阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

四匹の活発なカブトムシが良く動く   林で自然に孵って成長した昆虫は身体の色が濃い  

2023年07月22日 | 花・草・木・生き物

ご近所の知り合いから4匹もらったうちの2匹はもう一軒の孫に大喜びでもらわれていった。

 

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御神渡りや諏訪信仰講話 富士見で8月   長野日報

2023年07月22日 | 諏訪便り

2023年7月21日 6時00分   8月19、20の両日に富士見町内で行う宿泊企画「神様が歩く、諏訪の湖」をPRする牛山由実子さん=同町のすずの音カフェ  

富士見町富士見の「すずの音カフェ」は、諏訪湖の御神渡り(御渡り)に関する学びと、自然体験などをセットにした1泊2日の

宿泊企画「神様が歩く、諏訪の湖」を8月19、20両日に町内で行う。

2日目に御神渡りの判定と神事をつかさどる八剱神社(諏訪市小和田)の宮坂清宮司が、同カフェで御神渡りや諏訪信仰などについて講話する。

宮坂宮司が春ごろカフェに来店し、「初めてお会いしました」という店主の牛山由実子さん。1日の安全を祈る八剱神社の朝御饌に時折参列するようになり、

富士見で御神渡りの話をしてほしいと伝えたところ、快諾してくれたという。

町内を拠点とする合同会社つくえラボ、音楽教室にじいろむじかなどと連携し、地元産品を使ったカフェでの食事やピアノコンサート、入笠散策、天然温泉などをセットにした。

公共交通利用者はJR富士見駅前の「ゲストハウスカライ」、家族連れなどはトレーラータイニーハウスを使ったキャンプ場「ウィンデラ キャンプグラウンズ」が宿泊場所となる。

入笠散策の”玄関口”となる富士見パノラマリゾートのゴンドラを含め、全ての施設利用料や食事代込みで参加費は1人2万2000円。

宮坂宮司の講話は20日午前10時半~正午を予定。宿泊企画とは別に、午後1時半からは地元の子どもや大人向けに講話する。定員はともに20人。

牛山さんは「御神渡りは、私自身も漠然としたことしか知らない。県外や地域の皆さんに深く伝えられる貴重な機会になる」と話している。問い合わせは同店(電話0266・75・1587)へ

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07月21日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年07月22日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文全文に飛びます。

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東日本大震災が起こった後「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリーから   [ 2011年06月18日(土)のブログ ]

2023年07月22日 | 東日本大震災ブログ

国民より米国を優先する政府・保安院の欺瞞

アメリカに擦り寄る、アメリカにいい顔をする。そのことで現在の自分たちのありよう、ポジションを永久に維持する。

 まさか中央官僚もそこまでは・・。

しかし大前研一がここまで言うとは。正直な話、この論考の全文は読みたくなかった。

もう今は死語になっていると思った“売国奴(自国を犠牲にして自分の利益を図る者)”という言葉が頭をかすめた。☆

国民より米国を優先する政府・保安院の欺瞞

一部引用・・

炉心溶融ではなく被覆管が破損している程度ならヨウ素などの気体か、融点がほぼ常温であるセシウムが水と反応して外部に出てくることは考えられるが、

テルルやストロンチウムは出てこない。つまりテルルが広範囲に散っていたということは、炉心溶融が起り、

しかも圧力容器と格納容器がその密閉機能を失ってしまっていた、ということである。

 保安院は、3月12日の午前8時半には福島第一原発が深刻な事態になっていることを認識していたのだ。

この事実は即座に国民に知らしめなくてはいけないものである。にもかかわらず保安院は3カ月近くも事実を隠し、

しかも「発表するのを忘れていた。隠す意図はなかった。申し訳ない」の一言で済まそうとしている。

言語道断というべきであろう。米国に伝えていたと考えれば辻褄が合う 

あくまでも私の推測だが、保安院はテルル132が検出された事実を米国には伝えていた可能性がある。

米国政府は3月16日、在日米国人に対して半径50マイル(約80キロメートル)圏内から避難するよう勧告し、大使館業務を大阪に移したとき、

「ずいぶん大袈裟な反応だ」と感じた人も少なくなかったろう。しかし、それも正確な情報をいち早く保安院から得ていたと考えれば辻褄が合う。

 米国が独自調査でテルル132を検出していた可能性もなくはないが、「事故の翌朝8時半」というのはかなり早い段階のことであり、

米軍とはいえ、そこまで迅速に行動できたかどうかは疑問が残る。したがって、やはり政府・保安院が米国に一早く知らせたと考えるのが自然だ。

 全文はこちら

 
 
福島県相馬市長のブログから

☆この立谷秀清相馬市長の文章を読んで、行政とはこういうものを言うのかと思いました。

城県知事の復興計画は、阪神淡路大震災のあとの、神戸市長田区の元の住民が住めなくなった復興街づくり(箱もの建設主体で、バックにゼネコンがいた

広い道路と高層ビルが出来たが人の姿はまばらになった)にそっくりですが、

福島県の市町村の首長には、

¥住民がこれからもそこで生きていくことを考える、プロの行政マンが何人もいます。☆

相馬市復興計画

一部引用・・

今回の震災は規模が異常に大きく、またそれぞれの被災市町村によって状況がすべて異なる。

何より、「元に戻せば復興」とはいかないことが大きな特徴であり、それぞれの地域特異性ゆえに復興の定義も多様である。

多かれ少なかれ、何らかの原発被害を受ける本県の各市町村と岩手宮城では、全く違ったプロセスで復興が進むだろう。

また本県の中でもそれぞれの市町村によって、被害の実態も、復興に対する考え方もすべて異なる。

相馬市のことは相馬市でなければ決して分からないのだから、自分たちで脳みそに汗をかきながら復興計画を練り上げ、育て上げていくべきである。

政府の復興会議は被災市町村と緊密に連携しながら、現実を踏まえて復興策を議論すべきだと思う。

・・・・

もうひとつ重要なことは、復興に至るまでの長い道のりをマネジメントすることである。どんな立派な復興計画をたてても、途中で孤独死や自殺者を出したのでは情けない。

 だから復興計画には最終の姿に至るまでの管理計画も含まれる。仮設住宅での健康管理、孤独死防止、子どもたちのPTSD対策

、瓦礫撤去の際の作業員の健康管理、地域経済活性化、放射能問題対策など予想される多くの課題についての対策も当然復興計画の一部である。

 これらの問題をのり越えてはじめて復興のステージに立てると考えれば、おのずから中心テーマは被災した市民の生活再建ということになる。

多少おおげさかも知れないが、私が考えるに、何をもって「復興」を定義するかと言えば、それぞれの世代で被災者の人生設計が可能になることではないだろうか。

子どもたちの将来のために充分な教育体制を築き、孤児・遺児には生活支援をしながらしっかり育てること。

特に単独世帯をはじめとするお年寄りには、安心な生活と医療介護体制を提供すること。

青壮年の世代には産業の復活と雇用の確保。

 これらの大きな課題を達成するために、瓦礫を撤去して土地利用を図り、安全で安価な住宅を提供し、また漁港や農地を復旧するのだ。

さらに、土地利用の知恵を縛り、住宅取得の無理のない方法を考え、漁業や農業の新しい経営方法や事業形態を生み出し、

それぞれの年齢層で将来像が描けるようになるために、ハード事業を細心の注意を払って展開していこうと考えると、復興計画の意味が見えてくるようになる。



 全文はこちら

 
 
苦労する福島県の失業した人ーー原発事故の影響がここまで

混雑するハローワーク=原発事故で避難、失業―二重苦、
やり場のない怒り・福島
時事通信社 2011年6月15日(水)5時16分配信

 福島県内のハローワークは、東日本大震災や福島第1原発事故の影響を受け、失業した被災者で混雑している。

自宅が計画的避難区域内にあり失業後に避難生活を強いられた人や、事故当時に県内にいたことを理由に書類選考で落とされたと訴える人もいる。

 南相馬市の「ハローワーク相双」。鴫原良友さん(60)が勤務する市内の会社は3月の原発事故後に休業となった。

自宅のある飯舘村は計画的避難区域となり、5月から福島市内の公務員住宅に避難。「仕事というより生活を奪われた。

家は壊れていないのに放射能のせいで住めない。どこにぶつけたらいいのか」と憤る。

 南相馬市の荒勝彦さん(52)は昨年12月に長年勤めたガソリンスタンドを解雇され、今年3月から機械関係の会社に就職した直後に、事故で再び失職した。

「原発には参った。人生を狂わされた」と肩を落とした。

 求職者でごった返す福島市の「ハローワーク福島」。東京都出身の調理師の男性(47)は勤めていた同市の飲食店が事故後に廃業した。

関東から東北にかけて10件以上履歴書を郵送したが断られ続けた。「返答がないため電話で問い合わせたら、『連絡がないんだから察しろよ』と言われたこともあった。

事故当時に福島にいただけで面接もしてもらえない」とこぼす。

 高齢の両親と病気がちの妻、大学生の長女の5人家族の生計を1人で支えてきた福島市の男性(59)。

震災と原発事故で食品卸関係の勤務先が事業を縮小したあおりで解雇の憂き目に遭った。「失業手当だけではかなりきつい。この年齢だと職もない」と厳しい表情で語った。 

 
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