おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その4。椎木商店街・椎木宿。「かさや」。椎木下宿。「まるへい」。かかし達がお出迎え。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-13 20:47:28 | 房総東往還

都内下町などの商店街のイメージとは異なり、住宅と商店が混じりあって存在しています。

車が行き来するも、人通りは、少ない。

売り地。細長い土地。

「岬町椎木」交差点。この付近は、かつて曲尺手(桝形)になっていた。

椎木宿

「伊南房州通往還(房総東往還)」の宿場町。

南総の城下町大多喜や大原、上総一宮に挟まれた岬町には旧房総東往還沿いに形成された宿場町がいくつかあり、それらが商店街として発達していきました。
岬町の中心部は同じく宿場町として栄えた長者町にありますが、こちらにはもはや往時を偲ばせる姿はまるで残されていません。
夷隅川を越えた北側に位置する椎木地区。旧字名で「椎木宿」の名が残ることからも期待度は高まりましたが、はたしてそれは正解でした。
椎木は房総東往還の宿場町であるとともに、2と7の日に六斎市が立ち、やがて店舗を中心とした在郷町へと発展していきます。
国道128号線は町の東側を大きく迂回した海岸沿いを走りますが、町の中心市街はこの椎木や長者といった旧道沿いにあります。所々に残された古い建物には、塗籠造りのものはほとんど無く、板張り二階建ての商家はみな昭和初期に建てられたものではないかと思います。

(この項、「」HP参照)

この付近の今昔。

                             (現在)〇がかつての「曲尺手」跡。

                             (1880年代)宿の南で屈折し、東方に向かう。

バス停「房信岬東支店前」。市内循環。1日に5本運行。

               まっすぐな道沿いの家並み。

商家。店先に自販機。

            店自体の営業はしていないようです。

「かさや」。

激盛りメニュー人気 重さ4キロカツカレー かさや食堂(いすみ) 【今夏も房総スタミナ飯】(3)

 
ご飯が丼3杯分、カレーは3人前、とんかつ3枚がトッピングされる「バカツカレー」=いすみ市
 
 
スーパーマーケットに併設されている「かさや食堂」

 昭和期の雰囲気を残した商店街にある「かさや食堂」。「各メニューが1・5人前」というボリュームたっぷりの料理が人気の店で、群を抜く大きさを誇るのが「バカツカレー」だ。直径約33センチのすしおけに盛り付けられ、重さは約4キロ。厨房(ちゅうぼう)から登場すると、圧倒的な存在感に来店者から驚きの声が上がる。

店は2015年、併設しているスーパーマーケットが店舗の一画を改装してオープンした。

2006年から姉妹店が約5キロ離れた一宮町内で営業しており、バカツカレーは話題づくりや楽しいひとときを提供しようと考案した「激盛り四天王」メニューの一つ。3人前の量だが料金は約2人前分の1999円とリーズナブルにした。複数人で取り分けることもできるので、家族連れや友人同士の注文が多いという。

四天王メニューはこのほか、同じすしおけを使った「激盛りとり唐揚げ定食」(1999円、重さ約3・5キロ)、いずれも直径30センチの丼で出す「バカツ丼」(1999円、同3キロ)、メガチャーシュー丼(1580円、同3キロ)。どれもびっくりするほどの大きさだ。

スーパーの仕入れルートを生かして原価を抑え、大盛りメニューで客に還元する。白鳥忠利社長は「料理は家庭の味」と謙遜する一方、「想像よりちょっと多い食事量でサプライズを狙う」と人気の秘けつを明かす。「楽しく食べれば、おいしさが広がる。笑顔いっぱいの店にしたい」と日々知恵を絞っている。

(この項、「」HPより)
 
◇店舗情報

営業は午前11時~午後2時、午後5~9時。月曜定休。各種定食のほか、うどんやそば、洋食もある。JR外房線太東駅から徒歩8分。圏央道市原鶴舞ICから約40分。駐車場30台。いすみ市岬町椎木1844。(電話)0470(87)2953。

商店街を振り返る。

「小安商店」。

          「商家」らしい店構え。米穀、肥料、農薬、資材などの販売。

バス停「椎木下宿」。

かつての商家。

隣は、きもの館「まるへい」。

                    天保元年創業、とか。

奥には、大きなおうち。

                      房総らしい趣の屋根と建物。門も立派。

来た道を振り返る。

この先「椎木三叉路」を左折します。

曲がると、左手に衣装を凝らした「かかし」がいくつも並んでいます。

      

いったいどういうわけ? 街道を進む内に、理由が分かってきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その3。いすみ市岬町椎木(しいぎ)。梨園・「一宮・岬梨組合」。椎木商店街へ。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-12 20:03:06 | 房総東往還

落ち着いて静かな街並み。

すっかり色あせた看板。

                       写真屋さん? の広告。

この先で「いずみ市」に入ります。

緩い下り坂。

右手のおうち、軒先までサボテンの木。

!!

鮮やかな紅葉。

下ると、町並みが開ける。

左右の森も少なくなり、

              

「岬町椎木(しいぎ)」。

「梨販売所」。

             梨の収穫時期も終わり、閉店中。

            

千葉県は梨の生産高全国1位ですが、中でも「一宮・岬梨組合」の梨は、大きくて甘い早出し産地として有名です。

主な栽培品種は「幸水」「豊水」「新高(にいたか)」で、人気上昇中の新しい品種「あきづき」も年々生産量が増えてきています。

梨は水分と食物繊維の含有量が比較的多く、便秘予防、高血圧予防の他、夏バテ解消にも効果があると言われています。

せん定、緑枝管理等各種講習会、出荷査定会等をこまめに開催し、甘くてみずみずしい梨を出荷するよう心掛けています。 

                

(この項、「」HPより)

千葉の「梨の産地」というと、白井や船橋などがなじみ深いですが、この地方でもけっこう栽培されているのですね。

「太田和農園」。

             

奥に梨農家のおうち。 

庭先や路傍に色とりどりの野菊を植えているおうちが目立つ。

             

「山田梨園」。

            他に「関」「土橋」「太田」などの梨園が広がります。

※ところで、「梨園」といえば、歌舞伎社会をさすことも。読みは「りえん」。

梨園(りえん)とは中国宮廷音楽家養成所である。日本では転じて、一般社会の常識とかけ離れた特殊社会としての歌舞伎俳優の社会を指す。

語の由来は、玄宗の初年(712年)に、唐都長安西北郊の西内苑内で、芸人達をが植えられている梨園と称される庭園に集め、音楽教習府と呼ばれる施設で芸を磨いたことに始まる。音楽教習府には、太常寺太楽署所属の楽人で、坐部伎の楽人子弟、教坊妓女、宮女の一部とが属した。玄宗の嗜好する法曲を、皇帝が直々に教えたため、皇帝梨園弟子と称された。

安史の乱で宮廷の音楽も壊滅して衰退したが、その後再興され、838年には法曲を仙韶曲と改め、梨園を仙韶院と改めた。後、唐末の動乱によって、消滅した。(この項、「Wikipedia」より)

「椎木商店街」に入ります。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その2。梨街道・椎木(しいぎ)商店街へ。出征土偶。綱田。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-11 20:17:24 | 房総東往還

斜め右に進みます。

「梨街道・椎木(しいぎ)商店街・みさき」。

南下する「国道128号」。

門扉のみの敷地。

右に小さな祠。「出征土偶」とあります。

「土偶」について、

作られた理由

採集生活をしていた縄文人にとって自然の恵みがいかに大切かを考えると、1万年近く日本各地で作られていたことも不思議ではない気がします。縄文時代については謎が多く、土偶が何のために作られたのかについてはいくつかの説があります。ここでは代表的な二つの説を紹介しましょう。

①身代わりにするため

日本では古代から病や怪我の原因を「ケガレ」のせいと考えてきました。このケガレを身体から移し取り除くために使われたのが身代わり、形代(かたしろ)と呼ばれるものです。

同じように縄文人が形代=土偶を使ったとすると、ケガレを移した土偶を破棄する、つまり壊す必要があります。
この説なら、土偶が欠けた状態で見つかる理由も説明できそうですね。

②霊を慰めるため

古代人の死因として考えられるのが出産にともなう死です。成すすべもなく死んでしまった妊婦や胎児を弔うこともきっと多かったことでしょう。

土偶が妊娠した女性をモチーフにしたものが多いと説明しましたが、この霊たちを鎮め、安らかに送るために土偶が作られたとも考えられています。

・・・

土偶の作られた理由や使い方については諸説あり、謎が多いのも事実です。

はるか昔の縄文時代の人々が何を考え、何を大切にしていたのか。

それをわたしたちに想像させてくれるのが土偶の魅力とも言えます。ぜひ一度土偶を間近で見てみて、縄文時代に思いを馳せてみてください。

(この項、「つなぎ WATSUNAGI」HPより)

土偶の作られた理由や使い方は諸説ありますが、近現代に至るまで「土偶」が存在していたのですね。

上り坂を進みます。

              遠くに水平線が見えています。

            

坂道の途中から右に下って行きます。

 旧道。

旧道は外房線で消滅。跨線橋を回り込みます。

線路で中断された旧道。線路方向を望む。 

       「伊南房州通往還(房総東往還)」へ。

のどかな田園地帯。

               「伊南房州通往還」に合流します。

この付近の今昔。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

                                                                 

(1880年代)                        (現在)→が旧道。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR外房線「上総一ノ宮」~「三門(みかど)」。その1。旧道から国道128号(房総横断道路)に合流。「東浪見」(とらみ)。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-10 20:00:34 | 房総東往還

11月23日(祝)。晴れ。

「上総一ノ宮」駅下車。踏切を渡り、これから街道(往還)を進みます。

外房線。

旧道。駅方向。

旧道に復帰します。

上総一宮町のマンホール。 

・町の木クロマツと太平洋の荒波をデザインした集落排水管。 町章は宮の「み」を一宮の「一」で丸く囲んだデザイン。

右手に「国道128号(房総横断道路)」が見えてきます。

国道に合流し、南に向かいます。

              けっこう車の量が多い。

房総らしい屋根のおうち。

右手の家並み。

左手、海方向。

左手にほんの少し旧道が。

               右手に見えるのが、国道128号。

                       

  

せがい造りの立派なおうち。 

        

右手丁字路のところに「浪切地蔵」。

 

「忠魂碑」等。

「一宮町立東浪見小学校」。

駅名にもなっている「東浪見」は、何と読むか? 

・・・「とらみ」と読みます。 

※九十九里浜平野南端に位置する。地名は、沖合いに砂泥が堆積し、「泥海」(ドロウミ)の名前が転訛して「トラミ」⇒虎見⇒東浪見となったと言われています。(「まほらにふく風に乗って」HPより)             

「なのはな 東浪見店」。 

この先、国道から右に入って行きます。

→「岬町長者」方向。 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大雪。12月7日。クマの被害、最悪に! シクラメン・「シクラメンのかほり」。日の入り。

2023-12-07 20:53:55 | 二十四節気

今日は二十四節気の21番目「大雪(たいせつ)」

北国では、予想外の大雪(おおゆき)が降り続いていますが、東京地方は数日の寒さも収まり、季節外れの暖かさが続きます。

暦の上では、 大雪(たいせつ)とは本格的に冬が到来するころ。山々は雪に覆われ、平野にも雪が降り積もります。新しい年の準備をはじめる「正月事始め」もこの時期から行われます。

七十二候では、

初候 12月7日〜12月10日頃

閉塞成冬 そらさむくふゆとなる

天地の気が塞がれ、冬がおとずれる頃。空は重い雲に覆われ、生き物はじっと気をひそめています。塞ぐという言葉は、寒さから人々を守るという意味でとることもできます。

・次候 12月11日〜12月15日頃

熊蟄穴 くまあなにこもる

熊が冬ごもりの時期に入り、穴にこもる頃。春になるまで、穴の中で過ごします。熊だけではなく、しまりすや蛙、こうもりも冬ごもりを始めます。

ところが、今年は!

クマ被害人数 11月までに211人で過去最多 冬眠時期も注意を

クマに襲われてけがをするなど被害にあった人の数はNHKのまとめで、先月までに少なくとも19の道府県で211人に上り、国が統計を取り始めて以降、最も多かった3年前をすでに50人以上も上回り、過去最悪となっています。12月は多くのクマが冬眠に入る時期ですが、専門家は特に被害や出没が続いている地域では引き続き、注意するよう呼びかけています。

環境省のまとめによりますと、ことし4月から10月までにクマによる被害にあった人の数はあわせて182人に上っています。

また、NHKが各地域局の取材をもとに集計したところ、11月の被害は少なくとも29人で、環境省の集計と合わせると211人に上り、このうち6人が死亡しています。

これは環境省が統計を取り始めて以降、最も多い158人の被害が出た3年前・2020年度の1年間をすでに50人以上も上回り、被害にあった人の数と死亡した人の数、いずれも過去最悪の被害となっています。

道府県別に見ますと、
▽秋田が70人で最も多く、
▽岩手が47人、
▽福島が14人、
▽青森が11人と東北地方で被害が多くなっています。

このほか、▽長野で11人、▽新潟で10人、▽北海道で9人、▽富山で9人、▽岐阜で7人、▽山形で5人、▽群馬で4人、▽宮城で3人、▽石川で2人、▽福井で2人、▽山梨で2人、▽島根で2人、▽栃木で1人、▽三重で1人、▽京都で1人と19の道府県で被害が出ています。

クマの生態に詳しい東京農工大学大学院の小池伸介教授は「クマは食べられるものがなくなると冬眠に入る習性があるが、人里の柿やくりなどを食べているクマはエサがなくなるまで冬眠に入らない可能性もある」と指摘したうえで、最近になってもクマによる被害や目撃情報がある地域では引き続き、注意するよう呼びかけています。

「大量出没」の年 12月以降も被害や出没多くなる傾向

ことしの全国の被害件数を月ごとにみますと、春先から夏にかけては被害は数人から10数人程度で推移していました。

その後、9月は38人、さらに10月には、73人と急増し、10月は1か月の被害としては国が統計を取り始めて以降、最も多かった2006年10月の49人を大きく上回り、かつてない規模の被害となりました。

クマは冬眠に備えてエサをたくさん食べる習性があることから、例年、冬眠前の時期に被害が増える傾向があり、NHKのまとめでは先月11月も少なくとも29人が被害に遭いました。

12月に入ると、冬眠に入るクマが徐々に増えるため、例年、被害件数は少なくなる傾向がありますが、ことしのようないわゆる「大量出没」と呼ばれるような年には、12月以降もほかの年より被害や出没が多くなる傾向がみられます。

全国で最も多い被害が出ている秋田県など、クマの出没警報を今月末まで延長して警戒を呼びかける地域もあり、今月以降も地域の出没状況に合わせた警戒や注意が必要です。

専門家 12月以降も警戒緩めず対策を

専門家は、12月に入っても特に被害や出没が続いている地域では、警戒を緩めず、対策をとるよう呼びかけています。

クマの生態に詳しい東京農工大学大学院の小池伸介教授は「クマは冬眠に入ってもあまり体温が下がらない動物で、近くで物音がすると起きてしまったり、中には冬眠をする穴を途中で変えるようなクマもいる。クマの生息域が人里に近くなり、どこでクマが冬眠していてもおかしくない状況で、冬の間も注意してほしい」と呼びかけています。

また、小池教授は「ことし被害が増えたのはエサとなるドングリなどの凶作だけではなく、これまで行ってきた保護の政策によってクマの個体数が増えている可能性が考えられ、クマが山林から人里に出てきてしまっているおそれがある」として、人とクマが生活するエリアをすみ分ける取り組みなど、今後はより長期的な視点での対策を進めていく必要があるとしています。

具体的な対策としては、▽柿やくりの木などのクマを呼び寄せるものはないか、▽クマがどんな経路から人里に近づいてきたのかなどを地域ごとに分析することを挙げ、冬眠から目覚める来年の春先までに対策を練っておくことが重要だと指摘しています。

・末候 12月16日〜12月20日頃

鱖魚群 さけのうおむらがる

鮭が川を遡上する頃。海で育った鮭は、産卵のために自分の生まれた川へと里帰りをします。北国では冬を代表する光景のひとつであり、迫力のある遡上を見ることができます。

花 シクラメン

年末から飾られることの多いシクラメン。色は赤、白、ピンク、紫と様々。トルコなどで豚がシクラメンの球根を食べたことから、「ブタのパン」「ブタのマンジュウ」とも呼ばれます。

(近所のお花屋さんにて。)

小椋佳作詞・作曲の「シクラメンのかほり」。布施明が歌ったものをよく耳にしました。が、1975(昭和50)年のヒット曲。すでに半世紀前の歌だったのですね。

シンガーソングライター小椋佳第一勧業銀行赤坂支店に勤めていた際、取引先の会社で休憩していた時に見た、自身には馴染みのない花であったシクラメンをヒントに思い浮かんだものである

布施の担当マネジャーだった小坂洋二が、小椋佳の『淋しい時』というアップテンポの曲を持って来た際に「もう一曲、カップリングが欲しいから」と布施が依頼した所、小椋から出てきた楽曲が「シクラメンのかほり」だった。布施は今さらこんな古めかしいフォークソングっぽい曲が売れるわけないと感じたが、渡辺プロダクション渡辺晋井澤健らが「『シクラメン』の方がいい」と判断したためリリースとなった

歌詞の「…ほど…ものはない」は、エルヴィス・プレスリーの「マリー・イン・ザ・モーニング英語版」の歌詞から引用し、それに北原白秋の全集から小椋が気にいった言葉を抜き出して当てはめたものである。詩が「借り物」を中心に構成されたことを示すために、3番の歌詞に「薄紫のシクラメン」を挿入し、曲名を「シクラメンのかほり」とした

小椋はこうして出来上がった曲を気に入らず、また歌詞の内容が月並みな展開だったので、自身ではレコーディングせずにお蔵入りにしていた。そのために、当時はこの曲がヒットしたことが信じられなかったと後に告白している。

今作がヒットしたことを、第一勧業銀行からメリルリンチ証券に派遣されていた小椋は米国で知らせを聞き驚くが、自身もエリート銀行マンと二足のわらじを履く異色の経歴から注目の的となり、翌1976年に帰国すると、初のテレビ出演(『NHKコンサート 小椋佳の世界』)を果たすことになる。

(この項、「Wikipedia」より)

真綿色したシクラメンほど清しいものはない
出逢いの時の君のようです
ためらいがちにかけた言葉に
驚いたように振り向く君に
季節が頬を染めて過ぎていきました

うす紅色のシクラメンほどまぶしいものはない
恋するときの君のようです……
疲れを知らない子供のように
時が二人を追い越して行く 
呼び戻すことができるなら 
僕は何を惜しむだろう

うす紫のシクラメンほど
淋しいものはない
後ろ姿の  君のようです
・・・

果物 洋梨ようなし

洋梨はある程度熟したものを収穫し、保存し、成熟させてから食べます。そのため、食べごろの見極めが重要。シャリシャリとした食感ではなく、とろけるような甘さが特徴的です。 

魚 鱈たら

産卵期を迎えた鱈が蟹や海老など、身近な物を何でも食べてしまうことから「鱈腹」という言葉ができたといわれています。おいしい鱈は、お腹の色が白く、背中の模様がはっきりとしています。

野菜 大根だいこん

おでんや粕汁など冬のメニューにかかせない存在である大根。年末年始で暴飲暴食が多く、胃がスッキリしないときに、大根をおろして食べると、不快感を解消してくれます。

(以上は、「暦生活」HPなど参照)

ところで、冬至(12月22日ころ)に向かって日の入りがますます早くなっていくという感じでした。

が、実は、11月末から12月初めにかけてがピークのようです。

「ウエザーニュース」より)

上図のように「冬至」前が一番早く日の入りを迎えるようです。ということは、これからは少しずつ日の入りが遅くなるということ?

次は、「冬至」12月22日(金)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR蘇我~安房鴨川~館山~蘇我。わかしお3号。B.B.BASE。「館山・渚の博物館」。「南房総やまと寿司館山本店」。

2023-12-05 19:37:03 | 房総東往還

鉄道好きな孫を連れて、外房線から内房線をぐるっと一周の旅に。

JR船橋駅で待ち合わせ、蘇我で「特急わかしお3号」に乗り、安房鴨川まで。そこから在来線に乗り換え、館山まで。

孫のもう一つの目的は館山に新規開店した「やまと寿司」でマグロを食べたい。と。

11月27日(日)「曇り時々雨」というお天気でしたが、朝は母親が、夕方は父親が送りと迎えに。ま、小学生なので、そう心配することもなく、出かけました。

房総東往還を電車でいち早く実行してしまったわけです。

※房総往還(内房線沿い)は、すでに歩きました。

以下は、その時の記録。孫がスマホで撮ったものが多い。

「蘇我」9:37発。自由席で。 

 

  海が見えてきます。

 

 

サーファーの姿が。

勝浦付近。

安房鴨川付近。

安房鴨川駅 10:54着。

「普通列車」安房鴨川駅 10:59発。

遠くに海が。

停まって電車に孫が、

            「この列車、知ってる!」

B.B.BASEは東京・両国駅を始発に、千葉県内の4エリアをつなぐサイクリスト専用の列車です。自転車を輪行せずともそのまま電車に乗り入れ可能で、車内の自転車専用ラックに固定し、のんびり座りながら目的地まで向かうことができます。
つまり、輪行する手間もなく、必ず座ることができ、乗り換えなしで自転車の遊び場に連れて行ってくれる、サイクリストにとってこれ以上ない乗り物なのです!

 (この項、「CYCLE HACK」HPより)

(「サンケイニュース」より)

館山駅 11:38着。

そこから海岸の方に向かい、

「渚の博物館(館山市立博物館分館)」に立ち寄ります。

 

                             (「」HPより)

さかなクンと。

           

晴れていれば、素晴らしい景色が眼前に広がるのですが。

今回の旅の目的は、お寿司をたべることなので、事前予約していた待望の「やまと寿司館山本店」へ。

お腹も空いていたので、写真など撮る暇もなく、ただ次々と注文してマグロを食べるのに夢中。

そこで、HPを拝借します。

旗艦店『南房総 やまと寿司 館山本店』は、 9月30日(土)グランドオープンしたばかりです。

       

マグロや近海ものなど次々と注文して、結局、二人で(孫はマグロ専門)4800円ほどになりました。

   (「食べログ」より)

具も大きく、新鮮で美味しい。あれこれ注文して食べているうち、帰りの電車の時間に。急いでお店を出ましたが、ほんの少しのタイミングで乗り遅れ、一時間近く待つことに。この時間、「内房線」は、1時間に1本なんですね。待つこと1時間。予定よりも大幅に遅れて船橋駅に到着、迎えに来た父親と合流し、一安心。

実は、「やまと寿司」。総武線・亀戸駅近くの「カメイドクロック」にお店があることを知りました。今度はそこに連れて行きますか。  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その9。「芥川荘」。「芥川龍之介文学碑」・「小高倉之助歌碑」。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

2023-12-04 20:01:54 | 房総東往還

「一宮館」本館の裏手にあります。

芥川荘は、明治末期から昭和初期にかけて避暑地として開発された一宮町の海岸地区に建つ宿・一宮館の離れで、芥川龍之介が滞在していたことからこう呼ばれている。平屋建、寄棟造、茅葺で、主室、次の間2室の3方に縁を回らせ、縁の一端に洗面所が付く。当地方の伝統的な民家建築の技法になり、周囲の松林に溶け込んで避暑地らしい情景をつくり出している。

(「解説板」より)

一宮の海岸地区は、明治時代から鉄道が通り海水浴場が整備されたことから、明治末期から昭和初期頃まで「東の大磯」と称され、名士の別荘が100軒近く建ち並ぶ避暑地として栄えた。

 芥川荘は、海岸地区の一宮川河口に位置する旅館・一宮館の離れで、大正3年(1914)と大正5年(1916)に芥川龍之介がこの離れに滞在したことから、この名がつけられた。芥川は滞在中にこの離れから、後に妻となる塚本文に長い求婚の手紙を送り、一宮での思い出を「微笑」「海のほとり」「玄鶴山房」「蜃気楼」などの作品に登場させている。

 建物は、明治30年(1897)の建築。茅葺寄棟造の木造平屋建で、主屋と次の間2室の3方に縁側を回らし、縁側の一端には洗面所を設けており、当地方の伝統的な民家建築技法で建てられ、周囲の松林の閑静な雰囲気と相まって良好な景観となっている。

(この項、「千葉県教育委員会」HPより)

アプローチ。

                

         

      

 

      

「芥川龍之介文学碑」。

文学碑を建立して      一宮館 金沢 良一郎

 九十九里浜の南端に位置するここ上総一の宮は、かつては別荘が立ち並び、東の大磯と言われたところです。
 芥川龍之介先生は、友人久米正雄氏と大正五年八月十七日から九月二日まで、当一宮館の離れで一夏を過されました。滞在中は夏目漱石師にボヘミアンライフぶりを紹介したり、のちの夫人文さんに愛をうちあけた長い求婚の手紙をお書きになっています。
 この稀にみる偉大な作家の人生の舞台の一つとして、当一宮館が選ばれましたことは、幾多の偶然が重なったとはいえ、たいへん誇らしいことと思っています。先生は当館滞在時代の思い出を「微笑」や「海のほとり」その他の作品に綴られていますが、近年、文学散歩で当館においでになるお客様が、年ごとに増えております。
 龍之介先生のご滞在以来、その離れを“芥川荘”と名づけて、大切に守って参りましたが、先生ゆかりのこの地に記念碑を建てることは、私どもの長い間の夢でした。
 本年は、先生の生誕数えで百年、また恋文を書かれてから七十五年を閲みしました。当館では、このことを記念して、このたび芥川瑠璃子さんはじめ芥川家の皆様方の快いご了解をいただき、また関係の皆様方のご賛同と、身にあまるお力添えを賜りまして、“芥川荘”を包む松林の碑と一隅に、恋文全文を刻した文学碑を建立する運びとなりました。
 私どもはこれを機会に、この偉大な作家の更なる理解と、文学の啓蒙につとめて参りたいと、意を新たにいたしております。どうか末永くご支援くださいますよう、お願い申しあげます。

  

             

大正五年八月廿五日朝 一の宮町海岸一宮館にて

文ちゃん。

僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして暮らしてゐます。何時頃 うちへかへるか それはまだ はっきりわかりません。が、うちへ帰ってからは 文ちゃんに かう云う手紙を書く機会がなくなると思ひますから奮発して 一つ長いのを書きます

ひるまは 仕事をしたり泳いだりしてゐるので、忘れてゐますが 夕方や夜は 東京がこひしくなります。さうして 早く又 あのあかりの多い にぎやかな通りを歩きたいと思ひます。しかし、東京がこひしくなると云ふのは、東京の町がこひしくなるばかりではありません。

東京にゐる人もこひしくなるのです。さう云う時に 僕は時々 文ちゃんの事を思ひ出します。文ちゃんを貰ひたいと云ふ事を、僕が兄さんに話してから 何年になるでう。(こんな事を 文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません)

貰ひたい理由は たった一つあるきりです。さうして その理由は僕は 文ちゃんが好きだと云ふ事です。勿論昔から好きでした。今でも 好きです。その外に何も理由はありません。

僕は 世間の人のやうに結婚と云ふ事と いろいろな生活上の便宜と云ふ事とを一つにして考へる事の出来ない人間です。ですから これだけの理由で 兄さんに 文ちゃんを頂けるなら頂きたいと云ひました。さうして それは頂くと も頂かないとも 文ちゃんの考へ一つで きまらなければならないと云ひました。

僕は 今でも 兄さんに話した時の通りな心もちでゐます。世間では 僕の考へ方を 何と笑つてもかまひません。世間の人間は いい加減な見合ひと いい加減な身元しらべとで 造作なく結婚してゐます。僕には それが出来ません。その出来ない点で 世間より僕の方が 余程高等だとうぬぼれてゐます。

兎に角 僕が文ちゃんを貰ふか貰はないかと云ふ事は全く文ちゃん次第で きまる事なのです。僕から云へば 勿論 承知して頂きたいのには違ひありません。しかし 一分一厘でも 文ちゃんの考へを 無理に 脅かすやうな事があっては文ちゃん自身にも 文ちゃんのお母さまやお兄さんにも 僕がすまない事になります。ですから 文ちゃんは 完く自由に 自分でどっちともきめなければいけません。万一 後悔するやうな事があっては 大へんです。

僕のやってゐる商売は 今の日本で 一番金にならない商売です。その上 僕自身も 碌に金はありません。ですから生活の程度から云へば 何時までたっても知れたものです。それから 僕は からだも あたまもあまり上等に出来上がってゐません。(あたまの方は それでも まだ少しは自信があります。)うちには 父、母、叔母と、としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。

僕には 文ちゃん自身の口から かざり気のない返事を聞きたいと思ってゐます。繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです。それでよければ来て下さい。

この手紙は 人に見せても見せなくても 文ちゃんの自由です。

一の宮は もう秋らしくなりました。木槿の葉がしぼみかかったり 弘法麦の穂がこげ茶色になったりしてゐるのを見ると 心細い気がします。僕がここにゐる間に 書く暇と書く気とがあったら もう一度手紙を書いて下さい。「暇と気とがあったら」です。書かなくってもかまひません。が 書いて頂ければ 尚 うれしいだらうと思ひます。

これでやめます 皆さまによろしく

                  芥川龍之介

碑の後ろには、松林が広がっています。

「小高倉之助歌碑」。

地元の農民歌人。桑の形をした歌碑で、碑は斜めになっています。平成3年12月建立。

              

再び「一宮川」沿いを歩いて「上総一ノ宮駅」に向かいます。

観光案内板。

次回は、街道歩きに戻る予定です。が、その前に鉄道の旅を。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その8。「芥川龍之介愛の碑」。「黄塵碑」。「延宝地震の再来想定津波高」。「一宮海岸海水浴場」。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

2023-12-03 19:45:40 | 房総東往還

丘の上から海岸を望む。

今年春、海岸におよそ30頭のイルカが打ち上げられたことがありました。

午前6時半ごろ、千葉県一宮町の海岸で、サーフィンをしていた女性から「波打ち際にイルカが打ち上げられている」と通報がありました。

一宮町役場によりますと、海岸のおよそ500メートルにわたってイルカおよそ30頭が打ち上げられています。そのうち、およそ5頭は死んでいることが確認され、役場などが対応にあたっています。

(「TBSテレビ 2023年4月3日(月) 10:26」より)

広場には、

「芥川龍之介愛の碑」。

芥川龍之介の愛のはじまりは彼が東大在学中二十三才の頃であった。

当時彼は吉田弥生という女性に初恋し 激しい相愛の仲になったものの 養家(彼の母の実家)芥川家が士族 吉田家が平氏であるとの理由だけで許されざる恋となった。

彼の親友堀内利器はそれを見かね 堀内の故郷一宮に誘い 大正三年七月中旬からこの地に滞在した。

しかし 彼女への恋情はいよいよ深くなり 止宿先で綴った悲恋の歌の一つに

     美しき人妻あらむ かくてああ

        わが世かなしく なりまさるらむ

もう美しき彼女は自分のものにはなり得ないという 一宮時代からはじまる悲恋の苦悩こそは 人間の醜いエゴイズムを古典の世界をかりて表現したユニークな芥川文学を誕生させた。

大正五年二月出世作「鼻」が恩師夏目漱石に賞賛を受け華やかに文壇にデビューし 失恋の痛手も癒えて 再び思い出の地一宮に 久米正雄と二人で訪れ 一宮館の離れ家(現在芥川荘として保存)に止宿した 大正五年八月十七日から九月二日まで

その時第二の恋人塚本文子宛に「文ちゃん」ではじまる有名な求婚の手紙が身を結び 新しい芥川人生が出発した。

当時 夏目漱石宛に太陽と海と空と砂丘の大自然を背景とした一宮海岸に青春を投げ出している楽しい様子を また晩年にも「微笑」「海のほとり」と題してこの一宮の思い出を書いている。

今日 青春芥川龍之介のロマンスを記念し 郷土の鉄道作家故上田廣氏の発想どおり「芥川龍之介愛の碑」とした。

また新たなる感慨を禁じ得ない。

隣は、この碑を建てることに尽力した上田氏の碑。

「黄塵碑」。

          全景。

           ここには、かつて「国民宿舎 一宮荘」がありました。その跡地になります。

「一宮海岸広場マップ」。

      

ここから「一宮館」にある「芥川荘」を訪ねます。

「延宝地震の再来想定津波高」。遥か目の上です。

延宝(房総)地震

延宝5年10月9日1677年11月4日)に房総半島東方沖付近で発生したと推定される地震。規模はM8 - 8.34とされている。「延宝地震」とも呼ばれる。房総沖地震の一つと考えられているが、震央位置については諸説あり、詳しい地震像については解明されていない。

地震動による被害が確認されないのに対し、津波被害が顕著な津波地震との見方がある。約半年前には1968年十勝沖地震に類似し、三陸沖北部が震源と推定されている延宝八戸沖地震があった。

地震津波の記録

延宝5年10月9日夜五つ時(刻)(1677年11月4日20-22時頃)、陸奥岩城から房総半島、伊豆諸島および尾張などにかけて大津波に襲われた。

「冬十月九日癸丑、常陸水戸陸奥岩城逆波浸陸」(『野史』)など、10月9日夜に津波が上ったとする記述は多く見られるが、地震動の記録は少なく、震害が現れるほどの烈震記録は確認されていない。地震動の記録には以下のようなものがある

  • 「九日岩城大地震諸浜津波打上ヶ」(岩城領内『慶天拝書』)
  • 「夜清天静ニて、五ツ時地震震動致シ沖より津波上ヶ」(下総銚子『玄蕃先代集』)
  • 「十月九日夜の五つ時分少しの地志ん有之、辰巳沖より海夥鳴来り」(上総東浪見(一宮)『万覚書写』)
  • 「晴天、夜地震三度」(江戸『稲葉氏永代日記』)

「一宮海岸海水浴場」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その7。農免道路。平沼騏一郎別荘跡。釣り人。ペリカン。「一宮庵」。「一宮館」。九十九里浜・一宮海岸。サーファー。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

2023-12-02 18:30:43 | 房総東往還

「農免道路」という標識が。

農免農道というのは、その農道を作った事業名に由来し、その事業名とは、「農林漁業用揮発油税財源身替農道整備事業」と呼ばれている公共事業で農林水産省の補助事業です。

どこにも“免”の字はありません、それは、S28年に制定された「道路整備費の財源に関する臨時措置法」で揮発油税の収入は、国道や県道の道路の整備に使うことが決められたのですが。

「農林漁業用に使用されるガソリンは、仕事上の必要経費として税金を“免除”してほしい」との声が強くなり、その声に答えるように発足したのがこの事業です。

個人を特定して税金の免除は、できないから、その替わりに農道の整備を行うと言う主旨で発足した事業です。

そこで,免税の“免”の字をとって略称で「農免農道」と呼ばれています。
「農林漁業用揮発油税財源身替農道」は名称があまりに長いこともあって農免農道と呼んでいます。

(この項、「教えて! Goo」HPより)

※国会で議論になっている「トリガー条項」にもつながる?

周囲に田畑が広がる。

       

「一宮川」近くに、大きなお屋敷。

「平沼騏一郎元総理大臣別荘跡」碑。

慶応3年~昭和27年(1867~1952)・・・大正8年頃、一宮川沿いに別荘を建設しました。・・・一宮町は、明治末期から昭和初期にかけて財界人や軍人など、名士の別荘が数多く建設され、房総半島有数の観光地として賑わいました。

「一宮川」。上流方向。

下流(海)方向。

ひと群れの水鳥。

                      釣り人の姿も。

川沿いの家並み(一宮町)。

対岸(長生村)。

大きなペリカンが門柱の上に。

         

  右手に、

「一宮庵」。

         1棟貸切大型ゲストハウス

《クチコミ》カラオケ・室内BBQ・足湯・サウナなど楽しめる設備が十分すぎるほど揃っており非常におすすめな場所です!室内も広く大人数での宴会やサークルなどで利用するのがいいかと思います!今後も利用したいと思える施設です。(「Goole」より)

芥川龍之介ゆかりの「一宮館」。

九十九里浜の南端に位置し、かつて「東の大磯」とも呼ばれた一宮。別荘や旅館が立ち並び、白砂青松の海岸に誘われ多くの著名人が訪れた。一宮川の河口付近で1897(明治30)年に創業した一宮館は、当地での旅館開業の先駆け的な存在と言われる。文豪・芥川龍之介(1892~1927年)が滞在した離れが今も残り、芥川ゆかりの宿として親しまれている。

 明治30年は両国-一宮間に鉄道が開通した年で、一宮が避暑地として栄えるきっかけになった。同館はこれを見越して創業したとみられ、近年、地元の名士に宛てた「開業通知」の文書が見つかった。

 所蔵する一宮町教委によると、同館は開業記念の式典のようなものを催したらしく、船でこの名士を迎えに上がると記されていた。昔の一宮川は、上総一ノ宮駅近くの船着き場から同館がある海岸付近まで船が往来し、客を運ぶ情緒ある光景が広がっていた。・・・

(この項、「千葉日報」より)

敷地内にある「芥川荘」には帰途に寄ります。

「新一宮橋」。

釣り人も両岸に。

        大きなハゼなどが釣れるようです。

川沿いの遊歩道から回り込むと、前方に、海(太平洋)が見えてきます。

陸地側。

駐車場に車がたくさん。海には大勢のサーファー。

           

「房総往還」(内房歩き)では、対岸に三浦半島が見えていましたが、ここでは、はるかに海が広がるのみ。

          

                     九十九里浜。

一宮海岸の今昔。

                             (現在)

        東西に伸びる、黄色い直線路が風船爆弾基地への引込線跡。

                             (1880年代)

       砂地と水田・畑が広がる。家屋はない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その6。引込線。風船爆弾打ち上げ基地跡。直線道路。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

2023-12-01 18:31:04 | 房総東往還

「上総一ノ宮駅」東口。

駅を出て、斜めの道を進み、「伊南房州道往還(房総東往還)」旧道へ。

「大原」への道筋を確認。

一宮町のマンホール。

         町の木「クロマツ」と太平洋の荒波をデザイン。

駅東口からの海岸への直線道路を進みます。

実は、この道路がかつての風船爆弾基地への引込線でした。

↓。

                                       (「今昔マップ」より)

            

■「奇妙な気球が空に消えた」

昭和19年12月、よく晴れた寒い朝だった。教師だった長谷川英美さん(89)=一宮町=は通勤途中、上総一ノ宮駅に近い七島踏切で奇妙な気球を目撃した。

 海岸の松林の上空。クラゲのような形の気球がふわっと浮かんでいる。風に吹かれ、横になり、斜めになってよろよろと上昇していく。やがて気球は直立。満球となってぐんぐん高度を上げ、空に消えていった。

 気球の正体は、日本軍が開発した秘密兵器「風船爆弾」だった。

 当時の長谷川さんは知る由もない。しかし、予兆はあった。戦局が悪化した19年、大勢の鉄道部隊の兵士らが一宮町に現れた。上総一ノ宮駅から約2キロ東の海岸に向けて引き込み線を建設した。また、放球台や兵舎など打ち上げ基地も整備された。

 「なんのためにレールを敷いているのか、住民には秘密だった。基地が完成した頃には、列車の窓の鎧(よろい)戸が閉じられ、海側を見ることは禁じられた。私は基地に近寄ったことはありません。憲兵に捕まりますよ」と回想する。

奇想天外の兵器、風船爆弾は、陸軍登戸(のぼりと)研究所(川崎市)が主力となって開発した。同研究所は謀略・秘密兵器専門の機関だった。風船爆弾は「ふ号兵器」と秘匿名称で呼ばれた。

 構想は壮大だ。風船爆弾を冬季に吹く偏西風に乗せ、太平洋を横断。米国本土に落下させる作戦だった。一宮海岸で試作品の飛行実験が行われた。実験と改良を繰り返し、実戦に投入できる見通しが立った。

 ◆「米国まで飛ばしているのではと推測した」

 風船爆弾の気球は巨大だ。直径約10メートル。和紙とコンニャク糊で造った。多くの人手が必要で全国の女学生らが動員された。気球に爆弾と焼夷(しょうい)弾を装着。水素ガスを充填(じゅうてん)して打ち上げる。偏西風が吹く上空は酷寒の世界だ。気球が収縮して落下する恐れがある。精密な高度維持装置も考案された。約1万発が製造されたという。

打ち上げ基地は太平洋に面した一宮町と茨城県北茨城市、福島県いわき市の3カ所に建設された。19年11月から翌年春まで計約9300発が断続的に放球されたという。

 「一宮町の基地で爆発事故が起きたことがある。そのとき私は、気球に爆弾を付けて米国まで飛ばしているのではと推測した。偏西風の存在は、旧制中学の授業で習ったので知っていましたよ」と長谷川さんは語る。

 米軍は風船爆弾の出現に驚いた。太平洋上で発見すると、戦闘機で撃墜した。それでも多くの風船爆弾が、警戒網を突破して米国本土に到達した。各地で山火事が発生した。電線が切断され、停電も起きた。オレゴン州では子供ら6人が死亡している。

 一宮町の風船爆弾基地は20年春、作戦を終えた。部隊の主力はひそかに去った。

 70年後の現状を長谷川さんが案内してくれた。上総一ノ宮駅に向かう。

 「戦後、引き込み線は解体されました。今では駅の一番線のレールに面影を残すだけです」

(「千葉から語り継ぐ戦後70年 風船爆弾基地(一宮町)長谷川英美さん」産経新聞015/8/10 より)
 
〇付近。風船爆弾打ち上げ 基地跡。
 
風船爆弾打ち上げ基地跡

風船爆弾は、旧日本軍がアメリカ本土への攻撃のために開発したもので、和紙をこんにゃく糊で張りあわせて作った直径10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばした兵器です。この計画は「ふ」号作戦と呼ばれ、一宮、茨城県の大津(北茨城市)、福島県の勿来(いわき市)の計3カ所の打ち上げ基地より、昭和19年(1944)の11月から翌年にかけて合計で約9000個が打ち上げられました。そのうち300個弱がアメリカ本土に到達したといわれ、オレゴン州では民間人6名が犠牲になりました。
一宮の打ち上げ基地は打ち上げのためのコンクリート台が数基据えられたといい、風船爆弾の資材の運搬のために、打ち上げ基地に向かった上総一ノ宮駅より引込線(線路、現在の一ノ宮停車線に沿う)が敷かれました。戦後、基地は旧日本軍によって破壊されたため、現在は当時の面影は残されていません。
※実際の打ち上げ基地は看板の建てられている場所の道を挟んだ海側の一帯にあったといいます。

  平成31年(2019)3月  一宮町教育委員会
 

風船爆弾(ふうせんばくだん)

太平洋戦争において日本軍が開発・実戦投入した気球爆弾を搭載した爆撃兵器である日本本土から偏西風を利用して北太平洋を横断させ、時限装置による投下でアメリカ本土空襲を企図した

1944年昭和19年)11月初旬から1945年(昭和20年)3月まで9000個余りが放たれて、少なくとも300個程度が北アメリカ大陸に到達したとみられ、アメリカ合衆国西海岸オレゴン州では6人が死亡した。実戦に用いられた兵器としても約7,700 km茨城県からオレゴン州への概略大圏距離)は、発射地点から最遠地点への攻撃であった。戦果こそ僅少であったものの、ほぼ無誘導で、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器である秘匿名称は「ふ号兵器」

「風船爆弾」は戦後の用語で、終戦間際に陸軍登戸研究所神奈川県)へ配属された元職員は、「ふ号」「風船」は防諜のための符号であって当時の呼称は「気球爆弾」であり、「風船爆弾」は戦後のマスコミによる造語と述べているが、名古屋陸軍造兵廠学徒勤労動員された女学生は「今日から君たちは風船爆弾を作ることになる」と訓示されたと回想している

日本陸軍日本海軍が開発し、陸軍が特殊兵器として実戦投入した。日本海軍の風船爆弾は「八号兵器」と呼称し、潜水艦に搭載してアメリカ大陸沿岸部まで進出し、放球する方式を想定していた。

材質は製の和紙が使われ、接着剤には気密性が高く粘度が強いコンニャク糊が使用された。このためコンニャク芋が軍需品となったため食卓から姿を消した。楮の繊維が縦方向の大判に対し、小判の繊維を横方向にし網目状に組み合わせ、和紙を5層にしてコンニャク糊で貼り合わせ、乾燥させた後に、風船の表面に苛性ソーダ液(水酸化ナトリウムを塗ってコンニャク糊を強化し、直径10mほどの和紙製の風船を作成した。気球を調査したアメリカ軍は、それが紙製であることはすぐに突きとめたものの、紙を張り合わせている接着剤が何であるかを特定することはできなかった。気球内には水素ガスを充填した。大佛次郎は1944年10月17日の日記に「新聞を読むと、ヘチマとコンニャクが航空機の基地で入用で供出を求めている。防諜用だとのこと」と記している

埼玉県比企郡小川町では1933年(昭和8年)頃、小川和紙から風船爆弾用の気球紙が開発された。昭和19年以降は高知市をはじめ日本国内の他の地域でも気球紙は製造されるようになったが、開発段階で小川和紙が選ばれた理由は、楮の繊維が長く強靭であり、東京に近く、以前から軍需紙を漉いてきた歴史があることなどが挙げられている。その後は生産量の増加命令に伴い、各地方でもふ号兵器用の気球紙が製造されるにあたり、小川和紙の手法が全国の和紙産地に伝えられた。当時、紙漉き作業に携わった人々には爆弾に使用されるとは知らされてはいなかった

気球一基に対し和紙は約600枚必要であった。気球紙のサイズは2種類あり大判は635分×2尺2寸(約193×67cm)、小判は2尺2寸四方(約67×67cm)だった。昭和19年には軍の命令により楮の皮剥作業や紙漉きに対しても昼夜休むことなく作業するよう警察の監督のもとに作業が続けられた。

(この項、「Wikipedia」HP参照)

かつての線路跡の道路の両側には、のどかな田園地帯が広がります。

          

線路跡の直線道路から離れ、「一宮川」方向へ進みます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする