左岸を進みます。
この先で都県境が境川からと離れていきます。
左岸(町田市)側の標識。
右岸(大和市)側の標識。
ここから都県境は、境川から離れ、北東に進みます。この先は右岸(神奈川県大和市)側を歩くことにします。
左岸は、横浜市瀬谷区。
「大和市」。
左手に「九つ井(ここのついど) 大和店」。
鶴間橋から、
当店では、吟味された素材を使い、炭焼きステーキ、しゃぶしゃぶ、いろり焼き、懐石料理,自慢の古式手打ちそばなどをご用意しております。
九つ井の由来
東国における有力な戦国大名、小田原の北條氏が相模の国を平定し、武蔵まで進出するようになりますと、鎌倉山に連なる戸塚一帯の山並みは、戦略要地としての重要な拠点となり、戦略要害として玉縄城を築城いたしました。
丁度その頃、この玉縄城に相対して、ここ田谷の山上に平戸御前という豪族が居を構えていたのです。
しかし、この辺りは高台のため飲料水にことかき、ふもと一帯に湧き出る泉が館の大切な飲料となり、泉には水番人を置き管理したそうです。
この沢山の泉にちなんでいつからとわなしに、この辺りを九つ井(ここのついど)と呼ぶようになったということです。
言い伝えはともあれ、そんな古き良き歴史の残っている田谷郷の九つ井で心ゆくまでおくつろぎ下さい。
店主 敬白
(この項、「九つ井 大和店」HPより)
「境川」右岸。
庭先にアジサイが咲き始めています。
右から「目黒川」が合流。「目黒川管理橋」から上流。
「国道246号線(厚木街道)」が前方に。
《←藤沢 ↑沼津・厚木 →鶴間駅》
江戸時代に五街道の一つである東海道が徳川初代将軍家康によって整備されると、ほぼ足柄道に沿う形で新たに矢倉沢往還が整備され、東海道の脇往還として利用されるようになる。東海道同様、江戸と東海道沿道各地を結び、人や物資が往来し発展した。この矢倉沢往還は、現在の国道246号の原形となる経路をたどっている。
享保年間になると大山講が盛んになり、江戸から山岳信仰のある大山に詣でるための街道としても賑わった。丹沢山地南端に位置する大山阿夫利神社への参詣のため、多くの庶民から人気を集め利用されるようになり、この頃より大山道(大山街道)とも呼ばれるようになる。その名は、現在も神奈川県内の通称名や同県内および、東京都内の旧道などに残っている。
(この項、「Wikipedia」より)
「大和橋交差点」。
境川は左から右へ流れていく。
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