風邪がなかなか直りきらず、咳が・・・。ということで外出もままならず、少し気分が落ち込んでいる昨今。
怪我の方は順調に回復。次回の通院で地域病院での診察は終了。レントゲン写真を見ながら、「順調な回復です。無理に手術しなくてよかったようですね。」
リハビリ病院の通院は、まだ続けなければなりませんが。右手を使っての食事や洗髪など苦労しなくなりました。
右腕は上下運動は何とか、回復。水平に動かすのはまだまだきつい! 「まだ万歳三唱は難しい、と思うが」とはリハビリ病院の院長の見立て。
ということで、「中原街道」歩きの初日の報告も滞りがちになってしまいます。
・・・
「二本榎通り」を進みます。右にこんもりと木に囲まれたお屋敷が。
高輪皇族邸(たかなわこうぞくてい)。
高輪皇族邸(たかなわこうぞくてい)は、東京都港区高輪にある皇室関連施設。高輪御殿は熊本藩細川家の下屋敷跡地の一部で、1891年(明治24年)、明治天皇第六皇女・常宮昌子内親王と第七皇女・周宮房子内親王の住まいに定められ、1913年(大正2年)から1924年(大正13)までは皇太子裕仁親王の東宮御所だった。戦前は「高輪御殿」と通称された。1931年(昭和6年)から2004年(平成16年)までは高松宮宣仁親王と宣仁親王妃喜久子の住まいだった。2020年(令和2年)3月31日から2022年(令和4年)4月12日までは上皇・上皇后の仮住まいとして使用され、『仙洞仮御所(せんとうかりごしょ)』という名称だった。
上皇上皇后が赤坂の仙洞御所に遷御した後の高輪皇族邸は、これまでの赤坂東邸に代わる皇族共用の殿邸として、御仮寓や親睦会、葬儀などの会場として使用される方針としている。
(この項「Wikipedia」参照)
この通りは、丘陵地帯(高輪台)の南東端に当たり、通りの左側はかなり急傾斜となっています。
「保安寺」への階段。急な下り坂になっています。
左手には「高輪中学校・高等学校」、「東海大学 品川キャンパス」などが続く。
右手は住宅地。
「二本榎の碑」と解説板。
二本榎の碑について
その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿 の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
それがそのまま「二本榎」(にほえのき)という地名となって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
戦後、地番変更で高輪 何丁目などと地名が変りましたが、昭和四十二年に町内の黄梅院 の境内に夫婦の榎を植樹し、石碑を立ててこの「二本榎」の町名をいつまでも忘れないようにしました。
平成二年、「碑」をこの場所に移しましたが、二本の榎は黄梅院に大切に育てられています。
この「碑」はこの町の住民にとって大切な象徴となっております
高輪二本榎町会
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