鎌倉、三浦半島方向。
江ノ島弁天橋。外国人もたくさん来ています。
振り返ると、怪しげな雲行き。
こちらは青空が広がる。
「弁天橋沿革」解説板。
この橋は、明治24年(1891年)満潮時砂浜であるところと島とを結んだ橋として作られ、江の島桟橋と呼ばれていました。明治30年に至って橋を片瀬州鼻まで延ばし、大正11年に県営となるに及んで渡橋料金2銭也がとられました。しかし橋が長いので一度暴風に遭えば流失するような状態で、昭和24年には更に橋脚と鉄筋コンクリートパイル上部は木橋として作り直され、その後江之島弁天橋として親しまれてきました。昭和32年に至って湘南海岸公園施設の一翼を担い、この近代的な橋梁に生まれ変わったものであります。
さて、定番の参道を歩くことに。平日ですが(6・16)、たくさんの人が上がったり、下ったり。
売店、お土産店の前では並んでいます。歩きながら大きなtakosennbeを食べている人、・・・。
青銅の鳥居。
江之島弁財天参拝の玄関口となる鳥居です。古くは木製の鳥居でしたが、1821年(文政4年)に青銅製で再建されました。鳥居の柱には再建に尽力した大勢の人々の名前が刻まれており、信仰の厚さを物語っています。正面の額には「江島大明神」と書かれていますが、特徴的な筆跡は弁財天のお使いである蛇をかたどっています。・・・
左手に古めかしい郵便ポスト。
「明治時代の郵便差出箱」。
「岩本楼」。
前身は金亀山与願寺(現:江島神社)の別当職を務めた岩本院で、鎌倉時代以来の歴史を持つ。
古くは中の坊と称していたが、その後岩本坊・岩本院と改名した。上の坊・下の坊と共に与願寺の別当を務めていたが、後に上の坊・下の坊を支配下に置き、総別当となる。
江戸時代中期以降、江の島は江戸から手軽に行ける観光地として栄え、岩本院も宿坊として栄えた。文久2年(1862年)初演の歌舞伎、青砥稿花紅彩画(白浪五人男)に登場する弁天小僧は岩本院の稚児をモデルにしたと言われている。
1873年(明治6年)、神仏分離令により与願寺は廃され江島神社となり、岩本院も翌1874年に岩本楼と改名し旅館となった。
(この項、「Wikipedia」より)
弁天小僧といえば、歌舞伎の演目の一つ「青砥稿花紅彩画(白浪五人男)」。
・・・
以前、このブログに投稿した記事を再掲。
「続「歌舞伎鑑賞教室」その5。「弁天娘女男白浪 ・浜松屋見世先の場」。菊五郎。吉右衛門。幸四郎。・・・そして、青砥。」(2021/6/19)
旧歌舞伎座取り壊しのための「さよなら公演」より。平成22年(2010年)3月。
鎌倉・浜松屋に、若党四十八を供に、武家娘が現れ、早瀬主水の息女お浪と名乗り、婚礼支度の品物を選ぶうちに、そっと鹿子の裂(きれ)を懐に入れます。見とがめた番頭が帰ろうとする娘の懐から、鹿子の裂を引き出し、万引きと思い込み娘の額を算盤で打ちます。
しかし、鹿子は他の店の品であったことが分かり、若旦那の宗之助が四十八に詫びるが、四十八はお浪につけられた額の傷をもとに、金を要求する四十八に対し、主人幸兵衛は百両を出して詫びます。
大金を受け取り帰ろうとするお浪と四十八を、店の奥に居合わせた玉島逸当という侍が呼び止めます。
逸当はちらりと見えた腕の刺青に、お浪を男と見破ります。見抜かれた二人は、居直ってその正体を明かします。女装していたのは、弁天小僧菊之助、四十八は南郷力丸でした。
この場面での名台詞
知らざあ言って聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の
種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き
以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵
百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字
百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に
悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の、枕捜しも度重なり
お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され
それから若衆の美人局
ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの
似ぬ声色でこゆすりたかり
名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ
二人が居直って悪態をつくのに対し、幸兵衛は弁天が受けた傷の膏薬代として二十両を差し出す。しぶる弁天を南郷が説き伏せ、二人はようやく腰を上げる。浜松屋を出た二人は、道々、騙りの道具として使った重い武家の衣裳を坊主が来たら、交互に持とうと「坊主持ち」に興じながら帰ってゆく。
安堵した浜松屋では逸当を奥座敷へ案内します。しかし、この逸当こそ、実は弁天小僧や南郷力丸の頭である大盗賊・日本駄右衛門でした。
松本幸四郎
この後、稲瀬川の場面となり、弁天小僧を先頭に、忠信利平、赤星十三郎、南郷力丸、そして日本駄右衛門の白浪五人男が勢揃いし、一人ずつ名乗りを上げ、捕手と渡り合う見せ場になります。
実に小気味よい展開のお芝居で、名優達の手慣れた演技も見所。
この歌舞伎は、文久2年(1862)3月に江戸市村座で初演されたときの演目は「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうし はなの にしきえ)河竹黙阿弥作。
「青砥」は追っ手の「青砥藤綱」に因んでいます。実在の青砥藤綱は鎌倉時代後期の人物で、『太平記』などにも記されていますが、江戸時代には、藤綱は公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として文学や歌舞伎などにしばしば登場します。
かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えた。(「Wikipedia」より)
京成電鉄・青砥駅の「青砥」は、「青砥藤綱」に由来するようです。町名としては川運(古利根川・中川)の港を意味する「戸」(「戸」は「津」が転じたもの)からきた「青戸」で、混同される場合が。
・・・
岩本院文書(藤沢市文書館寄託)
江の島弁財天詣での浮世絵を表紙にした岩本楼初期のパンフレットです。
時代とともに当館を取り巻く環境は大きく代わり、幾多の困難を経ながらも、皆様のおかげでこれまでの歴史を歩んでくることができました。
今後も「岩本楼本館」は、弁財天仲見世通りの風景とともに、江の島を代表する宿として親しんでいただけるよう、努力と研鑽を重ねてまいります。
(この項、写真を含め「岩本楼」HPより)
江の島エスカー乗り場。
昭和34年(1959)に国内初の屋外エスカレーターとして登場しました。高低差46mを4分ほどで上れます。4連で結ぶエスカレーターの長さは全長106mあり、高齢者や小さな子供連れのファミリーが江の島頂上部へ行く際の頼もしい足となっています。
(「」より)
右手を見上げると、けっこう急な高さ。
これは便利な乗り物。しかし、帰りのエスカレータはないので、歩いて降りてくることに。
「行きは良いよい、帰りは怖い」ではイヤので、少し腹ごなしをしてからにしようと、参道をいったん下りることに。
賑やかな坂道。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます