おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

草加せんべい。「かおり風景100選」。・・・(「日光道中」をゆく。その6。)

2016-05-11 23:55:51 | 日光道中

 この一画は、「おせん茶屋」。
 街角修景事業として神明1丁目の児童公園を改修した小公園。昭和62年3月に完成。旧日光街道に面し、かつての宿場の雰囲気をただよわせる。名前は草加せんべいの伝記上の創始者「おせんさん」にちなむ。
・・・かつて草加町役場、鳩ヶ谷警察派出所などのあった場所である。 

     

かつて一帯は、どこも「関東ローム層」の赤土に覆われていたのでしょう。

「草加せんべいのできるまで」図解。
 現在、市内にあるせんべいの製作所や販売所は60軒以上に及び、名実ともに草加市を代表する名物となっています。製造工程は機械化されつつありますが、昔ながらの天日干しや手焼きも行われています。「草加せんべい」は円形の醤油味の堅焼きで、「草加せんべいの醤油のかおり」はかおり風景100選(環境省)に選ばれています。

 ちなみに「かおり風景100選」とは? (「Wikipedia」より)

1ふらののラベンダー 北海道 富良野市
2 北見のハッカとハーブ 北海道 北見市
3 登別地獄谷の湯けむり 北海道 登別市
4 釧路の海霧(うみぎり) 北海道 釧路市
5 尾上サワラの生け垣 青森県 平川市
6 南部町長谷ぼたん園 青森県 南部町
7 浄土ヶ浜の潮のかおり 岩手県 宮古市日立浜町
8 盛岡の南部煎べい 岩手県 盛岡市
9 南くりこま一迫のゆり 宮城県 栗原市
10 金華山の原生林と鹿 宮城県 石巻市
11 風の松原 秋田県 能代市
12 小坂町明治百年通りのアカシア 秋田県 小坂町
13 大潟菜の花ロード 秋田県 大潟村
14 羽黒山南谷の蘚苔と杉並木 山形県 鶴岡市
15 大石田町蕎麦の里 山形県 大石田町
16 東沢バラ公園 山形県 村山市
17 須賀川牡丹園の牡丹焚き火 福島県 須賀川市
18 郡山の高柴デコ屋敷 福島県 郡山市
19 偕楽園の梅林 茨城県 水戸市
20 今市竜蔵寺の藤と線香 栃木県 日光市
21 日光霧降高原のニッコウキスゲ 栃木県 日光市
22 那須八幡のツツジ 栃木県 那須町
23 草津温泉「湯畑」の湯けむり 群馬県 草津町
24 川越の菓子屋横丁 埼玉県 川越市
25 草加煎餅醤油のかおり 埼玉県 草加市
26 天津小湊町誕生寺の線香と磯風 千葉県 鴨川市
27 山田町府馬の大クス 千葉県 香取市
28 神田古書店街 東京都 千代田区
29 江東区新木場の貯木場 東京都 江東区
30 箱根大涌谷硫黄のかおり 神奈川県 箱根町
31 鵠沼、金木犀の住宅街 神奈川県 藤沢市
32 福島潟の草いきれ 新潟県 新潟市
33 砺波平野のチューリップ 富山県 砺波市
34 黒部峡谷の原生林 富山県 黒部市
35 富山の和漢薬のかおり 富山県 富山市
36 輪島の朝市 石川県 輪島市 魚介類
37 白山神社境内菩提林の杉と蘚苔 福井県 勝山市
38 勝沼・一宮のぶどう畑とワイン 山梨県 甲州市 笛吹市
39 赤沢自然休養林の檜 長野県 上松町
40 松本大名町通りのシナノキ 長野県 松本市
41 飯田りんご並木 長野県 飯田市
42 霧ヶ峰の高原と風 長野県 諏訪市 下諏訪町
43 加子母村の檜とササユリ 岐阜県 中津川市加子母
44 飛騨高山の宮川朝市と古い町並 岐阜県 高山市
45 種蔵棚田の雨上がりの石積 岐阜県 飛騨市
46 豊田香りの公園 静岡県 磐田市
47 牧之原・川根路のお茶 静岡県 島田市 掛川市 御前崎市 菊川市 牧之原市 吉田町 川根本町
48 松崎町桜葉の塩漬け 静岡県 松崎町月
49 浜松のうなぎ 静岡県 浜松市
50 半田の酢と酒、蔵の町 愛知県 半田市
51 答志島和具浦漁港の塩ワカメづくり 三重県 鳥羽市
52 大台ヶ原のブナの原生林 三重県 大台町
53 伊勢神宮参道千年の杜 三重県 伊勢市
54 比叡山延暦寺の杉と香 滋賀県 大津市
55 古窯信楽の登り窯 滋賀県 甲賀市
56 祇園界隈のおしろいとびん付け油のかおり 京都府 京都市
57 宇治平等院表参道茶のかおり 京都府 宇治市
58 伏見の酒蔵 京都府 京都市
59 東西両本願寺仏具店界隈 京都府 京都市
60 法善寺の線香 大阪府 大阪市
61 鶴橋駅周辺のにぎわい 大阪府 大阪市
62 枚岡神社の社叢 大阪府 東大阪市
63 淡路市の線香づくり 兵庫県 淡路市
64 灘五郷の酒づくり 兵庫県 神戸市 西宮市
65 山崎大歳神社の千年藤 兵庫県 宍粟市
66 ならの墨づくり 奈良県 奈良市
67 なら燈花会のろうそく 奈良県 奈良市
68 高野山奥之院の杉と線香 和歌山県 高野町
69 一目十万本の桃の花 和歌山県 紀の川市
70 酒と醤油のかおる倉吉白壁土蔵群 鳥取県 倉吉市
71 石見畳ヶ浦磯のかおり 島根県 浜田市
72 吉備丘陵の白桃 岡山県 岡山市 倉敷市 赤磐市
73 毛無山ブナとカタクリの花 岡山県 新庄村
74 厳島神社潮のかおり 広島県 廿日市市
75 シトラスパーク瀬戸田の柑橘類 広島県 尾道市
76 萩城下町夏みかんの花 山口県 萩市
77 吉野川流域の藍染めのかおり 徳島県 藍住町
78 上勝町の阿波番茶 徳島県 上勝町
79 白鳥神社のクスノキ 香川県 東かがわ市
80 内子町の町並と和ろうそく 愛媛県 内子町
81 西条王至森寺の金木犀 愛媛県 西条市
82 愛媛西宇和の温州みかん 愛媛県 海岸線全域
83 四万十川の沈下橋をわたる風 高知県 四万十市 四万十町 中土佐町 津野町
84 梼原神在居の千枚田 高知県 梼原町 土、草、花、稲わら 通年
85 太宰府天満宮の梅林とクスノキの森 福岡県 太宰府市
86 合馬竹林公園の竹と風 福岡県 北九州市
87 柳川川下りとうなぎのせいろ蒸し 福岡県 柳川市
88 虹の松原潮のかおり 佐賀県 唐津市
89 伊万里焼土と炎のかおり 佐賀県 伊万里市
90 野母崎水仙の里公園と潮 長崎県 長崎市
91 大学山の照葉樹林 熊本県 水俣市
92 河浦崎津天主堂と海 熊本県 天草市
93 別府八湯の湯けむり 大分県 別府市
94 大分野津原香りの森 大分県 大分市
95 臼杵・竹田の城下町のカボス 大分県 臼杵市 竹田市
96 くじゅう四季の草原野焼きのかおり 大分県 竹田市 九重町
97 五ヶ瀬川の鮎焼き 宮崎県 延岡市
98 屋久島の照葉樹林と鯖節 鹿児島県 屋久島町
99 指宿知林ヶ島の潮風 鹿児島県 指宿市
100 竹富島の海と花のかおり 沖縄県 竹富島

という。面白い試みですが、ほとんど行ったことがありません。

「元祖源兵衛せんべい」。

 この界隈には他にもたくさんお煎餅屋さんが店を連ねています。

    
久野家(大津屋)住宅[店舗部分]
 草加宿では街道がほぼ直線状に設けられたが、北の端では曲輪のように大きくカーブする。久野家はその曲がり角に位置している。記録によれば開宿以来四回程の大火や震災に見舞われ、そのたびに蘇ってきた。家伝によればこの家は安政2年(1855)の江戸大地震に耐えたという。幸いにも明治3年(1870)の大火も免れた。以来この場所で宿場の変遷を見続けてきた。
 やや小ぶりな建物ではあるが、宿内では古い形式を伝える町屋建築である。居住部分は後世に建てかえられたが所有者の強い思いから店舗部分が残されてきた。
 外観は平入切妻造り瓦葺きで、いわゆる川越城下に見られる土で厚く塗り籠められる完成された「土蔵造り」とはなっていないが、店舗部分と居住部分が丁の字に組み合わされた形式(町屋建築という)を伝えるものである。
 街道に面して間口(桁行)5間、奥行(梁行)2間半の本体に街道側に差し掛け屋根形式の下屋を降ろしている。屋根は比較的低く抑えられているのは2階に当たる部分が未発達で住むことを意識されなかったためと思われる。・・・正面の出入口には両戸と兼用の「揚げ戸」を用い、全開すれば陽光は店の内部まで届いた。内部に入ると大きな差し桁を縦横に組み合わせ、現代の建築には見られない力強さをみせる。内側から街道を見わたせば太い柱と差し桁が額縁のように光をさえぎりゆったりとした時間が流れるようである。・・・

    

 曲輪の出口に、「神明宮」。その鳥居礎石に几号と解説碑があります。
    
神明宮鳥居沓石(礎石)の高低測量几号

 石造物に刻まれた「不」の記号は明治9(1876)年、内務省地理寮がイギリスの測量技師の指導のもと、同年8月から一年間かけて東京・塩釜間の水準測量を実施したとき彫られたものです。
 記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。この石造物は神明宮のかつての鳥居の沓石(礎石)で、当時、記号を表示する標石には主に既存の石造物を利用していました。
 この水準点の標高は、4.5171メートルでした。
 その後、明治17年に測量部門は、ドイツ方式の陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。
 しかし、このような標石の存在は測量史上の貴重な歴史資料といえます。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。上方の松並木(草加松原)に通じる。
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今様草加宿。本陣。・・・(「日光道中」をゆく。その5。)

2016-05-10 21:51:33 | 日光道中
 しばらく進んだ右手には国の登録有形文化財の「藤城家住宅店舗・内蔵・外蔵」があります。

 藤城家住宅は五街道の一つである日光街道の宿場・旧草加宿のほぼ中央に位置しています。
 街道に面して建つ「店舗」は2階建てで、1階の内部は張り出した庇部分を巧みに取り込み、土間と畳敷きの帳場を設け、その先から上がる2階は、畳敷きの座敷となっています。開口部は1階がガラス格子、2階は障子と縦格子で装飾され、風格のある昭和初期の商家造りとなっています。
 その後方には、母屋に組み込まれた重厚な土蔵造りの「内蔵」と明治初期の建造と伝える「外蔵」が並び、奥行きの深い、草加宿の典型的な町屋景観をよく残しています。
 このように、江戸時代以来の宿場の面影を今に伝える藤城家の各建造物は、歴史的にも景観的にも大変貴重なものであり、「国土の歴史的景観に寄与するもの」として国の有形文化財(建造物)として登録されました。

 平成26年3月 草加市教育委員会

    

スローライフなまちづくり よみがえれ「今様・草加宿」。

「草加松原」の幟。

 (以下「Wikipedia」参照)
草加宿
 日光街道および奥州街道の2番目の宿駅(宿場町)で、武蔵国足立郡にあった。現在の埼玉県草加市中心部に相当する。 宿場の位置は、現在の草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から神明一丁目の草加六丁目橋付近までの一帯。
 慶長元年(1596年)、徳川氏は“陸奥の駅路”奥州街道を定め、慶長7年(1602年)、伝馬人足の設置および継立を義務づけた宿駅制度を設けた。奥州街道・日光街道の千住から越ヶ谷間は、この一帯の街道筋は沼地が多かったため、これを迂回し花俣(現在の東京都足立区花畑)から八条(八潮市)に出て古利根川と元荒川の自然堤防に沿って越ケ谷に至る経路を取っていた。
 慶長11年(1606年)になって、大川図書(ずしょ)が先頭に立ち、現在の旧街道筋にあたる低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住-越ヶ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。この新道の工事の完成に当時の将軍徳川秀忠は喜び、「草を以て沼をうづめ、往還の心安すきこと、これひとえに草の大功なり。このところ草加といふべし」と下知した。これを「草加」という地名の由来とする言い伝えがある。
 草加宿の開宿当時、戸数は84戸、長さ685間、伝馬人足25人、駅馬25頭であり、旅籠屋も5軒から6軒、店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が各1軒ずつ軒を並べたもので、あとは農家であったが徐々に人口が増え、元禄期には戸数120軒になった。 正徳3年(1713年)には、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられ、五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心として繁栄するようになった。このころから、大半が店子と地借層で、他に屋守、分地、脇屋敷と都合5000人前後で構成され、
 草加宿は、享保年間(1716年-1736年)から発達し、天保14年(1843年)によると、南北12町(約1.3km)の規模となり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒(大2、中30、小35)、人口3,619人であった[9]。これは、同じ日光道中の宿場のうち、城下町に併設されていた宇都宮宿と古河宿を除けば、千住宿、越ヶ谷宿、幸手宿に次ぐ規模であった。

※草加せんべい
 元々この一帯では稲作が盛んに行われており、農家では蒸した米をつぶし丸めて干したものに塩をまぶして焼き、間食として食べていた。江戸期に入り、この地に宿場が開かれ発展していくと、この塩味の煎餅が旅人向けの商品として売り出され、各地に広まることとなる。その後、利根川流域(千葉県野田市など)で生産された醤油で味をつけるようになり、現在の草加煎餅の原型となったといわれている。
 現在、草加市内にはせんべいの製造所や販売所が60軒以上に及び、現在も草加の代名詞となっている。製造工程は機械化されつつあるが、昔ながらの天日干しや手焼きで製造する所も少なからず存在する。

 ところで、「今様 草加宿」。そこには地元の方々の並々ならぬ思いが込められているようです。





 江戸時代、千住宿に次ぐ日光街道第2の宿駅として発展した草加宿。  その誕生のきっかけとなった街道整備に着手したのが今からさかのぼること400年、 慶長11(1606)年の事です。
 当時の日光街道の千住と越谷の間は沼地が多く、大きく迂回して通らなければなりませんでした。
そこで、宿篠葉村(今の草加市松江町)の大川図書という人物が、茅野を開き沼を埋め立て、それまで大きく東に迂回していた奥州街道をまっすぐにする新道を開いたといわれています。
 この時、沼地の造成に沢山の草が用いられた事から「草加」と呼ばれるようになりました。 その後、直線となった千住・越ヶ谷間に宿駅を設けることが幕府によって命じられ、 寛永7(1630)年に付近の村々によって草加宿が設置されました。
 こうして誕生した草加宿は、参勤交代や日光社参、さらには一般旅人の往来もあって大きなにぎわいをみせるようになりました。元禄2年(1689)には松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で草加宿に歩みを残しています。
 その後、1792年に宿場北端の街道沿いには松が移植され、「草加松原」として知られるようになりました。立地的には、中川・綾瀬川の低平地に位置しており、標高は1.4m~4.7mで河川の氾濫源であり、稲作に適した土地で、河川・水路が縦横に走っています。その為、灌漑用水の開削や新田開発などを行って江戸幕府の台所を支える穀倉地帯となり、幕府の直轄領としても発展しました。
 当地を南北に貫いた日光街道は、現在、県道足立・越谷線として整備されてますが、高砂1丁目の旧道南側詰から神明交差点にあるおせん公園までの全長約1.5kmが旧日光街道として残されています。  また「今様・草加宿」の対象区域は、国の「地域再生計画」の認定を受けた旧道南側詰から綾瀬川・松並木に至る約134haの区域です。
国の文化審議会は平成25年11月15日に、松尾芭蕉が旅した「おくのほそ道の風景地」(10県13カ所)の1カ所として、「草加松原」を名勝に指定するよう文部科学大臣に答申し、平成26年3月18日、「草加松原」は文化科学大臣から、国の名勝として正式に指定を受けました。
名勝指定は埼玉県内では56年ぶり。長瀞(皆野町、長瀞町)、三波石峡(神川町、群馬県藤岡市)に次いで3件目になります。
 「草加松原」は、芭蕉が草加に足跡を記した頃からその後の時代にかけて松が植え足され、草加市中心部を南北に流れる綾瀬川沿いに、街道の両側に約1.5kmもの松並木にまで成長を遂げています。
幹周りが約2mにも及ぶ古木も含め、川沿いに延びる並木の風景は壮観であり、今なお『おくのほそ道』の時代の雰囲気を伝える風致景観の一つとして評価されました。
「今様・草加宿」市民推進会議では、かねてより旧草加宿と松並木一帯の整備と活性化について研究実践を重ねてまいりました。
今回の国の名勝指定によってさらに風致景観の向上に弾みがついたといえましょう。

※草加宿と芭蕉
元禄2(1689)年3月27日、46歳の松尾芭蕉は、門人の曽良を伴い、奥州に向けて江戸深川を旅立ちました。
 後に日本を代表する紀行文学『おくのほそ道』として結実するこの旅は、日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と、東北・北陸の名所旧跡を巡り、美濃国大垣に至る600里(2400km)、150日間の壮大なものでした。
 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす……」
(月日は永遠の旅人であり、行く年、来る年もまた旅人である。舟の上で生涯を過ごす船頭、また馬の口を取って街道で年老いていく馬方は、毎日が旅であり、旅を住処として生きている)
あまりにも有名なその書き出しは、「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて漂泊の思ひやまず……」と続きます。真の美を求め、身の回りの一切のものを捨てて、草枕の旅に出た芭蕉。悲壮感すら漂う決意のほどがうかがえます。
 深川を出た芭蕉は千住宿まで舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始めます。「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり」 こうして芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみながら2里8丁(8.8km)を歩き、日光街道第2の宿駅だった草加にたどり着きました。『おくのほそ道』の旅は、この後草加から東北へと拡がっていくことになるのです。
 芭蕉が訪れたころの草加宿は、戸数120軒ほどの小規模な宿場町でした。開宿当時の草加宿は、戸数84戸、旅籠屋(旅館)が5~6軒、他の店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋(銭湯)、髪結床(床屋)、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度で、あとはすべて農家だったそうです。芭蕉が訪れた頃は、草加宿が賑わい始める前だったのですね。
きっと、のどかな風景が広がっていた事でしょう。
 それから約150年後、天保14(1843)年の調査によると草加宿は戸数723戸、人口3,619人と南北12町(1.3km)にわたって家屋が軒を接 し、本陣・脇本陣各1軒、旅籠屋は67軒まで増加しました。城下町を除くと、日光街道では千住、越ヶ谷、幸手に次ぐ規模で、周辺の交通の要衝として栄えま した。
また綾瀬川では江戸中期ごろから舟運が始まり、魚屋河岸・甚左衛門(札場)河岸・藤助河岸が設けられて発展しました。

(以上、HPより)

 「草加宿」の本陣は、宝暦年間までは「大川本陣」、その後、明治になうまでは「清水本陣」ということで二つの本陣跡碑が向かい合って建っています。

    

                   
草加宿の本陣
 江戸時代に、奥州・日光道中参勤交代の大名休泊宿として、草加宿の本陣がここに置かれました。

 大川本陣(~宝暦年間)
 清水本陣(宝暦年間~明治初期)

 この本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩の伊達綱村、盛岡藩の南部利視、米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊した記録があります。
 近くに脇本陣も置かれ、参勤交代の往復にその役割を発揮しました。
 本陣は、門、玄関、上段の間がある所が一般の旅籠と異なり、昭和初期にはまだ塀の一部が残っていたと伝えられています。
 当主は、名主や宿役人などを兼帯していました。

 「今様・草加宿」市民推進会議

注:「宝暦年間」=1751年~1764年。
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大曲。草加宿へ。・・・(「日光道中」をゆく。その4。)

2016-05-09 18:38:52 | 日光道中

「環七」を横切る島根交差点の先には「将軍家御成橋 御成道松並木」跡碑。

一直線に伸びる「旧日光街道」。

(9:29)左手奥に「島根鷲神社」。

「スーパーボーヤ」。

「増田橋」。今は暗渠。停留所名にのみ? 

「淵江小学校」を過ぎると、一直線に進んだ道にも変化が。

 (9:58)「足立清掃工場」の大きな煙突が左手に見え始めると、バス停に「大曲」とあります。その名の通り、いったん旧道は右に大きく曲がって行きます。

    
                       左手角の「セブンイレブン」から見たところ。右手奥の道が旧道。ここで買い物をして、小休止。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 「大曲」という地名は「旧水戸街道」にもあります。綾瀬から東に行ったところ、街道が大きく曲がっています。こことよく似ている道筋です。

    

 わずかで先ほどの道と合流し、「国道4号線(日光街道)」のバイパス下をくぐると「毛長川」を水神橋で渡り、いよいよ東京都足立区から埼玉県草加市へと入ります。

    

(10:24)草加市入り。

 東武スカイツリーラインの谷塚駅前には「富士浅間神社」。しばらく進むと「吉町5丁目」交差点の右角に、「火あぶり地蔵尊」。



「広報そうか 第363号 昭和56年6月20日号」より。

孝行娘の哀れな最期 <6> 火あぶり地蔵(瀬崎町)

 旧4号国道(県道足立・越谷線)沿いの瀬崎町と吉町との境に、「火あぶり橋」という橋があります。橋の際に通称“火あぶり地蔵”と呼ばれる地蔵堂が建っており、昔の処刑場跡と伝えられています。今回は、この地蔵堂にまつわる悲しい話を紹介します。
 昔々、千住の掃部(かもん)宿(現在の千住仲町付近)に母親と一人の娘が住んでいました。娘の父は、かなりの借金を残してこの世を去り、後に残された母娘二人は、借金を返済するために一生けんめい働きました。生活は苦しいながらも、人柄の良い親子は、近所のだれからも好かれていました。しかし母娘二人の収入では生活していくのが精一杯で、とても借金を返す余裕などありません。
 ある時、瀬崎村のさるお大尽の家で女中を探しているという話を聞き、これがかなりの好条件だったものですから、娘は奉公に出ることになりました。親孝行で働き者の娘は、ここでもみんなから可愛がられ、娘の家の借金もだんだんと少なくなり、幸せな毎日を送っていました。
 お大尽の家に奉公に出て何年か過ぎたある時、長い間の無理がたたったのでしょうか、娘の母親が重い病気で倒れ、近所の人に面倒をみてもらっている事を知りました。娘は、主人の気げんのよい時や、ひまな時などを見はからっては、「ご主人様、お願いでございます。母が重い病で伏せっております。看病のために、しばらくおひまをいただきたいのです」と何度も哀願しましたが、主人はどういうわけか、娘の頼みを聞きいれてはくれません。その間にも母の病状は悪化し、娘はいてもたってもいられません。悩みぬいたあげく、「この家が燃えてしまえば、母の元へ帰ることができるのだわ」と考え、大胆にもお大尽の家に放火をしてしまいました。
 幸いにも、被害は少なくてすみましたが、「犯人は、誰か」という事で大騒ぎになりました。意外にも、犯人がこの家の働き者と評判の女中であり、放火の理由がわかった時は、村人たちは大いに同情しました。
 しかし、火つけの罪は「火あぶりの刑」と定められていましたので、娘はこの地で処刑されてしまいました。村人たちは、この哀れな罪人の霊を慰めるために、講(こう)の人々が中心となって、処刑された場所にお堂を建立し、地蔵を安置して供養しました。
 お地蔵さんは現在、旧4号国道の激しい車の往来を何事もなかったかのように眺めています。

(以上、「」HPより)

 ここにも旧日光街道にまつわるお話が残っているというわけです。

「東海道」や「中山道」でも見かけた石造り。

(11:15)しばらく進むと、Y字路になります。左の狭い、草加駅方向への道が旧日光街道。
「今様草加宿」の大きな標識が目印。

「草加市役所」前から来た道を振り返って望む。

小さな祠と案内板。「おくのほそ道の風景地 ↑草加松原」。

 目の前の信用金庫のベンチでおにぎりを食べながら小休止。

 さて、その先の左手に立派なお屋敷。


「草加神社」案内板。神社は東武線を越えた西側にあります。

宿内のようす。

 駅前通り手前の右手・草むらの中に日光街道・葛西道と刻まれた道しるべの石塔。
    

黄色いポールのある道が「葛西道」。

交差点の歩道の真ん中付近にある「草加町道路元標」。

その先の左手には、「八幡神社」。

「獅子頭雌雄一対」という草加市指定有形文化財があるそうです。

・・・大型で重量もあり、獅子の胴衣をつける穴もなく、獅子頭として神幸に供奉したものである。しかし、現在では山車に乗せて曳いたという以外に伝承は残っていない。
 かかる大型の頭では、重量の関係もあり彫技に変化をつけることは至難であるが、江戸末期の平面的な技法によって構成されている。この彫工も男獅子の角には、かなり苦心したらしく宝珠との釣り合いもあり、中央に一角の太い角は、獅子の頭部の一部が岩のように盛り上がったごとく彫り込んであるが、獅子の角としては珍しい手法である。塗りは、布着せ黒漆塗りとし、唇・鼻の穴・舌は朱漆塗り。巻毛・耳・宝珠等は金箔押しとし保護のため生漆をかけてある。本体は寄木工法からなり、材は檜であろう。歯は上顎から二本の牙がでて歯の並びに変化を与える古い手法を用いている。
 このような大型の獅子頭は、遺構も少なく貴重なものである。

  昭和56年3月 草加市教育委員会
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「横山家」。「名倉医院」。梅島駅。・・・(「日光道中」をゆく。その3。)

2016-05-07 21:35:20 | 日光道中

 このあたりには昔ながらの家屋がちらほら残っています。重厚な建物の「横山家」住宅も健在です。

    

横山家住宅
 宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は、街道筋に面して間口が広く、奥行きが深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴である。それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。
 敷地は、間口が13間、奥行きが56間で鰻の寝床のように長い。
 横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋問屋を営んでいた。
 現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われている。間口が9間、奥行きが15間あり、大きくどっしりとした桟瓦葺きの2階建である。
 広い土間、商家の書院造りと言われる帳場2階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷痕や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。

 平成2年 東京都足立区教育委員会

今も続く「千住絵馬屋」吉田家。

千住名物「かどやの槍かけだんご」

そろそろ「宿場通り」もおしまい。

  「東へ 水戸佐倉街道」との分岐標。

 旧日光街道は「荒川放水路(現・荒川)」開削によって分断されましたが、ここから北西方向に進み、「川田橋」のところで今度はほぼ北へ進む道となります。


「荒川」の土手にぶつかります。

来た道を振り返って望む。右手奥が千住宿方向。 

荒川土手近くに設置されていた道標。「北 下妻道。北西 日光道中。」

 分岐点から少し北に進むと、骨接ぎで名高い「名倉医院」。

奥に昔のままの建物が残っています。



千住名倉医院
 名倉医院は江戸時代以来、骨接ぎといえば名倉、名倉といえば骨接ぎの代名詞になるほど、関東一円に知られた医療機関であった。下妻道に面し、旧日光道中や水戸佐倉道分岐点を間近にして便がよかったので駕籠や車で運ばれてくる骨折患者でひしめいていたという。門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの溜まり場であった。
 名倉家は、秩父庄司畠山氏の出で享保年間(1716~36)頃千住に移り、明和年間(1764~72)に「骨つぎ名倉」を開業したと伝わる。
 現在、江戸中期から昭和中期まで盛業時の医院の建物が保存されている。昭和59年足立区登録記念物(史跡)となった。
 かつての名倉医院の周辺には、患者が宿泊して加療できる金町屋、万屋、成田屋、大原屋、柳屋等の下宿屋があって、その主人が名倉医院で治療に当たる医師及び接骨師を兼ねていた。

 平成23年3月 足立区教育委員会

土手から千住宿方向を望む。

河川敷を望む。

荒川に架かる「千住新橋」を渡ります。現・日光街道「9㎞」ポスト。

 橋を渡り終えてから、左に進みます。土手上でも首都高下の道でも可。「川田橋」交差点、「善立寺」のところを右に進みます。
               

「旧日光街道」。ここからは北に向かいます。

 この付近の変遷。「今昔マップ」より。Aが千住宿のはずれ、Bが「川田橋」付近。






現在。

ほぼまっすぐな道を北へ。

 しばらく進むと、左手に小さな石不動尊の祠と「子育八彦尊道  是より二丁行く」という道標。


整備された道路。電柱には「旧日光街道」。

右手にはショッピングタウン「KARIBU」。

 「エルソフィア前」という交差点を通過すると、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の梅島駅に。

                         ここから直線道路で「淵江小学校」の先まで約3㎞続きます。
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掃部宿。一里塚跡。本陣跡。・・・(「日光道中」をゆく。その2。)

2016-05-06 22:18:01 | 日光道中
 「墨堤通り」(旧「掃部堤」跡)を渡ると、この付近が「千住掃部(かもん)宿」。左手に小公園があり、りっぱな解説板。

千住掃部宿
 千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永2年(1625)将軍徳川家光のときです。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。現在の千住1丁目から5丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまで編入され、4キロメートル余りの街並みが続く千住宿となりました。
 掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年(1658)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。
 名前の由来は慶長3年(1598)村を拓き、元和2年(1616)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなみます。
 掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり、繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳諧文化、江戸絵画、漢学、医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和6年(1931)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し、足立区随一の繁華街でした。
 昭和20年4月13日の夜間空襲の際、千住仲町の日光道中沿いの商家は一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。

 平成27年3月  千住仲町まちづくり協議会・うるおいのあるまちづくり部会

「旧日光街道」(この道路愛称名は公募によって選ばれました・足立区)。
 看板には「かもん宿診療所」。
 なお、この「旧日光街道」は、いったん荒川によって遮られますが、その先もほぼ直線で、延々と足立区と草加市の境まで続きます。道中歩きには大助かりです。

 ここで「千住宿」の紹介(以下、「Wikipedia」参照)

千住宿
 日光街道(日光道中)および奥州街道(奥州道中)の日本橋から1番目の宿場町。千住宿は、武蔵国足立郡・豊島郡の荒川(現隅田川)曲流部に設置された宿場町。東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。
 水戸街道はここから分岐していた。荒川・綾瀬川が付近で交差しており運輸・交通の便に有効な場所であったことから、千住大橋沿いには橋戸河岸が置かれ、 千住河原町に設置されていた千住青物市場(やっちゃ場)は御用市場となった。 千住は江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。
 千住宿は岡場所としても発展した。また、千住宿の南の町小塚原町には江戸北の刑場として、小塚原刑場が置かれている。
 当時の千住宿は、現在の足立区千住一~五丁目、千住仲町、千住橋戸町、そして荒川区南千住町名に相当する。
 文禄3年(1594年)荒川(現隅田川)に千住大橋が架けられると、この地域は急速に発展した。
 『日光道中宿村大概帳』によると、天保14年(1843年)千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けられていた。宿内の家数は2,370軒、人口は9,456人であった。その他、掃部宿には「一里塚」、「高札場」、千住一丁目に「問屋場 貫目改所」が設置された。
 千住宿の賑わいは、『新編武蔵風土記稿』によると「駅の広さ東西14.5町、南北35町ありて、宿並間数1,256間、その左右に旅亭商家軒をならべて、旅人絶ゆることなく、もっとも賑はへり」とある。江戸市街の喉もとで奥州街道、水戸街道の始点として、日光・東北方面への旅人で賑わったという。 幕末期には家は2,400軒近く、人口も約1万人に達する江戸四宿最大の宿場町になった。 文政4年(1821年)の調べによると,江戸参勤の大名は,日光街道4、奥州街道37,水戸街道23,計64の大名が千住の宿を往来している。
 江戸時代、千住宿に岡場所があった。岡場所は、唯一の幕府公認の遊郭である吉原に対して、それ以外の非公認の遊郭の総称である。江戸市中に私娼を置くことは御法度であったが、実際には千住宿・品川宿・板橋宿・内藤新宿といった江戸四宿には、準公認の飯盛女(飯売女・飯売)が置かれていた。
 明治時代になると、岡場所は遊郭となった。1883年(明治16年)の千住宿の売娼妓数374、買客数43,000、1888年(明治21年)にはそれぞれ466、65,000との記録がある。いずれも四宿においては内藤新宿、板橋宿を上回っていた。
 慶安4年(1651年)千住宿小塚原町(現荒川区南千住)には、「小塚原刑場」が位置づけら、小塚原の仕置場では磔刑・火刑・梟首(獄門)が行われ、合計で20万人以上の罪人がここで刑を執行されたという。

葛飾北斎『冨嶽三十六景 武州千住』

 農夫と馬の向こうには、大きな堰枠(せきわく)がみえます。これは元宿圦(もとじゅくいり)に設けられた元宿堰とよばれる堰枠が見られることから、現在の住所では、千住桜木1丁目と2丁目の境、帝京科学大学入口交差点付近の景色という。

『冨嶽三十六景 隅田川関屋の里 』

 現在の千住仲町から千住関屋町付近に相当し、人馬が走る道は、石出掃部介の新田開発によって元和2(1616)年に築かれた掃部堤(かもんづつみ)、現在では墨堤通りとよばれている道となり、中央には千住仲町の氷川神社が描かれているという。


 「千住宿」は松尾芭蕉の『奥の細道』を抜きにしては語れません。

『奥の細道』

・・・弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士の嶺かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。
千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。

  行(ゆ)く春や 鳥啼(なき)魚(うお)の 目は泪(なみだ)

これを矢立の初めとして、行く道なを進まず。
人々は途中に立ちならびて、後ろかげの見ゆるまではと見送るなるべし。

 時にどこで舟を上がったのか、が話題になります。「(千住)大橋」の南岸か、北岸か? 南岸は荒川区、北岸は足立区。どちらも譲らないようですが。

 もう一人、小林一茶も忘れてはならないでしょう。直接、日光道中・千住宿には関わりませんが、足立区六月にある炎天寺には小林一茶の句にゆかりあるものが伝えられています。

「やせ蛙まけるな一茶是にあり」(文化13年4月)

「蝉なくや六月村の炎天寺」(文化13年9月)

 さて、もう少し北に向かうと、賑やかな商店街になります。その手前、広い通りをはさんで「高札場跡」「一里塚跡」(日本橋から2里目)、さらに「問屋場跡」「貫目改所跡」碑がそれぞれあります。

「高札場」跡。

「一里塚」跡。

「問屋場・貫目改所」跡。

        
千住宿問屋場・貫目改所
 旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所が置かれていました。
 宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は50人、50疋です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には馬寄場がありました。問屋場は元禄8年(1695)に設けられました。また、寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150㎏)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったとの話もあります。
 江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は日本橋から2里8丁(8.7㎞)ですから、江戸時代の人にとっては気楽に出かけられる距離だったのでしょう。

 この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられます。
 この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲を表示しています。

 平成18年3月 足立区教育委員会
 
 北千住駅前の通りを横切り、繁華街に入っていきます。左手に「千住宿本陣跡」碑。
 

その付近からの街並み。

通りの一画にある「千住ほんちょう公園」。

案内図。以前来た時よりもきれいに。

「千住宿高札場 由来」解説板。
・・・このような高札場は、明治の初期まで幕府の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口のところに設置されていました。
 これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいと思います。

 昭和63年11月吉日 千住の街並み景観を考える会

 お店のシャッターには日光道中の宿場にちなんだ絵柄が描かれています。
    

 なかなか「千住宿」から出立できません。   
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