おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

旧原田米店・松戸探検隊ひみつ堂。納屋川岸跡。東武線「六実」駅~JR「松戸」駅。その6。(「鮮魚街道」をゆく。第2日目)

2020-10-29 19:36:08 | 鮮魚街道

                     「松戸宿」の提灯。

旧水戸街道(「流山街道」)を北上します。

右手に古民家。

 

以前来たときには、

松戸探検隊ひみつ堂」というのぼりがあって、観光案内を兼ねた休憩施設になっていました。現在は開いているような気配がありません。しかし、奥にはやはり古い建物が建っています。

古民家スタジオ 旧・原田米店とは

かつての宿場町「松戸宿」の一角、そして松戸駅前のマンション群のど真ん中に、まるで奇跡のように残っている古民家群です。400坪近い敷地に大小5つの建物が並ぶ物件です。今では道向かいに移転した「おこめのハラダ」さまから敷地全体をお借りしてMAD Cityが運営しています。
今では地域のランドマーク的な存在で、路面は築100年強の風格ある古商家になっており多くの通行人を集めるテナントになっています。その脇から入る庭はかなりの奥行きで裏庭まで続いており、やはり築100年強の古民家をはじめ、昭和期の一軒家やガレージなどがアーティストやクリエイターのスタジオとして活用されています(住居使用はできません)。

(この項「」HPより)

向かい側にある現在の「原田米店」。

この建物の裏手に「古民家スタジオ」が。

「西蓮寺」のところを左折します。「坂川」に架かる「堂の口」橋を越えると、「納屋川岸跡」になります。

 

右手に、かつての船問屋「青木源内」家。

青木源内家の復元された塀。

  

銚子の鮮魚は船で利根川をさかのぼり、布佐等より駄送され、ここから船で江戸(日本橋河岸)に運ばれました。江戸時代、松戸の主産業は船運であり、ここが重要な基地になっていました。

 

  

 

松戸の河岸は「源内」(青木家:納屋河岸)と「太兵衛」(梨本家:下河岸)の二軒の船問屋が中心となって発展しました。宝暦5年(1755)1~2月、布佐河岸源左衛門から納屋河岸源内あての鮮魚輸送量は<1月>897籠(約10t)、<2月>4509籠(約50t)という記録が残されています。※当時の「一駄(馬一頭に乗せる貨物)」は三十貫が限度で約110kg、鮮魚では10籠に相当。船一隻あたり鮮魚300籠に相当。

 松戸河岸を出た船は、江戸川~新川~小名木川を経て水路で直接日本橋の魚河岸に入りました。
 この経路は鉄道開通後も東京市内の鉄道網やトラック輸送が整備されるまでは活用され、常磐線からの貨物が松戸から東京市内まで水運で運ばれた時代もあったそうです。

※この解説では歴史的に「良庵河岸」という名称を用いましたが、現地では旧良庵河岸一帯から坂川までの地域も昔の河岸場も「納屋川岸」と総称しています。

○付近が、「納屋川岸」。

 

(この項「」https://sites.google.com/site/matsudosyuku/home/suiun-to-kawagishi より借用)

江戸川土手に上がってみます。

      

遠くにスカイツリー(↓)。夕暮れはさぞかし、すばらしいでしょう。

ジョギング、自転車、散歩とけっこう行き来しています。海から19.75㎞

土手下を望む。

1880年代のようす。○が青木家か?

2010年代のようす。○に青木家の塀が復活。対岸は、「水元公園」(葛飾区)。

ここから江戸川を下り、「新川」、「小名木川」を通り(その間、「中川」、「隅田川」を横断し)・・・、日本橋の魚市場へ。大変な距離です。

日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市場は、江戸時代初期に佃島の漁師達が将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川贈沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町1丁目・本町1丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。
 なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
 江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けにした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売り場を開いて売買を行ってきました。
 この魚河岸は、大正12年の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
 現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和29年に日本橋魚市関係者が建立した記念碑があり、碑文には、上に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。

 平成19年3月 中央区教育委員会

 背後にあるのは、竜宮城に因んだ「乙姫像」。

これで、「鮮魚街道」終了。後半は、市街地を歩くだけでしたが、松戸にはまだまだ旧跡があるようです。機会があったら再訪したいと思います。

次回は、「鮮魚街道」つながりで、「木下街道(きおろしかいどう)」を行徳から木下まで歩こうと思います。

 


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