阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

「キルギスの騎馬と鷹狩」 キルギス紀行 その2/全5回 by 印旛沼の里山住人        10年前の今日 2013年7月26日の本ブログに掲載

2023年07月26日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

第2回はキルギスの伝統、騎馬と鷹狩です。いずれも伝統を守りながら観光客に披露しています。 ↑トップの写真は鷹匠

今回の8日間の旅の現地ガイドはイバラットさんでした。30歳、一児の母、素晴らしい女性です。彼女はこんな人です。



 騎馬相撲

 走りながら地上の小物を拾い上げる



 頭を刎ねた山羊を奪い合う



 200m先から獲物(ウサギ)に向かう鷹

 ウサギを捕まえ、主人が来るのを待つ鷹

 ご褒美のウサギを食べる鷹


 

キルギス紀行 全5回  こちら。←クリックした後下へスクロールしてください。

地理  (Wikipediaから部分引用)
キルギスの地図


国土全体の40%が標高3000mを超える山国。国土は東西に長く、中国との国境には天山山脈が延びる。南に位置するタジキスタンに向かってパミール高原が広がる。

国土の中央など東西に山脈が走り、国土を数多くの峡谷に分断している。最高峰は、中国国境にそびえるポベティ山(Pobeda または Jengish もしくは 勝利峰、7439m)、

ついでハン・テングリ(Khan-Tängri または Kan-Too、6995m)である。4000m級の峰は珍しくない。

主な河川は、シルダリア川支流のナルイン川。主な湖は国内北東部に位置するイシク湖 (Isik-Köl)。東西180km、南北60km、周囲長700kmに及ぶ。

湖面の標高は1600m。イシク湖とナルイン川は水系が異なる。

隣国のカザフスタンや中国とは異なり、国内に砂漠は存在せず、この地方の中では気候に恵まれている。

人の居住に適した東西に伸びる渓谷部分はケッペンの気候区分では、夏季に雨が少ない温帯の地中海性気候 (Cs) に相当する。

これは、イタリアのローマやアメリカ合衆国サンフランシスコと同じ気候区である。山地は亜寒帯湿潤気候 (Df) 、特に高地は高山気候 (H) となる。

天山山脈をはさんで南方の中華人民共和国と、テスケイ・アラ・トー山脈をはさんで北方のカザフスタンには、ステップ気候 (BS) と砂漠気候 (BW) が広がる。

実際に降水量を比較すると、天山山脈の100km南方に位置する中国新疆ウイグル自治区喀什(カシ(カシュガル))の年降水量は60mmだが、

ビシュケク(北緯43度、標高800m)の降水量は450mmに達する。これはローマやサンフランシスコと同水準である。ビシュケクの平均気温は、1月に-3度、7月に25度である。

ビシュケクと第2の都市オシュ、中央部のナルインにはソ連共和国時代に大規模な灌漑施設が敷設されているため、綿花を中心とした耕作に向く。

これらの灌漑地はシルダリア川、ナルイン川の支流から水を得ている。

国民
 民族構成 キルギス人70.9%   ウズベク人14.3%  ロシア人7.8%  その他 7%

2009年の調査によると、キルギス人が70.9%、ウズベク人が14.3%、ロシア人が7.8%、その他が7%であり、

その他にはドンガン人、ウイグル人、タジク人、トルコ人、カザフ人、タタール人、ウクライナ人、高麗人、アゼルバイジャン人などが含まれる多民族国家である。

地域による民族分布差も大きく、首都ビシュケクと周辺のチュイ州やイシク・クル州のカラコルを中心とした東部にはロシア人、ウクライナ人などスラブ系住民が多く、

オシ州やジャララバード州、バトケン州などの西部、南部にはウズベク人やタジク人が、中国国境付近にはドンガン人やウイグル人が住む。

一方、ナルイン州の住民はほとんどがキルギス人である。独立前の1989年にはロシア人は全人口の21.5%を占めていたが、国外流出が続き、現在は7.8%にまでに減少した。

 

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昭和50年代の海外あちこち記   その26 インド ボンベイ篇

2023年07月26日 | 昭和50年代の海外あちこち記

ボンベイ(現ムンバイ)には、港湾近代化の第一段階の大型荷役設備の商談で何回か行きました。

東京から商社の担当者と、勤務していた会社の技術者チームを組んで行きました。

 設備投資はされるのか この時点では海のものとも山のものともわからない商談ですから、課長クラスなどはどちらの会社からも参加せず、

私をはじめ商社の長谷さんも含めて担当者ばかりのチームです。

 日本からボンベイに行くにはヨーロッパ便のフライトで行きますから、行きも帰りも真夜中の2時頃にしかボンベイ空港に離発着しません。

空港から真夜中、ホテルオベロイにチエックインし簡易ベッドで仮眠しました。

昼前に、商社の現地代理店のオフィスへ行き、ファ○○社の社長ファ○○さんに挨拶をし、彼の行き付けのレストランで昼飯を共にしながら状況の説明を受けました。

  この時の食事がスパイシーなほんまもんのインド料理との阿智胡地亭の最初の出会いでした。

阿智胡地亭は同行メンバーと違って、出てくるどのインド料理に何の違和感もなく、全部おいしく平らげ、招待してくれたファ○○社長にすっかり喜んでもらいました。

 身長190cmを越える痩身の彼は、町で見掛けるボンベイ人とは風貌が全く違いました。

あとで長谷さんに聞くと父親の代に宗教的な迫害にあい、パキスタンからインドへ移住したパーシー、パールシー( Parsee)と呼ばれる一族とのことでした。

彼のかもしだす雰囲気は何となく映画「荒野の7人」のジェームス・コバーンに似ていました。

余談ですが、彼の役柄はオリジナルの黒沢映画「七人の侍」では宮口精二がやりました。彼の登場場面は、何度「七人の侍」を見ても息を止めて見入ってしまいます。

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Wikipediaから一部引用。 パールシーパールスィー(ヒンディー語पारसीPārsī)とは、インドに住むゾロアスター教の信者である。

サーサーン朝の滅亡を機にイランのゾロアスター教徒のなかにはインドグジャラート地方に退避する集団があり、

現在、インドはゾロアスター教信者の数の最も多い国となっている。今日では同じ西海岸のマハーラーシュトラ州ムンバイ(旧称ボンベイ)にゾロアスター教の中心地があり、

開祖のザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消えることなく燃え続けている。

インドでは、ペルシャ人を意味するパールシーと呼ばれ、数としては少ないが非常に裕福な層に属する人や政治的な影響力をもった人々の割合が多い。

インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、シク教徒と類似する。インドの二大財閥のひとつであるタタは、パールシーの財閥である。

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ファ○○社は長年、日本郵船の現地乙仲をし、港湾局に食い込んでいる会社でした。付き合っているうちにわかってきましたが、

日本郵船NYKのエージェント契約をしているという事に強い誇りを持っており、その延長上でダイヤマークの会社と仕事をすることに誇り持っていました。

NYKという会社の世界ブランド力の一端を垣間見る思いでした。

 お客さんはボンベイ港湾局で、First  Mechanical Engineerという肩書きの個室にいる施設部長が面談の相手でした。

ファ○○さんは必ず同席しましたが、相手の部長もファ○○社が連れてきた商社、メーカーということで安心して面談してくれました。

 二人のやりとりを横で見ていて直感的にこれはベストなエージェントだと思いました。

インドネシアの華僑のエージェントが中央、地方を問わず役人、軍人を水面下で丸抱えしているのと同じ雰囲気を感じたからです。

 

 3回ほど行ったボンベイ で インドの空気に触れ、人に触れ、食べ物に触れ、日本という風土や人間の暮らし方との違いは大きく感じましたが 

一方で「どこの国や土地で生きていても 人間という生物は みなちょぼちょぼ や」と  この地で 実感したのはのちのちに良かった気がします。 

 *画像はいずれも ネットから借用。出張時撮影した画像ではありません。      

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◎阿智胡地亭便り#52 コウベローカル噺④  インド料理を・・   2004.02.24記

 昭和55年ごろ、ボンベイ(ムンバイ)港湾局の施設部長を日本に呼んで四国の工場や神戸港に案内したことがある。

彼は、ベジタリアンの中でも厳密な方の菜食主義者で、東京のレストランで彼のために特注した焼き飯を、

「この焼き飯の前に肉を使った料理に使われたフライパンが、そのまま使われているようだ。米飯に肉の臭いがするから食べられない」と言ったりして、食事では大汗をかいた。

神戸で案内した「ゲイロード」にはさすがにベジタリアンメニューが普通にあって、案内したこちらもも施設部長もホットした。

彼は驚くほど沢山食べた記憶がある。成田到着から何日も、腹を減らしていたのかと、少し気の毒だった。

余談ながら、一緒に泊まった三宮のホテルの朝食で、私が和定食の白飯に生玉子をかけて食べだしたら目を丸くして驚いて見ていた。

聞くと生まれて始めてこういう食べ方を見たという。

後でなんかで読んだのだが、世界中でも、玉子をこうして食べるのは日本だけらしい。

それにしてもベジタリアンは海外に出るのは大変だなと思った。

  原理原則なき民である日本人の中でも、阿智胡地亭は、和洋・中華・印度・朝鮮・蒙古そのほか なんでも、

「うまければどこの料理でもいい」と思っているのだが。

 震災前に三宮の神戸市役所近くにあった「Gay lord(陽気な殿様)」は、当時ロンドンやパリにもチエーン店があって、

長身のインド人給仕頭が黒服に身を固め、広い店を笑顔で仕切っていた。ボーイも皆インド人で、店の雰囲気は高級レストラン風だった。

 

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07月25日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年07月26日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文全文に飛びます。

 

 

 

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東日本大震災が起こった後、ブログ「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリーから   [ 2011年06月22日(水)のブログ ]

2023年07月26日 | 東日本大震災ブログ
仮設住宅は実質大手ハウスメーカー連合の独占

☆前から知りたかったが、仮設住宅の発注単価はまだ報道されたことがない。

このことでも日本の大手メディアのジャーナリズム精神の劣化を感じる。

阪神淡路大震災の時から、緊急事態に名を借りた相当な高額金額で、しかもそれは大手住宅メーカーの談合価格の可能性があった。

そろそろ、公正取引委員会の調査が入るべきだ。仮設住宅の建設費は全て国税や県民税から出ているから、正当な価格の発注でないといけない。☆

仮設発注の文書開示を 仙台オンブズマン、情報公開請求
2011年06月22日水曜日  河北新報

 東日本大震災で宮城県内に建設された仮設住宅について、仙台市民オンブズマンは22日、発注元の県や仙台市に、発注状況などを示す文書を情報公開請求する。

発注や建設の実態を明らかにし、仮設住宅が被災者救済や地域復興に結び付いているかどうかを検証するのが狙い。

建設業者選びが一つの社団法人に委ねられて不透明なことや、一部の仮設住宅で不具合が見つかったことなどが背景にある。

 宮城県内で必要とされる仮設住宅約2万3000戸のうち、約7割が着工している。着工済みに加え、着工予定の仮設住宅の文書も請求対象となる。

公開された場合、仙台市民オンブズマンは(1)建設に充てられる公費の流れ(2)行政側は不具合などの問題にどう対応しているか―などを検証する。

 建設業者の選定について、県は資材調達などと一括で社団法人プレハブ建築協会(東京)に委任している。

村井嘉浩知事は6日の定例記者会見で「一定の質の仮設住宅を一日も早く建設することを最優先に考えた」と一括発注に理解を求めた。

受注は大手メーカーが中心で、県内業者は数社程度。被災者や建設関係者からは「仕事を求める被災者の救済につながらない」との批判がある。

 完成した仮設住宅をめぐっても、雨漏りやアリが壁のすき間から入り込むなど、問題が絶えない。入居が進まず、需給のミスマッチが生じているケースも少なくない。

 仙台市民オンブズマンは「仮設住宅の発注や工事は『ブラックボックス』の状態で進められている。

開示された情報を基に、本当に復興に役立っているかどうかを調べたい」としている。

参考

社団法人プレハブ建築協会の役員

●役員名簿 (平成23年6月16日現在)

会  長   和田 勇 非常勤 積水ハウス株式会社会長兼CEO
副 会 長   山田 恒太郎 非常勤 安藤建設株式会社会長(PC建築部会長)
副 会 長   平居 正仁 非常勤 旭化成ホームズ株式会社社長(住宅部会長)
副 会 長   樋口 武男 非常勤 大和ハウス工業株式会社会長兼CEO
副 会 長   藤井 康照 非常勤 パナホーム株式会社社長
副 会 長   竹中 宣雄 非常勤 ミサワホーム株式会社社長
専務理事   菊田 利春 常 勤 元国土交通省九州地方整備局副局長
常務理事   郡  正直 非常勤 郡リース株式会社社長
常務理事   根岸 修史 非常勤 積水化学工業株式会社社長
常務理事   森田 俊作 非常勤 大和リース株式会社社長(規格建築部会長)
常務理事   森岡 仙太 非常勤 トヨタホーム株式会社社長
常務理事   中川 雄一 非常勤 三井プレコン株式会社社長
理  事   荒川 俊治 非常勤 エス・バイ・エル株式会社社長
理  事   蔦田 守弘 非常勤 株式会社鴻池組社長
理  事   木村 安男 非常勤 コマツハウス株式会社社長
理  事   長妻 貴嗣 非常勤 三協フロンテア株式会社社長
理  事   田中 康典 非常勤 三洋ホームズ株式会社社長
理  事   蛭川 哲夫 非常勤 大成建設ハウジング株式会社社長
理  事   三浦 太資 非常勤 トヨタT&S建設株式会社社長
理  事   森岡 篤弘 非常勤 日成ビルド工業株式会社社長
理  事   佐藤 博信 常 勤 事務局長兼務
監  事   小野 俊雄 非常勤 株式会社間組社長
監  事   中嶋  雄 非常勤 百年住宅株式会社社長

協会のサイトはこちら

●協会の目的

当協会は、プレハブ建築の健全な普及および発展を図ることで、わが国建築の近代化を推し進め、国民経済の繁栄と国民生活の向上に寄与することを目的として

建設省、通商産業省(当時)の共管により、昭和39年1月31日に設立されました。

 
 
福島県川俣町のすべての子供に線量計を

子どもたちに線量計を贈る
6月21日 21時14分 NHKニュース

福島県川俣町から子どもたちの放射線対策について相談を受けていた大阪の大学が、放射線に対する不安の解消につながればと、

21日、川俣町内の小中学校や幼稚園などに通うすべての子どもたちに線量計を贈りました。

線量計を贈ったのは大阪の近畿大学で、21日、川俣町の公民館で、大学や町の学校関係者などが出席して贈呈式が行われました。

近畿大学では、子どもたちの放射線対策について町から相談を受けたことから、線量計を購入して子どもたちに配ることにしたもので、

式では、大学の職員が子どもたちの首に線量計をかけていきました。

 線量計は、町内の小中学校や幼稚園などに通うすべての子どもと、教職員を含むおよそ1700人に配布され、3か月ごとに回収して

放射線量を記録していくということです。結果はそれぞれ個人にも伝えられるということで、町では少しでも放射線に対する不安の解消につながればとしています。

贈呈式に参加した保育園の園長は「保護者にとっても多少の安心材料になるのではないか思います」と話していました。

☆東京の中央政府の意向に反する地方の意志がまた一つ、形になって動き出した。この川俣町の動きなどは、

“千里の堤も蟻の一穴から崩れる”の例えのように、結果としては誰も責任を取らない中央政府の指示に従うのではなく、

自主自立で地方に生きるしかない無名の一般くにたみが国を変えていく先駆けかもしれない。

パニックを起こすかどうかはお上が決めるのではなく、一般の無名のくにたみが決める☆

 
 
福島県の山下放射線アドバイザー 解任署名運動開始
☆福島県知事が、山下長崎大学教授を福島県の放射線アドバイザーに任命した経緯を知りたい。佐藤県知事が山下氏の存在を前から知っていたのだろうか。

もし文部科学省の官僚が原子力村の旦那衆の意を受けて、山下氏を福島県に送りこみ、虚偽のアドバイスをさせ続けたとしたら、
 
それは山下氏自身が曲学阿世の(学問を歪めて時の強者におもねる)“御用学者”の証明であるし、原子力村の大幹部の福島県民に対する犯罪と言っていい。

この人事の裏に、放射能被ばくの量が大きいことを知った原子力村の大幹部とエリート官僚が、それを隠匿するために打った工作を感じるが、
 
そのことの真否を知ることは私には出来ない。

ただ福島県のこの動画に出ている一人の父親の言葉には、児らに対する本心の悔悟の気持ちを感じる。
 
自分たち親が無批判的にお上の言うことを聞いたばっかりに子供をえらい目に会わせたと。ひとごとではなくこの動画をみた。☆


山下俊一放射線アドバイザーにNO〜解任を求め署名開始

山下氏の解任を求める団体の代表の動画はこちら
 
 
 
放射線医の心からの提言
☆放射能被ばくについての現実に向き合うことから逃げていてもどうしようない。この西尾院長の文を読んで、我々が置かれている今の状況を知った。
 
これまで読んできたレポートの中で最も重要なものだと思う。日本に住み続ける限り、列島のくにたみが置かれている状況を全員が知っておくべきだ。
 
書いた人の憂いと嘆きがひしひしと伝わる必読の文だ。☆

メールマガジン発信者:
 独立行政法人国立病院機構北海道がんセンター 
院長(放射線治療科) 西尾正道氏

『福島原発事故における被ばく対策の問題-現況を憂う』(その1/2) 
 こちら

『福島原発事故における被ばく対策の問題-現況を憂う』(その2/2) 
 こちら
 
 
 
「雨森芳州」という人
ブックデータベース:
雨森芳洲(1668~1755)儒者。江戸で木下順庵に学び、対馬藩藩儒として、また朝鮮方佐役・御用人としても活躍した芳洲が生涯説きつづけた「誠信の外交」、
 
「善隣友好」の精神とはいかなるものか。足跡を辿りながらその思想の普遍性と先見性を解き明かす。

☆日本が周辺国とよりよく付き合うことに後半生をささげた江戸時代の外交官がいる。日本人の個人の歴史を追っていくと、
 
難事に当って国益を考えて事を処してきた優れものの多いことに驚く。☆

互いに欺かず争わず真実を以て交り候

威武をうしなわし候はば、彼国のあなどりを御ひろえなさる 

雨森芳洲は近江国伊香郡雨森村(現・滋賀県長浜市高月町雨森)の町医者の子として生まれた。1668年6月26日(寛文8年5月17日) - 1755年2月16日(宝暦5年1月6日)。
 
江戸時代中期の日本を代表する儒者。

 中国語、朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わった。

 12歳の頃京都で医学を学び、さらに18歳の頃江戸に出て朱子学者木下順庵門下に入った。同門の新井白石、室鳩巣、祇園南海らとともに秀才を唱われ、
 
1689年木下順庵の推薦で、当時中継貿易で潤沢な財力をもち、優秀な人材を探していた対馬藩に仕官し、1692年対馬に赴任した。

(一部Wikipediaから引用)。
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