阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

マルタイの「皿うどん太麺タイプ」は期待以上においしかった。

2023年07月02日 | ある日のランチ

揚げた麺もいいが「あんかけスープ」も実によく出来ている。 内容は「揚げ中華麺のあんかけ」と言ってもいい。

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  夜の酒肴は洋風和風いろいろ

 

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07月01日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年07月02日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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東日本大震災が起こった後「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリーから   [ 2011年05月29日(日)のブログ ]

2023年07月02日 | 東日本大震災ブログ
2011年05月29日(日)
今日読んだネット記事 5月29日
 
1、新聞業界のタブー!? 「押し紙」ってなに?  こちら

2、刑事司法の欠陥を全てさらけ出した布川事件 こちら

3、子供を放射能から守るための教育現場の苦悩 こちら

4、文科省「子ども年20ミリシーベルト暫定基準」事実上断念 こちら

5、ストロンチウム90の海産物汚染に無策な日本政府。 こちら

6、小沢一郎・民主党元代表インタビュー:一問一答 こちら

7、飯舘村 農地を捨てて こちら

8、各地の放射線量(地上) & 放射性物質濃度(海水) 5月27日 こちら
 
 
いま、アメリカ人が日本を見る目

☆海外の土地で働いて稼ぎ、その土地で税金を払いながら現地人の中で暮らす人は、日本に住んで2次情報を基にして海外モノを書く人とは違う視点や切り口がある。

ただ、その人の立っている位置を国内の日本人と同じ高さに維持している人はそう多くはない。

アメリカの東海岸で暮らす冷泉彰彦さんは、その少ないうちの一人だと思う。☆一部引用・・

では、どうして原発事故を起こしておきながら日本のイメージが傷ついていないのか、日本のテクノロジー神話が健在なのかというと、これは圧倒的な情報量のおかげだと言えます。

とにかく「ニューヨーク・タイムス」にしても、CNNにしても日本の震災、津波、そして原発事故の報道は詳細を極めています。

科学的な解説も多いのですが、日本の官僚や大企業の体質、政治家の行動パターンなどは本当に細かなことまで報道されているわけで、

そうした情報に接している人は「東電や経産省は信用できないが」日本という大きな国の技術や文化は大丈夫というように、是々非々の姿勢で受け止めることができているわけです。

 今回のサミットについても「日本への不信が目立った」などという報道もあるようです。

ですが、基本的な各国の姿勢は「津波被災という異常事態」が前提にあるという認識であり、そのウラには「津波の可能性の少ない自国の原発は大丈夫」だ

ということにしたい政治的な思惑があるのですが、そうした「不純な」動機とは別として、今回の事故が「日本人が劣っているために発生した人災」とは見ていないということは、

やはり確認しておいた方が良いと思います。

 更に言えば、今回の震災後に見せた日本人の行動、例えば停電時の整然とした秩序、帰宅困難に陥った通勤客の冷静な行動、あるいは助け合いの精神などは、

アメリカのメディアでは繰り返し大きく取り上げられています。それは単にニュースとして珍しいから報道しているのではなく、明らかに「日本文化の深み」として認識されているのです。

例えば、先週に発生したミズーリ州での大規模な竜巻被災に際しては、アメリカ人の中から「日本の被災地のように助け合って頑張ろう」というような発言が出ているのを見ると、

それは明らかです。

 ■ 『from 911/USAレポート』第516回

    「クールジャパンは終わらない」

    ■ 冷泉彰彦:作家(米国ニュージャナリスト)

 今月、日米を何度か往復してみて感じるのは、日本のおけるアメリカの存在感が更に低下してきているということです。

原発への疑念からエネルギーを使用する生活形態のイメージが悪化し、また経済成長や人々の上昇志向も弱くなる中、

「アメリカ発」のあらゆる文化が日本の中で存在感を薄めていっているように見えます。これに「ビンラディン殺害」などというニュースが加わると、

オバマの「チェンジへの期待」というような感覚も、日本ではしぼんでしまったわけで、益々「脱アメリカ」というのも仕方がないように思えてきます。

 政治経済だけでなく、日本から米国への留学生数が激減しているとか、あれほど日本で人気を獲得していたメジャーリーグの野球が、

松坂投手のケガや松井選手の不振などもあって注目度が下がっているなど、「アメリカと日本」を結びつける文化の絆も細くなっているようです。

日本に来て驚くのは、映画界における「ハリウッド」の存在感の低下ですが、これも近年は益々激しくなっています。

 確かにこれは「内向き志向」です。内向きといえば、今回のG8ドービル・サミットでは、原発問題と並んで「アラブ民主化」の動向へのG8の対処という

問題が大きく扱われていますが、この問題に対する日本国内の反応も鈍いものがあります。オバマやサルコジ、キャメロンといった欧米の首脳としては、

この問題に関するスタンスは明確です。それは2本のストーリーを外さないということです。一つはサウジ防衛であり、もう一つはパレスチナ和平のゆっくりとした前進です。

 実は前者がホンネであり、後者はそのためのタテマエ的なアリバイ作りのような関係がある一方で、後者でブレないことで

アラブの大義」が怒濤のように反欧米に流れないようにする、そうした複雑な、しかし「他に取りようのない」スタンスを彼等は取っているわけです。

その結果として、エジプト民主化をどう穏健なソフトランディングにするか、リビアのカダフィとシリアのアサド・ジュニアをどう「追い出す」かが喫緊の課題ということになるわけです。

 そうした論評も日本では全く聞かれないわけで、勿論これは震災と原発事故の非常時モードが継続している以上は仕方がないわけですが、

とにかく「内向き」の感覚が非常に強いのは間違いないでしょう。ただ、私が最近感じているのは「内向き」ということだけではないという点です。

 最近、70年代のハリウッドの「古典」というべき、ウディ・アレンのコメディ映画『アニー・ホール』を見る機会がありました。

軽妙なトーク、自己主張と自虐的な内省を往復する独特の感性、若き日のダイアン・キートンの居直ったような不思議な存在感など、

大昔に見た印象は変わらない一方で、演出と演技の切れ味については、現在の老いたウディ・アレンばかり見ていた自分と比べると実に新鮮な印象があったのです。

 そこで、たまたま日本のネット上の批評サイトに行って、匿名の映画好きのコメントを見てみたのですが、そこで私は驚きました。

書き込みの三分の一ぐらいが、作品への違和感の表明だったからです。つまり、ウディ・アレンのキャラが「オレ様」だとか「屁理屈ばかり」

あるいは「うるさい」という印象、更には「こんな人間が周囲にいなくて良かった」というような調子での拒否感と言っても良いようなコメントもあったのです。

 勿論、アメリカ文化に関する情報が極端に細っているので、ニューヨーカーの行動パターンとかユダヤ系の意識など前提がスッポリ抜け落ちていて

楽しめないということもあるでしょう。ですが、それ以上に、言葉を連ねることで他人との関わりを断ち切らないように、自分が自分であることが途切れないように必死に生きて、

その行動パターン自体を一種のパロディにするというような「濃い」生き方やコミュニケーションスタイルが、現代の日本の若者文化とは対極にあるということも大きいのだと思います。

 非常に簡単に言ってしまえば、日本では「自尊感情はマイナスがデフォルト」という感覚が行き渡っており、それがウディ・アレン的な「言葉と関係性」の「過剰なリアル」に対しては強烈な違和感となってしまうのでしょう。

 ウディ・アレンの「芸」というのは、アメリカ文化の中では相当に左に属しており、保守本流でも何でもないのですが、言葉を信じたり、

人間と人間の関係性を信じたりという点では、確かに「アメリカというイデオロギー」の一つを形作る存在だと言って良いと思います。

そのウディの「言葉の奔流と関係性への執着」そのものが受け入
れられないのであれば、そのことは日本の若者の心理の中で「アメリカ」がいかに遠いかを真剣に考えざるを得なくなります。

 かといって私は日本の「内向き志向」や「自尊感情はマイナスがデフォルト」という状況を非難しようとは思いません。それぞれに、

十分に理由があることであり、因果関係の連鎖の果てに起きた現象としては、アメリカをはじめとする他の産業社会よりは「先行している」社会現象だと思われるからです。

 ですが、一つだけ言えるのはそうした「アメリカ的なるもの」に距離を置き「言葉や関係性」を信じることができないことの果てに、

大きな誤解が生まれているということです。それは、今回の震災そして、特に福島第一原発の事故を契機として「日本ブランドが傷ついた」とか「クールジャパン現象は終わった」という類の評論です。

 私の見るところ、少なくともアメリカではそうした現象はほとんどありません。震災があっても、原発事故はあっても、渡辺謙さんは依然としてクールであり、

村上隆さんの作品は売れ続け、宮崎駿さんはアニメ界の神様であることには変わりはないのです。

 放射線の風評で日本の食材が売れなくなったという現象も一瞬はありましたが、例えば私の住む東海岸では、

日本食のブームに翳りが生じたという傾向はほとんどありません。また、アニメやデザイン、自動車やゲームなどの日本文化への評価が「放射能で汚れた」と

いうようなことも起きていないのです。

 この「クールジャパンが終わった」うんぬんという一連の言論というのは、例えば汚染水流出に関して国際的非難があったとか、各国が原発事故を受けて

自国民への避難命令を出したというようなニュースの延長として、いわば「自己卑下的なセルフ風評」として日本人の一部に起きているのだと言えますが、事実ではありません。

 例えば、ニューヨーク市が市内の「イエローキャブ」と言われるタクシーの車種に日産自動車の製品を一括大量採用したとか、

過酷なサバイバルゲームである「サスケ」が日本での放映内容そのままの状態で、三大ネットワークがゴールデンタイムに放映するとか、

震災後の具体的な動きも見ても「クールジャパン」の評価が継続していることは明らかです。

 では、どうして原発事故を起こしておきながら日本のイメージが傷ついていないのか、日本のテクノロジー神話が健在なのかというと、

これは圧倒的な情報量のおかげだと言えます。とにかく「ニューヨーク・タイムス」にしても、CNNにしても日本の震災、津波、

そして原発事故の報道は詳細を極めています。科学的な解説も多いのですが、日本の官僚や大企業の体質、政治家の行動パターンなどは本当に細かなことまで報道されているわけで、そうした情報に接している人は「東電や経産省は信用できないが」日本という大きな国の技術や文化は大丈夫というように、是々非々の姿勢で受け止めることができているわけです。

 今回のサミットについても「日本への不信が目立った」などという報道もあるようです。ですが、基本的な各国の姿勢は「津波被災という異常事態」が

前提にあるという認識であり、そのウラには「津波の可能性の少ない自国の原発は大丈夫」だということにしたい政治的な思惑があるのですが、

そうした「不純な」動機とは別として、今回の事故が「日本人が劣っているために発生した人災」とは見ていないということは、やはり確認しておいた方が良いと思います。

 更に言えば、今回の震災後に見せた日本人の行動、例えば停電時の整然とした秩序、帰宅困難に陥った通勤客の冷静な行動、あるいは助け合いの精神などは、

アメリカのメディアでは繰り返し大きく取り上げられています。それは単にニュースとして珍しいから報道しているのではなく、明らかに「日本文化の深み」として

認識されているのです。例えば、先週に発生したミズーリ州での大規模な竜巻被災に際しては、アメリカ人の中から「日本の被災地のように助け合って頑張ろう」と

いうような発言が出ているのを見ると、それは明らかです。

 今現在、日本のムードが内向きになるのはやむを得ないと思います。また現在の日本の若者の間に「自尊感情はマイナスがデフォルト」的なセンチメントが

蔓延しているのも過去の複雑な経緯の結果として抜き差しならない現実であると思います。それはそれとして受け止めつつ、その両者が絡み合うことで

「クールジャパン滅亡説」な風評、マイナスの自己評価が広がるのは「ちょっと待った」と申し上げたいのです。それは明らかに事実に反しているからです。

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冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ)
作家。ニュージャージー州在住。1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大学大学院(修士)卒。著書に『9・11 あの日からアメリカ人の心はどう変わったか』『「関係の空気」「場の空気」』『民主党のアメリカ 共和党のアメリカ』などがある。最新刊『アメリカは本当に「貧困大国」なのか?』(阪急コミュニケーショ
ンズ)(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4484102145/jmm05-22 .

 
 
おかんの昼ごはん 3、青春の終わり
一部引用・・

<経験値があがってきたからこそ>

母は最近、物覚えがだいぶ悪くなったなぁ、ということと
今まで出来ていたことが少しずつ出来なくなっているような‥‥。

父の入院やその後の治療など、
家族が話を一緒に聞かなければいけない場に、
今までの母だったら一人で対応して
子供たちには知らせずに
こなしてしまうひとだったのですが

最近は、医師の言うことを理解できるか覚えていられるか
自信がないらしく娘(わたし)に一緒に聞いてくれ、と。

もちろんわたしに出来ることはやりますが
ああ、あのしっかり者のたくましい母が
こうして少しずつ弱っていくのか‥‥
と、現実を見ることが、少々つらいなと、思いました。
わたしがつらいとか言ってる場合じゃないですけど。

「子供としての自由時間は終わったんだな」と、思いました。
いい年をして、もう結婚だってしてるのに、
やはりそんなことを考えていました。

「終春」、とてもよくわかります。
ほんとに、春は終わった、て瞬間が来るとは。
若い頃には知らなかったことが押し寄せてくるのが
人生中盤なんでしょうか。

でも、若い頃だったら、
ショックや不安や責任に押しつぶされそうだし
逃げ出してたかもしれません。
誰かに背負ってもらうことを探したかもしれません。

今なら背負える。

少なくとも、そのくらいは経験値上がってるはず。
そう思える頃だから、やってきたんでしょうかね?
「終春」。
(みほぞう)

全文はこちら
 
 
伊丹万作という監督がいた
一部引用・・

常設展示を抜けて企画展示の入口に来ると、
伊丹十三さんによる万作さんについての
ことばが映写されたカーテンがかかっています。

「伊丹万作は
 自分に誠実な人であった。
 自分に非常に厳しい人であった。
 自分に嘘のつけない人であった。

   (中略)
  彼の作品を一貫して流れているのは

 『全体主義的な国家や社会が、
  個人の自由とか権利とか幸せとか
  尊厳とかってものを権力でもって
  踏みにじろうとする時、個人はいかにして、
  自分に誠実に生きることができるだろうか』
 というテーマだったと思うんですよ。」

(一部抜粋。1995年、伊丹万作さんの50回忌に、伊丹十三さんが。)

全文はこちら
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