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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

初冬の「隅田公園」。モミジ。イチョウ。メタセコイヤ。スカイツリー。そして、ユリカモメ。・・・

2021-12-10 18:10:39 | 世間世界

    

一昨日の冷たい雨から一転、昨日は、晴天の東京地方。寒さにも少し慣れてきたか。平年よりも少し気温がたかいそうですが。

隅田公園もすっかり晩秋のようす。イチョウも色づき、モミジも赤く。青空にスカイツリーがすっきりと。そんな昼下がりの隅田公園です。

    

カメラを据え付け、シャッターチャンスを狙う人たち。水鳥の姿をとらえるのでしょうか。

散策を楽しむ人々。

              

                 

      

 

 

                               「言問橋」から。

墨田区・向島側から対岸の台東区・浅草側へ。

   

メタセコイヤ。

      

見上げると、ユリカモメ。

足もとにも。

                 

正岡子規の句碑。

            雪の日の隅田は青し都鳥 

雪の白と隅田川の青と都鳥(ユリカモメ)の嘴の赤と、色彩感覚がすばらしい一句。

※『伊勢物語』で、昔男(在原業平)の「名にしおはば  いざこと問はむ みやこどり 我が思う人は ありやなしやと」と詠われた「都鳥」は、ユリカモメのこと。現在は東京都の鳥として親しまれている。

隅田川を進むプレジャーボート。

       

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銚子電鉄・本銚子駅~JR成田線・椎柴駅。その6。松岸河岸跡。利根水郷ライン。土手歩き。(利根川を歩く。第9回目。)

2021-12-09 18:55:11 | 利根川を歩く

                     商家らしい佇まいのおうち。「金井栄蔵商店」。

「松岸町北」交差点。左折すると、「松岸駅」へ。

その手前を利根川へ向かいましたが、工事中で進めず。

       

             屋敷の裏手が利根川河岸に。

白や紫の葉ボタンがズラリ。

     

名前の由来は、葉を牡丹の花に見立てたもの。冬の公園を彩るほか、門松の添え物にも利用されます。

両側に農地が広がる所へ。

      

             正面奥に見える建物は、「銚子市 芦崎終末処理場」。下水処理のための施設です。

田畑の中に一直線の道路が続きます。

      

ようやく左手から曲がってきた「国道356号線(利根水郷ライン)」に出ます。しばらく進むと、右手に整備中の土手が。

そこを歩いてみます。

久々に利根川の流れ。

        

     遠くに見える橋は、「利根かもめ大橋」。

     

「海から7.50㎞」ポスト。

立入禁止などで利根川沿いを歩けず、さらに、けっこうな風の強さで歩きづらく、あまり進めていなかったようです。

土手歩きはここまで。

土手から下りて左側を走る「国道356号線(利根水郷ライン)」に。

車の行き来は多く、けっこうスピードも出しているようです。信号が無い一直線の道路。

 

       上流方向。                       下流方向。  

土手の向こうに利根川。

「海から8.0㎞」ポスト。  

瀟洒な、この建物は? 

もう一駅進もうと思いましたが、今回は、ここまで。

JR成田線・椎柴駅に向かいます。

 

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銚子電鉄・本銚子駅~JR成田線・椎柴駅。その5。造船所。銚子商業海洋科。松岸。(利根川を歩く。第9回目。)

2021-12-08 17:42:33 | 利根川を歩く

                   造船会社の船着き場から。

「銚子大橋」。

上流方向。

                河岸には造船工場。

利根川へ注ぐ小川。

小型船などが係留されている。

マンホール。

中央に犬吠埼灯台と太平洋の波とカモメを描き、周囲に市の魚イワシがデザインされている。

「マンホールカード」。

                                 (「マンホールカードを集めよう」HPより)

千葉県立銚子商業高等学校 海洋校舎。

          

 

校舎の向こうには利根川。

この先、工事のため河岸には近づけず。迂回します。

それでも脇道から河岸へ。

                    鳥たちが物音でいっせいに利根川へ向かう。

        

この先は通行不能。公道に戻ります。

上流方向。

松岸の町中へ。利根川沿いの集落の道のようです。

2010年代のようす。赤い線が「国道356号線(利根水郷ライン)」。

1880年代のようす。利根川の港として形成していた街並み。利根川の流れは、今も昔も変わらず。

利根川には桟橋があり、小型船も停泊してようです。

      

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大雪(二十四節気)。東京地方、夕方からは冷たい雨に。ついでに「風花」あれこれ。

2021-12-07 20:28:34 | 世間世界

                  (フランス映画「シェルブールの雨傘」―youtube―より)                                          

今日、12月7日は、大雪(たいせつ)

「冬至」までの期間をさし、「小雪」から数えて15日目にあたります。

本格的に冬が到来するころとなり、山々は雪に覆われ、平野にも雪が降り始めます。新しい年の準備をはじめる「正月事始め」もこの時期から行われます。

七十二侯では、

・初侯 12月7日〜12月10日頃

閉塞成冬 そらさむくふゆとなる

天地の気が塞がれ、冬がおとずれる頃。空は重い雲に覆われ、生き物はじっと気をひそめています。塞ぐという言葉は、寒さから人々を守るという意味でとることもできます。

・次侯 12月11日〜12月15日頃

熊蟄穴 くまあなにこもる

熊が冬ごもりの時期に入り、穴にこもる頃。春になるまで、穴の中で過ごします。熊だけではなく、しまりすや蛙、こうもりも冬ごもりを始めます。

・末侯 12月16日〜12月20日頃

鱖魚群 さけのうおむらがる

鮭が川を遡上する頃。海で育った鮭は、産卵のために自分の生まれた川へと里帰りをします。北国では冬を代表する光景のひとつであり、迫力のある遡上を見ることができます。

(この項、「暦生活」HPより)

ところで、大雪にあまり見舞われることがない地方にふさわしい自然現象に「風花(かざはな)」があります。

※「風花」

晴天時に雪が風に舞うようにちらちらと降ること。あるいは山などに降り積もった雪が風によって飛ばされ、小雪がちらつく現象のこと。からっ風で有名な静岡県や群馬県でよく見られる。
 冬型の気圧配置が強まり、大陸から日本列島に寒気が押し寄せてくると日本海側で雪が降るが、その雪雲の一部が日本列島の中央にある山脈を越え、太平洋側に流れ込んできたときに風花が見られる。(「Wikipedia」より)

 

この風花を「旧東海道歩き」、静岡県の「大井川」で体験しました。そのときのようすをブログで再掲。

(2015年2月3日)


 土手に上がって、対岸を望む。

  北側の雲は雪雲そのもの。立っているのがやっとのほどの強風。渡る橋は北側の「大井川橋」。

雪の舞う西風の中、辺りを見回す余裕もなく、帽子が飛ばないよう必死に押さえながら、やっと橋のたもとに。1㎞という橋の長さですから、15,6分はかかりそう。           

対岸はかすんで見えるのみ。

 渡り終え、しばらく土手を進み、ほっとして橋の方向を振り返ると、何と! 橋の向こうに富士山が。



 ウソみたいに晴れ渡ってきて、風もいくらか穏やかに。土手の上を自転車に乗ってやって来た地元の方、自転車を停めて、富士山を指し、「今日はよく見えますね、すばらしいですね。」と去っていきます。こちらも土手の上で、すてきな景観をしばらく眺めていました。

・・・

そうそう、川上弘美さんの小説に『風花』という作品があります。

そのエピローグは、女性としての生き方に、確乎とした信念や行動を持ち合わせてはいないように見えた主人公が、少しも後ろを振り向かずに、赤色の横断歩道を駆けだしていく。それを呆然と見つめる夫の姿を(作者は)「やさしく」突き放しています。そこには、自らの、一回限りの人生を、確かに生きていこうとする女性の姿とそれにとまどう男の姿が、・・・。選んだ道の行く手は、どうなっていくのか。

読者も、またここから(立ち止まるのか、駆け足になるのか)、自分の人生を見つめ直すしかないのでしょう。

本格的な冬を迎える師走。新春を迎える準備の中で、来し方行く末を思うことも大事かもしれませんね。

   

 

 

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銚子電鉄・本銚子駅~JR成田線・椎柴駅。その4。銚子と醤油。高瀬船。紀州と房州。(利根川を歩く。第9回目。番外編。)

2021-12-06 18:51:15 | 利根川を歩く

                    下総国醤油醸造図(「千葉県教育委員会」HPより)             

「銚子と醤油」についてここでまとめてみます。

野田・銚子の醤油・流山のみりん
 野田のキッコーマン・キノエネや銚子のヤマサ・ヒゲタなどは、日本を代表する醤油メーカーです。 千葉県の醤油は、全国生産量の33.6%(1995年)を占め、第1位です。醤油は小麦と大豆を麹菌(こうじきん)で発酵させ、塩水で仕込んで作ります。また流山はみりんの産地として知られますが、みりんは餅米と米麹・焼酎を仕込んで作ります。どちらも麹菌の力で、時間をかけて醸し出される発酵調味料です。

 醤油は江戸時代のはじめころに富農や名主層、近江商人、紀州の出身者などによって関東各地で作り始められましたが、次第に独自の濃口醤油へと発展し、江戸への出荷を伸ばしていきました。醸造家は関西からの下り醤油に対抗するため造醤油仲間を結成し、江戸の問屋との交渉や、原料の塩の購入などを共同で行いながら、品質の向上を図りました。そして文化・文政期に江戸前の調理が発達すると、江戸人の好みは濃口醤油へと急速に傾き、関東の醤油がすっかり江戸市場を押さえることになったのです。その製造の中心が、野田と銚子でした。

 一方、みりんは今でこそ料理のかくし味として、主に調味料として使用されていますが、当初は、甘い酒として飲用されていました。そばつゆなどの料理に使われるようになったのは江戸中期以降、今のようにさまざまな料理に用いられるようになったのは、明治も後期のことです。酒の醸造が盛んだった流山では、秋元家と堀切家の二醸造家できれいに澄んだ「白みりん」の醸造に成功し、それまで主流だった関西系の赤みりんを圧倒して特産として知られるようになりました。

 野田・銚子が醤油の、流山がみりんの産地として名を馳せるようになったのは、利根川や江戸川に接し、物資の輸送に便利だったからに他なりません。穀物や塩などの原料の集荷にも、江戸等への出荷にも、当時は水運が不可欠でした。例えば野田から江戸まで、高瀬船で順風ならば8時間で着きました。高瀬船は日本でも最大級の大型輸送船です。利根川中流域や江戸川の浅瀬に対応できるように、独特な構造によって軽く、しなやかに作られていました。

 明治30年代より利根川下流域の都市が鉄道で結ばれ、船による輸送は次第に鉄道に、さらにトラックへと遷っていきます。特に関東大震災の復興に使用するコンクリートの材料として江戸川の川砂を大量に掘削したことは、江戸川と利根川の流れを変え、水運に大きな打撃を与えました。

 しかしその後も醤油は確実に販路を拡げ、世界各地に進出し、現在に至っています。流山でのみりんの生産も、引き続き行われています。

(この項、「千葉県教育委員会」HPより)。

※「高瀬船」近世以降に普及した大型の帆船「利根川の高瀬船」。(「Wikipedia」参照)

余談:「高瀬舟」といえば、森鴎外の有名な作品。

高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。京都の罪人が流刑を申し渡さ れると、罪人は、高瀬舟にのせられて、大阪へ回された。

弟殺しの罪で島送りにされる喜助という罪人の護送を命ぜられた同心・羽田庄兵衛は、喜助がいかにも楽しそうなようすに見えるのを不思議に思い、そのわけを聞いてみる。

喜助は、弟と二人暮しだった。しかし、弟は病気で働けなくなってしまった。喜助が家に帰ると、布団につっぷした弟のまわりは、血だらけだった。弟は、自分が直りそうもない病気だから、早く死んで兄を楽にしてやりたかったのだ。だから、のどを切って死のうとしたが、刃が刺さったままになってしまった、必死に抜いてくれと頼むので、しかたなく抜いてしまい、弟は、死んでしまう。近所の者に目撃された喜助は捕まり、この高瀬舟に乗せられたというのだ。・・・

この小説は「安楽死」を巡る論争に一石を投じた作品です。今も安楽死を巡ってはさまざまな議論があります。特に老々介護の末に連れ合いを死なせてしまうこと(事件)があとを絶ちません。そのときの当事者の思いがけっして他人事ではない世の中になっています。                                                                                                                                                                                                                                           

(閑話休題)さて、                      

「銚子と醤油」の歴史は、

 元和2年(1616)、銚子の豪農、第3代田中玄蕃が、摂津西宮の酒造家、真宜九郎右衛門の勧めで、銚子で醤油の醸造を始めました。これがヒゲタ醤油の創業で、関東で最古の醤油業と言われています。
 当時の醤油は、大豆が主体の「味噌溜まり」のようなものであったそうです。

元禄10年(1697)第5代田中玄蕃が原料に小麦を配合するなどして製法を改良し、現在のこいくち醤油の醸造法を確立したとされています。このこいくち醤油が、江戸っ子に好まれ、一大消費地江戸で、次第に「地回り醤油」が上方からの「下りもの」を凌駕していきました。その時期は明和7年(1770)頃からと言われています。

 ヤマサ醤油を創業した初代濱口儀兵衛は、醤油発祥の地である紀州湯浅(和歌山県湯浅町)の隣りの広村(現広川町)の出身です。初代濱口儀兵衛が紀州から銚子に渡り、ヤマサ醤油を創業したのは正保2年(1645)のことです。
 新しい漁労法で大成功をおさめて銚子外川港を作った紀州出身の崎山次郎右衛門という人物に刺激されて銚子で醤油醸造を始めたのではないかといわれています。
 濱口家の家長は代々、紀州広村にある本家と銚子を行き来していました。
 そのため、濱口家の屋号は「広屋」と言いました。

元治元年(1864)の「最上醤油」には、野田のキッコーマン、キハク、ジョウジュウと並んで、銚子のヤマサ、ヒゲタ、ヤマジュウ、ジガミサの7銘柄が指定されています。ヒゲタ醤油とヤマサ醤油のロゴマークに「上」の字が含まれているのは、この「最上醤油」の称号を得たことを表しています。

銚子は、良質の大豆(常陸など)や小麦(下総、武蔵など)、塩(行徳)など醤油の原料が、江戸川と利根川の水運を利用して手に入れることができ、さらに、つくった製品を江戸市中に運ぶことができるなど、しょうゆ醸造業発達の要因がそろっていた、といえます。

(この項、「―銚子の醤油の歴史(江戸の食文化19)https://wheatbaku.exblog.jp―」より) 

「銚子醤油仲間」(「Wikipedia」より)

 

(「Wikipedia」より)

ヒゲタ醤油は、例えるなら、銚子を母に、江戸を父に育てられてまいりました。
銚子は黒潮と親潮が沖合で交わり、温暖多湿で夏冬の気温差が比較的少ないといわれています。
この気候条件が醤油づくりに欠かせない麹菌・酵母など微生物の生育に適しており、醤油醸造に大きな便宜をもたらしました。
また、大消費地である江戸への製品の運搬や、原料調達に利根川の水運が大いに活躍しました。
江戸は全国からの出稼ぎの街であり、いろいろな食文化が混ざり合った結果、「安く、早く、美味い」甘辛い味が好まれるようになりました。そのため今日のような関東醤油が開発されたといえます。
寿司、てんぷら、うなぎ、蕎麦等の代表的な江戸の味の発展と銚子の地理的な特徴によって、ヒゲタ醤油は発展を遂げたのです。

銚子から江戸へ運ばれ、そこで多くの人の口に受け入れられたヒゲタは、1937年(昭和12年)には野田醤油株式会社(現キッコーマン株式会社)と資本提携を、1966年(昭和41年)には同社と販売委託契約を結びました。

キッコーマングループが世界規模で事業を展開している中、ヒゲタ醤油は「キッコーマングループ内での国内和風調味料の製造」をドメインとして、業務用・加工用の分野を中心に開発と製造に注力し、キッコーマン社の強力な販売網で、今日、全国のお客様にご愛顧いただいております。

この項、「」HPより)

ヤマサ醤油も紹介しないと、

 

上記にもあるように紀州と房州とは黒潮の流れと密接な関連があり、醤油だけでなく、銚子の発展には、イワシなどの漁法や港湾建設などでも紀州の漁民の貢献は大きなものがあるようです。なかには出漁中に行き着き、そのまま定住したという者も多くいた、と。地名でも「白浜」、「勝浦」など共通するものがあります。

※茨城県土浦も醤油造りが盛んで、知人が醸造販売していたお醤油を何回かいただいたことがありますが、今は廃業してしまい、その建物を貸倉庫として改造、管理運営しています。

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銚子電鉄・本銚子駅~JR成田線・椎柴駅。その3。「海から0.5㎞」。母子河童像。ヒゲタ醤油。銚子大橋。(利根川を歩く。第9回目。)

2021-12-05 20:11:23 | 利根川を歩く

               「海から0.50㎞」の表示。「ミロツ鼻跡」碑の裏の岸壁に「ゼロ」表示があったようです。

この岸壁には小型船が停泊しています。

「銚子漁港 第1卸売場」。

通りには「鮪蔵」など新鮮な魚を扱うお店が並んでいます。

銚子と言えば、「醤油」も大事な地場産業。

(「ヒゲタ醤油」の商標。)(「ヤマサ醤油」の商標。)・・・

港近くの公園に。

その公園に「濱口吉兵衛」の銅像。

ヒゲタ醤油社長濱口吉兵衛は、1910年(明治43)3月の海難事故の遺族の訴えに心を動かされ、漁港整備を決意し、1920年(大正9)に衆議院議員になりました。その後、1925年(大正14)から銚子漁港の整備事業を開始しました。

銚子と醤油との関係は、別の機会に。

母子河童像」。

             

 むかし、大新河岸に母子河童が住んでいて、利根水運の繁盛と船や河岸で働く人達を水難から守ってくれた。河童はきれいな水にしか住まないという。人と河童が共生できる水の環境づくりとふるさと銚子の町おこしを祈念して、この像を建立する。

平成7年9月吉日 銚子市・銚子かっぱ村

漁船の整備をする漁師達。

           

銚子大橋

            橋の長さと利根川の川幅の広さにビックリ。

対岸(波崎)。波が高い。

河岸公園」へ。

    「銚子鳥獣保護区で観られるさまざまな鳥たち

ユリカモメ、セグロカモメ、ウミネコ、コアジサシ、ウミウ、クロサギ・・・。

水揚げ中はたくさんの鳥が近づくのでしょうが、今はウミウ、ユリカモメなどが飛んでいます。

      

              「銚子大橋と利根川」。

日本最大の流域面積をもつ利根川は、別名を「坂東太郎」といい、群馬県北部の大水上山に源を発し、関東平野を貫流して銚子市から太平洋に注いでいます。その延長は322㎞で、日本で2番目の長さです。その利根川河口に昭和37(1962)年に対岸の茨城県波崎町(現神栖市・かみすし)とを結ぶ銚子大橋が架けられました。延長1450mは川面に架けられた橋では日本一の長さです。現在は、斜張橋(ハープ橋)に架け替えられ、観光スポットとなっています。

※「神栖市」=東は太平洋鹿島灘)に面し、南は利根川常陸利根川)が流れる。かつては広大な面積の池「神之池(ごうのいけ)」があったが、現在は鹿島開発のため一部を残して大部分が埋め立てられている。

     対岸を望む。

上流方向を望む。

    ハープ橋。

            

利根川の川面。対岸がはるか彼方に。

                      2010年代のようす。

  利根川の北が神栖市波崎漁港、南が銚子市銚子港。左に「銚子大橋」。

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銚子電鉄・本銚子駅~JR成田線・椎柴駅。その2。千人塚。銚子漁港。ミロツ鼻跡。大型漁船。(利根川を歩く。第9回目。)

2021-12-04 20:51:15 | 利根川を歩く

               「千人塚海難漁民慰霊塔」。たくさんの慰霊碑が建立されています。

解説板。

銚子には「銚子の川口でんでんしのぎ」という言葉が伝えられています。これは、利根川の河口付近を航行する際、自分の船の安全を確保するだけで精一杯で、他の船のことはかまっていられない、と言う意味です。

利根川の河口付近は、川幅が狭く、干潮と満潮時の潮の流れが急で、また水底には隠れた岩礁が有り、大変危険な場所です。そのため、船頭達の間では「阿波の鳴門か銚子の川口、伊良湖渡合が恐ろしや」と言われるほど、海難事故が多発する日本の海の三大難所の一つで、多数の犠牲者を出したのです。

漁業関係者をはじめとする多くの人々は、近世以降銚子付近で遭難した船の乗組員たちの慰霊と供養を「千人塚」で続けており、今でも毎年1回「川施餓鬼」が行われています。

現在は、1971年(昭和46)の銚子漁港整備計画により利根川沿いに運河方式の新航路が完成したことで、出入りの時の危険はなくなりました。また、外港も整備され、沿岸、沖合、遠洋漁業の基地として全国から漁船が集まる総合漁業基地となり、全国屈指の水揚げ量を誇る日本有数の漁港へと成長し、更なる発展が期待されています。

そこからの銚子港と利根川のようす。

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。

←に「白紙(神)神社」(現在の「川口神社」)とあります。

                     2010年代のようす。

○が「千人塚」。下方の森が「川口神社」。利根川の流れは、堤防の外側(北西)。

堤防の外側が利根川本体。

水揚げが終了し、競りも終わったのでしょう、閑散とした港。停泊するたくさんの大型船。

    

        

             対岸は、茨城県神栖市波崎。正面に、大型の風力発電機が見えます。

「夕陽に映える広場」案内板。

「銚子市漁協第二卸売市場」。

       

エンジン音などが響きます。

さて「利根川」歩きを始めます。

年季の入った「銚子市川口漁業協同組合」の建物前に、

        「ミロツ鼻跡」碑。

「鼻」というのは、鼻のように突きだした場所を指すと思いますが。詳細を知りたいものです。

左前方に「銚子大橋」。

 神栖(かみす)市波崎方向。

※「東日本大震災」(2011年3月11日)では、銚子港付近は、地震や津波によって家屋や船舶、岸壁などの損傷・被害や負傷者は出たが、死者・行方不明者は0。長年にわたる堤防など港湾設備の改善・強化が実った、といえる。                 

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銚子電鉄・本銚子駅~JR成田線・椎柴駅。その1。本銚子駅。ヒロミ。大漁節。(利根川を歩く。第9回目。)

2021-12-03 20:32:23 | 利根川を歩く

               堤防の先が「利根川河口」。遠くに見えるのは「銚子港一ノ島灯台」。

今回の「利根川」歩き。快晴の一日。利根川河口から歩く、という計画。

そこで、利根川の河口・銚子港へ出かけることに。

ところが、雲一つ無い快晴ですが、吹く風が冷たく厳しく、・・・。現地の方にはこれ如きで、とひんしゅくを買いそうです。

千葉から普通電車で10時過ぎにJR総武本線「銚子駅」に着きました。そこから銚子電鉄で「本銚子(もとちょうし)駅」まで。

電車の様子。風船が一杯できらびやか。年寄りはちょっと引き気味。

遠ざかる電車。見ると、『ピンクニュージンジャー号』と。

何でも、銚子市在住のバルーンアーティスト吉井小也香さん(Little Flavor)が、クハ2500形電車の2502を、岩下食品の「岩下の新生姜ミュージアム」の公式キャラクター イワシカと岩下の新生姜アルパカをふんだんに使い、かわいくデコレーションした、とのこと。

」HPより)

下車した「本銚子(もとちょうし)駅」。

駅舎は1923年(大正12年)に当駅が銚子鉄道の駅として改めて開業した際に建てられたもので、その後何回か改修が行われているが、築後百年近くが経過し、近年は老朽化が著しく、全面的な改修もしくは建て替えが望まれる状態であった。しかし、所有・管理する銚子電気鉄道には建て替えのための予算の余裕がなく、2000年代に入ると修復が行われていない箇所が目立つものとなっていた。

2017年8月26日 - 8月27日に、日本テレビ系列24時間テレビ40』内の企画である「ヒロミの24時間リフォーム〜オンボロ駅を直そう!〜」にて、当駅の主な利用客である銚子市立清水小学校の生徒より依頼された、という形でヒロミがリフォームを手掛けた。これにより、駅舎は外壁、屋根、待合室内といった箇所を一新し、レンガ様の外壁の大正モダン風のものとなった。待合室内には清水小学校の生徒が製作したガラスを用いたステンドグラスが飾られている。しかし、一部の鉄道ファンからは「以前の雰囲気が失われた」「元の駅舎に戻してほしい」といった不評もある

リフォームと同時に駅舎内の掛け時計も新調したが、2018年に時計が盗難に遭い、銚子電鉄が情報提供を呼びかけたが見つからなかったため、鉄道ファンから別の時計を寄贈して貰ったが、2020年10月に再度盗難に遭ったことが明らかになった

・・・駅全体が切り通しの中にあり、周辺は林となっている。アジサイの開花シーズンにはホームの反対側の植え込みから隣駅の笠上黒生駅間にかけて多くのアジサイが咲く。

(「Wikipedia」より)

駅舎内。

                (「銚子市観光協会」HPより)

(「もとちょうしえき」)

「上り調子・本調子」。

跨線橋から。

ここから約2㎞の道のりを銚子港・利根川河口まで歩きます。

「川口神社と大漁節」解説板。

・・・川口神社は、江戸時代、飯貝根(いがいね・現在の川口町周辺)を望む高台にあり、利根川の流れと出船入船を眺めることができます。漁船の守り神として漁業従事者からの信仰が篤く、旧暦6月15日に大潮祭りが盛大に執り行われ、銚子の祭りを代表するものです。1864年(元治元年)、イワシの未曾有の大漁に沸いた漁師たちが、大漁祭りにために「大漁節」を作り、川口神社に奉納したといわれ、大漁節の歌詞は、江戸時代の銚子漁業の情景が描き出されています。

全国に「大漁節」があるようです。

大漁節」代表例

・よされ大漁節 青森県八戸市などで歌われる青森県の民謡で、「八戸大漁節」とも言う。

・銚子大漁節 千葉県銚子市の民謡で、主にイワシなどの大漁を祝い、幕末の1864年網代久三郎らが作った。日本各地に存在する大漁節の中でも、特に著名なものの1つ。

・九十九里大漁節 地引き網漁の網を引く際に歌われた千葉県の民謡で、同県の無形民俗文化財酒宴の歌にもなっている。九十九里大漁節保存会によって、保存伝承されている。(「Wikipedia」より)

「銚子大漁節」歌詞

一つとせ 一番ずつに積み立てて川口押し込む大矢声 この大漁船
二つとせ 二間の沖から外川まで続いて寄り来る大鰯 この大漁船
三つとせ 皆一同に招をあげ通わせ船の賑やかさ この大漁船
四つとせ 夜昼焚いても焚き余る三杯一丁の大鰯 この大漁船
五つとせ いつ来てみても干鰯場はあき間もすき間も更になし この大漁船
六つとせ 六つから六つまで粕割が大割小割で手に追われ この大漁船
七つとせ 名高き利根川高瀬船粕や油を積み送る この大漁船
八つとせ 八手の沖合若衆が万祝揃えて宮参り この大漁船
九つとせ この浦守る川口の明神ご利益あらわせる この大漁船
十とせ  十を重ねて百となり千を飛びこす万漁年 この大漁船
十一とせ 十一日は潮がわり鯵鯖まじりの大鰯 この大漁船
十二とせ 十二のお船玉いさましく明日も三ぞう積むように この大漁船
十三とせ 十三、四つの小野郎奴メンパで鰯を通わせる この大漁船
十四とせ 十四の生網、船新造、あらすの艪櫂で漕き回る この大漁船
十五とせ 十五夜お月様夜に余る八手の鰯は昼あがる この大漁船
十六とせ 十六ササギは花ざかり八手の鰯は色ざかり この大漁船
十七とせ 十七・八の小娘があかねのたすきで塩はかる この大漁船
十八とせ 旗は白地を染めちらしこれこそ八手の大漁旗 この大漁船
十九とせ 九十九里浜から銚子浦粕たく煙が絶えやせぬ この大漁船
二十とせ この職大漁で来る職もまたも大漁するように この大漁船

(この項、「銚子市」HPより)

「大漁節」に関しては、以下の解説も。

九十九里浜の沖合いは、いわしが多く回遊し、また長く続く砂浜は遠浅のため江戸時代から地曳網漁が発達した。元禄年間(1688~1703)にはいわし漁の最盛期を迎えますが、この頃から獲れたいわしは干鰯に加工され、稲作や綿作の肥料として全国で利用されるようになった。

 九十九里大漁節は、活気に沸いたいわしの地曳網漁の様子を詠みこんだ歌で、大漁の祝いの宴席などで歌われた。発生時期は、恐らく、天保10年(1839)の大漁期の頃と考えられている。

 しかし、九十九里のいわし大地曳網漁は明治時代になってから不漁続きで、九十九里大漁節も一時は人々から忘れ去られていた。そして、逆に銚子の八手網漁で豊漁が続き、この頃作られた銚子大漁節が各地に広まっていった。昭和35年頃、これを憂えた人々が、九十九里町片貝屋形地区の子安貞吉氏が覚えていた唄を頼りに復元し、保存会によって伝承されるようになったのが現在の九十九里大漁節である。

 「一つとせー一番袋にきめこんで朝から晩まで背負いあげる浜大漁だねコリャコリャ」から始まる数え歌で、今は宴席の最後の〆などに手踊りと一緒に歌われ、九十九里地域の人々に親しまれている。

(この項、「千葉県教育委員会」HPより)

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JR渋川駅~津久田駅。その8。群馬用水赤榛分水工。津久田駅。全山が紅葉。(利根川を歩く。第8回目。)

2021-12-01 19:38:00 | 利根川を歩く

          上部にある施設「群馬用水 赤榛分水工」から分かれる「赤城幹線」水管橋。

※群馬用水は、矢木沢ダム及び奈良俣ダム等を水源として、農業用水と水道用水を供給する施設。取水は沼田市岩本地点の利根川右岸から行い、赤榛分水工で赤城幹線・榛名幹線に分水し、分水口、揚水機場等を経由して用水の供給を行う。

榛名幹線は約24kmで、子持南麓を通り吾妻川サイホン水管橋で吾妻川を横断し、榛東村・高崎市へと流れ鳴沢湖へ至る。赤城幹線は約33kmで、渋川市内で利根川サイホン水管橋で利根川を横断し、利根川東岸側へ流れて前橋市北部から桐生市(旧新里村)の早川池へ至る。

眼下に利根川の流れ。

上越線。「県道255号線」から。

      遠くに榛名山。

           

左折して「津久田駅」に向かいます。

上越線「津久田」駅。

無人駅。1時間近く列車を待ちます。人っ子一人見かけない、のどかな農村の午後の時間。

2つ先の「沼田」駅方向。

上越線も利根川も右に左にカーブしながら北へ向かいます。

全山、紅葉。

下り線ホームから。

近くの踏切から津久田駅ホーム。

跨線橋から北を望む。

南を望む。上り線ホーム。

駅東側の集落。

       

津久田駅から乗車、高崎を経由して帰京。さて、次回はどうするか? 雪の便りも届くようになった、この付近。

沼田、水上と北上することになるわけですが・・・。

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