人の名がでてきます(グループ2)。
碑文からは、女性が結婚後も実家の氏の名で呼ばれていること、子供達と共に実家の祖先祭祀に参加していることがわかり、家族のつながりに女性が大きな役割を果たしていたと考えられます。
さらに、地名の表記などからは、当時の行政制度(国郡郷里[こくぐんごうり]制)の整備状況が分かります。ちなみに、碑文に出てくる「群馬」の文字は、県内では最古の事例であり、群馬県の名前のルーツを知る上で非常に重要な資料です。
このように、金井沢碑からは、古代東国での仏教の広がり、家族関係、行政制度の実態などを知ることができます。
(この項「」HPより)
駆け足でしたが、「上信電鉄線」を終了。
群馬県内では「わたらせ渓谷鉄道」が残っています。